珍奇ノート:御伽草子『田村の草子』現代語訳



はじめに(翻訳内容に関する注意点)


以下の文章は、室町時代成立の御伽草子『田村の草子』の原文を読んで、勝手に現代語に「意訳」したものです。なるべく原文に忠実に訳すよう務めましたが、分かりづらいところに関しては多少の省略や加筆修正を行っています。また、専門家ではない素人が訳したものなので、翻訳の誤りや抜け落ち、誤字脱字などがあるかも知れません。そういった点に注意して読んで下さい。なお、サブタイトルは物語を見やすくするために勝手に付けたものです。

たむらのさうし 上巻


日龍丸の誕生


天皇の御代となり、度々の将軍が家督を継いだが、その中でも俊重将軍の御子の俊佑は、春は花見、秋は月夜を楽しみ、詩歌・管弦に心がけ、色と酒を好み、酒宴を旨とするような性格であった。それで、16歳から50歳に至るまで464人の女と交わったが、誰一人として妻にしなかったので、一人の御子も居なかった。

俊佑は50歳を過ぎてから、ふと自分の余命を考えてみれば20年程度だと思うようになり、このままでは自分の菩提を弔う者も居なくなると将来を憂い、田舎で死ぬのは心残りだということで、都を守護するためという名目で急いで上洛した。その頃は季節が秋だったので、嵯峨野に遊びに出て野山の風情を楽しんでいると、どこの誰とも知れぬとても美しい女が月に向かって和歌を詠んでいた。俊佑はこの様子にとても感動したが、このような高貴に見える女が付人も従えずに一人で居ることを怪しく思い、これは天魔鬼神の類が自分を騙そうと謀っているのではとも思ったが、それでも良いと返歌を詠むと、意気投合して同じ車に乗せて帰り、そこで契りを結ぶと、程なくして女は懐妊した。

とても喜んだ俊佑は、御産の準備について女と相談すると、女は赤子は3年後の正月に産まれると言うので、建築に2年かかるほどの壮麗な産屋を建てさせた。出産時期が近づくと、女は俊佑に「産屋に入ってから7日目までは人を近づけてはなりませんが、8日目には必ず訪ねてください」と言い聞かせて産屋の門を閉めた。俊佑は言われた通りに待っていたが、1日待つごとに千年経ったと思えるほど長く感じられるので、待ち遠しくて7日目に覗いてしまった。すると、中には日月に見えるほどの大きな眼を持った100尋(151.515m)ほどの大蛇がおり、2つの角の間に計3歳になる美しい御子を乗せて紅い舌で舐り合って遊んでいた。

その大蛇は「8日目に御子を抱いて迎えようと思っていましたが、7日目に覗かれたので、やがて日本の主となるよう奉るはずだったのに、私の本体を見られてしまったので叶わなくなりました。ですが、天下の大将軍として活躍するでしょう。この若君は日龍丸と申します。若君が3歳になる年に俊佑殿は死ぬでしょう。7歳になる年に帝より大事な宣旨を受けるでしょう。私は益田ヶ池に棲む大蛇です」などと語ると、かき消すように失せていった。

日龍丸の大蛇退治


俊佑は御子を3年間育てた後に亡くなり、やがて日龍丸が7歳になると帝から宣旨が下った。その内容は「近江国の見馴川という所に倉光(くらみつ)・喰介(くらのすけ)という2匹の大蛇がおり、昔から通りかかる者を喰っていたので、人々は恐れて通らなくなった。そこで急ぎ行って大蛇を滅ぼせ」というものだった。日龍丸は乳母から家宝の「角の槻弓」と「神通の鏑矢」を授かり、500余騎の軍勢を率いて勇んで川へと下っていった。

見馴川に着くと、日龍丸は大声で「大蛇よ然と聞け、私は君の仰せに従って此処までやって来た。さあ出てこい」と言うと、川浪が高く立ち上がって凄まじい風が吹き、500余騎の軍兵を水の泡のように一度に流して皆死んでしまった。日龍丸は一人残されたので、あまりの出来事に仏神に「日本の主である君の名において、願わくば川浪を止めて水を干し、大蛇の形を見せ給え」と祈ると、願いが届いたのか川浪は止み、100尋ほどの2匹の大蛇が現れた。

そこで、大蛇は「お前は知らぬだろうが、我はお前の伯父である。お前の母、益田ヶ池の大蛇は我が妹である。我がこの川に棲むこと2500年、わずか13歳で我の相手になるわけがあるまい。刃向かえば微塵となり、口から火炎を吐き出せば山も川も一度に熱鉄の海になるだろう」と言った。しかし、日龍丸は少しも騒がず、授かった角の槻弓に神通の鏑矢をつがえて散々に放つと、たちまち大蛇は滅んだので、その首を取って雲に乗って都に帰っていった。帝が首を確認すると、日龍丸は将軍の宣旨を受けて、俊仁将軍と名を改めた。

帝の嫉妬と大蛇の祟り


俊仁が17歳になった時、ある夕暮れに雁の夫婦を眺めていると、ふと妻が欲しいと思うようになった。そのとき、天下をときめく堀川中納言の姫君である照日御前が天下一の美人という噂を聞いて、俊仁は乳母の左近助を伝手に恋文を送り、いくつかのやり取りを経て恋仲になり、忍んで契りを結ぶようになったが、これに嫉妬した帝は歌合という名目で俊仁を呼び出し、そこで返しに及ばすとして、俊仁は伊豆国に流されることになった。

俊仁は悔しく思いながらも伊豆に向かい、その途中で近江国の瀬田橋を渡ったところで橋板を踏み鳴らしながら「どうして私が流人となって東国に下らねばならぬのだ。以前に見馴川で殺した大蛇どもよ、魂魄があるのならば都に上って心のままにするが良い」と言い捨てて下っていった。すると、都の周辺で人が神隠しに遭うことが多くなったので、天文博士に占わせると「俊仁将軍を召返さなければ、この怪異は鎮まることが無いでしょう」と言うので、帝は俊仁に赦免の綸旨を下して都に復帰させた。これを受けた俊仁が再び瀬田橋を通ると、その日から都で怪異は起きなくなったという。この後、やがて俊仁と照日御前は結ばれて二人の姫君を儲けることになった。

