珍奇ノート:川太郎の資料



和漢三才図会(1712年)


珍奇ノート:川太郎の資料

川太郎
別名を「川童(かわらう)」という。

【深山には「山童(やまわろ)」というものがいる。川太郎と同類ではあるが、別の存在である。性質は人の舌を食べることを好み、鉄製の物を見ることを嫌う。】

考えるに、川太郎は西国・九州の渓谷や池、川などに多く存在する。その姿は十歳ほどの子供のようで、裸の姿をしている。よく立って歩き、人の言葉を話す。髪は短く少なく、頭の頂にはくぼみがあり、そこに一杯分ほどの水を蓄えている。

常に水中に棲み、夕暮れになると多く川辺に現れ、瓜・茄子・畑の作物を盗む。性質として相撲を好み、人を見ると招き寄せ、勝負を挑む。

もし力の強い者が相手をする場合、まず頭を上下に振ってから挑めば、川太郎もまた何度も仰向けになったりうつ伏せになったりする。その際、頭の水がすべて流れ出ることに気付かず、力尽きて倒れてしまう。

しかし、もし頭に水が残っていれば、その力は勇士の倍にもなる。また、その腕は左右に抜けるほど柔軟で、滑らかに動くため、捕らえることはできない。

時には牛馬を水辺へ引き込み、尻から血を吸い尽くすことがある。川を渡る人は、特に注意しなければならない。

「いにしへの約束せしを忘るなよ 川だち男氏は菅原」

伝えられるところによれば、菅原道真が筑紫にいた時、ある事情によってこの歌を詠んだという。現在でも、川を渡る人がこの歌を唱えれば、川太郎の災いを避けることができるという。

たまたま川太郎を捕らえる者がいても、後の祟りを恐れて放してしまうという。

千蟲譜(1811年)


水唐
『本草綱目』では「渓鬼」とともに記載される「水虎」の附録である。考えるに、これは虫類ではなく、鼈(スッポン)や黿(大型の亀)の類である。

九州地方の水中に生息し、豊前(現在の福岡県東部・大分県北部)では特に多い。その大きさは四、五歳ほどの子供ほどである。

背中と腹には甲羅があり、首を打つと甲羅の中へ縮め込む。手足も同様に引っ込めることができる。両手を甲羅の中へ入れると、両足が伸び出る。その姿は鼈と異なるところがない。

全身が粘液で覆われて滑りやすく、捕らえることは難しい。捕まえると青い気を発することがあり、手を洗い清めると毛が抜け落ちることはないという。

性質として相撲を好む。夏の夕方、涼みながら主人(人間)が水辺へ出て様子を見るのは、たいへん興味深い光景であるという。

人の肝を好んで食べる。キュウリに人の姓名を書いて水へ流せば、その害を免れることができるという。

清炯出芳の『以督通雅』には、次のように記されている。

「水中に、三、四歳の子供のような姿をしたものがいる。鱗や甲羅を持ち、その姿は鮫や鱧(魚類)のようである。矢を射ても中に入らない。七月・八月頃には砂地に出て、自ら体を日にさらすことを好む。

膝頭は虎の掌のようで、爪は常に水中に隠している。膝だけを水面に出しているため、子供が知らずに近づき、遊ぼうとして触れると、たちまち殺される。

生け捕りにした場合は、その鼻を摘まめば履物として使うことができる。このものを水唐という。」

また、孫汝澄は次のように述べている。

「皋厭(こうえん)というものは、水虎の勢いを持つものである。媚薬として用いることができ、よく(男女の関係を)助けるものである。」

昌蔵は考える。

これは一種の水妖であり、九州の水辺でこのものが多くいる場所では、夜になると暗い部屋の窓から人家をうかがい、密かに女性と交わることがある。女性はこのものに魅惑され、美少年だと思ってしまうのである。

甲子夜話(19世紀)


巻十 河太郎に遭遇した話


御留守居の室賀山城守は小川町に住んでいた。

ある夜、その家の中間(ちゅうげん)が九段の弁慶堀のほとりを通りかかった。夜も更け、小雨が降る闇の中、水中から自分の名を呼ぶ声が聞こえた。よく見ると、水の中に小さな子供がいて、手招きをしている。

近所の子供が誤って水に落ちたのだろうと思い、助けようとして手を差し伸べた。すると、その子供は手にしがみついてきたので、陸へ引き上げようとした。しかし、その力は驚くほど強く、まるで大岩のようにびくともしない。反対に、少しでも力を緩めれば、自分の方が水中へ引きずり込まれそうになる。

恐ろしくなった中間は、ようやく手を振りほどいて逃げ出し、そのまま屋敷へ駆け戻った。帰宅した彼は、人事不省のような状態で呆然としていた。駆けつけた人々が見ると、衣服はびしょ濡れで、そのうえ耐えがたいほどの生臭い臭気を放っていた。人々は水をかけて洗ったが、臭いはなかなか取れなかった。

