土蜘蛛(民族) ― 上古の日本に住んでいた異俗の人々 ―
土蜘蛛(つちぐも)とは、上古の日本に住んでいた土着の民族のこと。
異俗の人々で山野の石窟や土室の中に住んでおり、大和朝廷に反抗して争ったとされている。
基本情報
概要
土蜘蛛は『記紀』や『風土記』に登場する異俗の人々で、山野の石窟や土室の中に居住しており、村里に住む人々とは容姿や風習も異なっていて、互いの生活には隔たりがあったとされる。
その分布は 東北・関東甲信越・近畿・九州 と幅広く、その歴史も 神武東征の頃には既に知られているほど 古くから存在している(『日向国風土記』には さらに古い天孫降臨の頃の説話が記されている)。
大和朝廷に反抗的で、武力を以って争ったという説話が多く、朝廷側からは誅滅すべき異民族として見做されていたことが窺える。しかし、『風土記』には 自ら朝廷に恭順したり、難破した朝廷方の船を助けに行ったという、朝廷に協力的な土蜘蛛の説話も記されている。また、土蜘蛛と類似するものは国栖・佐伯などがいる。
なお、土蜘蛛といえば平安時代に源頼光が退治した大蜘蛛の妖怪が有名だが、『記紀』や『風土記』には大蜘蛛と思わせるような記述は見られない。また、こちらの土蜘蛛は、作中では山蜘蛛と呼ばれていることが多い。
『記紀』や『風土記』には、土蜘蛛の容姿に関するいくつかの記述がある。
『古事記』には、神武東征の際に忍坂に現れた土蜘蛛について「尾のある人」であったと記されている。これは同じく東征の際に現れたイヒカやイワオシワクノコと同様の特徴である。
『日本書紀』には、神武東征の際に高尾張邑に居た土蜘蛛について「身長が低く、手足が長くて、侏儒(ひきひと=小人)のようであった」と記されている。ただし、尾に関しての記述は無い。
『越後国風土記(逸文)』には、八掬脛(ヤツカハギ)と呼ばれる土蜘蛛がおり、これは「脛の長さは八掬(約64cm)で、力がとても強かった」と記されている。
『記紀』や『風土記』には、土蜘蛛は「穴の中に住んでいた」と記されていることが多く、地域によって生活圏が異なるが、山の場合は石窟や堡塁を築いて住み、野の場合は土に穴を掘って土室を築いて住んでいたとされる。
食事についてはあまり記されていないが、山野に住む土蜘蛛は獣を狩ったり、人里から奪ったりしていたとされており、海辺に住む土蜘蛛は魚介類と獲っており、多彩な鮑料理を以って天皇に食事を献上したという説話もある。
『記紀』における土蜘蛛は神武天皇・景行天皇・神功皇后の段に記されているが、その多くが朝廷に従わず、武力を以って抵抗したので、皇軍によって誅滅されたと記されている。
その一方で『風土記』には様々な土蜘蛛についての記述がある。
『常陸国風土記』に登場する土蜘蛛は常に穴に住んでおり、村里で生活する人々とは交流しなかったという。その性格は「狼の性に、梟の心を持ち、鼠のように窺い、狗のように盗む」と表現されている。一説に土蜘蛛は手下を率いて国中で悪事を働き、多くの人の命を奪ったので、黒坂命が誅滅したとされている。
『陸奥国風土記(逸文)』に登場する土知朱は8人の首領であり、険しい土地の石窟に住み、そこから人里に降りて人々に害をなしたので、勅命によってヤマトタケルが派遣されたという。そこで土知朱らは津軽の蝦夷と共謀して石城から弓矢を放って防戦したが、ヤマトタケルの放った矢によって討ち取られたとされている。
