牛鬼の伝説
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資料の伝説
『吾妻鏡(北条本 第41巻)』
建長3年(1251年)3月6日丙寅。武蔵国の浅草寺に牛のような者が忽然と出現し、寺を忙しく走り回った。その時、寺僧が50人ばかり食堂に集まっており、件の怪異を見て、その内の24人が立ちどころに病痾(びょうあ)を受けたので、これらの者は日常生活に支障をきたし、7人は即座に死んだという。云々。
『太平記』
「鬼切」というのは、もともとは清和源氏の先祖である源頼光の太刀であった。
その昔、大和国の宇陀郡に大きな森があった。この森陰に夜な夜な怪しい者が現れ、往来する者を捕まえて喰ったり、牛馬六畜を捕まえて引き裂いて喰っていた。頼光はこの話を聞いて、家来の渡辺綱という武士にその怪しい者を討つように命じると、秘蔵の太刀を与えた。
綱は早速 宇陀郡に向かい、甲冑で身を固めて毎晩その森陰で待っていた。しかし、怪しい化物は綱の威勢に怖気づいたのか、いつまで経っても姿を現さなかった。そこで、綱は変装して騙してやろうと、髪の毛をかき乱して頭を覆い、髪飾りを付け、歯を黒く染め、眉も太く描き、薄衣を纏うなどの女装をし、朧月夜の明け方に森の近くを歩いていた。
すると、突然 空が暗くなり、森の上方に何かが立ち上ったように見えたかと思うと、空中から綱の髪を掴んで宙に持ち上げる者があった。そこで、綱は頼光から賜った太刀を抜き、虚空を切り払うように太刀を振るうと、雲の上で叫び声が聞こえたかと思うと、その血潮が顔にかかり、黒い毛に覆われて爪の曲がった三本指の腕が、肘の部分から切り取られて落ちてきた。その後、この腕は頼光に渡された。
頼光は腕を朱色の唐櫃の中に収めて置いたが、それからというもの、毎晩のように恐ろしい悪夢を見るようになったので、占夢の博士に占わせてみたところ、7日間の厳しい謹慎をするべしとのことだった。そこで、頼光が屋敷の門を固く閉ざし、七重に注連縄を張り、4つの門には12人の当直を決めて、毎夜宿直の者に蟇目(音の鳴る矢)を射させた。
謹慎の7日間になろうとする夜、河内国の高安の里より頼光の母君がやって来て屋敷の門を叩いた。物忌で謹慎の最中であったが、自分の母が遠路遥々面会にやって来たということで断ることもできずに中に入れることにした。そこで、綱らを呼んで終夜にわたって酒宴を開くと、頼光は酔って気持ちが和らかになり、綱が斬り落とした化物の腕の話を母に聞かせると、母はどんなものか見たいと言うので、頼光は唐櫃を開けて腕を取り出し、それを母の前に置いた。
母はその腕を手にとってしばらく眺める素振りを見せたが、肘から先の無い自分の右手を差し出して「これは自分の手じゃ」と言って自らの肘に添えると、突然身の丈2丈(6.06m)ほどの牛鬼に姿を変え、酌をしようと立ち上がっていた綱を左手で吊り上げながら頼光に飛びかかった。そこで、頼光は例の太刀を抜いて牛鬼の頭をいとも簡単に斬り落とした。
すると、牛鬼の首は空中に飛び上がり、太刀の刃の部分を五寸食い切り、口に含んだまま半時ばかり飛び跳ねながら吠え騒いでいたが、やがて力尽きて地上に落ちて絶命した。それでもなお、胴体は屋敷の破風を突き破って飛び出し、遙か上空に上って行ったという。今に至るまで、渡辺党の者が家を建てる時に破風を取り入れないのはこれが由縁である。
浄瑠璃『牛御前伝説』
平安時代に源満仲という武将がいた。この娘は異形の姿で、鬼の顔に牛のような角を持っていたので、満仲は娘を嫌って女官の須崎に殺すよう命じた。しかし、須崎は娘を哀れに思い、山中に連れ出して密かに育てることにした。
山で育った牛御前は凄まじい力を持つようになったが、ふとしたことで生存が露見したので、源満は怒って息子の頼光に始末するよう命じた。その一方で、実の父から命を狙われていることを知った牛御前は、怨みあまりに牛鬼に変じ、関東に下って鬼の国を作ろうとした。
そこで頼光は四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)と共に軍を起こして関東の牛御前を攻めた。この時、坂田金時だけは牛御前に同情して積極的に参戦しなかったという。この後、頼光の軍勢に追い詰められた牛御前は、自ら浅草川に身を投げて身の丈10丈もの化物へと姿を変え、周辺を水没させたという。
『煙霞綺談(滝壺のぬし)』
三河国の吉田より4里北東に東上村という所がある。この村の北に6,7町に本宮山より落ちる大きな滝がある。その高さは4,5丈で、落ちる所は谷底に草木が茂っており、昼でも暗い物凄いところである。滝壺は水が渦巻いていて人を寄せ付けない。そこから2間ほど下に落ちる。この滝を雌滝という。此処は深淵であったが、東上村の六左衛門という者は水に馴れていたので、常に雌滝の滝壺に潜って魚を捕っていたという。
