珍奇ノート:御伽草子『鈴鹿の草子』現代語訳



はじめに(翻訳内容に関する注意点)


以下の文章は、室町時代成立の御伽草子『鈴鹿の草子』の原文を読んで、勝手に現代語に「意訳」したものです。なるべく原文に忠実に訳すよう務めましたが、分かりづらいところに関しては多少の省略や加筆修正を行っています。また、専門家ではない素人が訳したものなので、翻訳の誤りや抜け落ち、誤字脱字などがあるかも知れません。そういった点に注意して読んで下さい。なお、サブタイトルは物語を見やすくするために勝手に付けたものです。

すゝかのさうし


日龍の誕生


日本の我が朝には俊佑という源氏の将軍がおり、心に適う妻が居なかったので独り身で寂しい日々を送っていた。9月中旬のこと、俊佑が屋敷の南面に出て景色を眺めながら自分の身の上を嘆いていると、見知らぬ人の女の声で「草むらに 鳴く虫の音を 聞くからに いとど思ひや 勝りゆくらん」という和歌が聞こえてきたので、俊祐は妖しく思いながらも胸の内が騒ぎ出したので「ほのぼのと 明くる明日の 東雲に 誰とも知らぬ 人ぞ恋しき」と返歌して、その女を見ると20歳ばかりに見える若い女で、只者に見えなかったので話しかけると意気投合し、この後に契りを結んだ。

それからというもの、屋敷に入れて連理のように睦まじく語らうようになり、片時も離れることがなくなった。やがて女が子を宿したので、俊祐は50歳を越えて子供を持つことができるとようになったことに喜んで、それから10ヶ月を迎えようとする頃に産屋を用意しようとすると、女が「10ヶ月で子は産まれません、3年はかかるでしょう」というので、俊祐はそれまでに立派な産屋を建てようと、番匠(大工)たちを呼んで3年掛けて36町におよぶ壮麗な産屋を建てさせた。

いよいよ女が産気づくと、女は「私が産屋に入ってから7日目までは人を近づけてはなりません。高い所に登ったりもしないでください」と言うので、俊祐は言われた通りにしたが、今まで片時も離れなかったのに こうして会えなくなってしまったことを悲しんで、7日目に我慢できずに楼門の上に登って産屋を覗き込んでしまった。

すると、産屋の中には節丈の恐ろしい大蛇がいた。その姿は、背には諸々の草が生え、苔むしていた。そして、この大蛇は美しい幼子をあやしている。幼子が眠ると、その月日のように輝く眼光が楼門の上にいた俊祐の方に向いたので、俊祐は恐れて楼門から降りていった。

8日目に、女が3歳になる幼子を抱いて産屋から出てくると、俊祐に「もし、あなたが8日目に若君を見たのならば、若君は日本の主と成して奉るはずでしたが、あなたは8日待てずに私の姿を見てしまったので それは叶わなくなりました。ですが、きっと天下の大将軍となることでしょう。若君は日龍と呼んで下さい。この若君が3歳の時にあなたは亡くなり、7歳の時に帝より宣旨を被ることでしょう。私は近江国の益田ヶ池の大蛇です。ある宣旨の仰せに従ってあなたの前に現れました。名残惜しく思いますが、今は暇をいただくことにします」と言い、涙を流しながら消え失せてしまった。

俊祐は、女の話を聞いて唖然としていたが、女が大蛇だったとしても3年間の日々を忘れられず、涙を流しながら日龍に「お前の母はどこに行ってしまったのだ」と尋ねると、日龍は天に向かって「あぁ…」と言うばかりだったので、俊祐は哀れに思った。それから俊祐は日龍を育てて、成長を楽しみながら日々を送っていたが、3年後についに他界してしまった。

日龍の大蛇退治


それから時が経ち、日龍が7歳になると、帝より宣旨を被るようになった。その内容は、武蔵国の見馴川という場所に"みつくしのたけ"という大蛇がおり、人を襲っているので国が疲弊しているということで、急いで討ち取れというものだった。日龍は涙を流して「私がどのような報いで、生まれてすぐに母を失い、3歳で父母を失い、7歳で宣旨を被ることに成ったのだ」と言うと、乳母が「若君の父は、越前国の名取川というところで長さ10丈(30.3m)の大蛇を殺して世の中の人々を驚かせました。若君は既に7歳になられましたので、このような宣旨を被ることはめでたいことなのです」と言って、家宝の弓と鏑矢を授けた。