その他の『風土記』にも朝廷に背いて皇軍と戦ったという説話が多く、『記紀』に記されるように好戦的な部族であったという性格が伺い知れる。ただし、以下のような友好的な説話も存在する。
『肥前国風土記』に登場する大山田女(オオヤマダメ)・狭山田女(サヤマダメ)という土蜘蛛は、景行天皇の御代に荒ぶる神が道を行き交う人々の半数を殺した時、この神を鎮める方法を教えたという。また、同書の欝比表麻呂(ウツヒオマロ)という土蜘蛛は、神功皇后が新羅征伐に向かった時に海上で難破した船を救ったとされている。
『豊後国風土記』に登場する小竹鹿奥(シノカオキ)・小竹鹿臣(シノカオミ)という土蜘蛛は、景行天皇に食事を献上しようと狩りに出たが、その時の声がとてもうるさかったので、天皇に「うるさい」と言われたという。
『日向国風土記(逸文)』に登場する大鉗(オホハシ)・小鉗(ヲハシ)という土蜘蛛は、天孫降臨の際に昼夜が区別できないほど地上が暗かったので、瓊々杵尊に「稲穂を揉んで籾とし、それを四方に投げ散らせば、必ず空が開けて明かりを得られるでしょう」と助言したとされている。
・土雲(『古事記』『常陸国風土記』『越後国風土記』)
・都知久母(『日本書紀』『常陸国風土記』)
・土蜘(『摂津国風土記』『丹後国風土記 残欠』)
・土知朱(『陸奥国風土記』)
・土蜘蛛(その他の文献)
・都知久母(『日本書紀』『常陸国風土記』)
・土蜘(『摂津国風土記』『丹後国風土記 残欠』)
・土知朱(『陸奥国風土記』)
・土蜘蛛(その他の文献)
データ
種 別 | 上古の民族 |
---|---|
資 料 | 『記紀』『風土記』ほか |
年 代 | 神代~上古 |
備 考 | 常陸国では国栖や佐伯の別名とされる |
・葛城一言主神社(土蜘蛛塚):神武天皇が退治した土蜘蛛の遺骸を埋葬した塚(奈良県御所市森脇432)
・高天彦神社(蜘蛛窟):土蜘蛛の住処の跡地とされる(奈良県御所市北窪158)
・国見ヶ丘:瓊々杵尊と土蜘蛛像がある(宮崎県西臼杵郡高千穂町大字押方)
・高天彦神社(蜘蛛窟):土蜘蛛の住処の跡地とされる(奈良県御所市北窪158)
・国見ヶ丘:瓊々杵尊と土蜘蛛像がある(宮崎県西臼杵郡高千穂町大字押方)
各地のツチグモ
陸奥国のツチグモ
陸奥国のツチグモは『陸奥国風土記(逸文)』に登場する。
この文献によれば、景行天皇の御代に八槻(現・福島県東白川郡棚倉町八槻)に8人のツチグモ(土知朱)がおり、それぞれの名を 黒鷲(クロワシ)・神衣媛(カムミゾヒメ)・を草野灰(クサノハヒ)・保々吉灰(ホホキハヒ)・阿邪爾那媛(アザニナヒメ)・栲猪(タクシシ)・神石萱(カムイシカヤ)・狭磯名(サシナ)といった。これらのツチグモはそれぞれに一族があり、8ヵ所の石窟に住んでいたとされる。
このツチグモたちは天皇に従わなかったため、国造の磐城彦が攻めたが敗れてしまったという。この後、ツチグモは略奪して人々を困らせたので、天皇はヤマトタケルに征伐を命じた。ヤマトタケルが攻めると、ツチグモは津軽の蝦夷と共謀し、石城に重ねて張った弓で防戦したので、官軍はなかなか近づけなかったが、ヤマトタケルが槻弓に複数の槻矢を重ねて射ると、それぞれの矢が蝦夷とツチグモに当たって殺したという。この後、ツチグモに刺さった矢が悉く芽吹き、やがて槻の木になったとされている。
越後国のツチグモ
越後国のツチグモは『越後国風土記(逸文)』に登場する。この文献によれば、崇神天皇の御代に越国に八掬脛(ヤツカハギ)という者がおり、八束(約64cm)もある長い脛を持ち、力がとても強かったとされる。また、八掬脛はツチグモ(土雲)の後裔であり、一族は大勢いたとされている。
