牛鬼 ― 西日本を中心に伝わる牛のような怪物 ―
牛鬼(うしおに / ぎゅうき)とは、主に西日本に伝わる妖怪のこと。
伝承によって姿形が異なり、人型や獣型のものがあり、また怪現象や怪火のことを指すこともある。
基本情報
概要
牛鬼は主に西日本に伝わる妖怪で、その伝承は 東京都・三重県・岐阜県・福井県・京都府・奈良県・和歌山県・徳島県・香川県・愛媛県・高知県・岡山県・鳥取県・島根県・山口県・福岡県 などにあるが、その対象は一様ではない。
妖怪としては大きく分けて人型と獣型のものがあり、人型のものは「牛の頭に鬼の身体を持つ」とされることが多く、獣型のものは「鬼の頭に牛の身体を持つ」とされることが多いが、必ずしもこうなっているわけではない。
また、地域によっては怪現象や怪火のことを指して牛鬼と呼ぶこともある。こうしたものを総合すると牛鬼は「牛のような怪物」の総称であると考えられ、その対象は妖怪・未確認生物・怪現象など多岐にわたる。
なお、これらをまとめると以下のようになる。
人型の牛鬼は「牛の頭に鬼の身体を持つ」とされることが多く、人語を話したり、人に化ける・空を飛ぶ・速く走るなどの神通力を使うことができたとされることもある。
・五ヶ所浦の牛鬼(三重県):牛の頭に鬼の身体を持つ、人語を話す
・多気郡の牛鬼(三重県):牛の頭に鬼の身体を持つ、人に化ける、人語を話す
・宇陀の牛鬼(奈良県):牛の頭に鬼の身体を持つ、人に化ける、人語を話す
・大倉山の牛鬼(鳥取県):牛の頭に鬼の身体を持つ
・鬼林山の牛鬼(鳥取県):牛の頭に鬼の身体を持つ
・鬼ヶ城山の牛鬼(山口県):牛の頭に鬼の身体を持つ、人に化ける、人語を話す
・足代山の牛鬼(福岡県):牛の頭に鬼の身体を持つ、神通力を使う
獣型の牛鬼は「鬼の頭に牛の身体を持つ」とされることが多いが、猫のような身体、蜘蛛のような身体、頭は龍で身体は鯨、また全く未知の生物など、様々な形状のものが伝えられている。
・浅草の牛鬼(東京都):牛のようなもの
・多気郡の牛鬼(三重県):鬼の頭に牛の身体を持つ怪物
・西牟婁郡の牛鬼(和歌山県):鬼の頭に牛の身体を持つ怪物
・白木山の牛鬼(徳島県):鬼の頭に牛の身体を持つ巨獣
・青峰山の牛鬼(香川県):頭に角がある手が三本指の二足歩行の怪物
・宇和島の牛鬼(愛媛県):頭が龍で身体が鯨の怪物
・こけ淵の牛鬼(高知県):鬼の頭に牛の身体を持つ怪物
・石見の牛鬼(島根県):頭が牛で怪物が蜘蛛の怪物(鬼の頭に牛の身体を持つ怪物)
・牛島の牛鬼(山口県):鬼の頭に牛の身体を持つ怪物
京都府宮津市辺りでは、牛鬼は狐や狸のような人を化かすものとして扱われており、これに遭遇すると幻を見せられて道を迷わされたり、名前を呼ばれて声の方に向かうと隙を突かれて持物を奪われたりするという。当地では、この怪現象を「ウシオニにつかる」というとされている。
島根県の出雲地方にはオシミと呼ばれる怪火の伝承があり、梅雨頃に現れて身体にまとわりついてくるが、払おうとするとどんどん増えていくという。これを払うには小便をかけた手で払えばよいとされ、このオシミという呼称はウシオニが訛ったものだといわれている。
鳥取県の多気郡には牛鬼(うしおに)と呼ばれる怪火の伝承があり、湯村と沢田村辺りの畦道に10月過ぎの雪の降る寒い夜に現れるとされ、これは蛍火のようなもので付かれると目も口も開けられなくなるといわれている。
愛媛県の南予地方の祭礼では牛鬼と呼ばれる山車が町を練り歩き、家ごとに首を突っ込んで悪魔祓いをするという。特に宇和島市で毎年7月22・23・24日に行われる「和霊大祭・うわじま牛鬼まつり」が有名で、24日の親牛鬼パレードでは全長5~6mにもなる巨大な牛鬼が市内を練り歩くことで知られている。
