珍奇ノート:大嶽丸の伝説



資料の伝説


『田村の草子』



ある時、伊勢国の鈴鹿山に棲む大嶽丸という鬼神が道を行き交う人を襲ったので、人々は恐れて山を渡ろうとしなくなり、この方面からの貢物が途絶えてしまった。これを知った帝は田村丸に鬼神討伐の宣旨を下して3万騎ほどの軍勢を与えた。田村丸が軍勢を率いて鈴鹿山に向かうと、大嶽丸は飛行自在の者だったので、官軍が攻めてくることを知って鈴鹿山の峰に黒雲を立ち上らせ、火の雨を降らせたり、雷電や大風を起こして攻められないようにした。

これにより、田村丸は長い間 大嶽丸を攻めあぐねていたが、同じ頃に鈴鹿山に鈴鹿御前という天女が天降った。大嶽丸は鈴鹿御前に心を奪われ、童子や殿上人に化けるなど様々な謀を巡らせて、なんとかして一夜の契りを結ぼうとしたが、鈴鹿御前は通力によって心を見抜いていたので、全く応じようとしなかった。

一方、田村丸は大嶽丸の居場所を見つけようと諸天に祈ると、ある夜に夢の中に老人が現れて"鬼神を従えたければ鈴鹿御前を尋ねよ"という旨の助言を与えたので、兵を都に帰して一人で鈴鹿山に入っていった。田村丸が鈴鹿山に着くと既に夕暮れ時だったので、草枕に頭を乗せて寝る準備をしていたところ、そこに28歳ほどの女が現れた。その姿は、髪に玉の簪(かんざし)を挿し、金銀の瓔珞(ようらく)を掛け、唐錦の水干に紅の袴を履いているというものだった。

そこで、田村丸は"きっと大嶽丸が女に化けて来たのだろう"と思い、膝下に剣を隠して女の方を向くと、女は"目に見えぬ 鬼の住処を 知るべくは 我がある方に しばし留まれ"という和歌を詠んでかき消すように失せていった。田村丸はこれを神の御告げと捕えて諸神に伏し拝むと、和歌に従って女の行方を探した。しかし、一向に見つからず、田村丸は探しているうちに女に恋心を抱いてしまい、鬼神の住処を探すというより、女に逢いたいという目的で探すようになった。

田村丸は恋心によって鬼神討伐への意志が乱されるようになったので、大嶽丸の謀と疑って神に"女のことを忘れさせたまえ"を祈ったが、結局忘れることができずに捜索が進展しなかった。すると、ある時に目の前に女が現れて"早く私のもとへ"と館の中に誘ったので、田村丸は女と共に館に入り比翼の契りを結ぶことになった。それから、しばらくの間 一緒に過ごすようになり、そこで田村丸に素性を明かし、田村丸に力添えをするために天上から仮の身で現れたと語った。また、大嶽丸に言い寄られていることを伝え、自ら謀って容易く討たせようと言うので、田村丸は安心して鈴鹿御前を頼ることにした。

この後、二人で大嶽丸の住処を目指して進んでいくと、やがて大きな岩穴に辿り着いた。そこで中を覗いてみると霞が満ちており、さらに奥に進むとそこは極楽浄土のような美しい様子で、辺りに四季の風景が見える庭があり、様々な鳥の羽根を葺いた館が立ち並び、その中には色々な財宝が並べてあり、数多の女が琵琶や琴を調べたり、碁や双六をして遊んでいた。また、さらに奥に進んでいくと、大嶽丸の住処と思われる荘厳な屋敷があり、中には多数の武具が並べられていた。

田村丸が攻めるのに良い機会だと思って鈴鹿御前に相談すると、鈴鹿御前は"大嶽丸は大通連・小通連・顕明連という3本の剣を持っているので、これを持っている間は日本が総出で立ち向かっても討つことができない。今度大嶽丸が言い寄ってきた時に謀って剣を奪うので、それまで待つように"と教えて、一旦帰ることにした。

この後、大嶽丸が美しい童子に化けて鈴鹿御前の枕元に立ち、一首の和歌を詠んだので、鈴鹿御前がこれに返歌すると、大嶽丸はとうとう返事があったと喜び、鈴鹿御前は大嶽丸の歌を褒め称えた。それから二人で語り合っていると明け方になったので、鈴鹿御前が大嶽丸と別れ際に"今、田村丸という者に言い寄られて困っているので、追い払うために剣を貸して欲しい"と頼むと、大嶽丸も田村丸に狙われていることを話して、大通連と小通連の2本の剣を置いていった。

この後、鈴鹿御前は田村丸に2本の剣を渡し、自ら大嶽丸の館に向かって酒を入れた瓶子を贈ったので、大嶽丸が手下の鬼どもに振る舞うと、皆酔っ払ってしまった。鈴鹿御前はその様子を見届けると雲に乗って彼方に隠れた。それから大嶽丸も日が暮れるまで酒宴を楽しみ、やがて鈴鹿御前を探して辺りをうろうろしていると、そこに田村丸が出ていって大嶽丸に対して名乗りを挙げた。

