奥浄瑠璃『田村三代記』あらすじ
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はじめに(内容に関する注意点)
以下の文章は、奥浄瑠璃『田村三代記』のあらすじを勝手にまとめたものです。いくつかの資料を参考にして書いたので、内容に若干の違いがあるかも知れません。そういった点に注意して呼んで下さい。なお、サブタイトルは物語を見やすくするために勝手に付けたものです。
『田村三代記』
星の子の誕生
第51代平城天皇の御代、丹波国と播磨国の境に一つの大星が天降り、その光によって周辺は白昼のようになった。これを天文博士が占うと吉事と出た。この星は砕けて地上に落ち、そこに3歳ばかりの美しい童子が剣と鏑矢を持った現れたので、丹波の管領であった橘右衛門が拾い上げて内裏に差し出した。帝はこの子に星丸(ほしまる)と名付け、乳母を付けて養育させることにした。
利春の配流
星丸は、7歳で習っていない書を読み、横笛を吹けば天女が天降るほどに笛が上手になった。10歳の時には身の丈4尺8寸6分(184.68cm)となり、官職を賜ってニ条の中将 利春(としはる)と名付けられた。
15歳になった時、利春の笛の評判を知った帝は「千帝の命日に天人を天降らせ、舞楽を奏せよ」との勅命を下したが、利春が「天人の舞楽は天竺の梵天王の大庭でなければ奏せません」と断ったため、帝は怒って利春を越前の三国ヶ浦に流刑にした。
大蛇丸の誕生
流された利春は心を慰めようと横笛を吹くと、繁井ヶ池の大蛇が笛の音に誘われて、美女に変じて夜な夜な利春の元に通った。利春が素性を尋ねると、女は自らを近くの長者に仕える水仕と名乗った。利春は、その容顔の美しさに魅了され、やがて契りを込めると、やがて女は利春の子を身籠ることになった。
しかし、1年経っても2年経っても産気づく様子がないので、利春は怪しんで理由を尋ねると、女は「実は私は天竺の生まれで、その習いによって出産までに3年3ヶ月掛かります。ですので繁井ヶ池の辺りに7間4面の産屋を建てて下さい」と言うので、利春が産屋を用意すると、女は「産屋に入ってから百日百夜経つまでは中を覗かないように」と言い残して産屋に入っていった。
それから99日目の夜、利春が怪しんで産屋の中を覗くと、中には20尋(30.3m)もある恐ろしい大蛇がおり、眉間に産まれた男児を乗せて遊ばせていた。その翌日、女は男児を抱いて利春の元を訪れると、利春は覗いていない様子で「養育を頼む」と言ったが、女は利春の留守を見計らって男児に「母は人間ではなく、本当は繁井ヶ池の大蛇なのです。正体を見られてしまったので、私は古巣の池に帰ります」と言って大蛇の正体を現して、男児を残して去ってしまった。
利春が残された男児を見つけると、その枕元に1本の鏑矢が残されていた。利春が、これを乳房代わりに吸わせたところ笑顔になったので、鏑矢を吸わせて育てることにし、男児には大蛇丸(おろちまる)と名付けた。利春が越前に流れてから3年、大蛇丸が7歳になった時に、利春は赦免されて大蛇丸と共に都に戻ることになり、二条に屋敷を構えて、北の方(正妻)を迎えてめでたく暮らした。
大蛇丸の悪竜退治
大蛇丸が10歳になった時、大和国と山城国の境にある今瀬ヶ淵に棲む悪龍が人々に害をなすということで、幼くして武勇に優れていた大蛇丸に悪龍退治の宣旨が下された。そこで、大蛇丸は母の形見の神通の鏑矢と帝から賜った名剣 素早丸(そはやまる)を携え、100余騎の軍勢を率いて今瀬ヶ淵に向かった。そこに悪龍が現れると、手勢の者どもは恐れをなしたが、大蛇丸は動じずに神通の矢を射放つと、それは悪龍の眉間を射抜いて討ち取った。
