大嶽丸【オオダケマル】
珍奇ノート:大嶽丸 ― 日本最強の鬼神 ―

大嶽丸(おおだけまる)とは、鈴鹿山や霧山に棲んでいたとされる伝説の鬼神のこと。

近畿地方や東北地方に伝説があり、坂上田村麻呂と鈴鹿御前によって討伐されたと伝えられている。

物語作品では最強の鬼神として描かれており、日本三大妖怪の一つに数えられることもある。


基本情報


概要


大嶽丸は鈴鹿山あるいは霧山に棲んでいたとされる鬼神で、「田村語り」では別格の力を持つ最強の鬼神として描かれており、その力は「日本が総出で掛かっても敵わない」あるいは「5年もあれば日本から人を絶やせる力を持つ」などと称された。これにより、酒呑童子や玉藻前(九尾の狐)と並んで日本三大妖怪の一つに数えられることもある。

※伝説上の坂上田村麻呂をめぐる言説(社寺縁起・物語作品など)

物語作品の大嶽丸
御伽草子や浄瑠璃などの物語作品に登場する大嶽丸は資料によって内容が異なり、名前については 大嶽丸、大たけ、大竹丸 などがある。(一説に鬼神魔王と称されることもあるという)。また、体長は3~40丈(約9~120m)と巨大で、多面、多眼、多肢などの身体的特徴があり、五色の息を吐くとされることもある。

この大嶽丸は強力な神通力の使い手とされ、山を黒雲で覆ったり、暴風雨・雷鳴・火の雨(鉄火)を降らせたり、空を飛んで国をまたいで移動したり、他人に化けたり体の一部を物体に変えるなどの変身能力もあったとされ、作品によっては意中の鈴鹿御前に契りを籠めようと、普段は美しい童子に化けていたとされることもある。また、『田村の草子』では、大通連・小通連・顕明連という強力な武器を持っていたとされている。

多くの作品では、田村丸が普通に攻めても敵わないとされ、妻の鈴鹿御前(立烏帽子)の謀によって力の源である剣や神通力を奪われることによって、田村丸と対等に戦える状態になったとされる。また、田村丸が大嶽丸と戦う際には観音などの仏神の力を借りることが多く、神通力を使う鈴鹿御前の助けもあって、最終的に大嶽丸は討ち取られている。なお、大嶽丸は死の間際に首だけで田村丸の兜に噛み付いたとされることが多い(酒呑童子の最期と似通った内容になっている)。

地方伝説の大嶽丸
大嶽丸の伝説は近畿地方や東北地方などに残されている。近畿地方には坂上田村麻呂が鈴鹿峠に巣食っていた悪鬼と戦ったという伝説があり、東北地方には田村麻呂が蝦夷征討の折に大武丸あるいは大多鬼丸という驚異的な力を持った蝦夷の首魁と戦ったという伝説がある(この両者が物語作品の大嶽丸のモデルになったと考えられる)。

近畿地方の伝説は、鈴鹿山の麓にある田村神社(滋賀県甲賀市)の由緒となっている伝説が根拠になっているといわれており、これによれば 嵯峨天皇の御代に鈴鹿峠の悪鬼討伐の勅命を受けた田村麻呂が、悪鬼を討ち取った後に残った矢を放って「この矢の功徳で万民の災いを防ごう。矢の落ちた所に自分を祀れ」と言ったとされ、その矢が落ちた場所に本殿が建てられ、田村麻呂が没した翌年に当社に霊が祀られたとされている。また、同市の猪子山にある北向岩屋十一面観音は、田村麻呂が大嶽丸討伐の際に岩窟内に十一面観音を安置して戦勝を祈願したとされ、討伐した後に当地の釈善寺を再興して善勝寺と改め、境内に大嶽丸の首を埋めて塚を築いたと伝えられている。その他に、兵庫県加東市にある清水寺には、田村麻呂が蝦夷の逆賊・高麿と鈴鹿山の鬼神討伐を遂げた後に騒速という太刀と副剣2振を奉納したという伝説がある。