すると、大嶽丸は美しい童子の姿から、身の丈10丈(30.3m)ほどの鬼神に姿に身を変えて、日月のような眼光で田村丸を睨むと、田村丸に手並みの程を見せよと大声で叫んで、氷のような300本ほどの剣鉾を投げた。その時、田村丸の両脇に千手観音や多聞天が立って剣鉾を悉く打ち払ったので、大嶽丸は激怒して数千の鬼に身を変えた。そこで田村丸は騒ぐことなく神通の鏑矢を射ると、数万の矢先になって鬼神の頭に落ちかかり、多くの鬼を討った。

これに大嶽丸は盤石に身を変えて耐え忍んだが、そこで田村丸が剣を投げると大嶽丸の首を打ち落とし、これを見た眷属どもは恐れをなして悉く消え失せていった。それから田村丸は鬼どもの首を荷車に積んで都に帰り、帝にこれを差し出すと、褒美として伊賀国を賜った。その後、田村丸は鈴鹿御前と鈴鹿山で暮らすようになり、間に一人の娘を儲けた。

(中略)

それから、田村丸と鈴鹿御前は協力して近江国に現れた高丸を倒した。その後、以前に大嶽丸を倒した際に顕明連の剣を取り残したために、大嶽丸の魂魄が残って天竺に行き、そこから再び日本に渡って陸奥国の霧山岳に立て籠もるだろうから、急いで良馬を求めるようにと鈴鹿御前が言うので、田村丸は良馬を探しに出かけた。

そこで、田村丸が五条の傍らの荒れ果てた館に立ち寄ってみると、そこには200歳ほどの老翁がおり、そこの厩の5頭の馬の中に鎖に繋がれた異様な馬が入っていた。田村丸は一目で気に入って老翁に譲ってくれるように頼むと、老翁は対価次第だというので、田村丸は高価な小袖と引き換えに その馬を手に入れた。田村丸はその馬に早速乗ってみると、その馬はまるで平地を駆けるように山海を翔け巡ったので、田村丸は世に並ぶもののない名馬だと確信して鈴鹿山に帰っていった。そこで鈴鹿御前に馬を見せると、鈴鹿御前も大変納得したので、大嶽丸との決戦に備えて準備を整えた。

それから月日を経ると、大嶽丸の魂魄が元の形に成って霧山に現れ、そこから人々を襲うようになったので、帝は田村丸に討伐を命じて20万騎の軍勢を与えた。そこで田村丸が鈴鹿御前に相談すると必要なのは500余騎で良いというので、田村丸は言われた通りに500余騎を霧山に向かわせ、その軍勢が到着する頃に鈴鹿御前と共に神通の車に乗って霧山に向かった。

一方で、大嶽丸が山を掘り抜いて入口に大磐石を置いて扉とし、容易に攻められないように守りを固めた。しかし、田村丸が予てよりこうなることを知っていたので裏手に回って住処に入ったが大嶽丸の姿はなかった。そこで門番の鬼を問い詰めて大嶽丸の居場所を聞くと、八大王の見舞いに蝦夷の島に行ったと言うので田村丸は大嶽丸の帰りを待つことにした。

しばらくすると、空がにわかに曇り、雷鳴が轟いて、黒雲の中から大嶽丸の声が聞こえた。大嶽丸は田村丸を見つけると、自分が蘇ったことを自慢気に語ったが、田村丸は顕明連の在り処を問うと、大嶽丸が指を立てて顕明連を指すと、田村丸はわざわざ持参してくれるとは有り難いと言って大嶽丸を挑発した。

すると大嶽丸は怒って手下の三面鬼を呼び寄せ、やって来た三面鬼は田村丸に向けて大石の雨を降らせた。だが、その石は田村丸には一つも当たらなかったので、田村丸は大弓に鏑矢をつがえて反撃すると、三面鬼は真っ向から射抜かれて霧のように消え失せた。これに激怒した大嶽丸は、自ら田村丸を捕まえようと一飛で半町ほど飛び越えて襲いかかったが、田村丸は大嶽丸よりもさらに高く飛び上がって斬りかかり、大嶽丸の首を打ち落とした。

すると、大嶽丸の首は天高く飛び上がったので、これを見ていた鈴鹿御前が首が落ちてくるので用心せよと声をかけた。そこで、田村丸が鎧兜を纏って守りを固めると、しばらく後に大嶽丸の首が田村丸の兜の天辺に喰らいついてきたので、後で兜を取ってみると、大嶽丸の首は絶命していた。田村丸は大嶽丸を倒した後に眷属の鬼どもを悉く捕えて、この鬼どもを都に連れて帰ると皆 斬首されて首を獄門に掛けられた。また、大嶽丸の首は末代まで伝えるために宇治の宝蔵に納められて「千本の大頭」と称されるようになった。今の世までも神輿の先に渡るのは大嶽丸の首である。