この後、都に帰って報告すると、帝の叡感によって中納言に任じられ、ニ条の中納言 利光(としみつ)と名を改めた。その後、大蛇丸の前に紫雲が現れて その中から「今瀬ヶ淵の悪龍はお前の母である。母の身は滅んだが、心は天に召されて八幡神となった」という声が聞こえたので、利光は自分が退治した大蛇は実の母であり、大蛇丸に武功を立てさせるために悪龍として現れたのだと知ることになった。
利光の蝦夷鎮圧
それから20年後、第52代嵯峨天皇の御代に奥州で蝦夷が反乱を起こし、毒矢を以って地頭と国境を争っているということで、帝は公卿らを集めて詮議させ、利光を奥州大将軍に任じて蝦夷征討の勅命を下した。そこで、利光は素早丸の太刀を佩き、漣(さざなみ)という名馬に跨り、1000騎の軍勢を率いて奥州の利府の郷に向かった。これを知った奥州の諸大名は「この度の大将軍は大蛇の腹から生まれたと聞く。ならば疎かにはできぬだろう」と言って次々と利光に従い、蝦夷も利光の威光を恐れて直ちに降参した。
こうして反乱を鎮圧した利光は都に土産物を持って帰ろうと思ったが、奥州には珍しいものが無いということで、七ツ森で狩りをして獲れた獣の皮を持って帰ることにした。そこで盛大に御狩を催すと、森の中には身の丈8尺(約2.4m)の異形の猅々(ヒヒ)や、身の丈1丈(3.03m)の荒熊が居て、こうした獣によって多くの犠牲が出たが、やがてその荒熊を仕留めることができたので、その皮を取って都への土産物にすることにした。
千熊丸の誕生
ある時、九門屋という長者に悪玉(あくたま)という醜女が水仕として仕えていた。悪玉は元々公家の娘であったが、信濃詣の際に山賊に囚われて身売りされ、肌を許さないようにするために観音に祈ったことで醜女に変じたのであった。売り物にならなくなった悪玉は捨てられて、転々としているうちに九門屋に身を寄せたのである。だが、利光が悪玉を見た時には本来の美しい姿に見えたので、目をつけて契りを込めたが、都に連れ帰るわけにはいかないということで、形見として神通の鏑矢を与えた。
その後、悪玉の腹には利春の子が宿ったが、3年経っても生まれてこなかった。これはきっと化生の者だと考えた九門屋は、水仕が化物を産んでは家名に傷が付くということで悪玉を追い出すと、悪玉は行く宛もなく山中を彷徨うことになった。それから3年3ヶ月に産気づいたので、柴刈の人々が そんな悪玉を見かねて産屋を建ててやると、悪玉は産屋に籠って十一面観音と熊野権現に祈念して、やがて男児を出産した。
これを知った九門屋は、悪玉に使者を送って「子を捨てて奉公に戻れ」と言付けたので、悪玉は親子共々身投げしようとすると、そこに塩釜明神が現れて「待て」という声をかけたので、悪玉は思い留まることにした。そこで、子を抱いて九門屋に戻ると、その子があまりにも美しかったので、九門屋夫妻は我が子として育てることにして、悪玉に「決して母と名乗らない」と熊野権現にかけて誓わせた。そこで、熊野から一字とって、その子に千熊丸と名付けて養育した。
千熊丸の上洛
千熊丸が7歳になると、山寺に登って学問に務めるようになり、その合間に北辰山で剣術を学び、やがて身の丈5尺8寸(220.4cm)となった。それから12歳で山寺を降り、弘仁2年(811年)8月15日に八幡宮で行われる流鏑馬神事の射手に志願すると、別当坊は「下衆の悪玉の子などには与えぬ」と断ったので、千熊丸は恥辱を覚えて、真相を確かめようと悪玉の庵を尋ねた。
