鍾馗【ショウキ】
珍奇ノート:鍾馗 ― 中国由来の魔除けの神 ―

鍾馗(しょうき)とは、中国の民間伝承で伝わる魔除けの神のこと。

鍾馗図には魔除や疫病除の力があるといわれ、護符や木札として授与する社寺もある。


基本情報


概要


珍奇ノート:鍾馗 ― 中国由来の魔除けの神 ―

鍾馗は中国の民間伝承で伝わる道教系の神で、唐の皇帝の玄宗が瘧(マラリア性の熱病)に罹った際に鍾馗が小鬼を駆逐する夢を見て、目覚めた後に病が治っていたという逸話がある。これによって「鍾馗図」が制作され、これを魔除けとして元旦や節句の時に飾るという風習が起こったという。なお、その逸話は以下のようになっている。

唐の6代皇帝である玄宗(ゲンソウ)が病で伏せている時に2匹の小鬼が出てくる夢を見た。その小鬼たちは宮廷内で扇を振ったり、香袋や玉笛を盗むなどの悪戯をしていたので、玄宗が「何者だ」と叱責すると小鬼は「虚・耗(キョ・モウ)である。虚は空虚で人の物を盗んで戯れとなす。耗は人家の喜事を減らして憂いをなす」と答えた。

すると、そこに破帽に藍袍といった姿の大鬼が現れて小鬼を捕えて食ってしまった。そして、大鬼は「私は終南山の進士で鍾馗(ショウキ)という。武徳年間(618~626年)に官吏になるべく科挙(官僚登用試験)に応募したが落ちたので、故郷に帰るのを恥じて宮中で自ら命を絶った。この時に縁袍を賜って手厚く葬られたので、その恩に報いて今は天下の虚耗妖孽(貧困・疾病・災禍など)のことを除くのみである」と告げた。

そこで目覚めた玄宗は、自分の病が癒えていることに気付いたので、すぐに画家の呉道子を召して鍾馗の像を描かせた。これを見た玄宗は「これこそ鐘道の権輿である」と喜んだ。その当時、大神が槌を持って小鬼を打ち殺す図があったが、この槌を終葵と称し、鍾馗の文字を宛てる「鐘道進士伝(鍾馗図)」が作られるようになった。また、虚耗は貧神であったので、これを駆逐するという意味で元旦に「鍾馗図」を掲げる風習が起こったという。

その後、鍾馗は日本に伝わって漢画の画題として描かれるようになったといわれている。また、江戸時代頃から民間でも魔除けになるといわれるようになり、関東地方では五月人形にしたり、近畿地方では屋根に鍾馗像を飾る風習が起こったとされている。この屋根に鍾馗像が飾られるようになった契機として以下のような説話がある。

昔、京都三条の薬屋が新しく店を構えた際に大きくて立派な鬼瓦を葺いたところ、向かいの家の女房が原因不明の病に倒れてしまった。その原因を探ると、薬屋の鬼瓦に跳ね返された悪いものが向いの家に入ったということが分かったので、鬼より強い鍾馗の像を伏見の瓦屋に作らせて、魔除けに据えると女房の病が完治したという。

鍾馗が日本で広まってからは 魔除・疫病除・学業成就 などの神として信仰されるようになり、貧窮を招く小鬼を退治したことから貧乏神除けの神としても信仰されることがある。今でも、この鍾馗図を授与物とする社寺は全国にいくつかあり、京都市東山区にある若宮八幡宮社の境内には鍾馗を祀る鍾馗神社がある。

朱鍾馗
珍奇ノート:鍾馗 ― 中国由来の魔除けの神 ―

朱色(または赤色)には魔除けの力があるとされており、鶏のトサカの地を朱に混ぜて描いた鍾馗は朱鍾馗と呼ばれている。この朱鍾馗には強力な病気除けの力があるといわれ、中国では5月5日に門戸に貼られたという。この風習が日本にも伝わり、江戸中期には疱瘡(天然痘)除けとして用いられたとされている。

ショウキ祭り
珍奇ノート:鍾馗 ― 中国由来の魔除けの神 ―

新潟県東蒲原郡阿賀町には毎年2~3月頃に「ショウキ祭り」と呼ばれる伝統行事が行われる。この行事では鍾馗様と呼ばれる巨大な男根を持つ藁人形を作り、これを集落のはずれに祀って 五穀豊穣・家内安全・無病息災・子孫繁栄・厄除 などを祈願するといったもので、県の無形文化財に指定されている。

データ


種 別 神仏、鬼
資 料 『後素説』ほか
年 代 唐代(8世紀頃)
備 考 魔除けの神として知られる