『鈴鹿の草子』



都の将軍であった田村殿は妻の鈴鹿御前と協力して高丸という鬼を討ち取った。田村殿は高丸の首を持って都に帰ろうとすると、鈴鹿御前は これから陸奥国の霧山岳に大嶽という鬼を倒しに行くことになるだろう と話した。

田村殿が詳しく話を聞くと、鈴鹿御前が言うには、大嶽は今までずっと鈴鹿御前に言い寄っており、いくら拒んでも聞き入れようとせず、無理矢理にでも取りに来る状態なのだという。また、大嶽は高丸を1000人集めて長らく戦っても勝てないほど強力な鬼なので、鈴鹿御前は討伐の宣旨が下るまで返事を引き伸ばしており、これから敢えて捕えられて大嶽のところに居る内に心を誑かして、魂を抜いて弱らせようと思っている というなので、これを聞いた田村殿は泣く泣く了承した。

それから鈴鹿御前は大嶽のところに行き、しばらく経った後に田村殿に大嶽討伐の宣旨が下った。田村殿はソハヤノツルギを帯びて、龍馬に乗り、副将と共に陸奥国に出立した。龍馬は空を翔けて行ったのであっという間に霧山岳の雲の釣殿に到着した。そこで鈴鹿御前が田村殿を大嶽の城に迎え入れると、大嶽の一の魂は既に抜いたので易々と討ち取れるだろうと話した。また、これから大嶽は珍しい会式を開くので、明日に此処に現れるだろうと教えた。

そこで、田村殿は大嶽の城を一通り見渡すと、四方に剣を立て並べて、神通の槻弓を張るなどの戦の準備をして、大嶽の帰りを待ち受けた。しばらくすると、やがて空が曇り出し、雷鳴が轟き、雨風も激しくなってきたので、田村殿が櫓の上から様子を見てみると、ケンショウキウの剣を持った大嶽が光を放ってやって来た。

大嶽は田村殿の侵入に気付いており、城に近づいて田村殿と鈴鹿御前の会話に聞き耳を立てると、大嶽は腹を立てて大声で帰りを知らせた。この大声で門や築地が崩れたので、そこから大嶽が入ってきた。その時の大嶽は、身の丈40丈(121.2m)ばかりに見え、その眼の数は72、面の数は60もあり、五色の息を吹き出していた。そこで、大嶽は眷属どもに田村殿を捕らえるよう命じると、田村殿は鬼を見下したような事を言って、鬼どもを挑発した。

すると、大嶽は嘲笑って日本や帝の事を貶し、天竺の鬼の王族を讃えた事を言うと、6人の眷属を引き連れて田村殿に掛かっていった。そこで田村殿が剣に 失敗するなよ と声をかけると、四方に立てた剣の切っ先が揃ったので、これを見た鬼どもは驚き、危機を感じて逃げ去ってしまった。この後、鈴鹿御前の持つ大通連と小通連の2本の剣は天地から攻め立て、田村殿のソハヤノツルギは天空から下って攻め立てたので、眷属の鬼どもは悉く討ち取られていった。

一人残された大嶽はソハヤノツルギから逃げ回ったが、剣が追うのを止めないので、大嶽が地中に入って避けようとすると、地神に下から攻められて眷属諸共に地中に落ちてしまった。この後、大嶽の首は天竺に向かって飛び上がり、クタノ王に向かって田村殿を討つように言うと、これを知った鈴鹿御前が大嶽の首が空から落ちてくるので用心せよと田村殿に教えた。そこで田村殿は鎧3両と兜10枚を重ねて着て守りを固めると、空から大嶽の首が喚きながら落ちてきて田村殿に噛み付いたので、鈴鹿御前が顕明連の剣を使って大嶽の首に止めを刺した。このことから兜にクワガタが付くようになったという。

『田村三代記』



仁明天皇の御代、第四天の娘であった立烏帽子は日本を魔国にしよう謀って鈴鹿山で悪事を働いていた。この時期に奥州に棲む大嶽丸という鬼に妻にせよとの文を送ったが返事がなかった。この後、立烏帽子は討伐にやって来た都の将軍の田村麿と出逢ったことで改心し、共に日本の悪魔を鎮めようと考えるようになった。それから、田村麿を夫とし、近江国に現れた高丸という鬼神を二人で協力して討ち取った。

それから二人で鈴鹿山に戻ると、立烏帽子は これから大嶽丸が自分を捕えに来るだろう と話した。立烏帽子が言うには、大嶽丸は田村麿と組んで高丸を憎んでおり、これを理由に取りに来るのだという。この大嶽丸は高丸の何倍も強い鬼神で、身の丈3丈2寸(約9.15m)で、二面四足であり、鉄石のように鍛えられた身体には剣も通じず、5年あれば日本から人を絶やせる力を持っているが、敢えて捕らわれて神通力で大嶽丸を弱らせれば易々と討てるようになる とも話したので、田村麿は了承して 泣く泣く立烏帽子と別れた。その後、立烏帽子の元に大嶽丸がやって来て 従わなければ微塵にしてやる と言ったので、立烏帽子は大嶽丸に従って陸奥国に下って行った。