常陸国のツチクモ
常陸国(現・茨城県)のツチグモは『常陸国風土記』に登場する。
この文献のツチグモは国栖(土着民)の別名とされ、佐伯と呼ばれることもある。なお、佐伯とは「さえぎる者」の意で天皇に従わない者を指す呼称とされる。
茨城郡条に登場するツチクモ(土蜘蛛・都知久母)は、山の佐伯・野の佐伯と呼ばれる国栖で、ヤツカハギ(八束脛・夜都賀波岐)とも呼ばれていた土地の原住民とされている。あちこちに穴を掘って土窟を設け、常に穴に住んでおり、人が近づくと穴に隠れ、人が去ると穴から出たという。その性格は、狼の性に梟の情(こころ)を持ち、鼠のように窺い、犬のように盗むというもので、土地の人々とは相容れない隔たりがあったとされている。
このツチクモは天皇に従わなかったので、大臣の一族の黒坂命が討伐することになり、黒坂命はツチクモが外に出ている際に居穴の入口に茨棘(うばら)を仕掛けておき、騎兵でツチクモを追い立てて居穴に誘導すると、ツチクモは茨棘に掛かって死んでしまったという。なお、これは茨城の地名由来の一つとされている。
また、久慈郡条にもツチクモ(土雲)という名の国栖が登場し、兎上命によって誅滅されたと記されている。
大和国のツチグモ
大和国(現・奈良県)のツチグモは、『記紀』の神武東征の段に登場する。
『古事記』によれば、神武天皇が大和国の忍坂(現・桜井市忍坂)に到った時に尾の生えたツチグモヤソタケル(土雲八十建)が唸り声を上げながら岩屋で待ち受けていたとされる。そこで神武天皇はツチグモに膳夫(料理人)を付けて饗すことにしたが、予め膳夫に刀を持たせて「歌を聞いたら一斉に斬りかかれ」と命じていた。そして、それぞれのツチグモに膳夫を一人ずつ付かせると、合図の歌を歌って一斉に斬り殺したとされている。
『日本書紀』によれば、大和国の層富県に3人のツチグモ(土蜘蛛)がおり、波多丘岬(現・奈良市)の者を新城戸畔者(ニイキノトベ)、和珥坂下(現・天理市和邇町)の者を居勢祝(コセノハフリ)、臍見の長柄丘岬(現・御所市名柄)の者を猪祝(イノハフリ)と言った。これらの者は武力を以って天皇に抵抗したので、天皇は兵を派遣して全員を誅殺したという。
また、高尾張邑にも土蜘蛛がおり、その容姿は 身長が低く、手足が長くて、侏儒(わきひと=小人あるいは見識の無い者)のようであったとされている。そこで皇軍は編んだ葛で襲って殺したので、その村は葛城と名付けられたという。
摂津国のツチグモ
摂津国のツチグモは『摂津国風土記(逸文)』に登場する。この文献によれば、神武天皇の御代に常に穴に住んでいたので、賤しい者ということで土蜘(ツチグモ)という呼称を賜ったとされている。
丹後国のツチグモ
丹後国(現・京都府北部)のツチグモは『丹後国風土記 残欠』に登場する。
この文献によれば、崇神天皇の御代に青葉山に陸耳御笠(クガミミミカサ)・匹女(ヒキメ)というツチグモ(土蜘・土蜘蛛)の首領が住んでおり、人民を害したことから勅命によって日子坐王が討伐にやって来たとされる。
日子坐王は先に蟻道郷(現・福知山市大江町)の血原で匹女を誅殺し、それから陸耳御笠を追って川守で手下のツチグモを殲滅したとされている。
なお、この文献には偽書説があるが、陸耳御笠の伝説は青葉山付近に数多く残されている。
九州のツチグモ
『記紀』や『風土記』には九州に住んでいた土蜘蛛に関する多くの記述が残されている。資料によっては内容が重複するため、ここでは九州のツチグモを名前別に特集しようと思う。