俊仁の悪路王退治


ある時、俊仁が参内すると、土風が荒く吹き上がって照日御前を天に連れ去ってしまった。俊仁は急いで我家に帰って嘆き悲しみ、せめて夢の中ででもひと目逢いたいと床に就くと、夢に12,3歳ほどの3人の童子が現れて、1人の童子が「日本は粟散辺地の小国なると言えども神国であるゆえに、人の心は素直にして長久なり。しかし、慢心の心あれば天魔の災いがあると言い伝えられることこそ誠に不思議である。俊仁将軍は弓矢の誉れ、世に優れ、鬼神も恐れ従うほどの人であるので、このように寵愛する妻を土風に取られて嘆き悲しむとは、あれ程の武将と言った甲斐がない」と笑って言った。すると、2人目の童子も「誠に海山を逆さにしても、取り返せなければ生きる甲斐もないだろう」と言い、最後に3人目の童子が「しかし、行方が分からなければなるまい。俊仁ほどの者が天狗どもを捕えて問えば、恐れて居場所も言うだろう」と笑って言った。

目覚めた俊仁は辺りを見渡したが、そこには誰も居なかった。なので「さては仏神のお告げだろう」と有り難く思い、八幡大菩薩に起請を申し上げようと、まずは愛宕山に登って恐惶坊(きょうこうぼう)を尋ねると、一瞬の間に宮殿、楼閣、玉台に到り、やや待つと、80歳余りの老僧が弟子に手を引かれてよろよろと出てきて、何の御用かと尋ねてきた。そこで、俊仁がこれまでの出来事を説明すると、恐惶坊は「ここから帰る間に伏木がある。ここまで行けば答えが分かるだろう」と言い捨てて、かき消すように失せた。

そこで、急いで帰ってみると、言われた通りに谷川に横たわる大木が橋になっていた。俊仁がこれを踏み鳴らして答えを問うと、しばらくして大木が動いたかと思うと、大蛇の頭が出てきて「私はお前の母の妹です。お前の妻はこの辺りにはいません。陸奥国の高山に悪路王という鬼が取っていったのです。しかし、この鬼には凡夫の力ではとても敵いません。ですので、鞍馬の多聞天の御力を頼み、この鬼神を従えなさい。お前の母は益田ヶ池の主ですが、仮に人界に生きられたらと縁に引かれて成仏しません。よって私は未だに業因深くして赦身の思いが尽きません。私のために善根を成し、邪道の苦しみを助けなさい」と言い残して消え失せていった。

俊仁は哀れに思って1万部の法華経を読み、千石千貫の1000人の僧を呼んでくると、その功力によってやがて成仏し、それから多くの不思議な事が起こった。こうして俊仁は鞍馬へ参り、37日籠って満願を迎えると、甲冑を帯びて几帳を開き「汝、如何に遅きぞ」と諌められたので、俊仁が驚いて周りを見ると枕元に剣が立ててあった。俊仁は「されは諸願成就か」と有り難く思って、急いで陸奥国に下っていった。

その頃、妻子を失う人は数知れず、中でも二条大将殿の姫君、三条中納言殿の北の御方など、このような人々は「たとえ千尋の底であっても、居場所が分かるならば尋ねていこう」というほどの覚悟であったので、郎党に探させたり、自ら探しに行くなど、思い思いに出立したという。

数日後、陸奥国に到った俊仁は、初瀬郡田村郷へと行き着いた。その頃は7月下旬で、そこの賤の女に惹かれて一夜の情けを掛けると「もし忘形見もあるのなら、この印によって尋ねよ」と鏑矢を一本渡して出立した。そして、悪路王の城郭に近づこうと馬を走らせると、そこには 胴の築地を廻らせて 鉄の門を四方に立て 門番立たせて守りを固めている様子が見えた。また、東の門前に忍び寄って見れば、15歳ほどの女童が泣きながら門外にたたずんでいたので、素性を尋ねてみると「美濃の前司の娘で、13歳でここに囚われて3年になります。門守りの女と定められているのです」と言って泣き出した。

これを聞いた俊仁は女童を都に連れて帰ろうと思ったが、まずは最も気になる妻のことを尋ねてみると、女童は「詳しくは知りませんが 2,3日前までは声が聞こえていました」と答えたので、俊仁は心細く思って「鬼は城の中にいるのか?」と尋ねると、女童は「最近、越前国の方に向かいました」と答えた。次に俊仁は「さて、この城にはどうやって入ればいいのだ?」と尋ねると、女童は「いつも龍の駒に乗って城に入り、それから門を開いて眷属どもを入れています」と答えた。

そこで俊仁は龍に乗って城に入ろうとしたが、龍は城に入ろうとせずに北に向かって行くので、俊仁は剣を抜いて「命が惜しいなら城に入れ、さもなくば たちまち命は止むだろう」と言うと、龍は恐れて城に向かって行った。そこで門を開こうとすると、盤石で少しも揺るがなかったので、俊仁は鞍馬の方を伏し拝んで「願わくば御力添えを賜りたく思います」と念じると門を開けることができた。

やがて城内に入って様子を窺うと、数多くの女の泣き声が聞こえるので、声の方に近寄ってみると多くの女が詰められていたが、そこには三条殿の北の御方と自分の妻の姿は見えなかった。そこで事の成り行きを尋ねてみると「北の御方は2,3日前に鬼の餌食になりました」と言って、泣きながら その首を差し出した。俊仁は益々心細くなって「昨日までは奥でお経が聞こえていたが、これは何だ?」と問うと、女達は「わかりません」と言う。

そこで、多くの戸を開けてみると、そこに押し込められている妻の照日御前が居た。俊仁は妻の目を見ながら「どうした、何があった」と尋ねると、やや待って、妻は「まず生きて逢えたことを嬉しく思います。私は明日にも鬼の餌食になるところでした。ですので、一筋に後世菩提を頼み奉っていたのです。鬼が帰ってくる前に早く来てほしいと」と言って涙を流した。俊仁は「ここまで尋ねて参ったのも、同じ道だと思ったからである。どうして帰ることができようか。さて、鬼どもが帰る時に何か印はあるか?」と言うと、妻は「鬼どもが城に近づくと、たちまち空は曇りだし、雷鳴が轟いて、車軸のような雨が降ります。そして城まで7里に入ってくると、鬼の声が聞こえてくるでしょう」と言った。

また、俊仁が「鬼はいつ帰ってくるのだ?」と問うと、妻が「明日の今頃に帰るはずです」と言うので、その間に鬼どもの住処を見て回ろうと捕まった者たちと語らい、城内を探ってみると、大きな桶がたくさん並べてあった。これを見ると、人間が鮨(すし)にされて置いてある。また、その傍らには14,5歳ほどの稚児が合わせて串刺しされていた。まら、尼法師の首を2,300ほど数珠つなぎにしてあり、それが軒下に掛け並べられていた。これを見て恐れる者も多かった。