その後、奥州霧山の天上に大嶽丸が現れ、加茂明神が"大嶽丸によって日本から人種が尽きる"との神勅があったので、田村麿に大嶽丸討伐の宣旨が下った。田村麿は道中で寺で戦勝祈願しながら陸奥国に向かうと、立烏帽子は通力で田村麿が来ていることを察知し、大嶽丸の留守中に眷属を捕縛して田村麿を待った。田村麿が大嶽丸の居城である達谷窟に着くと、立烏帽子が迎え入れて、大嶽丸は天竺のかんひら天王に協力を求めるために留守だという事と、既に眷属どもを神通の縄で捕縛した事を伝えた。

この後、天竺から帰ってきた大嶽丸は眷属が捕縛されているのを見つけて怒り、門を打ち破って横手を打つと神通の縄が残らず解けた。それから立烏帽子の謀によって三明六通を失ってしまったことを叫ぶと、神通力を改めるために霧山に向かって行った。これを聞いた立烏帽子は 大嶽丸は霧山に3日間籠れば三明六通の神通力を取り戻してしまうがその間に人に会えば成就しない と田村麿に教えると、急いで霧山に向かい、田村麿は大嶽丸に勝負せよと叫んだが、大嶽丸は神通力を取り戻した後に勝負してやろうと言って姿を消した。

そこで立烏帽子が神通力で居場所を探ると、箟嶽山の麒麟ヶ窟であろうことが分かったので、急いで向かって大嶽丸の籠る岩窟の戸口を探した。しかし見つからなかったので、仏神に祈ると岩窟の戸口は鉄で繋ぎ止められ、大嶽丸の動きを封じた。そこで田村麿は観音に祈念して大通連・小通連・顕明連・素早丸の4本の剣を投げると、剣は大嶽丸の身体を4つに斬った。すると、大嶽丸の首は火焔を吹きながら飛び上がり、田村丸の兜の天辺を喰いちぎると、出羽と奥羽の境に落ちていき、そこは鬼首と呼ばれるようになった。また、大嶽丸の遺骸は佐沼の郷に置いて、家来の霞野忠太に見張らせることにした。

その後、立烏帽子の天命は尽きることになったが、帝から大嶽丸を封じよとの宣旨が下ったので、田村麿は慈覚僧正と吉田社家と共に奥州に向かい、達谷窟で7日7晩の護摩焚きと108体の毘沙門天像の安置を行った。また、麒麟ヶ窟に大嶽丸の首を埋葬し、そこに観音堂を建てて無夷山箟峰寺と名付けた。また、牧山には胴を埋葬し、富山には足を埋葬し、佐沼の郷にも塚を築いて、それぞれの上に観音堂を建てたという。

『安永風土記』


鬼死骸村

往古は吾勝郷(あかつごう)と呼ばれていたが、田村将軍が夷賊を退治した折に賊主の大武丸の死骸をここに埋めたので、それ以来、この村名で呼ばれるようになった。

地方の伝説


侫武多(ねぶた)の由来(青森県青森市)


昔、陸奥国に大丈丸という悪者の頭がおり、駿河国・伊勢国の辺りまで出向いて都に上る人々に悪事を働いていた。そのため、朝廷は武勇に優れた坂上田村麻呂に大丈丸討伐の勅命を下した。大丈丸は田村麻呂に敗れて陸奥国の平内山(浅虫温泉)の砦に立て籠もった。この砦は海に囲まれていたので、流石の田村麻呂も容易に攻めることができなかった。

そこで、田村麻呂の家来の一人が「里の人々に太鼓や鉦を打ち鳴らさせれば、大丈丸も賑やかな祭だと思って、気を許すことでしょう」と進言すると、田村麻呂は 魚や鳥などの大きな張り子の人形を造り、それをたくさんの山車に乗せ、人形の中に兵を隠した。そして、張り子の中に火を灯し、太鼓や笛の音を響かせて砦の方に近づいていった。

すると、大丈丸は珍しがって砦から出て、華やかな祭りの様子に見とれていたので、兵たちは張り子を破って一挙に躍り出て、あっという間に大丈丸を取り囲み、一斉に攻め掛かると流石の大丈丸も為す術もなく討たれてしまった。こうして勝利を収めた田村麻呂は都に凱旋していったという。

ねぶた伝説(青森県青森市)


桓武天皇の御代、朝廷は東北地方を支配下に置こうとして多くの軍を送り込んだが悉く敗れてしまった。そこで武勇に優れた坂上田村麻呂を送り込むことにした。田村麻呂は防具の強化や軍制の改革を行い、やがて胆沢地方を平定した。それから津軽まで攻め込むと、最も手強い相手であった大丈丸を追い詰めて討ち取った。