この牛鬼(ウシオニ)は、ウショウニ、ウショウニン、オショウニンなどとも呼ばれており、長い首の先端に牛のような角を生やした鬼面を据え、竹を編んで作った亀甲型の胴体に、剣をかたどった尾がついており、その全身をシュロの毛や赤布で覆われている。これを大勢の人が担いで練り歩くといったものになっている。
この由来は定かではないが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正が使った亀甲車を起源する説がある。この亀甲車は、堅板で作った箱車に燃えにくい牛皮を張り、その先に棒に刺した牛の生首を掲げたといったもので、この中に兵士を入れて戦わせたとされている。この他にも牛鬼の由来には諸説ある。
データ
種 別 | 日本妖怪、伝説の生物、UMA、怪人、鬼 |
---|---|
資 料 | 各地の伝承など |
年 代 | 上古~近代 |
備 考 | 牛鬼と呼ばれるものは一様ではなく、様々なものがある |
・うわじま牛鬼まつり:毎年7月22~24日に行われる祭で牛鬼の山車が走る(愛媛県宇和島市)
・根香寺:牛鬼の角と姿を写した掛軸が伝わる(香川県高松市中山町1506)
・石垣山観音寺:牛鬼の手が寺宝になっている(福岡県久留米市田主丸町石垣271-1)
各地の牛鬼
東京都の牛鬼は『吾妻鏡』や『新編武蔵風土記稿』などの資料に記されている。『吾妻鏡』には「建長3年(1251年)3月6日に浅草寺に牛のような者が現れて、これを見た24人の寺僧が病を患い、7人が即死した」とあり、『新編武蔵風土記稿』には「隅田川から牛鬼のようなものが現れて、周辺を走り回った後に牛御前神社に入って消えてしまったが、その時に落とした玉は牛玉として当社の社宝になっている」とある。
浄瑠璃として語られる「牛御前伝説」では、源満仲の子の牛御前は異形の姿で生まれたので、満仲に嫌われて始末されそうになるが、女官が密かに養育していたとされる。牛御前の生存が露見すると満仲に命を狙われたので、その恨みで牛鬼となり、東国に下って勢力を拡大するが、頼光率いる官軍に滅ぼされそうになったので、巨大な牛の化物になって官軍を水没させたという。その後、浅草川(隅田川)に出没するようになったとされている。
三重県度会郡の牛鬼は、五ヶ所浦の切間の谷の洞穴に棲んでおり、神通力を使う牛頭の鬼で、人語を話すことができたとされる。五ヶ所城の城主であった愛洲重明が弓の稽古中に誤って矢を城外に飛ばしてしまい、その矢を受けた牛鬼は苦しみながら黒煙を上げて死んだという。その黒煙は重明の奥方を病にかけ、やがては愛洲家の滅亡にまで発展してしまったとされている。
三重県多気郡にはいくつかの伝説があり、牛鬼淵や牛鬼滝といった地名も残っている。牛鬼淵の伝説では、男に化けた牛鬼が木挽を襲って食ったという話や、鬼の顔を持った牛のような怪物を猟師が仕留めたという話がある。牛鬼滝の伝説では、不慮の事故で死んだ牛が牛鬼となり、女の亡霊と共に現れて人々を脅かしたという話がある。
岐阜県群上市には、仲間からはぐれた雌の牛鬼が人間相手に相撲を取ろうと、相撲相手を探しに行くという昔話がある。この牛鬼は鶴佐にいた新平という大男を尋ねて相撲を取ることになったが、新平は強くてどうしても四つに組むことができなかったので、わざと怒らせてぶつかってこさせようと考えた。そこで、大岩で川の流れをせき止めて田んぼを水浸しにしてから新平を訪ねると、新平は怒って相手をしなくなったとされている。
福井県敦賀市には、牛鬼に人身御供を出していたという伝説がある。この村では暴れる牛鬼を鎮めるために正月に村一番の娘を人身御供に出す習わしがあったが、この村に通りかかった侍が牛鬼の話を聞いて退治を決意し、人身御供が運ばれる宮に隠れて待つことにした。そこに牛鬼が現れると、侍は飛びかかっていったが致命傷を与えられず、逆に大怪我を負ってしまった。しかし、渾身の力を振り絞って牛鬼を倒すと、そのまま姿を消してしまったという。