こうして時が過ぎると、にわかに空が曇りだし、雷鳴が光り飛び交い、鬼の声が山を崩すように聞こえてきた。他の人々は生きた心がしないと言っていたが、俊仁は鬼が帰ってくるのをじっと待った。悪路王が城の近くに来ると、門守りの女童が居なくなっていることに気づいて「我が留守に何者かが来たようだ。者どもよ、睨み殺せ」と言うと、そこに1800の眼が光り、それは火炎が飛び交うように見えた。

しかし、俊仁の頭上の日月が天下り、俊仁の眼となって鬼どもを睨んだので、鬼どもは睨み負けて血の涙を流した。そのとき、多聞天より授かった剣を投げると、それは鬼の首は皆落としていった。これに人々は勇気づけられて、皆で俊仁を伏し拝んだ。こうして俊仁はさらわれた人々を救い出し、それぞれの故郷に帰してやった。これに万民はとても喜んだが、妻を失った三条中納言殿は嘆き悲しんだという。こうして将軍は思いのままに鬼神を従えて都に凱旋した。

田村丸の誕生


一方、俊仁が途中で立ち寄った田村郷の賤の女の腹には俊仁の子が宿っており、やがて男児が生まれた。その名を臥(ふせり)という。この子は9歳より近くの山寺で学問に励んで算術を身に着け、10歳になると自分に父が居ないことを案じて、母に「私の父はどこにいるのですか?」と尋ねると、母は涙を流しながら「あなたの父はこの国で鬼神を従えた俊仁将軍です」とありのままに語り、例の鏑矢を取り出して見せると、臥は「ならば都に上って父と逢いましょう」と言って、20日あまりの道のりを夜も休まずに進み、3日で都について、俊仁の屋敷の前で休んだ。

その時、鞠遊びをしていた俊仁が篝の外に蹴り出すと、臥はさらりと受けて思いのままに蹴り遊び、また元通りの場所に蹴り返した。その様子を見ていた俊仁は只者ではないと思って「何者だ?」と素性を尋ねたが、臥は答えなかった。そこで俊仁がさらに問いただすと、臥は黙って鏑矢を抜き出し、俊仁の前に置いた。これを見た俊仁は「さては我が子だな」と嬉しく思い、様々な饗した後に田村丸(たむらまる)という名を与えた。田村丸は才器や人柄に優れており、その力量は計り知れなかった。田村丸は、やがて元服を迎えると稲瀬五郎坂上俊宗(いなせのごろうさかのうえのとしむね)と名を改めた。

俊仁の唐土侵攻


その後、俊仁が55歳になった時に「つくづく思っていたが、この日本は小さな国だが、唐土に渡って切り従えれば、末代までも名を残すことになるだろう」と思い、時の関白に奏聞すると唐土侵攻を許されたので、俊仁は喜んで3000艘の船に50万の騎馬を乗せ、神通のものを備えさせて2月の末に出航した。

そこで、俊仁は「私ほどの者が渡るのだから、まずはその印が無くては願望も叶うまい」として、神通の鏑矢を一本射ると、その矢はミヤウジユウの津に留まって7日7夜響き渡った。これに驚いた唐の人々は騒ぎ立てて門を閉じた。唐の博士は「日本の将軍はこの国を従えようとしてやって来たのだろう。日本は粟散のごとき小国だが、人の知恵が深くて忠実である。その上、神国として弓矢の謀を得ている。どうして凡夫の力で防ぐことができようか。仏力に頼る他無し」と言い、恵果和尚に100,1000万の不動明王、矜羯羅童子、制多迦童子を引き連れてミヤウジユウの津にて侵攻を防いだ。

この様子を見た俊仁は「何事だ?お前は何者だ?我が矢先にはとても敵うまいぞ、速やかに撤退せよ」と言ったが、不動明王は「汝、小国の臣として大国を従えようとすること、思いも寄らず。急ぎ本朝に帰るべし」と言って、降魔の利剣から光を放ち、これを振るった。これに俊仁も神通の剣を抜いて戦うと、降魔の利剣は争いに負けて、不動明王は次第に後退していった。不動明王は敵わぬと思い、金剛童子を日本に遣わせて、鞍馬の毘沙門天に「俊仁という者が唐土を従えようと押し寄せている。大方防いだが、このままでは敵わぬだろう。願わくば、この度の合戦において俊仁に威力の落とし、我に力を添え賜りたく思う」と告げさせると、多聞天は「どうして日本の大将に不覚を取らせなければならぬのだ。早々に立ち去れ」と言うと、俊仁の力は益々強くなり、剣も光り輝いた。

不動明王は このままでは敵わぬとして、瞬く間に自ら鞍馬に向かうと「全くこの国を敵とは思えぬが、俊仁に負けようものなら、仏力も廃れて信じる者も居なくなるだろう。そうすれば邪道の鬼神が力を得て、衆生を困らせることは間違いなし。願わくば、俊仁の怪力を落とし給え」と言うと、多聞天は「この国は仏法が盛んであるため、仏神が力を添えるのである。これは日本の賢臣や帝王が守っているからこそである。これを失うわけにはいかぬ」と答えた。そこで、不動明王は重ねて「ここで俊仁が失われたとしても、我が日本に渡って俊仁のように王法を守り、仏法繁盛の国としよう」と言うと、毘沙門天は「俊仁に替わって日本を守護し、衆生を助けるという仰せは嬉しい限りである。そうであれば、急ぎ帰って俊仁を討つが良い」と言うと、不動明王は大いに喜んで戦場に帰ると、そこで俊仁の剣は光を失い、不動の利剣に打ち負けて3つに折れて霊山へと舞い上がっていった。

その時、俊仁は無念に思い、不動明王の船に飛び移って組み合って戦ったが、不動明王の利剣が振り下ろされた時に俊仁は首を落とされてしまった。そこで不動明王は首を取り、矜羯羅童子、制多迦童子と共に唐土に帰っていった。これにより、俊仁の軍は敗れ去り、3000艘の船は波風に吹かれて海を漂い、その中でも俊仁の死骸を積んだ船は人に知らせようと辛うじて博多の浦に辿り着いた。俊宗(田村丸)は、俊仁の訃報を聞くと急いで博多に下り、死骸を検めた後に弔って 泣く泣く都に帰っていった。