その時、悪玉がたまたま千熊丸を偲んで歎いていたので、千熊丸は初めて悪玉が自分の本当の母親だと知った。そこで悪玉に実の父親の素性を尋ねると、悪玉はやむなくこれまでの経緯を話し、奥州の反乱を鎮圧した将軍が本当の父であるということを教えた。これを聞いた千熊丸が父に逢うために上洛しようと決意すると、悪玉は千熊丸に形見の鏑矢を渡した。
千熊丸は上洛の前に塩釜大明神に参籠し、それから奥州街道から東海道の宿を転々として、やがて都に着くと、三条の利光の屋敷を尋ねて門前にたたずんだ。その時、たまたま屋敷の庭で蹴鞠をしていた利光が誤って屋敷の外に鞠を蹴り出すと千熊丸の前に落ちたので、千熊丸は屋敷の中に蹴り返した。
そこで、利光が屋敷の前の千熊丸を見つけて用事を尋ねると、千熊丸は「当主に奉公しに来た」と言ったので、利光が「ならば、力試しにこの碁盤を持ってみよ」と二人がかりの碁盤を出すと、千熊丸が「そんなものは子供でも持てる」と言うので、利光は家臣の源太を乗せて持ち上げるように命じると、千熊丸は軽々と持ち上げて源太諸共に投げ飛ばした。これに感心した利光は、喜んで千熊丸の奉公を許した。
坂上田村麿
それから利光は、千熊丸の稀に見る才器を恐れるようになり、千熊丸の謀殺を企むようになった。そこで、利光は「鬼鹿毛という悪馬を乗りこなせ」と千熊丸に命じた。この鬼鹿毛は丹波国の人喰い馬として知られる恐るべき馬であった。千熊丸は丹波国の白骨の山という厩に向かい、そこにいた鬼鹿毛の前で「私に従えば馬頭観音を崇めよう」と言うと、鬼鹿毛は涙を流して千熊丸を乗せ、それから都に帰って鬼鹿毛に乗って見事な馬術を披露した。
利光は、いよいよ千熊丸を生かしておけないと思うようになり、利光は自ら弓矢を取り、障子の陰から朝飯を食べている千熊丸を狙って射放ったが、千熊丸はそれを箸で受け止めたので、利光がさらに射放ったが、千熊丸はこれも受け止めてしまったので、とうとう降参した利光が千熊丸の素性を尋ねると、そこで形見の鏑矢を出して「私は悪玉の腹に宿りし千熊と申します」と話した。
これを聞いた利光が千熊丸を伴って参内すると、そこで千熊丸に坂上田村麿利仁(さかのうえのたむらまろのとしひと)という名が与えられた。また、悪玉を本妻とすべしということで悪玉は四位の女官を被ることになり、そこで悪玉は田村御前と称されることになった。これを以って悪玉は奥州から上洛することになり、そこで世話になった九門屋夫妻と柴刈の人々に恩賞を送ると、悪玉は村人たちから染殿大明神として崇め祀られるようになった。それから悪玉が都に入ると、その姿は醜女から元の美しい姿に戻っており、利光に本妻として迎え入れられた。
立烏帽子との戦い
第54代任明天皇の御代、毬のような光るものが昼夜問わずに飛び交って、これと遭遇した者は皆 金品を奪われるという事件が起こった。そこで帝は大臣や公卿を集めて詮議させると、博士に占わせようということになり、その占いによれば「第四天の魔王の娘である立烏帽子(たてえぼし)が伊勢国の鈴鹿山に天降り、日本を魔国としようと企んでいる」という結果が出た。そこで田村麿将軍が召され、立烏帽子討伐の勅命が下されることになった。