その後、日龍は落ち着きを取り戻し、軍勢を率いて武蔵国に向かうと、数日後に見馴川に辿り着いた。そこで様子を見てみると、道の程は10丈ばかりで、池の周りの岩は高く聳え、落ちる滝の音は凄まじかった。これをしばらく見てみると、様々な綾錦がたくさん流れてきた。日龍は「あれを見よ、魔王の物が流れてきたとみえる」と言い、これを取って「私が受けた宣旨を知らぬか、私は俊重将軍の孫の日龍のという。7歳で宣旨を任されてやって来た。大蛇よ、出てこい」と言うと、兵たちは次々と池の中に入っていったが、皆 水底の屑となって死んでしまった。

こうして退治できぬまま時が経ち、人々は池の近くに近づかなくなっていった。そこで、日龍は水神に池の水を干すように祈願すると次第に水が干されていき、しばらくして大蛇が2匹現れた。その大蛇は「我はお前の伯父であるぞ。お前の母は我が妹である。近江の湖に長年居る大蛇が お前の母であるぞ。我は山川で年を経ること6000年、この川に棲んで二万五百年(原文ママ)、お前はわずか7歳で我を敵に回してどうしたいのだ」と話して、口から炎を吐き出そうとしたので、日龍が角の槻弓に神通の鏑矢をつがえて射放つと、大蛇を射抜いて絶命させた。その後、日龍は16歳になった時に俊仁将軍と名を改めた。

帝の嫉妬


ある日の夕暮れ時、俊仁は鳥のつがいを見ていた時に ふと自分に妻が居ないことを寂しく思った。その頃、中納言の姫君がとても美しいとの噂を聞いた。その名を照日御前という。俊仁はこの姫を気に入って、忍んで通うようになった。また、その評判は帝にも伝わり、帝も忍んで姫に玉梓(手紙)を送ったが姫は返事をしなかった。帝は怪しく思って「俊仁を都の外に流せ」と命じ、これを以って俊仁は伊豆国に流されることになった。

俊仁は「これは一体どういうことだ。今まで命を掛けて帝の命令従ってきたというのに、どうしてこのような目に遭わされねばならぬのだ」と腹を立てたが、一方で姫君への思いも一層深くなった。しばらくして俊仁が都を出ていくと、伊豆国までの道中で瀬田橋を渡った時に橋を叩いて「俊仁は都から居なくなったぞ。一年前に見馴川にて討った大蛇よ、もし、この世に魂が残っているならば、都に乱れ入って悪事を成すが良い。蛇神の7片の魂よ しかと聞け、早々に都に乱れ入るが良い」と板を強く踏み、伊豆国に下っていった。

俊仁が流されてから21日目に、8頭の大蛇が都に現われて人々に襲いかかった。そこで喰われたものは数知れず、多大な被害が出たので、天文博士は座主の巫女を召して鎮めようとしたが上手くいかず、貴賤に拘らず人々は恐れて外に出なくなったので、天下が乱れ始めた。そのとき、ある博士が「これは伊豆国に流した俊仁が原因であろう」と言ったので、帝は俊仁を都に帰らせるべく、照日御前を伊豆国に向かわせた。

照日御前が伊豆国に着くと、俊仁は照日御前を見つけ出してとても喜んだ。そして、帝から都に帰るように勅命も下ったので、こうして俊仁は都に復帰することになった。そこで、また瀬田橋を通る時に「私は都に上ることになった。そこで悪事を止め、元のように静まり給え」と言うと、大蛇は鎮まって瓶の中に入ったという。

俊仁の悪路王退治


それから時を経て、照日御前が俊仁の子を宿し、やがて計二人の姫君が産まれた。ある日、俊仁が参内している間に照日御前が庭に出ていたところ、魔縁の者がやって来て空へと連れ去って行った。これを聞いた俊仁は、急いで足取りを辿ったが その痕跡はなく、1日2日が過ぎても見つからなかったので いよいよ落ち込んでしまった。そこで、新しくできた神社に参って「今一度、妻の行方を知らせ賜え」と祈願したがその甲斐もなく、さらに落ち込んでしまった。

そこで、俊仁は夕暮れまで浦を探したが見つからず、都の東の方に探しに行くと老夫婦に励まされるばかりで見つからず、町に戻って探してみると、そこで幼子が話しかけて来たので俊仁が「凡夫は妻の行方をどうやって知ればいいのだ」と愚痴をこぼすと、幼子が「天狗は歌う、愛宕山には太郎坊、東の山には三郎二郎、また鬼ならば近江国には悪しの高丸、陸奥の国には霧山岳、それさなくば同じき国なる峨峨山の悪路王が取り奉らん…」などと言うので、俊仁は手がかりを得たと喜んだ。