享保年中のある日、六左衛門が此処で鮎を捕っていたところ、突然 水が逆流してきたので何事かと様子を見てみると、淵の中から黄牛が現れた。それは角を振り立てて吽々と吼え、六左衛門を目掛けて突進してきた。六左衛門は剛強の者だったが素手であったので、早々に上の道に登って難を逃れた。しかし、六左衛門は忽ち発熱し、その間にうわ言のようなことを喋るようになり、その3日目に死んでしまった。深淵と言えば大蛇でも出そうなものだが、牛が出るとは奇妙なことである。
※牛鬼ではないが、他の牛鬼の説話と類似している
『新編武蔵風土記稿』
浅草川(隅田川)より牛鬼のような異形のものが飛び出し、島中を走り巡ってから、当社(牛御前社=牛嶋神社)に入って忽然と行方知らずになった。その時に社壇にひとつの玉を落とした。今の社宝の牛玉はこれである。
『浅草船遊の記』
道春紀行にも、この(浅草駒形堂の)門前より、女の牛鬼が走り出たと書いてある。云々。
『作陽志』
美作国の苫田郡越畑の大平山に牛鬼という怪物がいた。寛永年間にそこの村の20歳ばかりの娘が、ある男と逢って心を奪われて一夜を共にした。そこで娘は子を孕み、それから子を出産すると、その子には2本の長い牙が生え、尾と角が備わっており、まるで牛鬼のようだったので、両親は怒って子供を殺して銕の串に刺して路傍に曝した。云々。
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地方の伝説
浅草の牛鬼伝説(東京都台東区)
牛嶋神社には、建長3年(1251年)に牛鬼が社中を走り回ったという伝説があり、その時に牛鬼が落としていった「牛玉」は牛嶋神社の神宝となっている。なお、その神力は撫で牛に移り、撫でれば病気治癒の御利益があるともいわれる。
五ヶ所浦の牛鬼(三重県度会郡)
昔、五ヶ所浦の切間の谷に一つの洞穴があり、そこに牛鬼という怪物が棲んでいた。この牛鬼は、毎月 一頭の牛を食う鬼といわれ、首から上は牛の頭で人語を話し、一日に千里も駆ける神通力を持っていたという。この牛鬼は よく西山に出て、五ヶ所城の殿様であった愛洲重明が弓の稽古をする様子を眺めていた。重明は弓の名手だったが、ある時 射った矢が的を外してしまい、飛んで行った矢は牛鬼の胸元に当たった。すると、牛鬼は麓の畑まで転げ落ちてしまい、牛鬼が死の間際に雄叫びを上げると、黒い煙がもうもうと立ち昇ったという。
その後、その煙にまかれた重明の奥方は重病に罹って、養生のために親元の北畠家に戻されることになった。その後、重明は奥方に離縁を申し送ったので、奥方は自分の身の上を悲観して自害してしまったという。別の話では、重明が病気の奥方に嫌気が差して、京都から来た白拍子を愛するようになったので、奥方は自害したといわれている。
その後、北畠家は怒って軍を起こして戦を仕掛けてきたが、愛洲家はこれに勝つことはできたものの、やがて滅んでしまったという。なお、重明に射たれた牛鬼は元々 五ヶ所城の主だったといわれており、死の間際に「ワシを助けておけば、この城は永く繁盛したものを」と言い残したという。また、西山の下の「ウシマロビ」という場所は牛鬼が転げ落ちたといわれるところで、後に「牛鬼の道具部屋」と呼ばれるようになり、此処に生えている木を伐ると災いがあると伝えられるという。
牛鬼淵の牛鬼(三重県多気郡)
昔、伊勢国の山奥に牛鬼淵と呼ばれる深い淵があり、そこには牛鬼という頭が牛で身体が鬼という恐ろしい化物が棲んでいるといわれていた。この山奥は2人の木挽の仕事場であり、山中に設けた小屋に住んで木を切り出していた。
ある夜、囲炉裏端で老いた木挽がノコギリの手入れをしていると、見知らぬ男が戸口に顔を出して「何をしているんだ?」と尋ねてきたので、老いた木挽は「ノコギリの手入れをしているのだ」と答えた。すると、男が小屋に入ろうとする素振りを見せたので、老いた木挽は「このノコギリの最後の32枚目の刃は鬼刃(おにば)と言い、鬼が出てきたら挽き殺すのだ」と言うと、男はどこかに去っていった。
その翌晩も同じ男がやって来て同じ質問をして帰っていった。その翌朝、木挽らが大木を伐っていると、固い節の部分に鬼刃が当たって折れてしまった。この折れた鬼刃を直すため、老いた木挽は麓の村に降りることにしたが、若い木挽は面倒がって一人で小屋で待つ事にした。
その夜、また男がやってきて同じ質問をしたが、酔っていた若い木挽は「麓の村に鬼刃の修理に行っている」と答えてしまった。すると、男は「今夜は鬼刃は無いんだな」と言って小屋の中に入ってきた。翌日、ノコギリの修理を終えた老いた木挽が山に戻り、牛鬼淵の傍を通りかかると若い木挽の着物が浮いているのが見えた。
この見知らぬ男の正体は牛鬼で、若い木挽は殺されてしまったのである。その後、牛鬼は牛鬼淵で鬼木五兵衛という者によって退治されたという。
牛鬼淵の牛鬼(三重県多気郡)
大杉の父ヶ谷に牛鬼淵という蒼くて深い不気味な淵があった。昔、その付近で山仕事をしている山人が淵に飛び込む怪物を目撃した。それは頭は鬼のようで身体は牛のような牛鬼だったという。