田村麻呂は、次に八甲田山に立て籠もる女首領の阿屋須と、その弟で副頭領であった屯慶を討ち取ろうと、樹木の生い茂る山中に分け入ったが、敵の本陣を見つけることができないばかりか、毒矢で攻められて苦戦を強いられた。そこで、田村麻呂は茅で大きな人形を作らせて、それに併せて笛・太鼓・鉦を鳴らせて囃し立てた。すると、その物珍しさに惹かれて敵兵がやって来たので、田村麻呂はその者どもを捉えて阿屋須と屯慶を居場所を聞き出し、大灯籠を用いて討ち取った。この伝説により、青森ねぶたが生まれたとされている。

猿賀石の由来(青森県平川市)


猿賀神社の付近には猿賀石という巨石がある。この巨石には、桓武天皇の御代に坂上田村麻呂が大丈丸という伊勢国の大悪人を討ち取った際に、その祟りを恐れて墓石として置いたといういわれがある。また、岩の表面には田村麻呂の乗った馬が付けたという馬蹄の跡が残っているともいわれている。

岩手山の大猛丸(岩手県 岩手山近辺)


昔、岩手山近辺は大猛丸という鬼の領地だったが、延暦16年(797年)に坂上田村麻呂が攻めたてると大猛丸は霧深い岩手山の鬼ケ城に立て籠もった。そこで、田村麻呂は霧の晴れ間に一挙に攻め入り、大猛丸を八幡平に追いつめて滅ぼしたという。

岩手山の大武丸(岩手県 岩手山近辺)


昔、岩手山の山頂にある鬼ヶ城に大武丸という鬼が棲んでおり、周辺一帯を支配していた。延暦16年(797年)に坂上田村丸が討伐に向かうと大武丸は霧深い鬼ヶ城の中に立て籠もった。田村丸は霧の晴れるのを待って一挙に攻め入り、大武丸を八幡平に追いつめて滅ぼした。その後、岩手山には神となった田村丸が岩鷲大権現として現れ、烏帽子岳(乳頭山)には田村丸の妻である立烏帽子神女が現れ、姫神山には田村丸と立烏帽子神女の娘の松林姫が現れたという。

田村麻呂の大武丸退治(岩手県滝沢市)


昔、南方の達谷岩屋に住む高丸すなわち悪路王が、北方の岩手山麓に住む大武丸と呼応し、坂上田村麻呂を夜襲して挟撃したので、鬼神のような田村将軍も逃走を余儀なくされた。その後、野戦は数年にわたって行われ、田村将軍は辛うじて高丸兄弟を討ち取った。

大武丸は姥屋敷南方の長者館を根城にして、柴波・稗貫・下閉伊地方に11人の親分を配置し、親分のそれぞれに子分を付けさせて、付近の良民から略奪することを事としていた。大武丸の身長は大きく、顔は醜く、機敏で7,8人力を持ち、山木(加工していない木)の強い弓を引き、戦術は大層巧みであり、大酒を好み、常に婦女子を側に侍らせていた。

田村将軍は、雫石西根の篠崎八郎を案内役として大武丸を追い回して戦い、岩手山の9合目の鬼ヶ城に縄梯子を使って上り下りし、その坑内を居城としていた大武丸を攻め立てた。すると、大武丸は耐えかねて坑外に逃走し、御神坂から盗人森に差し掛かり、元の居城の長者館を経て、燧堀山の北側の坂を下って行った。これを見た人々はそこを「鬼越坂」と名付けた(この他にも鬼越・鬼古里山の地名が現存している)。

その後、大武丸は逃走に疲れて力尽きたので、田村将軍の部下が諸葛川の河原で大武丸の首を討ち取った。そして、当時の習いとして耳を切り取り、それを塩漬けにして、高丸兄弟のものと共に都に送り、田村将軍らも帰京して復命したという。このことから、耳を切り取った場所は「耳取」と名付けられることになった。

なお、田村麻呂は大武丸がなかなか服さなかったので、岩手山の神霊に祈念した。その後、大武丸を討ち取った際に、その神徳によって平定できたと捉えたので、凱旋する際に従臣の斉藤五郎兼光を別当として、神霊を厚く祀らせたという。

三女神伝説(岩手県遠野市)


坂上田村麻呂が東夷征討に向かった頃、奥州に国津神の後胤である玉山立烏帽子姫という者がおり、その美貌から夷の首長・大岳丸に言い寄られていたが応じることはなかった。田村麻呂は立烏帽子姫の案内によって夷を討伐し、岩手山で大岳丸を討ち取った。

この後、田村麻呂と立烏帽子姫は夫婦となって一男一女を産んだ。その名を田村義道、松林姫という。その後、義道は奥州安倍氏の祖となり、松林姫は お石、お六、お初 という三女を産んだ。この三女は各地にいた牛や鳥に乗って集まり、その場所を附馬牛という。

天長年間(824~834年)、お石は守護神として崇敬していた速佐須良姫の御霊代を奉じて石上山に登り、お六は守護神の速秋津姫の御霊代を奉じて六角牛山に登り、お初は瀬織津姫の御霊代を奉じて早池峰へと登った。