俊仁は早速 愛宕山に登って「"きやうくらい坊"に物申す」と言ったが返事がなかった。しばらくして三間四面の光が現れて、その中には80歳なかりになる老僧がいて「何用か」と言うので、俊仁は「おこがましいことですが、過ぎし2月に人を物に取られてしまいました。あなたの寺に左様の者はおりませんか」と尋ねると、老僧は「寺の中を曇りなく見ても構わぬが、そのような者はおらぬ。東山の三郎坊の方にも左様の事はないと思うが…」と言った。

そこで俊仁は、東山の三郎坊を訪ねてこの旨を話すと、三郎坊は「左様の事は無いが、そういえば2月に10人ばかり取られた人の中に由々しき女房が居たような…詳しいことは朽木を尋ねよ」と言ってかき消すように失せた。これを聞いた俊仁は、急いで5丈ばかりの朽木を強く蹴って物申すと、朽木はしばらく揺れて首を1丈ばかり持ち上げて「なんてことでしょう。今まで人に蹴られたことなど無いのに。お前は知らぬでしょうが、私こそお前の母 近江国の大蛇なのです。お前の父と契りを結び、お前を孕んだ時、楼門を開けて7日見てはならぬと申したのに、お前の父は7日待たずに覗いてしまいました。私はその時に帰ってきたのです。お前の妻は今は天にも地にもつかずに陸奥国の峨峨山という所にいる悪路王に囚われています。今から20日のうちに鞍馬の毘沙門天のもとに参り、よくよく話して多聞天の御力によって悪路王を討ちなさい。私は邪道の苦しみに暇が
ありません。善根を成して私に賜えよ」と言ってかき消すように失せていった。

これを聞いた俊仁は涙を流して自らを哀れんだが、やがて鞍馬の毘沙門天を尋ねて、そこで妻の行方を知らせてくれるように祈念した。鞍馬に入って7日目の暁、多聞天が示現して「剣を賜える」と言うので、驚いて確認してみると 枕元に多聞天の御剣が立て掛けてあった。俊仁は剣を持って急ぎ都に帰り、軍を率いて陸奥国へと向かった。

7月中旬に陸奥国に入ると、早稲田の賤の女が鳴子を引き鳴らしている様子に惹かれて、この女と一夜を共にすると、俊仁は「もし子が出来たならば、これを印に私を訪ねよ」といって鏑矢を一本与えた。また、俊仁が鬼の居場所を尋ねると、賤の女は「これより23里先に鬼の住処があります。そこには人は通りません」と言うので、急いで峨峨山に向かった。

峨峨山に着くと悪路王の城が見えた。その有様は、黒鉄の築地に囲まれ、高さは42丈(約123m)にもなる。また、俊仁が東の方に回って見れば、そこに24,5歳ほどの女が涙を流して立っている。そこで素性を問うと「私は都に住んでいた美濃の前司の娘です。13歳の頃から鬼に取られて此処にやってきました。3年前から"馬飼いの女房"と名付けられて門を守っています。都の人と見えますが、なんとも懐かしく思えます。これは鬼神の城です。凡夫であれば近寄ろうともしません。道に迷ったのでしょうが、鬼の居ぬ間に急いでお帰り下さい」と言った。

そこで、俊仁は「され、鬼はどこにいるのだ」と尋ねると、馬飼いの女房は「昨日から越前国に行っています」と答えたので、俊仁が「どうやって門の中に入ればいいのだ」と尋ねると、馬飼いの女房は「地獄王という馬に乗って父鬼が城内に入り、内から門を開いて残る鬼どもを入れています」と答えた。この話を聞いた俊仁は、嬉しく思って「これはまさしく多聞天の御告げである」と喜んだ。

俊仁は早速 地獄王に乗って築地の中に入ろうとすると、地獄王は門の中には入ろうとせず、鬼の居る越前国の方に行こうとするので、俊仁は怒って剣を抜き「畜生なれども龍は馬の王であろう。また、俊仁も二双を悟れる者である。従わねば命を取ろう」というと、地獄王はたちまち引き返して門に向かったが、門を開こうとしても開けることができなかった。そこで、俊仁は都の方を伏し拝んで祈念すると、門が開いたので、人々を入れて城内に入っていくと、城のあちこちの部屋から女達の声が聞こえたので、その方向に行ってみると都で捕えられた女達が詰められていた。