これを見た山人は恐れてすぐに麓の宮川村まで逃げ帰り、村人たちに牛鬼のことを話した。この話を聞いた鉄砲の名手の喜五兵衛は、その牛鬼を鉄砲で仕留めてやろうと意気込んで、案内の者を連れて山に入っていった。そして、その淵で怪物を待ち伏せていると、やがて水に飛び込む音がした。
そこで喜五兵衛は淵の方を見ると、そこには不気味な牛鬼の姿があったので、すかさず鉄砲を2,3発ほど撃ち込んだが、どういうわけか全く効いてない様子で、そのうち牛鬼もどこかに姿を消してしまった。それから喜五兵衛は山小屋に泊まり込んで、牛鬼が再び姿を現すのを待った。
その後、また牛鬼が現れたので、喜五兵衛はここぞとばかりに鉄砲を撃ち込んだが、何発撃っても全く効き目が無かった。そこで、喜五兵衛は肌身離さず持っていた「南無阿弥陀仏」と刻んだ弾を銃に込めて牛鬼に撃ち込むと、淵の辺り一面を真っ赤に染まり、牛鬼の姿も見えなくなってしまったという。
女と牛鬼の亡霊(三重県多気郡大台町)
昔、牛を連れた女が浦谷に向かう途中で滝の上の絶壁を通った時、突然 牛が驚いて暴れだしたので、女は牛ともどもに滝淵に落ちて死んでしまった。それ以後、夜な夜な髪を乱した女が牛鬼を連れて現れて、この山を行き交う人々を驚かしたという。そこで困り果てた里人は、諸国を行脚していた高僧に祈祷してもらうと、女と牛鬼は出なくなったが、この滝は牛鬼滝と呼ばれて人が近寄らなくなったという。
新平さと牛鬼(岐阜県郡上市八幡町)
昔、岐阜の吉田川を遡った奥の宮に雌の牛鬼がいた。
この牛鬼は相撲好きだったが、仲間から逸れてしまったので相撲を取る相手も無く、長い間一人で過ごしていた。ある時、牛鬼は人間と相撲を取ろうと思い立ち、竜の棲む竜宮淵を通り過ぎ、さらに吉田川を下って、ひまたの淵までやって来た。そして、人が通りかかるのをひたすら待っていた。
しかし、多くの人は牛鬼の姿を見ただけで驚いて逃げ出してしまうので、相撲を取るどころでは無かった。そのため、牛鬼は人里に降りても一人で過ごすことになった。そんなある時、牛鬼が村人の会話を聞いていると、鶴佐に新平という大男が住んでいるという噂が聞こえてきた。そこで、牛鬼は鶴佐に向かって新平の家の戸を叩いてみると、牛鬼を見た新平は「これが ひまたで噂の牛鬼か、ひとつ相撲でやっつけてやろう」と思い、牛鬼に相撲で勝負しよう申し出た。これに牛鬼は嬉しくなり、すぐに勝負を受けて、早速 相撲を取り始めた。
すると、新平は強く、牛鬼は何度も何度も投げ飛ばされた。だが、牛鬼はいくら投げ飛ばされても、その度に新平に向かっていった。それからというもの、牛鬼は新平の家に通って相撲を取るようになった。しかし、牛鬼が何度ぶつかっても悉くかわされてしまい、どうしても四つに組むことができなかった。一度でも四つに組みたいと思った牛鬼は、新平を怒られば向こうからぶつかってきてくれるだろうと考えた。
ある大雨の日、牛鬼は岩瀬山から大岩を川に投げ落とし、吉田川の流れをせき止めた。すると、新平の田んぼは水浸しになってしまったので、牛鬼は「きっと新平は怒ってぶつかって来るだろう」と思い、期待に胸を膨らませながら新平の家を訪ねた。しかし、新平は「馬鹿者め、とっとと失せろ」と言って戸を閉めてしまったので、牛鬼は一晩中泣き明かし、とうとう五町の大矢ヶ淵に行ったきり、二度と姿を現さなくなった。
一方で、牛鬼を見なくなった新平も日に日に元気を無くして、とうとう寝込んでしまった。それからしばらくすると、新平も静かに息を引きとってしまったので、人々は新平と牛鬼はきっとあの世で相撲を取っているのだろうと噂したという。なお、牛鬼の投げた大岩は茶釜岩と呼ばれて、今でも残っているという。
牛鬼から村を救った侍(福井県敦賀市横浜)
東浦の横浜という村では、正月になると牛鬼が暴れるので、村一番の美しい娘を人身御供として差し出すという習わしがあった。ある正月、この村の辺り歩く一人の侍がいた。この侍は地元の者では無かったので、道を尋ねようと人を探していると、そこに人身御供の棺を担いだ一行が通りかかった。
その一行は、各々が目に涙を浮かべながら歩くという尋常でない様子だったので、侍が道を聞くついでに事情を尋ねてみると、一行はこれから娘を人身御供として海辺の祠に供えに行くのだという。これに同情した侍は、なんとか助けてやろうと一行を家に帰し、それから海辺の宮に向かった。
侍が宮の縁の下に隠れて牛鬼を待っていると、海の中から牛鬼がやって来て人身御供の娘を楽しみにしている様子で供物の濁酒や強飯を食った。そして、棺を開けると中身が空だったので、牛鬼は激怒して暴れ始めた。その時に侍は縁の下から出て、ここぞとばかりに刀で切り込んだが、牛鬼の半分程度の背丈だった侍の一撃では致命傷を与えられず、反対に大怪我を負ってしまった。だが、侍は逃げずに渾身の力を振り絞って牛鬼の肝を握ると、牛鬼はもがき苦しみながら やがて息絶えてしまった。
それから村人たちが恐る恐る様子を見に行くと、そこには枝にぶら下がった牛鬼の首があった。しかし、侍の姿は無く、刀だけが落ちていたので、村人たちは村を救ってくれた侍の刀を宮に祀ることにしたという。