田村麿は神仏に戦勝祈願をすると、2万騎を率いて鈴鹿山に向かい、鈴鹿山の周りを軍勢に包囲させて立烏帽子の行方を探させた。しかし、1年間探しても立烏帽子が見つからなかったので、田村麿が頭を悩ませると「もし魔性の者を尋ねる時は大勢で尋ねてはならない。必ず主従2,3人で尋ねるべし」との父の言葉を思い出したので、軍勢を都に帰らせて一人で鈴鹿山に籠って探すことにした。
しかし、それから3年の月日を経てもまるで見つからないので、ここで神仏に立烏帽子の行方を知らせるように祈念すると、やがて光る毬のようなものが現れた。その光は「この上に登れば、恋しき人に逢えるだろう」と言うので、田村麿が御告げに従って進んでいくと、小笹原の奥に今まで見えなかった細道を見つけたので、その先を進んでいくと、やがて極楽浄土を思わせるような四季の景色に囲まれた豪華絢爛な館が見えてきた。
田村麿が館の中に入っていくと28歳ほどに見える十二単衣を纏った美しい女の姿があった。これが立烏帽子である。田村麿は立烏帽子を一目で気に入り、できれば親しくしたいと思ったが、帝から討伐の宣旨を受けていることもあって、まずは出方を見ようと立烏帽子の髪に向かって素早丸を投げつけた。すると、立烏帽子は少しも驚かずに大通連という剣を田村麿に投げつけ、そこで その2本の剣が争い始めた。そこで素早丸が鳥に変じて立烏帽子を追うと、大通連は風となって防ぎ、火焔となれば水となるなど、互いに変じながら争ったがなかなか決着がつかなかった。
立烏帽子の改心
そこで田村麿が呆然としていると、立烏帽子が「私を討とうとしても、それはなかなか難しいことだ。私は天竺の第四天魔王の娘である。田村将軍の祖父は星の御子・中将利春であり、龍と交わって産まれたのが利光である。その利光が陸奥の悪玉姫と交わり産まれたのが田村将軍である。田村将軍は日本の悪魔を鎮めるために観音が示現したものである。人の目に見えないはずの私の姿を田村将軍に見られてしまったのは悔しいことだ。私は日本を魔国とするために天降ったが、女の身であるため夫が居なくては叶わない。そこで奥州の大嶽丸という鬼に妻にせよと文を送ったが返事はなかった。これは田村将軍によっては幸いである。かくなる上は悪心を翻し、善心を持って田村将軍と馴れ初めることにしよう。共に日本の悪魔を鎮めようではないか」と話した。
その時、田村麿は立烏帽子に従わなければ殺されると思い、ここは立烏帽子の言うとおりにして、そのうち討ち取ってやろうと考えた。そこで立烏帽子の言うことに従うと、立烏帽子は喜んで田村麿を様々に饗した。そして、そのうち比翼の契りを結んで鈴鹿山で3年間過ごすと、やがて立烏帽子は田村麿の子を身籠り、後に正林(しょうりん)という娘が産まれた。
田村麿の計略
立烏帽子と共に過ごすようになった田村麿だったが、子供が産まれたとて油断するまいと、渡り鳥に文を託して内裏に送らせた。その文には、鈴鹿山での近況を記すとともに「来たる8月15日に魔女を連れて参内するので そこで捕えよ」と記しておいた。これを見た帝は行方知れずになっていた田村麿の無事を知って喜んだという。
しかし、立烏帽子は通力で田村麿の心を見抜いていたので「数年一緒に過ごして来た私を討とうとするとは何事か」と腹を立てたが、その一方で「宣旨を果たせねば、将軍としての夫の恥となる」とも考えて、敢えて田村麿の参内に同行することにした。その時、神通の光輪車に乗って鈴鹿山から空を飛んで内裏に向かうと 田村麿は立烏帽子を連れて帝に拝謁した。そこで立烏帽子は、帝に美しい自らの姿を披露して「来月になれば明石の高丸という鬼神が現れる。宣旨があれば私も御伴しよう」と約束した。