田村丸の霊仙退治


それから年月を経ると、大和国の奈良坂山に金礫(かなつぶて)を打つ化生の者が現れて、都に貢物を運ぶ者を襲って品々を奪い取るので、多くの者が命を落とした。そこで帝は田村丸を召して「この化生の者を従えよ」と宣旨を下すと、田村丸は承り、500余騎の軍勢を率いて奈良坂山に向かった。この化生の者は霊仙(りょうせん[りやうせん])といい、田村丸は霊仙を捕える計略として、数多くの綺麗な小袖を川で濡らして木々に掛け並べて待っていた。

しばらくすると、身の丈2丈(6.06m)余りの法師が現れた。その姿は、まかふら高く、頬骨いかり、誠に恐ろしい有様であった。その法師は高い所に駆け上がって、とても珍しい様子で この山を通ると、木々に掛けられた小袖を見て「ほう、この法師を謀るというのか、よしよし、それならば手並みの程を見せてみよ。尚更良い物があれば残さず出すべし」と言ってあざ笑った。そこで田村丸が駆け寄って「これは帝に贈られる物である。私の命がある限り手に入ると思うな」と言うと、法師は「身なりは立派だが、華奢で口も悪い奴め。この金礫を以って勝負してやろう。これは三郎礫(つぶて)と名付けて、金目は300両、角の数は183である。さあ受けてみよ」と言って、肘を上げて一振りすると、天地が雷鳴の如く震えた。

しかし、田村丸は騒がずに扇を以ってこれを打ち落とすと、法師は次郎礫を取り出して振ってきたので、田村丸はこれも同様に打ち落とした。すると、霊仙は顔は青ざめたが、もう一つの礫を取り出して「太郎礫においては山を盾にしたとしても微塵にしてしまう物だ。金は600両、角は数知らず、唐土に500年、高麗に500年、日本に80年、この山においては3年になる。万の宝を取ることも、皆この礫の威徳である。しかし、小賢しい童を殺すのも無惨に思うが、口の悪さが故に今から暇取らせようぞ。さあ念仏を申すが良い」と言って、足を強く踏ん張って礫を打ち付けると、暗闇に100,1000の雷が一度に落ちたような衝撃があったので、500余騎の兵も皆恐れ慄いて ひれ伏してしまった。

だが、田村丸は少しも騒がずに馬を立て直し、鐙の上から霊仙の金礫を蹴落とすと、礫は鳴り静まって暗闇も晴れたので、頼みの綱を失った霊仙は、力を失って過言を悔いながら元居た山に早足で帰り去った。そこで田村丸が駆け寄り「どうだ御坊、お前の手並みは口ほどにもないようだな。私にはお前の礫ほどのものは無いが、三代相伝した鏑矢がある。これを受けてみよ」と言って神通の矢を射ると、霊仙の耳の根3寸をかすめて鳴り響いた。霊仙は元より飛行自在の者であったので、7日7夜の間 山海を駆けて逃げ回ったが、田村丸は鏑矢からは逃れられずにやがて帰ってくるだろうと考えて、春日山に陣取って霊仙を待っていた。

霊仙は7日目に帰ってきて、田村丸の御前に参り、手を合わせて「5町10町を越えて、岩石や鉄壁をも突き通し、山海に入っても耳から離れぬ、いかなる精兵と言えども そんな弓矢を扱うなど聞いたことがありません。これに懲りたので、今日より悪事はせず、命を助けていただければ、御郎等となりましょう」と泣きながら頼むので、田村丸は「お前の処分については帝の考え次第である。まずは戒めて参るべし」と言い、鉄の鎖縄で縛り上げて籠に入れ、軍勢に引かれて都に入っていった。そこで、霊仙を帝に引き渡すと、御感の申し計り無く、霊仙は船岡山にて斬られ、首は獄門に掛けられて道に晒された。やがて、田村丸は17歳で将軍に任じられ、陸奥国の初瀬郡に越前を添えて下された。こうして栄華を誇ったのである。


たむらのさうし 下巻


田村丸の大嶽丸退治


それから2年後、伊勢国の鈴鹿山に棲む大嶽丸(おおだけまる[おほたけまる])という鬼神が、行き交う人を襲うので、人々は恐れて山を渡ろうとしなくなり、この方面からの貢物が絶えてしまった。これを聞いた帝は、田村丸を召して急いで滅ぼすようにとの宣旨を下すと、田村丸はこれを受けて30000余騎の軍を起こして、鈴鹿山へと下向した。

大嶽丸は飛行自在の者で、官軍が攻めてくることを知り、鈴鹿山の峰に黒雲を立ち上らせ、火の雨を降らせたり、雷電や大風を起こして、攻め寄ることのできないようにしたので、官軍は長い間 大嶽丸を攻めあぐねていた。同じ頃、鈴鹿山の山陰に天女が天降った。その名を鈴鹿御前と言い、大嶽丸はこの鈴鹿御前に心を奪われて、ある時は童子、またある時は公卿や殿上人に化けて近づくなど、様々な謀を巡らせて一夜の契りを結ぼうとしたが、鈴鹿御前は通力によって大嶽丸の心中を見抜いていたので、全く見向きもしなかった。

一方、田村丸は どうしても大嶽丸の居場所を確かめて勝負を決しなければ と思い、諸天に祈っていた。ある夜の暁、夢に老人が現れて「この山の鬼を従えたければ、この辺に住む鈴鹿御前という天女を尋ねるが良い。この謀なければ大嶽丸を討つことはできないだろう」と教えて立ち去った。田村丸は目覚めると有り難く思い、まず30000余騎の兵を都に帰して、一人で鈴鹿山に入っていった。

鈴鹿山に着くと、夕暮れの月明かりがほのかに射し、草葉が露を纏い、虫の鳴き声聞こえるような時刻だったので、草の枕に頭を乗せて寝る準備をしていると、28歳ほどの女が玉の簪に金銀の瓔珞を掛け、唐錦の水干に紅の袴を踏みしだいて忽然と現れた。そこで田村丸は「これは大嶽丸が謀って私の心を惹きに来たのだろう」と思い、剣を膝下に隠して その女の方を見ると、女は「目に見えぬ 鬼の住処を 知るべくは 我がある方に しばし留まれ」と言って、かき消すように失せていった。田村丸は これを有り難いお告げだと思い、大神宮をはじめ、神々を伏し拝んだ。