翌朝になると少しずつ正気を取り戻したものの、ひどく衰弱しており、回復するまでに四、五日を要したという。生臭い臭いも、その頃になってようやく消えたと伝えられている。いわゆる『河太郎』に違いないと人々は云った。

巻三十二 対馬の河太郎


珍奇ノート:川太郎の資料

対馬には河太郎がいるという。河太郎たちは、波よけのために築かれた石塘(石で造られた堤防)に集まり群れている。その様子は、亀が石の上に上がって甲羅を干している姿に似ている。

その大きさは二尺余りで、人間に似た姿をしている。老いたものや若いものがおり、白髪の個体もいるという。また、髪の生えているものや、髪が逆立って天を衝くようなものなど、さまざまな姿があると伝えられている。人の姿を見ると、みな海へ逃げ込む。

また、人に取り憑くことがあり、その様子は狐憑きと同じようなものだという。国や人々に災いをもたらすとも伝えられている。さらに筆者は、若い頃に東部で捕らえられたという水虎の図を見たことがあるという。

これは享保年間(1716~1736年)、本所那須村の芦原にある沼地で子を育てていたところを村人に発見され、追い立てられて捕獲された子供の図である。その図を、本草家・太田澄元の父である岩永玄浩が鑑定したところ、「水虎」であると判定したという。

また別の説では、本所に御材木蔵を建設した際、芦原を刈り払っていたところ追い出され、捕獲されたものであるとも伝えられている。

巻六十五 河童のはなし


珍奇ノート:川太郎の資料

先年、平戸領内で不思議な刷り物が出回ったことがあった。後になって思い出し、その内容を調べてみたところ、ある程度の由来が判明した。そして近頃(乙酉の年、1825年頃)、ふと籠の裏からその古い紙を見つけ出したので、その図をここに掲げる。

図には簡単な説明が添えられていた。その内容はおおよそ次のようなものである。

『訓蒙図彙』には「川太郎。水中にいる時は小児のような姿で、身長は金尺で八寸から一尺一寸ほど」とある。また『本草綱目』には「水虎、河伯」と記されている。さらに各地での呼び名として、出雲国では「川子大明神」、豊後国では「川太郎」、山国では「山太郎」、筑後国では「水天狗」、九州では「川童子」と呼ばれているという。また、この存在は恩返しに福を授けることから「福太郎」とも呼ばれる。

その由来として、相模国金沢村の漁師・重右衛門の家に伝わる話がある。

重右衛門の家には、「水難・疱瘡除けの守り」と記された箱があり、代々家内で祀られていた。享和元年(1801年)5月15日の夜、重右衛門の姉の夢に一人の童子が現れて「私は長年この家で祀られているが、その正体を知る者はいない。私のために社を建ててくれるなら、水難・疱瘡・麻疹から人々を守ろう」と告げた。

夢から覚めた姉は不審に思い、親類を集めて箱を開けた。すると中には、猿のような姿で、四肢には水かきがあり、頭頂には窪みを持つものが納められていた。前述の伝承と照らし合わせた結果、夢の中で名乗った通り「福太郎」であると考えられた。

その後、ある大名の求めに応じてこの像を屋敷へ移したところ、その大名の家にも同じようなものがあり、やはり夢のお告げによって水神として祀られていたという。江戸やその領地では、しばしば霊験があったと伝えられている。

さらに、その刷り物には次のようにも記されていた。

この祠の建立を機に、水神として信仰する。信心ある者はこの刷り物を受け取り、十二文を寄進されたい。発行元は「南八丁堀二丁目自身番向 丸屋久七」と記されている。また、その後ろには別人が付け加えた図も載せられていたので、これもあわせて掲載する。

そもそも河童に霊験があるという話は、領内ではしばしば語られている。筆者自身も以前、領内の堺村で河童の手を見たことがある。その手は猿の掌に似ており、指の節は四つあったように記憶している。

また、この生き物は亀と猿が合わさったような存在だとも言われている。立ち上がって歩くこともあるという。さらに、鴨猟を生業とする者の話によれば、水辺で様子をうかがっていると、河童が岸辺を歩き回り、魚や貝を捕って食べることがあるという。また、水際には小児のものに似た足跡が残されていることもある。

漁師たちの話では、まれに河童が網にかかることがあるという。しかし、漁師はこれを非常に嫌う。河童が網に入ると漁が不漁になると信じられているため、かかった場合はすぐに放してしまう。網から引き上げた直後は、丸い石のような姿に見えるという。これは甲羅に頭や手足を引っ込めた状態なのであろう。

そして、水へ投げ入れると、たちまち頭・尾・四肢を伸ばして泳ぎ去る。このことから、河童はまったく亀の一種であると思われる。