人首丸伝説(岩手県奥州市)


昔、坂上田村麻呂が蝦夷征討にやって来た時、蝦夷の酋長・悪路王を磐井で討ち、さらに その弟の大武丸を追討して栗原で捕えて殺した。その子の人首丸(ひとかうべまる)は逃げ延びて江刺に来て、この地の大森山に入り、絶頂の岩窟(俗に鬼が城と呼ぶ)に隠れた。しかし、田村麻呂の部下の田原阿波守兼光という者が遠見を物見山(種山)に置き、山道にて挟み撃ちにして人首丸を殺した。そこに死体を葬り観音堂を建てた。

登喜盛伝説(岩手県八幡平市)


長者屋敷は、奈良時代に大武丸の配下で高丸・悪路の一族の登喜盛が立て籠もった館で登喜盛屋敷と呼ばれていた。登喜盛の一族は各地から財宝を略奪してこの屋敷に蓄えていたが、征夷大将軍の坂上田村麻呂に討たれて滅ぼされたという。その後、坂上田村麻呂は当地の霊泉から湧く清水で太刀を洗ったことから、この清水は「太刀清水」と呼ばれるようになったという。

田村麻呂の大武麻呂退治(宮城県大崎市 鳴子温泉)


坂上田村麻呂が蝦夷の頭目の大武麻呂を捕えて箆岳山で斬首した。その首は泣きながら西の空に飛んでいき、落ちたところから湯が吹き上がった。よって、その場所は「鬼首」と呼ばれるようになり、そこから吹き出した湯を「吹上」という。

鬼首の地名由来(宮城県栗原市)


延暦20年(801年)、蝦夷征討の折に坂上田村麻呂が「鬼」と呼ばれて恐れられていた蝦夷の首長・大竹丸と戦い、首を打ち落とした際に首が飛んでいき、その首が落ちた場所を「鬼切辺(おにきりべ)」と呼ぶようになった。後に鬼切辺が訛って「鬼首」という地名になったと伝えられている。

奥州三観音の由来(宮城県石巻市)


昔、坂上田村麻呂が奥州の達谷窟にいた大武丸、高丸、悪路王を討った時、大武丸の首・胴・四肢を3箇所に分けて埋め、それぞれの上に観音堂を建立した。その観音堂は 牧山観音(牧山)・富山観音(松島町)・箟岳観音(涌谷町)であり、これらは奥州三観音と呼ばれている。

大嶽丸と魔鬼女の伝説(宮城県石巻市)


その昔、箟岳山には大嶽丸という鬼が棲んでおり、魔鬼山(牧山)には妾の魔鬼女が棲んでいた。この鬼たちは坂上田村麻呂によって討伐されたが、田村麻呂は帰京する際に魔鬼女の髻(もとどり)を納めた聖観音を本尊とした魔鬼山寺を建立し、魔鬼女の霊を慰めたという。

梅渓寺(牧山観音)の由来(宮城県石巻市)


延暦17年(798年)、延鎮によって魔鬼山(牧山)に魔鬼山寺が創建された。その当時、魔鬼山には蝦夷の頭領の一人であった大嶽丸が住んでいて周辺の良民を苦しめていたことから、都から坂上田村麻呂が討伐に派遣された。田村麻呂は苦戦の末に大嶽丸の妻(または妾)の魔鬼女を討ち取り、その菩提を弔って魔鬼山寺に葬った。また、魔鬼女の祟りを恐れて観世音菩薩(牧山観音)を安置した。その後、この観世音菩薩は、富山観音(松島町)、箟岳観音(涌谷町)と共に奥州三観音に数えられることになった。

鬼面の伝説(秋田県 房住山周辺)


秋田県の能代市と三種町にまたがる房住山には「鬼面」と呼ばれる阿計徒丸(あけとまる)、阿計留丸(あけるまる)、阿計志丸(あけしまる)という長面の三兄弟が住み、眷属を指揮して良民を苦しめるていたので坂上田村麻呂に討伐されたという。

また、田村麻呂が房住山で鬼の慰霊法要をしていると、東の山上から日高山の麓の洞穴に逃れた阿計徒丸が目を覚まして「身の丈1丈3尺5寸ある大長丸(おおたけまる)と申す」と叫んだといわれている。

大多鬼丸の伝説(福島県田村市)


昔、陸奥国の霧島山(現・大滝根山)にあった白銀城には蝦夷の首魁の大多鬼丸が住んでおり、七里ヶ沢(現・滝根町)の周辺を平和に治めていた。ある時、朝廷は土地と領民の譲渡を要求してきたが、大多鬼丸がこれを断ると、朝廷は坂上田村麻呂を派遣して武力を以って平定しようとした。

これに大多鬼丸も武力で対抗し、手下の鬼五郎らと共に奮戦したが、数に勝る官軍に次第に追い詰められていき、最期には達谷窟で自害してしまった。こうして官軍に敗れた大多鬼丸は後世に悪鬼として名を残すことになったという。この達谷窟は今の福島県田村市にあるもので、かつては鬼穴とも呼ばれていた(岩手県の平泉にある達谷窟とは異なる)。