アヲ・シロ・ウチサル・ヤタ・クニマロ
『日本書紀』や『豊後国風土記』には、青(アヲ)・白(シロ)・打猿(ウチサル)・八田(ヤタ)・国摩侶(クニマロ)という5人のツチグモ(土蜘蛛)に関する記述がある(両方ともほぼ同じ内容)。
景行天皇の御代、天皇が熊襲討伐のために碩田国速見邑(大分県速見郡)に到った時に、村長の速津媛(ハヤツヒメ)に迎えられて「この山にある鼠の石窟には青・白という2人の土蜘蛛が住んでいます。また、直入郡の禰疑野(大分県竹田市)には打猿・八田・国摩侶という3人の土蜘蛛がいます。この5人は 力強く強暴で 多くの仲間がいるので、皆 天皇に従わないと言っています。もし服従を強いるならば、兵を起こして抵抗するでしょう」と教えられた。
そこで、天皇は來田見邑に仮宮を建てて対策を練ることにし、群臣を集めて「今から大勢の兵を動かして土蜘蛛を討とうと思う。もし土蜘蛛が我らの兵の勢いを恐れて山野に隠れてしまえば、必ず後の憂いとなるだろう」と勅して、すぐに海石榴(つばき)を伐って槌を造らせ、勇猛な兵を選んで武器として授けた。
そして、兵たちは槌で山に穴を開けて、鼠の石窟の土蜘蛛たちに攻めかかって悉く誅滅した。すると、土蜘蛛たちの血がくるぶしに達するまで流れ出た。これによって、槌を造った場所は海石榴市(ツバキチ)、血が流れた場所は血田(チタ)と呼ばれるようになったとされる。
次に打猿を討とうと禰疑山に向かうと敵の矢が雨のように飛んできたので、天皇は一旦 城原に帰って水上で占いをさせた。それから兵を整えて禰疑野で八田を討ち取ると、これを知った打猿は恐れをなして服従を願い出た。しかし、天皇は聞き入れずに、打猿とその仲間はすべて潤谷に落として殺してしまったとされている。
ツチグモツヅラ
『日本書紀』の景行天皇の段には、土蜘蛛津類(ツチグモツヅラ)の記述がある。景行天皇が熊襲を平定して高来県から玉杵名邑(現・熊本県玉名市)に渡った時、その土地の土蜘蛛津類を殺したとされている。
タブラツヒメ・ナツハ
『日本書紀』の神功皇后の段には、田油津媛(タブラツヒメ)・夏羽(ナツハ)という2人の土蜘蛛の記述がある。神功皇后が九州の熊襲平定に向かった時、山門県で田油津媛を誅殺した。その時、田油津媛の兄の夏羽が軍を起こして向かっていたが、田油津媛が討伐されたことを聞いて逃げ帰ったとされている。
ウチサル・クビサル
『肥前国風土記』や『肥後国風土記(逸文)』にある火の国の地名説話には、打猿(ウチサル)・頸猿(クビサル)という2人の土蜘蛛が登場する(両方とも ほぼ同じ内容)。
崇神天皇の御代、肥後国益城郡の朝来名の峰に打猿と頸猿という二人の土蜘蛛がおり、これらは180人余りの軍勢を率いて天皇に服従しなかった。そこで、天皇は健緒組に征伐を命じると、健緒組は土蜘蛛らを悉く滅ぼした。
それから健緒組は国を巡って観察したが、日が暮れたので八代郡の白髪山で宿をとった。その夜、大空に自ずと火が現れて燃え上がり、それが次第に下ってきて山に火が付いたので、それを見た健緒組は驚いて不思議に思った。
そこで、復命した際に「勅命を受けて西夷を攻めましたところ、刀刃を濡らさずして首長どもは自ずと滅びました。ですが、後に威霊のようなものが現れ、それは火が下りてくるようでした。これは何でしょうか」と申し上げると、天皇は「そのような事は聞いたことがない。火が下った国は火の国というべきだろう」と言った。