田村麿と立烏帽子の高丸退治
その翌月、立烏帽子の予言した通りに、近江国の蒲生ヶ原に明石の高丸(あくしのたかまる)という鬼神が棲み着いて民に害をなしているという奏聞があり、これによって田村麿に高丸討伐の勅命が下った。そこで田村麿は2万騎の軍勢を率いて近江国に向かい、蒲生ヶ原で高丸との戦いを始めた。
その戦いは田村麿に優位に進んだため、やがて高丸は常陸国の鹿島浦に逃走した。田村麿がそれを追撃すると、高丸は攻められるたびに逃げていき、やがて唐土と日本の境にある筑羅ヶ沖に逃げ込んだ。そこは海だったので分が悪かったが 田村麿が果敢に攻めさせたので、次第に軍兵は疲弊して とうとう200騎まで減らされてしまった。
そこで、田村麿は兵の補充や軍船の用意などをするために一旦都に引き上げることにし、途中で伊勢国の山田に宿をとって、そこで兵を休ませることにした。すると、田村麿の枕元に立烏帽子がやって来て「高丸は筑羅ヶ沖のだいりんが窟に籠っているので、私が手を貸して易々と討たせよう」と言ったので、田村麿はすべての兵を都に帰らせて、立烏帽子と二人で神通の車に乗って筑羅ヶ沖に向かった。
そこには高丸の籠った岩屋があったので、田村麿が「さて、あの岩屋からどうやっておびき出すのだ」と問うと、立烏帽子は扇を持って天から12の星を招き、妙な音楽を奏でさせて星の舞を舞った。すると、高丸の娘が関心を示したので、高丸は「あれは敵が我らを謀ろうとしてやっているのだ」と諌めたが、娘が聞かずに岩戸を少し開けて舞を見ているので、高丸も気になって目を出したところ、田村麿が神通の鏑矢を射放って高丸の右目を射抜いた。
そこで隙ができたので、田村麿は 素早丸、立烏帽子は 大通連 小通連 釼明連 という4本の剣を使って鬼どもの首を残らず討ち取った。この後、高丸の死骸は肥前国(あるいは備前国)に送られ、塚を築いてそこに鎮め祀った。これが肥前一宮(あるいは備前一宮)となったという。
田村麿と立烏帽子の大嶽丸退治
それから二人は伊勢国に戻ったが、ここで立烏帽子が「これから例の大嶽丸が、田村将軍と組んで高丸を討ったことを憎んで、必ず私を取りに来るだろう。そこで、まずは帝に高丸討伐を報告すべし。この大嶽丸は高丸よりも数倍の力を持った強力な鬼だが、私の計略を以って易々と討たせてやろう。よって、その時は名馬に乗って下向し、大嶽丸を討ち給え」と言うので、田村麿は了承して立烏帽子と別れることにした。
その後、立烏帽子の元に大嶽丸がやって来て「我に背いて田村に味方するとは何事か、我に従わぬのであれば微塵にしてくれよう」と言うので、立烏帽子は「私にそなたを背く気はない。共に陸奥国に下ろう」と言って大嶽丸に付いて行った。
それから3年後、田村麿に「陸奥国の霧山に大嶽丸という鬼が現れて、達谷窟を根城にして民を害しているので行って討伐せよ」との勅命が下されたので、東海道の奥羽街道に沿って陸奥国に向かい、国分薬師、龍門の山寺で戦勝祈願をした。このとき、立烏帽子は通力で田村麿が陸奥国に向かっていることを察知し、大嶽丸の留守中に眷属を捕縛して田村麿を待った。
田村麿が達谷窟に着くと、立烏帽子が迎え入れて「大嶽丸の500人の眷属は既に通力にて捕縛した」と告げた。やがて帰ってきた大嶽丸が「賤しき者の死骸を見れば我の大望は邪魔されるだろう。我は立烏帽子に溺れて三明六通を失ってしまった。よって、神通力を改めた後に都に上って帝を微塵にしてくれよう」と話して霧山に向かっていったので、立烏帽子は「大嶽丸は霧山に3日籠れば三明六通を取り戻してしまうので、急いで討つべし」と言って、田村麿と共に霧山に向かった。