京都府の貴船神社には、貴船明神の御伴として天降った仏国童子が牛鬼だったという伝説がある。この仏国童子は饒舌で神国の秘め事を他言したために貴船明神の怒りに触れ、舌を八つ裂きにされて貴船を追放されたという。その後、吉野に逃げて五鬼を従える首領になったが、謹慎していたために罪を許され、その子孫が貴船の社家である舌家になったとされている。なお、この4代目までは鬼の姿だったといわれている。
福知山市の芦渕には、歳神社の付近の洞窟には牛鬼が棲んでいて人々を追い回したという伝承がある。また、同市の千束には鬼牛という頭が鬼で身体が牛の怪物が棲んでおり、人を食っていたともいわれている。
宮津市の周辺では牛鬼は狐狸のように人を化かす妖怪として伝えられており、当地には 人に幻を見せて道に迷わせたり、人の持物を奪ったりした という伝承がある。
『太平記』には源頼光や渡辺綱が牛鬼を斬ったという説話が載せられている。この説話によれば、宇陀の山中には牛鬼という怪物が棲んでおり、人や牛馬を食っていたとされる。そこで、頼光は家来の綱に秘蔵の太刀を与えて牛鬼退治を命じると、宇陀に向かった綱は牛鬼の腕を斬り落としたが仕留めるまでには至らなかった。その後、牛鬼の腕は頼光に預けられたが、やがて頼光の母に化けた牛鬼が取り返しに来たので、頼光は秘蔵の太刀を取って牛鬼の首を斬り落としたという。この秘蔵の太刀は様々な鬼を斬ったことで「鬼切」と名付けられたとされている。
和歌山県西牟婁郡には牛鬼伝説が多く、牛鬼滝や牛鬼淵といった牛鬼と名の付く地名も多く残っている。当地の牛鬼は、猫のような身体に3mほどの長い尾を持っており、体が鞠のように柔らかいので歩いても足音がしない といわれているが、鬼の頭に牛の身体を持つとか、真っ赤であったなど様々な伝承がある。
また、当地の牛鬼は人を食うといわれるが、人の影を食うともいわれており、牛鬼を鎮めるために村人が酒を供えたところ、酒好きの牛鬼は大変喜んで酒を供えた人の影は食わなくなったといわれている。また、牛鬼の姿を見ると病に伏したり、頭が狂ったりするともいわれている。
この他にも牛鬼が人に化けたという伝承もあり、この牛鬼は空腹の時に美少女に化けて道に通りかかった少年に食物を乞うと、少年から弁当を与えられたので、後に少年が水難事故に遭った際に牛鬼の姿を現して少年を助けたという。しかし、牛鬼が人間を助けるのは禁忌とされており、この牛鬼はこれを破ってしまったので、真っ赤な血の泡を噴き出しながら水中に溶けてしまったといわれている。
徳島県海部郡には白木山に牛鬼が棲んでいたという伝承があり。この牛鬼は頭が鬼で身体が牛のような巨獣であり、人や家畜を食っていたので、当地に棲む平四郎という漁師に退治されたと伝えられている。この平四郎は鉄砲の名手(あるいは弓の名手)で、これで牛鬼を討ち取ると その血は7日間にわたって流れ続けたといわれている。また、当地の牛鬼は伊予国の人に退治され、その逸話に基づいて牛鬼村という村名がついたという伝承もある。
この他にも、勝浦郡の梅の木という場所に牛鬼が棲んでいたという伝承もある。この伝承では、牛鬼と呼ばれる巨獣が人里に現れて人を脅かしたり作物を荒らしたので、村人たちは相談して牛鬼を退治することにした。そこで、村人たちは武器になるような農機具を持って牛鬼を追い回すと、牛鬼は散々に逃げ回って やがて姿を消したという。その後、牛鬼の逃げた場所には淵ができていたので、人々はそこを牛鬼淵と名付けたとされている。