貴船の牛鬼伝説(京都市左京区鞍馬貴船町)
貴船明神は天下万民の救済のために、天上界から貴船山中腹の鏡岩に降臨した。その際に御伴として従ったのが仏国童子である。この仏国童子は牛鬼とも呼ばれており、饒舌で神戒をも顧みず、神界の秘め事の一部始終を他言したので貴船明神の怒りに触れ、その舌を八つ裂きにされた。そして、貴船を追放されると吉野の山に逃げていったという。
仏国童子は吉野で五鬼を従えて首領となったが、程なく走り帰り、密かに鏡岩の蔭に隠れて謹慎していたところ、ようやく罪を許されることになった。貴船神社の社家である舌家では、この鏡岩のところで「屈んで」謹慎をしていたことから、鏡岩を「屈岩」と書いて伝えている。また、初代・仏国童子の子は僧国童子と名付けられたという。
ある時、仏国童子が"貴船明神の御弓"と"鉄で打った面二寸三分宛の御弓"を取り出し、二張まで折ってしまった。余りの悪事に怒った貴船明神は、童子の手を七筋の鉄の鎖で括ったが、童子は少しも怯まず引きちぎってしまった。そこで、貴船明神は二間四面の大石を膂(背骨)に掛け置いたが、童子はこれも苦としなかったので貴船明神は心を痛めたという。童子は一日に3升3合の食物を食べる者であったが、130歳の時に雷に撃たれて死んでしまった。
二代目・僧国童子は、少年の頃から丹生大明神(貴船大神と同体)に奉仕していたが、後に吉野の五鬼を従えて帰り、父に代わって怠りなく神勤して102歳で亡くなった。また、僧国童子の子を法国童子と名付け、さらに法国童子の子を安国童子と名付けたとされ、四代目まで鬼の形をしていたという。しかし、五代目よりは普通の人の形となり、子孫代々繁昌して大明神に仕えた。そして、祖先を忘れぬ為に名を「舌」と名乗ったという。
百合ヶ花の牛鬼(京都府天田郡三和町)
王歳神社歳神社の北側の百合ヶ花には夜泣き松が生えており、その上の洞窟には牛鬼が棲んでいた。この牛鬼は松を伝って出てきて、人の追い回すなどの悪戯をしたという。
人を化かす牛鬼(京都府宮津市)
木子の吉原という所には牛鬼という人を化かす妖怪が出る。ある大雪の日に内山の村人が吉原の田んぼの辺りに通りかかると、吹雪で前後が見えなくなったが、杖を突きながら何とか雪道を進んでいくと急に視界が良くなった。その人は怪しんで杖を地面に立てて置き、そこから前に進んでみると やがて自分の立てた杖が見えてきたので、何度も同じ場所を回っていることに気付いた。そこで「きっと牛鬼に化かされているのだろう」と思い、慎重に道を見極めながら進んで行って やっと元の道に戻ることが出来たという。
また、吉津村の老人が蕎麦を持ちながら山道を歩いていると、急に道の真ん中に山が現れたので前に進めなくなった。これに老人は「これは牛鬼の仕業に違いない、きっと牛鬼の狙いは蕎麦だろう」と思い、蕎麦を掲げて「この蕎麦はやらんぞ、近寄るならば生け捕りにしてやろう」と周囲を威嚇した。すると、急に目の前の山の表面に針穴程度の小さな穴が空き、それが段々と大きく広がっていって山が消え、やがて元の道が現れたという。
人を病ませる牛鬼(和歌山県西牟婁郡)
牛鬼の姿は、頭が鬼で首から下が牛のようになっているという。淵には牛鬼がよく現れるので、日が暮れると、人々は淵のある所を通らなかったという。また、牛鬼を見ると、寝込んだり、頭が狂った人もいたという。
影を食べる牛鬼(和歌山県西牟婁郡)
昔、広瀬谷の琴の滝には牛鬼という怪物が住んでいた。この牛鬼は人の影を食べる鬼で、影を食べられた人は必ず死んでしまうという。
ある日、一人の百姓が滝の辺りに草刈りに行くと、そこに牛鬼が現れたので百姓は驚いて助けを呼びながら懸命に逃げたが、とうとう牛鬼に追いつかれて影を食べられてしまった。すると、やがて百姓は死んでしまったという。そこで村人は正月になると牛鬼に酒を供えるようになった。すると、酒好きの牛鬼は大変 喜んで、酒を持って来る村人の影は食べなかったといわれている。
牛鬼滝の牛鬼(和歌山県西牟婁郡)
昔、大字宮城にある牛鬼滝には牛鬼が棲んでおり、ある人が滝で魚を釣っていたところ、この滝壷の真中に大きな牛鬼が現われて その人の影を食ってしまった。すると、その人は黒焦になって死んでしまったという。そのため、これ以来、この滝では魚を捕らなくなったといわれている。
真っ赤な牛鬼(和歌山県西牟婁郡)
ある人が牛鬼滝の付近を通りかかった時、真っ赤な牛鬼が出てきたので慌てて逃げだした。また、外で牛の鳴き声がするので様子を見ると、牛鬼が牛小屋に入ろうとしていた。そこで、大声を出すと、牛鬼は帰って行ったという。
牛鬼滝の牛鬼(和歌山県西牟婁郡)
牛鬼滝には牛鬼が棲んでおり、人を食うとか、影を見られたら死ぬとかいわれていた。ある人が滝壺に木を落としたところ、牛鬼は木に当たって死んでしまい、7日にわたって その血が流れ出たという。
人を救った牛鬼(和歌山県西牟婁郡)