そして、田村丸は女の行方を尋ねようと思ったが、その方法もなく ただ唖然として、大嶽丸の事など忘れて、うつつに見える女の面影を身に添えて、時間も忘れて恋路の闇へと迷い込んだ。せめて少しでも夢の中で逢えないかと、上の空で女を想いながらまどろんで眠ってしまったが、これは鬼の謀かも知れないと、正気に戻って また神々を伏し拝み「願わくば、この悪念を忘れて鬼神を従えさせたまえ」と真剣に祈って、心を澄まして見たものの、なおも女の面影を忘れられず、気がつけば「垣間見し 面影こそは 忘られね 目に見ぬ鬼は さも有らば有れ」と口ずさむ有様であった。

すると、例の女(鈴鹿御前)が現れて「早く早く、私の元へ」と誘うので、田村丸は誘われるがままに館に入り、そこで様々語らって比翼の契りを結び、しばらくの間 一緒に住んでいたが、ある夜に女が「私はこの山に狩りに来て3年になりますが、あなたはこの山の鬼神を従えようとしても きっと敵わないでしょう。私はあなたの力添えをするために仮の身で下りて来たのです。この大嶽丸という鬼は、私と契りを結ぼうと様々な手を使って言い寄って来ました。ですので、私の謀で容易く討たせましょう」と言うので、田村丸は安心して女に謀を頼んだ。

女は「ならば私の後を追ってきて下さい」と言うので、俊人は後を追って山や峰を越えて行くと、やがて大きな岩穴に辿り着いた。そこで穴の中を覗いてみると、霞が満ちており、さらに奥には黄金の甍があった。また金銀瑠璃の砂金が敷いてあり、黒鉄の門を過ぎると、白金の門が現れた。なおも進むと、金銀の反り橋が掛けてあり、まるで極楽世界のような場所であった。

田村丸はどうやって勝とうかと考えながら庭に出ると四方に四季の様子が見えた。まず東に春の景色があり、ウグイスの声が聞こえ、高根の雪は溶け、垣根の梅はいくつか散り、桜はいくつか咲いていた。また、キジの山吹は色深く、藤波が寄せ、松の枝が緑色に空に映えていた。また、南面には夏の夜の明け方のようでホトトギスが鳴きながら山を行き交い、滝が流れて、その周りにはホタルが舞っていた。また、西は秋風が吹き、木々は紅葉して野を彩り、虫の音が聞こえ、桔梗や刈茅などは今が盛りのように見えた。また、北は冬の景色であり、雪が松の梢にまで降り積もってほのかに煙を立て、池の氷上にオシドリが立ち騒いでいる。そして、巽の方には様々な鳥の羽根を葺いた館が100軒以上並んでおり、その中を覗いてみると玉の床に錦の褥を敷き、七宝をあしらった格子の中には玉の簪が掛けてある。そこには数多の女房が並んでおり、琵琶や琴を調べ、あるいは碁や双六で遊んでいた。それより奥を見ると、大嶽丸の住処と思われる屋敷があり、それは黄金の扉に白金の柱があり、一旦高く作り、氷のような剣鉾が隙間なく立ち並び、黒鉄の弓に数多の矢も用意してある。

田村丸は良い頃合いだと思って鏑矢を一本射ろうとしたが、まず鈴鹿御前に聞いてみようと思って相談すると、鈴鹿御前は「しばらく待って下さい。今気づかせればたちまち眷属どもに囲まれて討ち取られてしまうでしょう」というので、田村丸はその訳を聞いてみると、鈴鹿御前は「この鬼には、大通連(だいとうれん)、小通連(しょうとうれん)、顕明連(けんみょうれん)という三本の剣があります。この剣を持っている内は日本総出で立ち向かっても討つことはできません。大嶽丸が私と契りを結ぼうと度々寄ってきた時に語らいましたが、私はなびくことはありませんでした。ですので今夜も来ることでしょう。そこで今度は睦まじげにもてなして三本の剣を預かることにします。その後に来れば易々と討ち取れるでしょう。まずはここから帰りましょう」と言うので、一旦帰ることにした。

すると、案の定 日暮れの頃に 大嶽丸が美しい童子に化けてやって来て、鈴鹿御前の枕元に立って「岩ならず まくらなりとも 朽ちやせん 夜々の涙の 露も積もれば」と詠んで袂に顔を押し当てて泣くので、鈴鹿御前はすぐに「朽ち果てん まくらは誰に 劣らめや 人こそ知らね 絶えぬ涙を」と歌を返すと、これを聞いた大嶽丸は「これはどうしたことか、今まで千束にも重ねて文を送っても一度も返事が無かったというのに、今の一言はとても嬉しく思う」というと、鈴鹿御前は「誠ですか、目に見えぬ鬼神をも哀れと思わせ、男女の仲を和らげ、猛き武士の心を慰めるのは歌でございます。私は歌の道を知りませんので、どうしてこの君と契らずに居られるでしょうか。天晴な歌詠みでした」とそぞろに大嶽丸を褒め称えた。こうして鈴鹿御前の側に近寄った大嶽丸は「これほど尽くした心の程を哀れんで、今のような言葉を掛けてくれるとは、なんと有り難いことか」と涙を流すと、鈴鹿御前は「私も岩や木ではないので、このように想われては見捨てることもできません」と打ち解け顔で答えたので、大嶽丸も心残りの無いように色々と語り合っていると、やがて明け方になった。

そこで、別れる際に鈴鹿御前が「最近、田村丸という者が私に文を送ってくるのですが、手にも取っていません。あなたのように馴染むことができないと聞くので、どうにか憂き目に遭わせたく思います。心細く思うので、あなたの剣を私に預けてくれませんか?」と聞いてみると、大嶽丸は「その話は本当です。その田村丸という華奢な奴は曲者でして、我らをも狙っていると聞いています。ですが、この剣があれば安心できるでしょう」と言い、大通連と小通連の二本の剣を抜き出して、また大嶽丸は「さて、この剣は、天竺、摩掲陀国にて阿修羅王が"日本の仏法を盛んであるために急いで魔道に引き入れよう"と、御使に某と眷属どもを率いて参る時に、この三本の剣を賜った物です。後代までの面目として今まで この身から離したことはありません」などと話し、二本の剣を置いていくと、黒雲に乗って住処に帰っていった。