俊仁は、その中から照日御前の姿を探したが、何処にも見つからなかったので、女達に行方を尋ねると「傍らに由々しき女房が泣く声がします」と言うので、怪しく思いながらもそこに行ってみると、妻の照日御前がそこに居た。俊仁は嬉しく思って簾内を開けて入ってみると、照日御前は放心した様子で「どうしたのですか」と言うので、俊仁は「命を捨てるつもりで此処まで来たのだ」と言うと、しばらくして照日御前も嬉し涙を流して喜び、俊仁も此処まで来た甲斐があったと安堵した。

そして、俊仁は「され、鬼はいつ帰ってくるのだ」と尋ねると、照日御前は「鬼が来る時は空が曇り、雨風が吹き、騒がしくなります。また雲居から夥しい数の鬼の声が聞こえてきます…」と話している途中で、空が曇り始め、風が吹き騒いだ。そこで、捕えられた女達は今が最期という心境で悪路王の帰りを待ち受けた。すると、やがて虚空に数多の鬼の声が聞こえだした。その声を聞くと「この悪路王の居ぬ間に女房たちは何処へ行った。また地獄王はなぜ鳴かぬのだ」と言っていた。

そうして鬼どもは大きな眼を見出して辺りを睨みつける。これに女房たちは恐れて伏したが、俊仁が多聞天に祈念すると、俊仁の眼に光が宿り、にわかに日月のようになって、鬼どもを睨みつけると、鬼どもはどうしたことかという様子で慌てふためいた。なお、俊仁に睨まれた鬼どもは血の涙を流して失明したという。その時、俊仁は剣を抜いて鬼どもの中に投げ込むと、空に舞い上がって鬼の首を一度に落としていった。そこで悪路王の首は天に舞い上がっていき、それは7日間回って「魔王の剣を持って俊仁を討とう」と喚き散らした。その後、首が地に落ちると、俊仁は首を焼いてその灰を持ち帰らせた。

こうして悪路王を倒した俊仁は、城に捕えられていた60人ばかりの女達を連れて都に上っていった。その道中で、田舎(地方)の女房は俊仁に別れを告げて各々の故郷に帰っていった。それから、俊仁が都に着くと、帝から将軍に任じられた。俊仁は25人の天下の将軍の内 第11代となる。しかし、御子が姫君だったので、跡継ぎになる男子が居ないことを憂いて悲しんだ。

臥丸(田村丸)の誕生


その後、陸奥国の田村という所で、俊仁と契りを結んだ賤の女が一人の男児を出産した。その子は臥丸(ふせやまる)と名付けられ、母によって養育された。ある時、臥丸が母に向かって「どうして私は7歳にもなるのに、未だに父と会えないのですか」と不思議なことを言うので、母は笑いながら「お前に父というものはいません、尋ねても無駄ですよ」と言うと、臥丸は「どうして隠すのですか…」と涙を流しながら嘆き悲しんだ。

そこで、母は「お前の父がやって来た国は、これより東に谷峰を三つ越えて"あひほう山"の腰に小松が3本下にあり…」と詳しく教え、それを聞いた臥丸が教えの通りに進んでいくと、そこで例の鏑矢を見つけた。これを持ち帰って母に見せると、母は「この矢は国の大将が持つものです。1年前、谷山に悪路王という魔王を攻めにやって来た大将軍がお前の父なのです」と話した。これを知った臥丸は父の元に行こうと決意したが、母は臥丸が遠くに行ってしまうことを嘆き悲しんだ。

臥丸が7歳の時の2月、田村の郷を出立して都に上り、夕暮れ時に父の屋敷の築地の前にやって来た。その時に俊仁は屋敷で蹴鞠をして遊んでいたのだが、誤って鞠を屋敷の外に蹴り出してしまった。それを臥丸が屋敷の中に蹴り返すと、俊仁が「何者の仕業だ」と屋敷の外に出てきたので、そこで臥丸は例の鏑矢を出して俊仁に見せた。これを見た俊仁は「さあ屋敷に入れ」と臥丸を招き入れると、臥丸はそこで自らの素性や母のことなどを有りのままに話した。

これを聞いた俊仁は、臥丸を屋敷の近くに住まわせて、様々に饗した。その後、臥丸が着ている衣の裾がいつも濡れていることを人々が怪しみ、密かに足取りを追ったところ、臥丸が桂川に行って、そこからあちこちへと三度ずつ越えて裾を濡らしていたことが分かった。これを知った俊仁は、誠に我が子であると確信し、臥丸が9歳の時より朝日御前と名乗らせた。