これにより、健緒組は火の君 健緒紕の姓名を賜り、この国を治めることとなった。また、これによって この国は火の国と呼ばれるようになったとされている。
オオヤマダメ・サヤマダメ
『肥前国風土記』の佐嘉郡条には、大山田女(オオヤマダメ)・狭山田女(サヤマダメ)という土蜘蛛の記述がある。
景行天皇の御代、佐嘉川の川上には荒ぶる神がおり、道を行き交う人々の半数を生かし半数を殺した。そこで県主らの祖である大荒田(オオアラタ)が占って鎮める方法を問うた。その時、土蜘蛛の大山田女と狭山田女という2人の女が「下田村の土を取り、それで人形と馬形を作って この神を祀れば、必ず和らぐことでしょう」と言った。
そこで、大荒田はこの通りに神々を祀ると、神は歓んで和やかになったので、大荒田は「彼女らは実に賢い。これを以って賢女(さかしめ)を国の名としたい」と言ったという。これにより、賢女郡と名付けられたとされている。
小城郡の土蜘蛛
『肥前国風土記』の小城郡条には、小城郡の土蜘蛛の記述がある。
景行天皇の御代、小城郡の村にいた土蜘蛛は堡(をき=砦)を造って隠れ住み、天皇に従おうとしなかった。そこで、ヤマトタケルが巡幸した際に悉く誅殺した。これによって小城郡と名付けられたという。
ミルカシヒメ
『肥前国風土記』の小城郡条には、海松橿媛(ミルカシヒメ)という土蜘蛛の記述がある。
昔、この里に海松橿媛(ミルカシヒメ)という土蜘蛛がおり、景行天皇がこの国を巡った時に大屋田子を遣わせて誅滅させた。その時、霞で四方が見えなくなっていたので、これによって霞里と呼ばれるようになったという。
オオミ
『肥前国風土記』の小城郡条には、大身(オオミ)という土蜘蛛の記述がある。
景行天皇の御代、小城郡の村に大身という土蜘蛛がいた。大身は天皇の命令を拒み、背いて降伏することも無かったので、天皇は勅命を下して誅滅させた。これ以来、漁民らが この島に家を造って住み着くようになった。これによって大家郷と呼ばれるようになったとされている。
オホミミ・タリミミ
『肥前国風土記』の小城郡条には、大耳(オホミミ)・垂耳(タリミミ)という土蜘蛛の記述がある。
景行天皇の御代、天皇が志式島の仮宮から西海を見ると、海上の島から多数の煙が立ち上っており、その煙が辺りを覆っている様子が見えた。そこで、天皇は阿曇連百足を偵察に行かせると、そこには80余りの島があり、そのうち2島にはそれぞれに人が住んでいた。第一の島を小近と言い、そこには土蜘蛛の大耳が住んでいた。第二の島を大近と言い、そこには土蜘蛛の垂耳が住んでいた。その他の島には人は住んでいなかった。
そこで百足は大耳らを捕えて報告すると、天皇は「誅殺せよ」との勅命を下した。その時に大耳らは頭を下げて「我々の罪は実に極刑に値しますが、もし恩情によって生かして下さるのならば、御贄を作って奉り、御膳を恒に献上しましょう」と述べた。そして、すぐに木の皮を取って 長鮑・鞭鮑・短鮑・陰鮑・羽割鮑 などの料理を作り、それを見本として献上すると、天皇は大耳らに恩赦を与えて解放したという。
ヤソヲミナ
『肥前国風土記』の杵嶋郡条には、八十女(ヤソヲミナ)という土蜘蛛の記述がある。
景行天皇の御代、杵嶋郡の山の頂に八十女という土蜘蛛が住んでおり、天皇の命令を拒み、背いて降伏しようとしなかった。そこで天皇は兵に奇襲させて誅滅した。これによって嬢子山と呼ばれるようになったという。
オホシロ、ナカシロ、ヲシロ
『肥前国風土記』の藤津郡条には、大白(オホシロ)・中白(ナカシロ)・少白(ヲシロ)の記述がある。