こうして田村丸は剣の話を聞き出すと、これも仏神の計らいによるものと観念した。夜が明けると、急いで用意しようと先の二本の剣を受け取りに行った。なお、あと一本の顕明連という剣は、大嶽丸の叔父の三面鬼という鬼が預かっており、今は天竺に居るのだという。また、鈴鹿御前は大嶽丸の屋敷を訪れて「今夜は鬼どもに酒を勧めてやってください」と言って大嶽丸に瓶子を贈り、鬼どもが酒に酔っていく様を見届けると、安心して討ち取れるだろうと思い、雲に乗って彼方に隠れた。

この後、大嶽丸は鈴鹿御前が隠れたのを知らずに日が暮れるまで宴を楽しみ、やがて鈴鹿御前の姿を探してうろうろしていると、そこに田村丸が立ち向かって「鈴鹿御前とは何者だ、お前は大嶽丸という曲者か?お前は知らないだろうが、私はこの日本の帝に仕え奉る田村大将軍俊宗とは私のことであるぞ。17歳で大和国の奈良坂山の金礫の霊仙という化生の者を従え、大将軍司を賜り、帝を守護し申すこと、異国までも隠れることなし。それに目の前で大悪を成すのを誰が許そうか」と言った。

すると、大嶽丸は今まで美しい童子の姿だったが、見る見るうちに身の丈10丈(30.3m)ほどの鬼神となり、日月のような眼光を見開いて田村丸を睨み、天地を響かせ、大声で「お前は粟散なる小国の帝の臣下と言うが一体どれほどの者だと言うのだ?さあ手並みのほどを見せよ」と言って氷のような剣鉾を300本ほど投げた。しかし、田村丸には千手観音や鞍馬の大悲多聞天が味方に付き、両脇に立って剣鉾を悉く払ったので、大嶽丸は激怒して数千鬼の身を成した。それは大山が動くようであった。

しかし、田村丸は騒ぐこと無く神通の鏑矢を射ると、それは数万の矢先となって鬼神の頭を目掛けて落ちていき、多くの鬼神を討ち、あるいは深手を負わせたので、鬼どもは四方に散り散りになっていった。そこで大嶽丸は微塵に散って盤石に化け、しばらくの間は矢に耐えていた。その時に田村丸が剣を投げると、大嶽丸の首はたちまち打ち落とされ、雲霞の如く押し寄せていた眷属も皆悉く消え失せていった。その後、鬼どもの首を荷車に積んで都に帰って帝に差し出すと、褒美に伊賀国を賜ることになった。

田村丸の高丸退治


この後、田村丸は鈴鹿御前への愛情が深かったことから、鈴鹿山の鈴鹿御前の元で一緒に暮らすようになり、やがて一人の姫君を儲けた。この名を聖林(しょうりん[しやうりん])という。

しかし、都から遠かったので、田村丸は時折都を思い出して「いつまでも この鄙に住んでいるわけにはいかない、忍んで都に上らねばなるまい」と心に秘めていると、鈴鹿御前はこれを恨んで「元より私は下界の人間ではありませんので、あなたの思っていることは私に分からぬことはありません。こうして契りを結んで共に暮らせるようになったというのに、早くもそのように心変わりをされているのですか」と涙を流した。

これに田村丸は「お前を想う心に変わりはないが、このように都から離れた場所に永く居れば、やがて君の御恩みも薄くなるだろう。また、都の郎等も心配であるので、一緒に都で暮らせないかと思っているのだ」と言ったので、鈴鹿御前は「その言葉は理に適っています。ですが、私は鈴鹿山の守護神となって都を守りたく思っております。あなたは急いで都に戻って下さい。もし心が替わっても私は聖林と共に暮らし、弓矢の守護神としましょう。しかし、年の暮れに近江国で高丸という者が悪事を働いて世を乱そうとするので、きっとあなたに討伐の宣旨が下るでしょう。ですので戦の準備をなさってください」と言った。

これを聞いた田村丸は「なんと残念な話だ。お前たちと共に都に住もうと思っていたのに、どうして見捨てて帰ることができようか」と言うと、鈴鹿御前は「鈴鹿山は私に任せて、まずは都に上って下さい。事を成した後にまた下ってくれば良いではありませんか」と言って田村丸を送り出した。こうして田村丸が上洛して早速 参内すると、帝の叡感があって管弦、乱舞、歌合など様々な饗しされたので、公卿や殿上人には休む暇も無かった。

こうして田村丸が弥生(3月)の末から神無月(10月)の初めまで都で遊覧していると、鈴鹿御前が言ったように 近江国に高丸という鬼が現れて、道を行き交う人々に襲いかかり、多くの者が命を失った ということで、近江国から急いで討って欲しいとの訴えが届いた。これを聞いた帝は「たまたま将軍は都に来ているが、この年は辛苦を慰めようと思っているので、残念だが討伐を任せることはできない。しかし、一体誰に仰せ付けようか」と悩んでいると、田村丸は面目を立てる好機だと思って自ら討伐を志願した。そして、鈴鹿御前に報告しようと思ったのだが、きっと既に通力で知っていることだろうということで、時間を無駄にしないために鈴鹿山に向かうのを止めた。

この後、田村丸は16万騎の兵を率いて高丸の城に押し寄せ、城内に入って周りを見てみると、石の築地を高くしており、黒鉄の門で入口が固めてあったので、すぐに攻め入ることができなかった。そこで田村丸は門前で「しかと聞け、只今 お前を討ちに来た者を何者かと思っているのだろうが、私は異国までも隠れなき藤原俊仁の嫡子である田村将軍藤原俊宗であるぞ。手並みのほどは聞いているほどでも無いようだな。早々に降参するならば命を取らずに帰ってやるがどうだ」と叫んだが、城からの返事はなかった。

これに腹を立てた田村丸は、鈴鹿御前より習っていた火界の印を結んで城内に投げ込むと、たちまち火炎が立ち上って城が焼けたので、高丸は雲に乗って信濃国の布施屋嶽に逃げていった。田村丸がこれを追っていくと、駿河国の富士嶽に逃げていった。これもやがて攻め落とすと、今度は外の浜へと逃げていったので また攻め落とすと、高丸は唐土と日本の境に行って岩をくり抜いて城を造り、ここに引き籠もった。攻めるには海を渡らなければならなかったが、田村丸は兵船もろくに調達せずに攻め入ったので、高丸に迎え撃たれて16万騎の軍勢が2万騎までに減らされてしまった。