香川県高松市の青峰山には牛鬼が棲んでいたという伝説がある。この牛鬼は人里に降りて人や家畜を害していたので、村人たちが弓の名手の山田高清に退治を頼むと、高清は根香寺の本尊に願掛けをした後に牛鬼を討ち取ったといわれている。この際に、高清は牛鬼の角を切り取って寺に奉納して菩提を弔ったとされており、これは今でも寺の寺宝になっている。また、塩田教清という者が牛鬼を退治して、その絵を写させたという伝説もあり、これも牛鬼の掛軸として根香寺の寺宝になっている(当寺の境内には掛軸に基づいた牛鬼像がある)。
愛媛県の宇和島地方には様々な牛鬼伝説があり、悪魔祓いとして牛鬼の山車を走らせる祭礼もある。この祭礼の由来は定かではないが、由来の一つとされる伝説に山伏の牛鬼退治の伝説がある。この伝説によれば、宇和島地方に棲む牛鬼が人や家畜を害していたので、喜多郡の河辺村に住む山伏に退治が依頼された。牛鬼と遭遇した山伏が調伏の真言を唱えると、牛鬼が恐れて後ずさりをしたので、山伏は腰に帯びていた剣を牛鬼の眉間に突き立てて息の根を止めると、その身体を刻んでいくつにも切り分けた。すると、牛鬼の血は7日7夜流れ続けて やがて淵になったという。なお、一説にこの牛鬼は頭が龍で身体が鯨だったといわれている。
また、宇和島市の光満に棲む牛鬼が人に害を為していたので、河野七初兵衛という侍が退治したという伝説もある。この伝説では、島ヶ泊城の城主であった七初兵衛が家来と共に牛鬼退治に出向き、家来に山上から攻めさせて、自身は山の麓で待ち構えた。すると、山から牛鬼が出てきたので、七初兵衛が槍で突いて攻撃すると、牛鬼は川中に逃げていった。この後、牛鬼は岩の上で息絶えると、その血が岩を赤く染めたことから「赤石」と呼ばれたという。
また、南宇和郡の僧都には牛鬼と遭遇した猟師の逸話がある。これによれば、猟師が山で雨宿りしていたところ、頭の上に雨が垂れてくるので上を見上げると それは針金のような毛を生やした牛鬼だった。猟師が慌てて逃げ出すと、牛鬼はジャラジャラと毛を擦り合わせながら追ってきたので、猟師は鉄砲を撃ちながら逃げ帰ったという。
この他にも、東宇和郡で祭礼で見る牛鬼のような怪物と遭ったなど、様々な伝承がある。
高知県には夜須大宮八幡宮の百手祭の由来となった牛鬼伝説がある。この伝説によれば、平安時代に当地に牛鬼が現れて作物や家畜を食い荒らしたので、村人たちが退治しようとしたが逆に食われてしまった。そこで近森左近という武士が当社に願掛けして牛鬼退治に出向き、弓矢の一撃で牛鬼を仕留めたという。これに村人たちは喜んで、左近の弓の真似をしながら伝説を伝えたので、これが百手祭の由来となったといわれている。
また、香美市にはいくつかの伝承があり、程野では穴に落ちて泣いている牛鬼を老婆が助けたところ、牛鬼が土地の者を祟らなくなったといわれている。また、明和3年(1776年)の大旱魃の時に岡内村の治郎吉という者が峯之川が牛鬼を見たという目撃談が伝えられている。
また、土佐山周辺にもいくつかの伝承があり、当地のこけ淵に棲む牛鬼は身の丈7尺(2.12m)で、顔が鬼で身体が牛のようなだったとされており、これを地元の猟師が討ち取った後に骨を祀って「川内さま」と名付け、こけ淵を「牛鬼淵」と名付けたという伝承がある。また、土佐山の淵に棲む牛鬼を、当地の長者の高瀬太郎兵衛が毒を使って退治したところ、猛烈な雷雨で山崩れが起こって長者一家を押し潰したという伝承もある。
また、物部村(現・香美市)に伝わる民間陰陽道のいざなぎ流では、山にいる「ヤツラオウ・龍の駒・ロクドウ・シソク・山ミサキ・川ミサキ・キジン」といった魔群の中に「牛鬼」が含まれており、これが病気や災厄をもたらしたり、獲物の影を撃たせるなどの猟の邪魔をするとされている。