東北地方の伝説は、その一つに岩手県にある岩手山に住んでいたとされる大武丸の伝説が挙げられ、この大武丸は田村麻呂が蝦夷征討の折に戦った蝦夷の首魁で、達谷窟の高麿と共謀して田村麻呂を苦しめたという伝説や、討ち取った首が飛んでいき今の宮城県大崎市に落ちて鬼首という地名が付いたといった伝説などがある。もう一つに福島県にある大滝根山に住んでいたとされる大多鬼丸の伝説が挙げられ、この大多鬼丸も田村麻呂と戦って苦戦させたが、最終的に追い詰められて鬼穴(達谷窟)で最後を遂げたという伝説などがある。また、大滝丸とされる場合は妖術で火の雨を降らせたなどの妖怪的な伝説が伝えられている。この他にも、青森県の大丈丸や秋田県の大長丸の伝説などがある。

大嶽丸の呼称
・大嶽丸(田村の草子、田村三代記、岩手県、宮城県、三重県など)
・大嶽(鈴鹿の草子など)
・大丈丸(青森県など)
・大猛丸(岩手県など)
・大武丸(岩手県、宮城県、福島県など)
・大武麻呂(宮城県など)
・大岳丸(宮城県など)
・大竹丸(宮城県、福島県など)
・大嶽麿(秋田県など)
・大長丸(秋田県など)
・大多鬼丸(福島県など)
・大滝丸(福島県など)

データ


種 別 日本妖怪、鬼
資 料 『鈴鹿の草子』『田村の草子』『田村三代記』ほか
年 代 平安時代
備 考 日本三大妖怪に数えられることがある

鈴鹿の悪鬼の関連スポット
・田村神社:田村麻呂が鈴鹿の悪鬼を倒した後に建てたとされる神社(滋賀県甲賀市土山町北土山469)
・北向十一面観音:田村麻呂が大嶽丸討伐の際に戦勝祈願して仏像を祀ったとされる(滋賀県東近江市猪子町)
・善勝寺:田村麻呂が大嶽丸討伐後に再興し、その首を埋めたとされる寺院(滋賀県東近江市佐野町909)
・御嶽山清水寺:田村麻呂が鈴鹿の悪鬼討伐後に「騒速」を納めたと伝わる寺(兵庫県加東市平木1194)

物語作品に登場する大嶽丸


『田村の草子』

『田村の草子』の大嶽丸は伊勢国の鈴鹿山に棲む鬼神で、体長10丈(30.3m)で、日月のような眼を持っていたという。また、神通力を使う飛行自在の者で、他人に変身したり、分身体を作ったり、黒雲や火の雨を起こすなどの能力を持っていたとされる。また、大通連・小通連・顕明連という3本の剣を持っていたために凄まじい強さを誇っていたとされ、鈴鹿御前から「この剣を持っているうちは、日本が総出で掛かっても倒すことができないだろう」と称されている。なお、大嶽丸は天竺の阿修羅王の配下で、阿修羅王が日本を魔道に陥れようと大嶽丸を日本に遣わせた際に与えたものだとされている(この3本の剣は他作品では立烏帽子の持物とされている)。

作中では、大嶽丸は鈴鹿山に棲んで道を行き交う人々に悪事を働いていたことから、田村丸が討伐に派遣された。そこで大嶽丸は鈴鹿山周辺に黒雲や火の雨を起こして田村丸の進軍を阻んだが、その一方で鈴鹿山に天降った鈴鹿御前に言い寄っていた。鈴鹿御前は田村丸を助けるために降りてきたので、田村丸に大嶽丸の居場所を教え、その後に大嶽丸を誑かして大通連・小通連を預かり、鬼どもに酒を振る舞って酔い潰させた。そこに田村丸が攻め入って大嶽丸を討ち取ったとされる。しかし、大嶽丸は顕明連の剣を残していたために、この剣の力によって蘇り、後に陸奥国の霧山にて復活した。そこで田村丸は再び大嶽丸と戦ったが、首を打ち落とした際に その首は天高く飛び上がり、後に田村丸の兜目掛けて落ちかかって噛み付いたという。その後 大嶽丸の首は兜に噛み付いたまま絶命したが、後世に伝えるために宇治の宝蔵に納められたとされている。