田村丸は一旦退いて都に帰ることにし、その途中で鈴鹿山の坂の下で宿を取ると、鈴鹿御前がやって来て「どうして陣を引き上げてしまったのですか」と言うので、田村丸は「高丸を随分攻めたが、今は海上の岩をくり抜いた居城に籠っているので、兵船を調達するために都に帰ろうとしているのだ。その上、軍勢の大半を討たれてしまったので、この事も報告せねばなるまい。きっと、また攻めれば討てることだろう」と説明すると、鈴鹿御前は「兵や船をいくら集めたところで凡夫の力では敵わないことでしょう。ですので兵は都に帰し、その代わりに私が参りましょう。私が謀って易々討たせてみせましょう」と言ったので、田村丸は兵を帰して鈴鹿御前と共に神通の車に乗ると、瞬く間に外の浜に到着した。

高丸はそこで昼寝していたが、田村丸が来たのを知り、飛び起きて「また田村丸が攻めに来るぞ、用心せよ」と眷属どもに言うと、岩戸を立て岩屋に引き籠もってしまった。その時、鈴鹿御前が左手の指を立てて天を招くと、12の星から25人の菩薩が天降って妙な音楽を奏でながら、この岩屋の上で舞い踊っていると、高丸の寵愛する娘がこれを聞いて「面白い音楽だわ、天竺に居た頃は度々聴いていたのだけれど、今は聴けなくなってしまった…」などと言って覗き見ようとしたが、高丸は「きっと田村丸と鈴鹿御前が我を謀り出そうとしているのに違いない」と言って娘を止めた。

しかし、娘は音楽が気になってしょうがないという様子で岩戸を細目に開けて見たが、細目では見えないということでやがて3寸ほど開けて外を覗いてみると、そこには25人の菩薩と天童子が集まって妙な音楽を奏でて舞い踊っていたので、あまりの面白さに岩戸を開けてしまった。そこで田村丸は黒鉄の弓に神通の鏑矢をつがえて射放つと、雷のように鳴り響き、高丸の眉間を射砕いた。そこで高丸は腰骨が欠けて、体勢を崩して倒れると後ろの石に貫かれた。その時に田村丸が剣を投げると、高丸親子と7人の眷属の首が落ちた。こうして高丸を退治すると、田村丸は鬼どもの首を8人の者に持たせて都に帰り、帝に報告すると、勲功勧賞を思いのままに頂戴し、また鈴鹿山に下っていった。鈴鹿御前は田村丸の帰りに大変喜び、神酒を勧めて夜通し管弦で饗したという。

田村丸と大嶽丸の再戦


ある時、鈴鹿御前は「大嶽丸が一年間 顕明連の剣を取り残したために、その魂魄が残って天竺に帰り、また日本に渡って陸奥国の霧山岳に立て籠もり、再び世を乱そうとしているという知らせがありました。そこで、あなたは急いで都に上り、良馬を求めて下さい」と言うので、田村丸は言われた通りに上洛し、良馬を探しに行ったところ、五条の傍らに荒れ果てた館があったので ここに立ち寄ってみると、200歳になろうかと見える翁が厩の前で眠っていた。

また、その厩には5頭の馬が入っており、そのうち一頭は八方を金鎖で繋がれており、100日ばかり馬草を与えられている様子がなく、引き立ても微動だにしなかった。そこで田村丸は翁に「この馬を売ってくれないか」と尋ねると、翁は嘲笑って「どんな用事でこの馬を飼うのだ?欲しければ対価を持って来れば引き換えてやろう」と言ったので、田村丸は嬉しく思って「明日にでも対価を用意しよう」と言って帰り、翌日に百石百貫の色の良い小袖を添えて渡すと、翁は大喜びで馬を手放した。

その馬に早速田村丸が乗ってみると、その馬はまるで平地を駆けるように山海を駆け巡ることができたので、田村丸は世の中に並ぶもののない名馬だと不思議に思って、そのまま鈴鹿山を目指して駆けると、瞬く間に着いてしまった。これを見た鈴鹿御前は「天晴な名馬です。これで陸奥国の霧山岳に向かえば、たとえ大嶽丸が襲ってきたとしても、どこでも駆けることができ、たちまち帰ることもできましょう」と言った。

こうして月日を経ると、案の定、大嶽丸の魂魄が元の形に成って現れ、霧山の峰に居付いて、多くの人々を襲うようになった。そこで帝は田村丸に20万騎の兵を与えて これを討つように命じると、田村丸はこれを受けて鈴鹿御前に相談した。鈴鹿御前は「そのように多くの兵を連れて行く必要はありません。ただ多少は必要なので私と500余騎ほどお連れください」と言ったので、田村丸は霧山まで35日になる道のりを官兵に向かわせ、その間は鈴鹿山で鈴鹿御前と共に酒宴や管弦を楽しんだ。そのため、官軍は7月末から8月の半ばまでの期間を経て霧山へと辿り着いた。官兵らが都を出てから34日目に、田村丸は鈴鹿御前と共に神通の車に乗って空を飛んで霧山に向かい、そこで例の名馬に乗り換えて、即座に霧山の麓に到着した。すると、2時間ほどした後に官兵らが合流した。

その一方で、大嶽丸は山を掘り抜いて入口に大磐石を置いて扉とし、容易に攻められないように守りを固めていた。しかし、田村丸は予てよりこの事を知っていたので、搦手(裏門)に回って住処を攻めたが、そこに大嶽丸の姿はなかった。そこで門を守っている鬼に近づき、その鬼が黒鉄の棒で打とうとしたのを扇で打ち落とし、この鬼を戒めて「大嶽丸はどこに居る?」と問い詰めると、その鬼は「我らの主人は八大王と言って蝦夷の島におられます。大嶽丸はそのお見舞いのために昨日出ていきました。やがて帰って来るでしょう」と話した。

すると、空がにわかに曇っていき、雷鳴が轟くと、黒雲の中から凄まじい鬼の声が聞こえ「なんと珍しいことに田村殿ではないか、我はこうして戻ってきたぞ。一年前、伊勢の鈴鹿山でお前は我を討ったと思っているだろうが、我はその頃に天竺に用があったので魂をひとつ置いて帰ったのだ。それを我が本体と思っているとは、人間の知恵とは浅ましいものよ」と嘲笑った。