昔、ある少年が三尾川の牛鬼淵に通りかかった時、腹を空かせた牛鬼が美少女に化けて現れて何か食物が欲しいと懇願した。すると、少年は哀れに思って自分の弁当を勧めた。その後、川が氾濫した時に少年が足を滑らして河中に落ちてしまったところ、以前の少女が現れて牛鬼の姿になり、河中に飛び込んで少年を救いだした。しかし、牛鬼は人間の命を救うという禁を犯したため、真っ赤な血の泡を噴き出しながら水中に溶けていったといわれている。
牛鬼淵の由来(徳島県勝浦郡上勝町梅の木)
昔、梅の木(地名)には牛鬼という巨大な怪物が棲んでおり、時々 現れては村人を驚かしたり、作物を荒らしたりしたので、村人たちは相談して牛鬼を退治することにした。
ある日、牛鬼が現れたので、村人たちは鎌や棒などを持って牛鬼を追いまわしました。すると、牛鬼は谷へ逃げ込んで、上流へと逃れていった。村人たちは跡を追いかけると、牛鬼の姿は急に見えなくなった。
そこで、皆で牛鬼が姿を消した場所に行ってみると、そこに大きな淵が出来ていた。村人たちは牛鬼が淵を作ったことに驚いて、その淵を牛鬼淵と呼ぶようになったという。
白木山の牛鬼(徳島県海部郡牟岐町)
昔、西又の里の白木山に牛鬼という巨獣が棲んでおり、その姿は頭が鬼で、身体が牛のようであったという。この牛鬼は人や家畜を食って人々を困らせたので、平野の鉄砲の名手であった平四郎という猟師が退治を名乗り出た。
平四郎は白木山に向かい、そこで呼子の笛を吹いて牛鬼を呼び出すと、許しの弾を込めた鉄砲で牛鬼を撃った。すると、流石の牛鬼もたまらずに谷川に落ち、滝の渕で息絶えてしまった。その血は7日間にわたって流れ続け、やがて平四郎の家にまで達したが、平四郎の武威によって逆流したという。
平四郎の牛鬼退治(徳島県海部郡牟岐町)
昔、徳島県の白木山に牛鬼が棲んでいた。当地に住む猟師の平四郎は鉄砲の名手であり、牛鬼を仕留めようとして助平という場所におびき出し、京都の吉田家の三社の銘を刻んだ鉄砲で撃ち殺したという。
牛鬼淵と牛鬼塚(徳島県海部郡牟岐町)
昔、牟岐町の白木山に牛鬼が棲んでおり、これを地元の猟師である平四郎が弓矢で射止めようとしたところ、牛鬼は血を流しながら逃げて淵に落ちて死んでしまった。この淵は7日7夜の間 赤く濁ったという。
その後、牛鬼が死んだ淵は牛鬼淵と呼ばれ、平四郎の子孫の川添家が家の裏に塚を立てて牛鬼を祀り、この塚は牛鬼塚と呼ばれるようになった。正月にはヒチワタバナカという7束半の藁を塚に供える風習があるという。
牛鬼村の由来(徳島県海部郡牟岐町)
昔、牟岐町を牛鬼村といった。この由来は、当地の古池に棲む牛鬼を伊予の人が退治したことに始まるという。
山田蔵人の牛鬼退治(香川県高松市)
江戸時代初期、青峰山には牛鬼が棲んでおり、人や家畜を害していた。村人は弓の名手であった山田蔵人高清に退治を依頼した。そこで高清は牛鬼を討ちに山に入ったが、なかなか牛鬼は現れなかった。
そこで高清は根香寺の本尊に願掛けをすると、21日目の満願の暁に牛鬼が現れたので、高清がすかさず矢を放つと牛鬼の口の中に命中した。すると、牛鬼が逃げ出したので、高清が追いかけると西の定ヶ渕で息絶えていた。よって、高清は牛鬼の角を切り取って寺に奉納し、その菩提を弔ったという。その角は今でも根香寺の寺宝になっており、牛鬼の絵は魔除けの御守となっている。
塩田教清の牛鬼退治(香川県高松市)
昔、青峰山に牛鬼が棲んでいて人や家畜を害していた。そこで、弓の名手の塩田教清が牛鬼を退治し、その牛鬼を絵に写させた。それは今でも「牛鬼の掛け軸」として寺宝になっている。
山伏の牛鬼退治(愛媛県宇和島地方)
昔、愛媛県の宇和島地方には牛鬼が棲んでおり、人や家畜を襲って苦しめていた。そこで、人々は喜多郡の河辺村に住む山伏に退治を頼むと、山伏は四国中を巡って牛鬼を探した。
しかし、なかなか現れなかったので、山伏が河辺村に戻ると そこに牛鬼が現れた。その牛鬼は、小さな丘のように見えるほど大きかったが、山伏は法螺貝を吹き立てて、調伏の真言を唱えると、牛鬼は恐れて後ずさりしたので、山伏は腰に帯びていた修羅の剣を抜き、それで牛鬼の眉間を刺して殺した。
それから牛鬼の身体を斬り刻み、いくつにも斬り分けると、その血は7日7夜の間 流れ出て、やがて淵になったという。それが高知県にある土佐山の牛鬼淵、徳島県の白木山の牛鬼淵、香川県根香寺の牛鬼淵だといわれている。
また、一説には この伝承によって「宇和島の牛鬼」が始まり、木彫りの牛鬼を魔除とするようになったという。
河野七初兵衛の牛鬼退治(愛媛県宇和島市)
昔、光満の入らずが谷には牛鬼が棲んでいた。この牛鬼は人里に出ては田畑を荒らしたり、人を殺傷したので、村人たちは恐れて自由に外に出られなかった。
この牛鬼の噂は、当時に島ヶ泊城の城主であった河野七初兵衛の耳にも入った。七初兵衛は強い侍だったので、自ら牛鬼を退治しようと、家来を引き連れて牛鬼退治に出掛けた。七初兵衛は家来を山上に送り、そこで鐘や法螺貝を鳴らさせて牛鬼を追い出し、七初兵衛自身は谷の入口で槍を構えて待ち伏せた。