霧山に向かった二人は4本の剣で戦うと、やがて大嶽丸は霧山の天上に飛び上がって箟嶽山の麒麟ヶ窟に逃れて行ったので、田村麿は観音に祈念して大嶽丸を追った。そこで観音の力を得た田村麿は大嶽丸の身体を4つに斬って倒したが、大嶽丸の首は飛び上がって出羽と奥羽の境の鬼首に落ちたという。
立烏帽子の死
その後、二人は神通の車に乗って鈴鹿山に戻り、田村麿が上洛しようとすると、立烏帽子は「私は鈴鹿山に来てから25年経ったので、今年で寿命を迎えることになる」と告げたので、田村麿は涙を流して悔しがり鈴鹿山に留まろうとしたが、立烏帽子が励まして都に報告するように告げたので、田村麿は都に上って大嶽丸の討伐を報告した。
すると、帝は「大嶽丸を退治した地を祭祀せよ」と勅命を下したので、田村麿は霧山に寺を建て、達谷窟に毘沙門天、箟嶽山に千手観音を祀って、再び上洛し、それから鈴鹿山に戻ってみると、そこには立烏帽子が横たわっていた。そこで立烏帽子は「私の身体は身罷って3年になる。我が宝剣を日本に納め、正林のことを頼む」と言って、死体のように変わり果ててしまった。
その後、田村麿は立烏帽子の死を嘆き悲しみ、その悲しみの余りに死体の手を握りながらあの世に旅立ってしまった。こうして冥土に赴くと、閻魔大王は「女は定業なので火中地獄に行くが、お前はまだ死ぬ時期ではないので、早々に立ち去れ」と言った。これに田村麿は「立烏帽子を返すまで帰らない」と聞かなかった。
これに困った閻魔大王は獄卒に「立烏帽子を返してやれ」に命じたが、獄卒は「立烏帽子の肉体は既に無くなっています」というので、閻魔大王は「ならば今年に死んだ小松前をいう女の身体を身代わりとせよ」と命じた。田村麿もこれを了承したので、冥土から自分の肉体に帰り、目覚めると何もない鈴鹿山の中で正林を抱いていた。
この後、田村麿は正林と都に上って大通連と小通連の2本の剣を帝に献上して事情を話すと、帝の宣旨で近江国から小松前の親子の呼ぶことになり、小松前はそのまま田村麿の妻となった。その後、田村麿はあちこちで悪魔を退治して天下の大将軍と仰がれるようになり、96歳で天命を迎えて田村大明神として祀られるようになった。また、小松前は113歳で天命を迎えて清瀧権現となった。また、正林は93歳まで生きて地蔵菩薩となった。こうして3人は死後も神仏となって衆生を導いたという。
主要な登場人物
・利春(としはる):利光の父で、早熟で笛の名手だった
・星丸(ほしまる):利春の幼名で、隕石から産まれた
・利光(としみつ):田村麿の父で、奥州の蝦夷を鎮圧した
・大蛇丸(おろちまる):利光の幼名(星の子と大蛇の間の子)
・悪玉(あくたま):田村麿の母
・田村麿(たむらまろ):利光の子で、様々な鬼神を討伐した
・千熊丸(せんくままる):田村麿の幼名(利光と悪玉の子)
・坂上田村麿利仁(さかのうえのたむらまろのとしひと):田村麿の正式名称
・立烏帽子(たてえぼし):第四天魔王の娘で、田村麿の妻となった
・正林(しょうりん):田村麿と立烏帽子の娘
・繁井ヶ池の大蛇:利光の母
・高丸(たかまる):近江国の鬼で、田村麿と立烏帽子に討伐された
・大嶽丸(おおだけまる):陸奥国の達谷窟に棲んでいた大鬼で、田村殿と立烏帽子に討伐された
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