田村麻呂の大多鬼丸退治(福島県田村市)


昔、陸奥国の霧島山(現・大滝根山)に蝦夷の首魁の大多鬼丸が住んでおり、手下と共に周辺を荒らし回って良民を苦しめていた。そこで朝廷は坂上田村麻呂に大多鬼丸討伐の勅命を与えて田村の地に派遣した。

田村麻呂は大多鬼丸の軍勢に苦戦したが、神託や白鳥の導きによって奮戦し、ついに大多鬼丸を達谷窟に追い詰めた。そこで大多鬼丸が自害したため、首魁を失った軍勢は官軍に降伏し、戦いは終結を迎えた。この後、田村麻呂は大多鬼丸の武勇を偲んで、その首をあぶくまが見渡せる仙台平に丁重に葬ったという。

里を守った大多鬼丸(福島県田村市)


昔、陸奥国の霧島山(現・大滝根山)にあった白銀城には蝦夷の首魁の大多鬼丸が住んでおり、七里ヶ沢(現・滝根町)の周辺を平和に治めていた。ある時、朝廷は土地と領民の譲渡を要求してきたが、大多鬼丸がこれを断ると、朝廷は坂上田村麻呂を派遣して武力を以って平定しようとした。

これに大多鬼丸も武力で対抗し、手下の鬼五郎らと共に奮戦したが、数に勝る官軍に次第に追い詰められていき、最期には達谷窟で妻の幸姫と共に自害してしまった。こうして官軍に敗れた大多鬼丸は後世に悪鬼として名を残すことになったという。この達谷窟は今の福島県田村市にあるもので、かつては鬼穴とも呼ばれていた(岩手県の平泉にある達谷窟とは異なる)。

悪路王大滝丸の伝説(福島県田村市)


昔、陸奥国の刈田岳に悪路王大滝丸という鬼が棲み、坂上田村麻呂が討伐に向かったが妖術で霧を呼んだり、火の雨を降らせたりして田村麻呂らを苦しめた。そこで田村麻呂は一旦都に退いて軍備を整え、それから再び大滝丸と戦うと、分が悪くなった大滝丸は大滝根山に飛んでいき、そこの鬼穴(達谷窟)を根城として暴れまわった。田村麻呂は大滝根山に向かい、そこで大滝丸と戦うと、やがて追い詰められた大滝丸は鬼穴で最期を迎えたという。また、田村麻呂は戦で加護を授けてくれた神仏に感謝して、白鳥神社や入水寺を建立したという。

100頭の鞍馬伝説(福島県田村郡三春町)


昔、大滝根山の石窟に大多鬼丸という蝦夷が棲んでいた。坂上田村麻呂が蝦夷征討にやって来た際、延鎮上人(清水寺の開祖)が仏像を刻んだ余材で100頭の鞍馬を刻んで贈った。田村麻呂はこれを鎧櫃に納めて戦に望んだが、大多鬼丸が強ったので次第に追い込まれていった。その時、どこからか100頭の鞍馬が陣営に走り込んできたので、軍兵たちはその鞍馬に跨って大滝根山に攻め込んで戦に勝利した。しかし、凱旋する時には鞍馬の姿は無くなっていたという。

その翌日、1頭の木馬が三春付近の高柴村で汗まみれになっているところを杵阿弥が見つけ、これは延鎮上人の鞍馬に違いないと思って99頭の自ら刻んで数を補った。その3年後、汗まみれになっていた1頭は姿を消してしまったので、残りの99頭を子孫に伝えた。その後、杵阿弥の子孫が木馬を模造して村人に与えると、それで遊ぶ子供たちは強健に育ち、病気もしても軽症で済んでいたので「子育駒」という名で呼ばれたという。

鬼生田の大多鬼丸伝説(福島県郡山市)


桓武天皇の御代、陸奥国安積郡の辺りに地獄田(じごくだ)と呼ばれる田んぼがあり、そこで腹の大きな妊婦が田植えをしていたところ、急に産気づいて田んぼで出産してしまった。驚くことに産まれた赤子には角が生えており、このことから赤子は鬼子と呼ばれ、鬼子が産まれた田んぼを鬼生田(おにうだ)と呼ぶようになった。

鬼子は7歳になると身の丈5尺(150cm)ほどになり、角も立派に伸びていった。また、性格も荒々しくなって、村人に粗暴な振舞いをするようになったことから、村人たちは集って鬼子を殺してしまおうと相談した。その噂は鬼子の耳にも入ったので、鬼子は夜中に村を抜け出して姿を晦ましてしまったという。

それから数年後、鬼子は大多鬼丸と名乗って暴れるようになり、その噂は鬼生田の村にも聞こえるようになった。その噂によれば、大多鬼丸は大滝根山に住み、大勢の手下を率いて南奥州の大将になったという。そのため、近隣の人々は大多鬼丸を鬼と呼んで恐れるようになり、その話はやがて京の都にまで届くようになった。

