牛鬼【ウシオニ / ギュウキ】
珍奇ノート:宇陀の牛島 ― 『太平記』に登場する牛鬼 ―

宇陀の牛島とは、『太平記』に登場する牛鬼のこと。

大和国宇陀郡の森に棲み、森を通行する人や牛馬を襲って食っていたという。

そこで、渡辺綱と源頼光が鬼切という名刀で討伐したとされている。


基本情報


概要


宇陀の牛島は『太平記』の「直冬上洛事付鬼丸鬼切」に登場する牛鬼で、大和国宇陀郡(現・奈良県宇陀郡)の森に棲んでおり、体長は2丈(6.06m)で、腕は黒い毛に覆われており、三本指で曲がった爪が付いていたという。

なお、『太平記』の「直冬上洛事付鬼丸鬼切」には以下のような説話が記されている。

その昔、大和国の宇陀郡に大きな森があった。この森には夜な夜な怪物が現れて、往来する人や牛馬を捕えて食っていたので、源頼光は家来の渡辺綱に怪物退治を命じて秘蔵の太刀を与えた。

宇陀に向かった綱は、甲冑で身を固めて森で毎晩のように怪物が現れるのを待ったが、恐れをなしたのか いつまで経っても現れないので、綱は髪飾りや薄衣で女装して怪物を待ち受けることにした。すると、突然 空が暗くなり、上空から怪物が綱の髪を掴んできた。そこで、綱が太刀を振って腕を断つと、怪物は叫び声を上げて腕を残して逃げていった。その腕は黒い毛に覆われており、先端には曲がった爪の三本指が付いていた。

綱が怪物の腕を持ち帰ると、頼光は唐櫃の中に収めておいたが、それから毎晩のように悪夢を見るようになったので、占夢の博士を呼んで占わせた。すると、7日間の厳しい謹慎をするべしと告げられたので、頼光は屋敷の門を固く閉ざし、七重にしめ縄を張り、4つの門には12人の当直を置いて、毎夜 宿直の者に鏑矢を射らせた。

謹慎の7日目の夜、河内国から頼光の母が屋敷にやって来たので、頼光は遠方からやって来た母を帰すこともできず、綱らを呼んで酒宴を開くことにした。そこで頼光も気持ちが和やかになり、母に綱が斬った化物の話を聞かせると、母が その腕を見たいと言うので、頼光は唐櫃を出してきて、怪物の腕を母の前に置いた。

すると、母はしばらく眺める素振りをしたが、肘から先の無い自分の腕を出して「これは自分の手じゃ」と言って、自らの腕に添えると、その場で身の丈2丈(6.06m)の牛鬼に姿を変えた。そして、綱の腕を掴みながら頼光に飛びかかったが、頼光は例の太刀を抜いて、牛鬼の首をいとも簡単に斬り落とした。

首だけになった牛鬼は空中に飛び上がり、太刀の刃の部分を5寸食い切ると、それを口に含んだまま半時ほど飛び跳ねて吼え騒いだが、やがて力尽きて息絶えた。それでも胴体は屋敷の破風を突き破って飛び出し、遥か上空に上って行ったので、綱の子孫は家を建てる時に破風を取り入れなくなったという。

以上が宇陀の牛鬼に関する説話だが、これは橋姫・茨木童子羅城門の鬼の説話に非常に似通っている。

牛鬼を斬った太刀「鬼切」について
牛鬼を斬った秘蔵の太刀は「鬼切」と呼ばれる名刀で、元々は伯耆国会見郡の大原安綱という刀鍛冶が一心不乱に鍛えて坂上田村麻呂に献上した刀であり、田村麻呂は鈴鹿山で鈴鹿御前と戦った時に使用したとされる。

その後、田村麻呂が伊勢神宮に参詣した際に天照大神の神託によって神宮に奉納され、後に源頼光が神宮に参詣した際に天照大神の「子孫代々に伝え、天下を守るべし」との神託によって頼光の手に渡り、これで渡辺綱が牛鬼の腕を斬り落とし、頼光が牛鬼の首を斬り落とした。

しかし、この戦いで牛鬼に刀身を食いちぎられてしまったので、僧都の覚蓮が壇上に太刀を立てて、しめ縄を張って7日間の祈祷を行ったところ、天上から倶利迦羅竜王が下りてきて欠けた刀身を口に含んで直したという。その後、この太刀は頼光の父である源満仲の手に渡り、満仲はこの太刀で戸隠山の鬼を斬ったとされており、こうした理由から「鬼切」と名付けられたとされている。

このように源家に相伝された鬼切は、元弘の乱の後に新田義貞の手に渡ったが、藤島の戦いで義貞が討たれると斯波高経の手に渡り、それから高経の子孫の最上氏に伝来した。その後は転々として、売りに出された時に籠手田安定が寄付を募って買い戻し、北野天満宮に奉納したとされている(「鬼切」は別名を「髭切」とされている)。

データ


種 別 日本妖怪、鬼、怪人
資 料 『太平記』
年 代 平安時代
備 考 橋姫、茨木童子、羅城門の鬼の説話に類似する