『鈴鹿の草子』

『鈴鹿の草子』の大嶽丸は陸奥国の霧山岳に棲む鬼神で、体長40丈(121.2m)ほど、眼の数は72、面の数は60もあり、五色の息を吹き出していたという。神通力を使うことができる飛行自在の者で、ケンショウキウの剣という武器を使ったとされており、その強さは凄まじく、鈴鹿御前から「高丸を1000人集めて100年,200年戦わせても、千万の剣を使っても敵わないだろう」と称されている。

作中では、大嶽が鈴鹿御前に言い寄っていたことから、田村殿がその存在を知ることになった。鈴鹿御前は大嶽を倒すために敢えて自ら捕われて、大嶽の近くで神通力を使って魂を抜き、その力を弱らせることにした。この後、大嶽討伐の宣旨を受けた田村殿が霧山岳に向かい、そこで田村殿はソハヤノツルギ、鈴鹿御前は大通連・小通連・顕明連という計4本の剣で戦った。この剣は変幻自在の剣であり、次々と眷属の鬼どもを倒していくと、大嶽は一人残って最後まで逃げ回ったが、地神の助けもあって眷属諸共に地中に落ちていったという。この後、大嶽は首だけで飛び上がって田村殿目掛けて落ちかかり、その兜に噛み付いたので、そこを鈴鹿御前が顕明連の剣で止めを刺したという。なお、『鈴鹿の草子』では大嶽が田村殿の兜に噛み付いたことが、兜にクワガタが付くようになった由来であると説明されている。

『田村三代記』

『田村三代記』の大嶽丸は陸奥国の達谷窟に棲む鬼神で、体長3丈2寸(約9.15m)で、二面四足であり、鉄石のように鍛えられた身体は剣も通さないという。また、三明六通の神通力を使う飛行自在の者で、日本と天竺を自由に行き来していたとされ、5年あれば日本を滅ぼせる力があったとされている。当時は他にも鬼神がいたが その中でも別格とされており、第四天の魔王の娘で日本を魔国にしようと企んでいた立烏帽子から求婚されたが、これを断っている。

作中では、大嶽丸は 改心した立烏帽子が田村麿に手を貸して近江国の鬼神・高丸の討伐したことを憎んでおり、自分を裏切った立烏帽子を捕らえようとするが、立烏帽子は大嶽丸を謀って田村麿に容易に討たせようと考えて、敢えて自ら大嶽丸に付いていき、達谷窟で大嶽丸を誑かして三明六通の神通力を奪おうとした。その後、大嶽丸は天竺のかんひら天王と共謀して日本を転覆させようとするが、宣旨を受けた田村麿が達谷窟に向かった時には、大嶽丸は既に立烏帽子によって三明六通の神通力を奪われており、これを取り戻そうと箟岳山の麒麟ヶ窟に籠ろうとする。大嶽丸が そこに3日籠れば神通力を取り戻せたが、その間に人に会えば成就しないということで、田村麿たちが急いで向かい、麒麟ヶ窟で仏神の力を借りて大嶽丸を捕縛し、その身体を4つ斬って倒した。その際に大嶽丸の首を落とすと、その首は天高く飛んでいき、落ちた所は鬼首と名付けられたという。また、大嶽丸は勅命によって封印されることになり、居城である達谷窟では護摩焚きと毘沙門天像の安置が行われ、首は麒麟ヶ窟に、胴は牧山に、足は富山に埋葬され、遺骸を安置した佐沼郷も合わせて4箇所に塚が気づかれ、そのそれぞれの上に観音堂が建てられたとされている。

地方伝説に登場する大嶽丸


青森県の大丈丸
大丈丸は、青森県に伝わる鬼あるいは蝦夷の頭目で、駿河国や伊勢国まで出向いて都に向かう人々に悪事を働いていたことで、坂上田村麻呂に討伐されることになったという。田村麻呂が攻めると大丈丸は平内山(浅虫温泉)の砦に立て籠もったが、この砦は海に囲まれていたので容易に近づくことができず、田村麻呂が攻めあぐねていると、家来が"砦の外で太鼓や鉦を鳴らして祭りを装えば大丈丸も砦から出てくるでしょう"と進言した。

そこで田村麻呂は巨大な張り子人形を作らせて中に兵を仕込み、これを山車に乗せて中で火を灯し、山車を走らせながら太鼓や笛の音を響かせて祭りを装った。すると、物珍しさに大丈丸が出てきたので、張り子人形の中から一斉に飛びかかって大丈丸を討ち取ったという。また、この後に八甲田山の籠った大丈丸の残党の阿屋須と屯慶も同様の方法(茅人形とされる)で討ち取り、これが青森ねぶたの基になったとされている。