すると、そこに牛鬼が現れたので、七初兵衛はすかさず槍で突いて仕留めようとしたが、数ヶ所傷つけると牛鬼は逃げてしまったので、討ち取るには至らなかった。それから牛鬼は山裾を川下に逃げて、江の組から別田の方に出ようとしたが、そこは断崖だったので川中に入っていった。
だが、牛鬼は七初兵衛から受けた傷によって次第に弱っていき、とうとう力尽きて岩の上に臥し倒れた。すると、牛鬼の血が岩に流れて真っ赤になり、やがて牛鬼も息を引き取った。それ以降、この岩は「赤石」と呼ばれるようになり、七初兵衛が長く牛鬼を追いかけた辺りを「長追」と呼ぶようになった。また、牛鬼の遺骸は川から引き上げられ、塚を築いて葬られた。その塚は「牛鬼塚」と呼ばれるようになったという。
その後、長追には七初兵衛を祀るための河野神社が建てられ、そこには七初兵衛の墓と伝わる五輪塔がある。
伊予の牛鬼(愛媛県宇和島市)
昔、疫病が流行したため、疫神退散を願って牛鬼を造って厄払いをした。また、牛の妖怪が出て農作物を荒らしたので、その怨霊を慰めるために牛鬼を造って祭に奉り、その被害を免れたという。
宇和島の牛鬼の起源(愛媛県宇和島市)
牛鬼の起源伝承には、加藤清正が朝鮮出兵の際に敵を威圧するために牛鬼を使ったという説や、大洲太郎が赤布で牛鬼を作って敵を退治したなどの説がある。
僧都の牛鬼(愛媛県南宇和郡)
僧都(愛南町)の猟師が山で猟をしていた時、途中で雨が降ってきたので岩下で雨宿りしていたところ、雨を避けているにもかかわらず頭上に雫が垂れてきた。そこで猟師が頭上を見上げてみると、それは牛鬼のよだれであった。驚いた猟師が慌てて逃げ出すと、牛鬼はシャラシャラと針金のような毛を擦り合わせて追いかけて来たので、猟師は猟銃を撃ちながら逃げ帰ったという。
牛鬼渕の牛鬼(愛媛県東宇和郡)
城川町下遊子から日浦に向かう途中に牛鬼渕という渕がある。この渕には昔から牛鬼が棲んでいるといわれていたが、その姿を見たという者は誰もいなかった。そこで、ある人は牛鬼渕で「この渕に牛鬼がいるならば姿を見せろ」と言って、渕に向かって放尿したところ、しらばく後に巨大な牛鬼が姿を現した。それは牛鬼まつりの山車のような見た目で、その人は一目散に逃げ出して家に帰ることができたが、長い間 顔面蒼白で病に伏せることになったという。
百手祭の始まり(高知県香南市)
平安時代、夜毎に牛鬼が現れて作物や家畜を食い荒らしていた。そこで村人たちは牛鬼を退治しようとしたが逆に食われてしまった。この話を聞いた近森左近という武士が、夜須大宮八幡宮に願をかけて牛鬼退治に出向くと、左近は弓矢の一撃で牛鬼を仕留めたという。これに村人たちは喜び、弓を引く真似をしながら左近の牛鬼退治を伝えた。これが夜須大宮八幡宮の百手祭の始まりだといわれている。
土佐山の牛鬼(高知県土佐郡)
昔、高知県の土佐山の淵には牛鬼が棲んでいた。当地の長者であった高瀬太郎兵衛が、淵に毒を投げ込んで牛鬼を退治したところ、強烈な雷雨が起こって山が崩れ、長者一家はこれに押し潰されて死んでしまったという。
こけ淵の牛鬼(高知県土佐郡)
昔、土佐郡のこけ淵には牛鬼が棲んでいた。ある夜、長谷集落の猟師がぬたうち場に出掛けたところ、そこに牛鬼が現れた。それは身の丈7尺(2.12m)で、顔は鬼のようで、身体は牛のようであったという。
猟師がすぐに鉄砲を撃ち込むと、牛鬼は血を流しながら逃げていき、こけ淵に沈んで死んでしまった。それから7日7夜の間 こけ淵は血で真っ赤に染まり、後に7尺ほどの骨が浮かんできたので、此処に社を建てて牛鬼を祀った。その社は「川内さま」と呼ばれ、こけ淵は「牛鬼淵」と呼ばれるようになったという。
塵輪鬼の伝説(岡山県邑久郡牛窓町)
昔、仲哀天皇と神功皇后が三韓征伐に向かい、その途中で備前国の浦に停泊した。その時、俄に空が曇り、黒雲に乗って頭が8つある塵輪鬼(ちんりんき)という怪物がやって来た。塵輪鬼は皇軍に襲いかかったが、天皇は恐れることなく弓矢を取って応戦した。そこで、天皇が射った矢が塵輪鬼の首を飛ばして殺したが、天皇の戦の最中に流れ矢を受けてしまい、それが元で崩御してしまった。また、死んだ塵輪鬼は海に落ちて、首は鬼島(黄島)、胴は前島、お尻は黒島、尾は青島になったという。
神功皇后は天皇の死に大変嘆いたが、天皇の意志を継ごうと男装し、この浦の住吉明神に参拝して改めて出航した。そして、三韓征伐を成した後に再び備前国に立ち寄ると、塵輪鬼の魂魄が牛鬼に姿を変えて海底から現れて、皇后の御船を転覆させようとした。すると、そこに老翁に化けた住吉明神が現れて、牛鬼の角を掴んで投げ倒した。よって、皇后は難を逃れ、その海は牛転(うしまろび)と呼ばれるようになった。その後、牛転が訛って牛窓(うしまど)と呼ばれるようになったという。
大倉山の牛鬼(鳥取県日野郡日南町)