これを聞いた田村丸は「そんなことは知っていた。お前の剣はどこにある」と言うと、大嶽丸は「これこそ顕明連ぞ」と言って指を上げた。その先を見た田村丸は「なんと嬉しいことか、二本の剣は日本の宝となったが、一本取りこぼしたことを心残りに思っていたところだ。だが、こうして持参してくれて何より満足している」と言うと、大嶽丸は腹を立てて「あの童に物を言わせるな。三面鬼はどこだ」と呼ぶと、3つの面を持つ赤鬼が躍り出て大石の雨を降らせた。だが、これは一つたりとも田村丸に当たらず、反対に例の大弓に鏑矢をつがえて射放つと、三面鬼は真っ向から射砕かれて霧のように消えていった。

これに激怒した大嶽丸は、自ら捕まえようと半町ほどを一飛で飛び越えて襲ってきたが、田村丸は大嶽丸をさらに飛び越えて斬りかかり、その首を打ち落とした。すると、大嶽丸の首が空高く舞い上がったので、これを見ていた鈴鹿御前が「首が落ちてきますので用心して下さい」と言うので、田村丸は鎧兜を着て身を固めた。それからしばらくすると、大嶽丸の首は田村丸の兜の天辺に喰らいついてきたので、後に兜を脱いでみるとその首は絶命していた。こうして大嶽丸を倒すと、残りの眷属どもは縄で捕えて都に帰り、皆斬られて獄門に掛けられた。また、大嶽丸の首は末代まで伝えようと宇治の宝蔵に納められ「千本の大頭」と称された。今の世までも神輿の先に渡るのはこの大嶽丸の首である。

田村丸と鈴鹿御前の死


このように、田村丸の威光がいよいよ勝ったとき、田村丸と鈴鹿御前の仲は益々睦まじいものになっていったが、鈴鹿御前は次第に弱っていった。そのため、田村丸はこの様子を憂いて様々な祈願をしていたのだが、これを知った鈴鹿御前は「私は仮の身で下界に降りてきた者ですので、この世の化縁が尽きれば、いかなるものに祈ったところで その甲斐は得られないでしょう。田村殿、私は暇をいただこうかと思います。ですので、これからは聖林を愛してくださいませ」と言って死んでいった。田村丸は嘆き悲しみ、あまりに悲しみすぎて、それから17日後に死んでしまった。

やがて、冥土に行った田村丸は、そこで倶生神(ぐしょうじん[くしやうじん])を呼んで「お前は十王の下人か、ならば"私は娑婆の田村大将軍俊宗である。お前の主に会いに来た"と伝えよ」と言うと、倶生神は激怒して「娑婆にて何者であったかは知らぬが、今我らにそのような事を言う者は無限地獄に落ちるべし」と言い、黒鬼と赤鬼を呼びつけて捕えさせたが、田村丸はそれらを踏みつけて「私の言うことが聞けぬのか」と一喝すると、倶生神は肝を消して呆れ果ててしまった。

倶生神はしばらくして起き上がると、田村丸を尻目に十王の前に逃げていき、事の次第を伝えると、今度は十王が出てきた。そこで田村丸は「我妻は7日以前に死んでしまった。今すぐに返せ」と言うと、十王は「寵幸には限りがあるので、それは叶えられん。汝は非業であるので急ぎ帰られよ」と言ったので、田村丸が「寵幸なればこと帰し賜え」と言い返し、非業と言われるなら狼藉をしてやろうと、火界の印を結んで投げると帝釈天が焼け上がった。また、その時に大通連を抜いて駆け回った。この大通連は文殊菩薩の化身なので、十王も倶生神も容易く従うと思ったからである。

ここで閻魔大王は獄卒を呼んで「この者を返せ」と言うと、獄卒は「既に鈴鹿御前の身は無くなっておりますので、どうしましょうか」と言うので、閻魔大王は「ならば鈴鹿御前と同じ時に生まれた女で美濃国の東海という所に居る者と取り替えよ」と命じた。そこで獄卒が身を取り替えて田村丸に差し出すと、生前の鈴鹿御前とは別人で姿形も劣っていたので、田村丸は激怒して「元も形に成し賜え」と言った。そこで、第三冥官の御使が、東方の浄瑠璃世界の医王の宝尺の薬を勧めて「これは昔より慈しく成らせられるという」と言い、また帝釈天は「今から後、3年の暇を取らせよう」と言った。

冥土の3年は娑婆の45年に当たるが、田村丸と鈴鹿御前の契りは二世の縁とはいえ有難き験である。この大将軍は観音の化身であるので、衆生の済渡の方便に仮に人間として顕れたのである。また、鈴鹿御前は竹生島の弁財天女であるが、篤い社人を助け、仏道に入ったため、様々に変化するのも慈悲深いことである。

こうして末代の験には、清水寺の建立された大同2年に成就して、大同寺と称されたが、水の水上は清くして流れも末も久方の空も のどかにめぐる日のかけ清水の寺とし、清水寺と改められ、なお この寺の坂上に田村党の軒端の松の深み取り、千代万代に掛け締めて、貴賤が薫修することは仏法繁盛の故である。よって、この草子を見る人々は、いよいよ観音を信じるべし。

主要な登場人物


人物
・藤原俊佑(ふじわらのとしすけ):藤原俊仁の父
・藤原俊仁(ふじわらのとしひと):田村丸の父で、悪路王を討伐した(人と大蛇の間の子)
 ・日龍丸(にちりゅうまる):藤原俊仁の幼名
・照日御前(てるひのごぜん):藤原俊仁の正妻
・田村丸(たむらまる):藤原俊仁の子で、様々な鬼神を討伐した
 ・臥(ふせり):藤原俊仁と陸奥国の賤女の間に出来た子(後の田村丸)
 ・稲瀬五郎坂上俊宗(いなせのごろうさかのうえのとしむね):田村丸の正式名称
 ・藤原俊宗(ふじわらのとしむね):田村丸の本名
・鈴鹿御前(すずかごぜん):鈴鹿山の天女で、田村丸の妻となった
・聖林(しょうりん):田村丸と鈴鹿御前の娘

化物
・益田ヶ池の主(ますたかいけのぬし):藤原俊仁の母
・倉光(くらみつ):見馴川に棲む大蛇で、日龍丸に討伐された(日龍丸の伯父)
・喰介(くらのすけ):同上
・悪路王(あくろおう):陸奥国に棲む鬼で、俊仁に討伐された
・霊仙(りょうせん):かなつぶてを扱う怪僧で、田村丸に討伐された
・大嶽丸(おおだけまる):鈴鹿山に棲んでいた大鬼で、二度に渡って田村丸と戦って討伐された
・高丸(たかまる):近江国の鬼で、田村丸と鈴鹿御前に討伐された