岩手山の大武丸

大武丸は、陸奥国の岩手山(岩鷲山、霧山)に住んでいたとされる鬼あるいは蝦夷の頭目で、東北地方の各地にその伝説が伝えられている。地域や伝説によって呼称や表記が異なり、大猛丸・大武麻呂・大岳丸・大竹丸・大嶽麿・大長丸 などとされることもあるが、岩手山を拠点としていたなどの共通点が見られるため、同一の存在を示していると考えられる。

岩手県滝沢市の伝説によれば、大武丸は姥屋敷南の長者館を根城にしていたが、後に岩手山の9合目にある鬼ヶ城という岩窟に移り住んだとされる。大武丸は巨体であったが、怪力と機敏さを併せ持っており、武器として山木の強い弓を使ったとされる。また、酒や女が好きで、常に周囲に女を侍らせていたという。

大武丸は蝦夷征討にやって来た坂上田村麻呂と戦うことになるが、巧みな戦術を使う者だったので、達谷窟を根城とする高丸と共謀して夜襲を仕掛けるなど、田村麻呂を苦しめて、容易に討たせなかったという。また、11人の部下にさらに手下を与えて各地を支配させるといった階層型の組織構造をとっていたために幅広い勢力圏を誇っていたと考えられる。

このためか、大武丸の伝説は岩手県をはじめ、宮城県や福島県に至るまで非常に多く、鬼首をはじめとする様々な地名由来や、大武丸と田村麻呂の戦いにまつわる社寺の創建由来などとして語り継がれている。また、大武丸の配下には高丸や赤頭といった東北地方で精力を誇ったとされる有力な鬼(または蝦夷)がおり、これらの伝説にも関連して登場することも非常に多い。

大滝根山の大多鬼丸

大多鬼丸は、陸奥国の霧島山(大滝根山)に住んでいたとされる鬼あるいは蝦夷の頭目で、現在の郡山市や田村市にその伝説が伝えられている。また、伝説によっては悪路王大武丸や悪路王大滝丸と呼ばれることもある。

郡山市の伝説によれば、大多鬼丸は生まれた時から角が生えていたとされる。早熟で並の人間よりも長身であり、性格も荒々しかったため、村人たちに粗暴な振舞いをしたという。それから村人たちに謀殺されそうになったので、村を逃げ出して大滝根山に移り住み、手下を引き連れるようになって周辺を荒らし回るようになったので、勅命によって田村麻呂が派遣されたという。その後、大多鬼丸は田村麻呂と戦ったが、大滝根山の鬼穴で敗れて紀伊国の熊野に逃げて行ったとされている。だが、これとは逆に大和朝廷の侵攻から土地を守るために戦ったという伝説もある。

田村市の伝説によれば、大多鬼丸は大滝根山を根城として良民を苦しめていたことから、勅命によって田村麻呂が派遣されたという。田村麻呂は苦戦しながらも大多鬼丸を果敢に攻めたので、大多鬼丸は鬼穴に追い詰められてそこで自害したという。だが、これとは逆に、大多鬼丸は大滝根山の白銀城から周辺を平和に治めていたが、そこに大和朝廷の者がやって来て領土と領民の譲渡を要求してきたので、大多鬼丸が断ると、朝廷は田村麻呂を派遣して平定するように命じたという。そこで、大多鬼丸は鬼五郎らと共に奮闘したが、数に勝る朝廷軍に追い詰められて鬼穴で自害した という伝説もある。

箟岳山の大嶽丸
箟岳山には大嶽丸という鬼が棲んでおり、牧山には その妻(あるいは妾)の魔鬼女が棲んでいたという伝説がある。この伝説によれば、両方とも坂上田村麻呂に討伐されたが、田村麻呂は魔鬼女の祟りを恐れて、遺骸を魔鬼山寺に葬り、魔鬼女の髻(もとどり)を納めた観世音菩薩を安置したと伝えられている。なお、この観世音菩薩は牧山観音と呼ばれるようになり、富山観音、箟岳観音と併せて奥州三観音の一つに数えられるようになったという。