孝霊天皇の御代、大倉山には牛鬼という とても恐ろしい鬼が棲んでおり、麓の村里に下りては人々を害していた。その時に上菅にいた天皇は早速 歯黒王子を大将に任じて牛鬼退治を命じた。
この時、歯黒王子は大倉山に登って山上から牛鬼を攻め、天皇は麓で逃げてくる牛鬼を待ち構えた。牛鬼の一派は歯黒王子の攻撃にたまりかねて転げ落ちるように日野川の方に逃げたが、天皇の軍勢が麓から攻撃したので、とうとう牛鬼の首領も降参したという。
この戦で牛鬼が転げ落ちた滝は「獅子ヶ滝」と呼ばれ、天皇は戦の後にこの滝で身を濯ぎ、傍の滝壺で刀を洗ったと伝えられている。
鬼林山の牛鬼(鳥取県日野郡日南町)
孝霊天皇の御代、天皇が西の国々を巡行して伯耆国の日野川を登った時、鬼林山に棲む邪鬼が人里を荒らして人々を困らせているという話を聞いた。この邪鬼は牛鬼(ぎゅうき)と呼ばれており、体格がよく、力も強く、動きも素早かったので、村人たちには退治できる相手では無かった。
そこで、天皇は皇子の歯黒王子を大将に任じて、牛鬼を退治するように命じた。この歯黒王子は、母が懐妊してから3年以上経てから産まれたので、生まれた時には既に歯も髪も生え揃っており、凛々しく不敵な面構えであった。このため、彦狭嶋命という名前があったが、いつも歯黒王子と呼ばれていたという。
天皇は軍を2つに分け、歯黒王子の軍勢を鬼林山に登らせて山上から攻めさせることにし、もう一方の軍勢を麓に待機させて、矢戸で集めさせた矢竹を牛鬼たちに放って攻撃させるという方策を立てた。そして、歯黒王子が山上から攻撃すると牛鬼たちは山を下って逃げ出して、麓に出たところを弓矢で攻撃されて退路も絶たれたので、牛鬼たちは戦う術を無くしてしまい、遂に降参することに決めた。その後、改心して天皇の家来になったという。
牛鬼に襲われた侍(島根県西部)
昔、石見国に森山玄蔵という侍がいた。玄蔵は無類の釣り好きであり、暇さえあればいつも釣りをしていた。ある時、玄蔵が夕方に磯釣りに出掛けたところ、不思議なことに次から次へと魚が釣れたので、玄蔵は楽しくなって夜が更けて真っ暗になっても釣りを続けていた。
やがて魚籠がいっぱいになったので帰ろうとすると、後ろに何者かの気配がした。そこで玄蔵が振り返ると誰もおらず、気のせいだと思って前を向くと、そこにずぶ濡れの女が赤子を抱いて立っていた。玄蔵は驚いて逃げ出そうとしたが、足が引きつって動けずにいると、女は海上を歩くように近づいてきて「この子が腹を空かせていますので、どうか魚を一匹くださいませんか?」と言ってきたので、玄蔵は震える手で一匹の魚を差し出した。
すると、赤子は魚の頭にかぶりつき、そのまま骨ごと食べてしまった。すると、女はもう一匹せがんできたので、玄蔵は魚籠ごと差し出してやると、赤子はムシャムシャと口の周りを血だらけにして釣った魚をすべて食べてしまった。玄蔵が驚きのあまりに呆然としていると、女は「ちょっと、この子を抱いてくれませんか?」と言って、無理矢理押し付けてきたので、玄蔵が赤子を抱くと女は忽然と姿を消してしまった。
玄蔵は恐ろしくなって赤子を投げ捨てようとしたが、赤子はしっかりとしがみついて離れそうにないので、仕方なく赤子を抱いたまま その場を離れようと駆け出した。すると、後ろから蹄のような音が近づいてきたので、玄蔵は何事かと思って後ろを振り返ると、そこには鬼の顔をした牛の怪物が角を振りかざしながら追いかけて来ていた。
そこで玄蔵は助けを叫びながら自宅の方へ走っていった。その時、玄蔵の自宅では床の間から何かが動くような音がしており、これに気付いた女房が様子を見に行くと、そこに飾ってあった太刀が独りでに暴れていた。これを見た女房は夫の身に何かあったに違いないと思って玄関を開けると、その太刀は鞘から抜けて宙に浮かび、海の方に一直線に飛んでいったので、女房は夫の無事を祈って太刀に向かって一心に手を合わせた。
その頃、玄蔵は牛鬼に追い詰められて今にも角で突かれそうだったので、玄蔵は諦めて目をつぶると、突然 牛鬼が叫び声を上げて、抱いていた赤子も腕から落ちた。そこで玄蔵が恐る恐る目を開けると、牛鬼の首に自分の太刀が刺さっており、牛鬼もぐったりしていたので、玄蔵は腰を抜かしながらも辛うじて逃げ出して家路についた。
その翌日、玄蔵が村人たちと共に牛鬼の倒れた場所に向かってみると、そこには牛鬼や赤子の姿は無かったが、牛鬼のものと思しき血痕が海の方まで点々と続いていた。それ以来、夜の海で濡れ女と遭遇すると牛鬼がやって来るといわれるようになり、人々は夜に海に近づかなくなったという。
濡れ女と牛鬼(島根県安濃郡太田町)
夜、男が釣りから帰ろうとした時に濡女が現れた。濡女は赤子を男に抱かせると消えてしまったが、男が赤子を投げ捨てて逃げ出すと、牛鬼が追いかけてきた。そこで男は農家に逃げ込んで難を逃れたという。
濡れ女と牛鬼(島根県那賀郡浅利村)
昔、ある神職が夜釣りに行くと、そこに濡女が現れて赤子を渡してきたので、抱くと濡女は消えてしまった。神職は赤子を捨てようとしたが石のようになって手から離れず、後に牛鬼が追いかけて来たので神職は逃げだした。すると、光る物が飛んできて牛鬼の頭に刺さり、それからは追ってこなくなった。その後、光る物は家から飛んできた刀だと分かったという。
