珍奇ノート:良源(元三大師) ― 魔除けの護符となった高僧 ―

良源(りょうげん)とは、平安中期の天台宗の高僧で元三大師(がんさんだいし)と通称されている。

法力を使って夜叉に化身したという逸話があり、その姿を描いた護符には魔除けの効験があるとされている。


基本情報


概要


珍奇ノート:良源(元三大師) ― 魔除けの護符となった高僧 ―

良源は平安時代の天台宗の高僧で、諡号は慈恵(じえ)、命日の正月3日に因んで元三大師と呼ばれることが多い。

延喜12年(912年)に近江国浅井郡で木津氏の子として生まれ、観音丸(日吉丸)と名付けられた。これについては「子宝に恵まれなかった母が観音に祈願したところ、日輪が懐中に入る夢を見た後に懐妊した」という逸話があり、幼い頃から霊童だったといわれている。

12歳で比叡山延暦寺に入門し、17歳で受戒して良源という僧名を賜った。26歳の時に興福寺維摩会の番論議で法相宗の義昭を論破したことで名声をあげ、これによって関白の藤原忠平に認められることになったという。また、忠平の子である藤原師輔と師檀関係を結び、摂関家の後援を得られるようになったとされる。

この他にも様々な功績を残したことで、55歳という若さで天台座主(天台宗の最高位)に上り詰め、当時 火災で焼失した比叡山延暦寺の諸堂伽藍を再興したことにより、延暦寺中興の祖として崇敬されるようになった。その後、行基に続いて史上2番目の大僧正となり、永観3年(985年)1月3日に74歳で入滅したとされている。

上記の他にも良源には異彩を放つ逸話が多く、女官の酒宴に誘われた際に法力を使って鬼や魔物に化身して抜け出したという話や、疫病を追い払うために自ら2本角を生やした夜叉に化身したという話などがある。この夜叉となった良源の姿を描いた護符は魔除けの効験があるといわれており、このことから民間で「厄除け大師」として信仰されるようになった。ちなみに、この護符は今でも天台宗の寺院などで授与されている。

また、良源はおみくじの祖としても知られており、その発祥の地は比叡山の元三大師堂だとされている。そのおみくじは、まず僧侶に自分の願いや悩みなどを伝え、次に僧侶がおみくじを引き、最後に僧侶がおみくじに書かれている内容を伝えて教えを授けるというものになっており、現在のいわゆるおみくじとは別物となっている。

鬼大師
珍奇ノート:良源(元三大師) ― 魔除けの護符となった高僧 ―

元三大師の護符や木造には「鬼大師」という鬼のような姿のものがある。これは「若い頃に容姿端麗だった良源(元三大師)が宮中の女官に酒宴に誘われた際に、法力を使って鬼に姿を変えて その場を逃れた」という逸話に基づいており、その時の姿を現しているとされる。その逸話は以下のような内容になっている。

ある春の日、御所に行った良源が庭園の桜を見ながら散策していたところ、酒宴をしている女官に誘われて無理矢理その席に引っ張り込まれた。そこで良源は「得意の百面相を見せましょう」と言って、準備ができるまで女官たちに顔を伏せさせた。

しばらく後に顔を上げさせると、そこには良源ではな恐ろしい姿の鬼がいた。その姿は、二本角が生えており、両眼は見開かれて雷光を放ち、口は耳まで裂け、右手に独鈷を持ち、左手で力強く膝頭を押さえつけている、といったものだったという。これを見た女官たちは驚いて再び顔を伏せ、それから恐る恐る顔を上げてみると、そこには良源も鬼も居なくなっていたという。

角大師(降魔大師)
珍奇ノート:良源(元三大師) ― 魔除けの護符となった高僧 ―

元三大師の護符には「角大師」と呼ばれる角の生えた大師像を描いたものがある。これは「良源(元三大師)が夜叉の姿に身を変えて疫病神を追い払った」という逸話に基づいており、その時の姿を現しているとされる(これによって良源は「降魔大師」とも呼ばれている)。その逸話は以下のような内容になっている。

良源が73歳の時、夜更けに瞑想をしていたところ、何かが居る気配を感じたので「何者だ」と尋ねると、それは「私は疫病を司る厄神である。今、天下に疫病が流行しているが貴方もこれに罹らなければならないので、身体を侵しに来たのだ」と答えた。これを聞いた良源は逃れられない因縁と捉えて、左の小指を差し出して「これに憑いてみよ」と言って憑かせると、忽ち高熱が起こって尋常でない苦痛を感じたので、良源は法力を使って身体に入った疫病神を弾き出した。すると、疫病神は逃げ出して、良源は快復したという。

そこで良源は弟子たちに全身の映る鏡を用意させ、その前に座って瞑想に入ると、鏡に映った良源の姿が次第に変化していき、やがて頭から角を生やして骨が浮き出た鬼のような姿になった。これを見た弟子たちは恐ろしさのあまりにひれ伏したが、気丈な明普阿闍梨は恐ろしい良源の姿を見てこれを描き取った。この絵を見た良源は満足して、すぐに版木に彫り起こさせ、それで御札を摺るように伝えた。それから良源は摺り上げられた御札に加持を施して、麓の家々に配り歩き、これを門戸に貼るように教えた。すると、御札を貼った家だけは疫病を逃れられたという。

豆大師(魔滅大師)
珍奇ノート:良源(元三大師) ― 魔除けの護符となった高僧 ―

元三大師の護符には「豆大師(魔滅大師)」という紙に33体の大師像を描いたものがある。これは大師が観音の化身であり、観音が「あらゆる衆生を救うために33の姿に化身する」とされることに基づくといわれている。

豆大師の由来としては、先の鬼大師の逸話のように「女官の酒宴から逃れるために小さな魔物に身を変えた」というものや「百姓の田を救った」という以下のような逸話がある。

寛永年間(1624~1645年)に大阪の百姓が比叡山に参詣して元三大師に豊作を祈願していたところ、俄に大雨が降り始めたので百姓は豊作祈願どころではなく自分の田の様子が気になって仕方がなくなった。そこで、寺僧に心中の心配事を明かしたところ、寺僧は「せっかく豊作祈願に来ているのだから一途に大師に祈るように」と助言した。これを聞いた百姓は元三大師を信じて熱心に祈ったることにした。

それから百姓が急いで帰ると、村に近づくにつれて大雨の被害が目につくようになった。そのため、自分の田も無事では済まないだろうと半ば諦めながら様子を見に行くと、周辺は荒れ果てた様子だったが自分の田だけは無事だった。そこで、近くの村人に話を聞いてみると「30人あまりの若者が手に農具を持ってやって来て、手際よく水を汲み出した」と言うので、不思議に思って その時刻を確かめてみると、自分が大師に祈っていた時刻と一致した。

そこで、百姓が再び比叡山に参詣して寺僧に この出来事を話すと、寺僧は「大師は観音様の化身であるから三十三身になぞらえて33人の童子に身を変えて救ってくださったのだろう」と答えた。これにより、33体の小さな大師を御札に描き、豆大師と呼んで貼られるようになったという。

データ


種 別 実在の人物
資 料 『元三大師縁起』『元三大師御鬮繪抄』ほか
年 代 平安時代
備 考 天台宗の寺院で護符が授与されている