岡山県には牛窓の地名由来として塵輪鬼の伝説が伝えられている。この塵輪鬼は、仲哀天皇と神功皇后が三韓征伐に向かう途中で備前国に立ち寄った時に現れて、皇軍に襲いかかったが仲哀天皇によって弓矢で討ち取られたとされている。この際に塵輪鬼の首は黄島、胴は前島、尻は黒島、尾は青島になったという(諸説ある)。その後、仲哀天皇が崩御したため、神功皇后が代わりとなって三韓征伐を成した後、再び同所に立ち寄ったところ、塵輪鬼が巨大な牛鬼と化して襲いかかってきたが、老翁に化けた住吉明神によって投げ倒され、これによって「牛転(うしまろび)」という地名が起こり、それが訛って「牛窓(うしまど)」という地名になったとされている。この説話は『備前国風土記』にも記されているが、いくつかの説話がある。
また、『作陽志』によれば、美作国の苫田郡越畑の大平山に牛鬼という怪物がおり、寛永年間(1624~1645年)に村の娘が一目惚れした男と一夜を共にすると、2本の長い牙が生えて角と尾のある牛鬼のような子供が生まれたという。そこで、娘の両親は怒って子供を殺し、銕の串に刺して路傍に曝したとされている。
鳥取県には孝霊天皇の御代に大倉山や鬼林山に棲む牛鬼が人々を害していたので、孝霊天皇と皇子の彦狭嶋命(歯黒王子)が討伐したという伝説が伝えられている。なお、鬼林山の牛鬼は討伐後に天皇の家来になったとされる。
また、気多郡では牛鬼(うしおに)と呼ばれる蛍火の伝承があり、湯村と沢田村辺りの畦道を歩いていると衣服にまとわり付いてきて、これに付かれると目も口も開けられなくなり、蓑笠についたものはツララのように垂れ下がったという。これは晴れた月夜には出ないが、10月過ぎの雪の降る寒い夜には必ず現れるといわれている。
島根県の石見地方には夜の海に牛鬼が出るといわれている。大田市や江津市の伝説によれば、夜の海に濡れ女が現れて赤子を抱くように勧めてくるが、これを抱いてしまうと腕から離れなくなり、その後ろから牛鬼が追ってくるといわれている。この牛鬼は「頭が牛で身体が蜘蛛」あるいは「頭が鬼で身体が牛」のようだったといわれている。また、人語を話したという伝承や、正体は古いツバキの根だったという伝承もある(そもそも古いツバキの木には精霊が宿っており、人を化かして誑かすといわれている)。
また、出雲地方にはオシミと呼ばれる怪火の伝承があり、これは梅雨時などに現れる蛍火のようなもので、払おうとするとどんどん増えていくが、手に小便をかけて払うと消えていくといわれている。このオシミはウシオニが訛った呼称だとされている。
山口県光市の牛島には牛鬼が棲んでいたという伝説がある。この牛鬼は頭が鬼で身体が牛のような怪物で、人や家畜を食っていたので、一時は島民が外に逃げて島が荒廃したという。その頃に時化に遭って伊予から牛島に漂着した藤内図書と御旗信重という侍が牛島の話を聞いて同情し、弓の腕を磨いて牛鬼を討ち取ったとされている。
また、豊浦郡の鬼ヶ城山にも牛鬼の伝説がある。この牛鬼は朝鮮半島の新羅からやって来たといわれ、鬼ヶ城山に砦を築いて棲み着いて麓の人々を害していたという。ある時、この牛鬼が当地の大歳神社の宮司の娘を見初めて美しい童子に化けて通うようになったので、宮司が弓矢で追い払うと、牛鬼は傷つきながら山に帰っていったが、やがて山頂で息絶えていたとされている。
福岡県久留米市には足代山に牛鬼が棲んでいたという伝説がある。この牛鬼は牛の頭に鬼の身体を持っており、神通力を使うこともできたとされる。この牛鬼が人や家畜をさらっていたので、観音寺の住職である金光上人が宝剣を持って退治に向かい、読経して神通力と身体の自由を奪い、宝剣で止めを刺したとされている。なお、この牛鬼の耳を山頂に埋めたことから「耳納山」という名が起こり、牛鬼の手は今でも観音寺に納められているという。
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