神札を恐れた牛鬼(島根県邇摩郡)
4月のある日に漁師4人が鯖釣りに出かけたところ、夜が更けた頃に岸の方から「行こうか、行こうか」と声を掛ける者がいた。そこで漁師は「来たけりゃ来いや」と言い返すと、牛鬼が海に飛び込んで追いかけてきた。そこで4人は慌てて逃げ出して、渚に最も近い民家に逃げ込んだ。すると、牛鬼は家の柱に貼ってあった出雲大社の護符に恐れをなして逃げていったという。
仏飯を恐れた牛鬼(島根県邇摩郡)
ある夜、漁師たちが鰯の群れを網を入れたが、網には一尾も入っていなかった。漁師たちは自分たちの目を疑ったが、獲れていないことには変わりないので、機嫌を悪くして一度 家に帰ることにした。その内一人の老いた漁師は海に煙草入れを忘れたので取りに戻ろうとしたが、客人は嫌な気配を感じたので老いた漁師に仏飯を食べさせてから外に出させた。それから老いた漁師が海に戻ると牛鬼が現れたので、もう助からないと観念したが、仏飯を食べていたために牛鬼は泳いで逃げ去っていったという。
椿が化けた牛鬼(島根県邇摩郡)
ある夜、一人の老いた漁師が小船で沖に出かけたところ、牛鬼が近づいてきたので老漁師は捕まえて持ち帰り、船小屋の前に投げ出した。これを皆に見せると、見物に集まってきた内の一人の若者が牛鬼の頭の辺りを櫂で打ったが、これをよく見ると古い椿の根だったという。
牛鬼伝説(山口県熊毛郡室積村)
天文年間(1532~1555年)に牛鬼が島に現れて害をなしたため、離散してしまった。その時、伊予の藤内図書という者が島に漂着して理由を聞き、この島に住む城喜兵衛の弓術者と謀って弓を取り、ついに怪物を射殺したので、島に残った3軒の民家が復活した。その後、次第に村は繁盛していったという。
牛島の牛鬼(山口県光市牛島)
天文年間(1532~1555年)に、牛島には牛鬼と呼ばれる怪物が棲んでいた。この牛鬼は悪事の限りを尽くして島民を苦しめたので、島民は島から逃げだしてしまったという。その頃、土佐の長宗我部家の家臣で、橘諸兄の末裔である藤内図書橘道信と、その弟の御旗三郎左衛門信重が牛島に渡ってきた。
二人が島を見渡すと人家に人影が見えないので、島民とおぼしき漁師に事情を尋ねてみると、漁師は牛鬼の悪行を語って聞かせた。すると、二人は牛鬼征伐に向かったが、牛鬼はとても強くて敵いそうになかった。そこで二人は室積浦へと逃げ、どうにか倒す方法は無いかと地元の漁師に相談してみると、隣の三輪村に弓の名手が住んでいるということなので、二人は早速 会いに行って弓を習うことにした。こうして十数日の訓練をした後、二人は牛島に行って牛鬼に再戦を挑み、激闘の末に退治することができたという。
鬼ヶ城山の牛鬼(山口県豊浦郡豊浦町)
天徳2年(958年)、新羅国の牛鬼が鬼ヶ城山に砦を築いて里人に害を為していた。その頃、大歳神社の宮司の娘を牛鬼が見初めて夜毎に覗き見るようになっていた。それから牛鬼は美しい童子に化けて娘のところに来るようになったので、宮司はいつか牛鬼を仕留めてやろうと思っていた。
この年の10月14日の夜、美しい童子に化けた牛鬼が娘と戯れていたので、待ち構えていた宮司は弓矢を放って牛鬼の片目を射抜いた。すると、鬼は城山へ逃げていき、その頂上で息絶えた。それ以来、鬼ヶ城山の頂上には片目の蝿が出るようになり、近寄ると人に取り憑くといわれている。
牛鬼神(山口県豊浦郡豊浦町)
夫が不在のある女にところに、夜毎に18,9歳ばかりの若者が通うようになった。その後、夫が帰ってきたので、女は夫に若者のことを告げた。すると、夫は弓矢を持ち、やって来た若者に矢を放った。矢を受けた若者は血を流しながら逃げていき、その血痕を辿ると鬼ヶ城の麓で死んでいた。この若者を埋葬してやったが、後に村人に災いを為すようになったので牛鬼神と名付けて祀ったら、祟りは無くなったという。
金光上人の牛鬼退治(福岡県久留米市)
康平5年(1062年)、足代山に牛の首に鬼の身体を持つ牛鬼が出没し、人や家畜が次々と消えていった。多くの者が退治を試みたが、この牛鬼は神通力を使うので敵うものはおらず、諸国の武士ですら退治をためらう有様であった。そこで、人々は観音寺の住職である金光坊然廓上人の法力を頼ることにした。
そこで、上人は宝剣を持って山中に籠もって待っていると、夜も更けた頃に雷雨が起こり、その中から牛鬼が現れて上人も前に立った。これに上人は少しも騒がずに経文を読み上げると、牛鬼は立ちどころに神通力を失い、身動きも取れなくなった。そこで、上人は宝剣で牛鬼を倒すと、耳を切り取って山頂に埋めた。よって、それからは耳納山と呼ばれるようになった。また、首は都に送られ、手は村人たちに切り取られて観音寺に納められたという。
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