この話を聞いた桓武天皇は、時の将軍である坂上田村麻呂に大多鬼丸の討伐を命じた。これにより、田村麻呂は大軍を率いて都から出立し、大滝根山で大多鬼丸の軍勢と争うと、激戦の末に田村麻呂の勝利に終わった。しかし、大多鬼丸方の戦死者を検めても大多鬼丸の姿は無かったという。

それから鬼生田で大多鬼丸は紀州の熊野に逃げたとの噂が立った。また、鬼生田の人々が熊野権現に参拝すると帰って来ない者が多かったので、これは大多鬼丸の魂が故郷を懐かしむあまりに鬼生田の人を帰さないようにしているといわれるようになり、そのようにいわれるようになってからは鬼生田の人々は熊野権現に参拝しなくなったという。

鬼生明神の由来(福島県郡山市)


昔、大多鬼丸(大滝丸)という蝦夷の首長がいた。この大多鬼丸は、陸奥国安積郡の辺りにあった地獄田で母が田植えをしている最中に生まれ、急なお産に困った村人たちは近くの沢に産屋を設けてそこで産後を過ごさせた。大多鬼丸は成長するにつれて武勇に優れた男子になったので、人々は鬼と呼んで畏れ敬うようになった。こうした田んぼで鬼を生んだといういわれによって、当地は鬼生田(おにうだ)と呼ばれるようになったという。

延暦20年(801年)、朝廷は東北地方の蝦夷を平定するために時の将軍・坂上田村麻呂を派遣した。これにより、大多鬼丸も朝廷軍と戦うことになったので、手下の者を引き連れて大越(現・田村市)の鬼穴に籠って戦った。しかし、朝廷軍の猛攻に次第に追い詰められていき、紀州の熊野に落ち延びていったという。

この後、田村麻呂は大多鬼丸の武勇を讃える一方で、人々を安堵させるために廣渡寺を建立した。また、里人たちは大多鬼丸を偲んで鬼生明神堂を建立して、大多鬼丸の武勇を讃えた。このような故事により、廣渡寺では創建以来 大多鬼丸を鬼生明神として祀り、諸願成就や除災招福の明神として信仰を集めるようになったという。

刈田丸と田村麻呂の伝説(福島県郡山市)


国見山で大武丸が反乱を起こした時、刈田丸(刈田麻呂)が討伐に派遣された。そこに刈田丸が陣を敷くと、陣中に怪しい光が差し込んだので その光を追っていくと、木賊田村の清水で根芹を摘んでいる三国一の醜女が目に入った。そこで、刈田丸がその醜女を伴うと、珠のような男児が生まれた。

その後、刈田丸が大武丸を倒すと都に帰っていった。それからしばらくして男児が成人になると、父の刈田丸に逢いに都に向かった。男児が刈田丸と対面するとそこで田村麻呂と名付けられた。田村郡という名は田村麻呂の出身地であることに因んで名付けられたという。

田村神社の由緒(滋賀県甲賀市)


滋賀県甲賀市の田村神社の本殿は、嵯峨天皇の御代に鈴鹿峠に出没して旅人を悩ませていた悪鬼を坂上田村麻呂が平定した際に「この矢の功徳で万民の災いを防ごう。矢の落ちたところに自分を祀れ」と言って矢を放ち、矢の落ちたところに本殿を建てさせたといわれている。

田村麻呂の没した翌年である弘仁3年(812年)の正月に、嵯峨天皇の勅命によって田村麻呂を祀る祭壇が設けられたが、この年は不作続きで疫病も流行したので、勅命によって田村麻呂の霊験を以って厄除の大祈祷が行われ、これによって災厄を逃れられたという。こうしたことから、当社では田村麻呂は厄除の大神、あるいは交通安全の神として崇敬されているという。

北向岩屋十一面観音(滋賀県甲賀市)


坂上田村麻呂が大嶽丸を討伐の際、繖山御嶺の島帽子岩窟内に十一面観世音の石像を安置して祈願したと伝えられている。

善勝寺の縁起(滋賀県甲賀市)


坂上田村麻呂は繖山の岩窟に十一面観音を安置して戦勝を祈願した。それから大嶽丸を倒した後、田村麻呂は当地に戻ってきて釈善寺を再興した。その時に戦勝にちなんで「善く勝った」ということから寺名を善勝寺へと改めた。なお、当寺の境内には田村麻呂が大嶽丸の首を埋めたという鬼塚がある。

騒速の伝説(兵庫県加東市)


兵庫県加東市の清水寺は「騒速(そはや)」という大刀を所蔵しており、国の重要文化財に指定されている。寺伝によれば「桓武天皇の頃、征夷大将軍の坂上田村麻呂が丹波路に参籠して蝦夷の逆賊 高麿を討ち取り、鈴鹿山の鬼神退治を遂げた後、大悲観音の霊験を受けた報謝として佩刀騒速、副剣の2振を奉納した」とされている。