景行天皇の御代、この里に土蜘蛛の三兄弟がおり、兄の名は大白、次の名は中白、弟の名は少白と言った。この者共は、砦を築いて隠れ住み、天皇に背いて降伏することは無かった。そこで、天皇は穉日子を遣わせて誅滅させようとすると、三兄弟は頭を地面に擦りつけて己の罪を述べ、共々に命乞いをしたという。
速来村の土蜘蛛
『肥前国風土記』の彼杵郡条には、速来村の土蜘蛛の記述がある。景行天皇が熊襲を平定して豊前国の宇佐の海浜の仮宮に居た時に、神代直を彼杵郡に遣わせて速来村に居た土蜘蛛を捕えさせたとされている。
ウキアナワヒメ
『肥前国風土記』の彼杵郡条には、浮穴沫媛(ウキアナワヒメ)という土蜘蛛の記述がある。
景行天皇が宇佐の浜の仮宮に居る時、天皇が神代直に「私は今まで諸国を巡り、そのほとんどを平定して統治してきた。未だに私の統治を受け入れない者どもは居るだろうか」と問うと、神代直は「あの煙の立っている村は統治を受け入れていないようです」と答えた。そこで、天皇は その村に神代直を遣わせると、そこには浮穴沫媛という土蜘蛛がいた。この者は天皇に従わないとても無礼な者だったので すぐに誅殺した。これによって浮穴郷と呼ばれるようになったという。
ウツヒオマロ
『肥前国風土記』の彼杵郡条には、欝比表麻呂(ウツヒオマロ)という土蜘蛛の記述がある。
神功皇后が新羅征伐のために行幸した時、御船に従った船は風に漂って沈んでしまった。その時、欝比表麻呂という土蜘蛛がその船を救った。これによって救郷と呼ばれるようになったという。
石井郷の土蜘蛛
『豊後国風土記』の日田郡条には、石井郷の土蜘蛛の記述がある。
昔、この村には土蜘蛛の堡(をき=砦)があり、それは石を使わず、土を以って築かれていた。これによって無石堡(いしなしのをき)と名付けられたという。
イツマヒメ
『豊後国風土記』の日田郡条には、五馬媛(イツマヒメ)という土蜘蛛の記述がある。
昔、日田郡条の山に五馬媛という土蜘蛛がいた。このために五馬山と名付けられたという。
シノカオキ・シノカオミ
『豊後国風土記』の大野郡条には、小竹鹿奥(シノカオキ)・小竹鹿臣(シノカオミ)という土蜘蛛の記述がある。
景行天皇の御代、大野郡に小竹鹿奥(シノカオキ)・小竹鹿臣(シノカオミ)という土蜘蛛がいた。この二人は天皇に食事を献上しようと狩りをしたが、その声がとてもやかましかった。そこで天皇は「大囂(あなみす=うるさい)」と言った。これによって大囂野と呼ばれるようになったという。
オホハシ・ヲハシ
『日向国風土記 逸文』には、大鉗(オホハシ)・小鉗(ヲハシ)という土蜘蛛の記述がある。
昔、天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギ)が日向の高千穂の二上峰に天降った時、空は暗く、昼夜の区別もなかったので、人や物は道を見失い、物色してそれを判別するのも難かった。
その時、此処に大鉗・小鉗という二人の土蜘蛛がおり、この者は瓊瓊杵尊に「皇孫尊よ、その尊い御手で稲穂をたくさん抜いて籾とし、それを四方に投げ散らせば、必ず空が開けて明かりを得られるでしょう」と申し上げた。
そこで瓊瓊杵尊は、この者たちの言う通りに たくさんの稲穂を揉んで籾とし、それを投げ散らした。すると、すぐに空が開けて晴れ、日月が照り輝いて明るくなったという。
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