ある時、俊仁が朝日殿の心を見ようと思って、弓に鏑矢をつがえて朝日殿の屋敷に向かって射放つと、朝飯を食べている最中だった朝日殿は、少しも騒がずに箸で鏑矢を掴んで側に置いた。これを見ていた俊仁はいよいよ喜んだ。この朝日殿が11歳になった時、俊仁の幼名が日龍だったので、その名を朝日殿に与えて日龍と名乗らせた。

ある朝、俊仁は剣を抜いて日龍と向かい合い、そこで「この剣を投げるので、受け止めてみよ」と言うと、日龍は心の中で「もし私が蛇神の跡を持つ身ならば、この剣は袂に収まるだろう。だが、そうでなければ私の命は取られるだろう」と祈念して受けると、剣は左の袂に収まった。このようにめでたい人だったので、俊仁は大いに喜んで、13歳で元服をさせると稲瀬五郎俊宗(いなせのごろうとしむね)と名乗らせた。

俊仁の唐土侵攻


ある時、俊仁は「私の命は既に尽きかけている。そこで何か末代までに伝わるような大きな功績を立てたいものだ」と心に秘めるようになり、やがて「日本は小さな島国であるから、唐土を従えよう」と思うようになった。そこで参内して帝にこれを進言し、その間の役目を子の俊宗に任せるように言うと、帝も喜んでこれを許し、これを以って俊仁は博多に旅立ち、そこで10万余隻の船を揃えて、軍兵を乗せて唐土に渡った。

その時、俊仁は唐土が渡る前に多聞天に祈念して、火界の印を結び、唐国に投げ入れると、しばらくして唐土には火の雨が降り、それは7日間降り続いた。そこで唐の天文博士が占って「日本の将軍が唐国を従えようと向かっている。日本の軍勢は弓矢に長けて謀り事に賢く、容易に勝負を決することは難しい」と言うと、恵果和尚が壇の前で「俊仁は10万余隻の船をこしらえて唐土に渡ろうとしています。不動明王よ、眷属の金剛と童子を率いてこれを討ち賜え」と祈念した。

そして、不動明王が俊仁の前に立ちはだかると、俊仁は「私の前に立つお前は何者だ、いかなる僧であっても、戦の門出を邪魔するのであれば容赦せぬぞ。さあ、その船は急ぎ立ち去れ」と言うと、不動明王は「俊仁よ、我は恵果和尚に遣わされ、こうして参じたのである。さあ、立ち去るよい」と言って剣を投げた。そこで俊仁は鞍馬の毘沙門天の持つ剣を抜いて これを受け止めると、俊仁の剣は次第に光り輝いていき、不動明王の剣は徐々に光を失っていった。

これを見たコケイが「俊仁の怪力をなんとかするために、誰かに仏力の助力を仰ぐべき」と進言したので、金剛が鞍馬の多聞天に話し合いに向かったが返事は無く、今度は金剛と童子で向かったがまだ返事がないので、不動明王が自ら鞍馬に参って「どうか俊仁に与えている力を失わせ賜え」と言うと、多聞天は「我が国は神領である。新たに仏の恵みは去ること無し。どうして我が国の天皇の守護に背かねばならぬのか」と言うので、不動明王は「ならば我が日本を護ろう。これは唐土の人に贔屓して申しているのではない。負ければ我は三界に還ること疑いなし、どうか道理を曲げて力を止め賜え」と言った。これに多聞天は「俊仁を失わせるのは日本を守るためである。汝が日本を護るならば、さあ急ぎ帰って俊仁を討つが良い」と答えると、不動明王は喜んで帰っていった。

そして、戦場で光を輝いていた俊仁の剣はたちまち光を失い、やがて3つに折れて霊鷲山に向かっていった。それから風が四方から吹いてきて、俊仁の10万余隻の船を破壊し、軍勢は波に飲まれてしまった。敗北を覚悟した俊仁は、不動の船に乗り移り、コケイを取り押さえて三度蹴りつけて 掴んで海に投げ込むと、そこに剣が飛んできて俊仁の首を打ち落とした。俊仁の首は不動明王が唐土に持ち帰り、壇に置かれて、恵果和尚による57日間におよぶ供養が行われた。また、俊仁の遺体を乗せた船は八重の潮路を通って博多の津に到着した。この後、父の死を知った俊宗は急いで博多に下り、父の形見を拾って泣く泣く都に帰り、懇ろに弔った。

田村殿(俊宗)の金礫退治


それから年月を経て、稲瀬五郎俊宗が15歳の時に大和国の奈良坂山という所に金礫(かなつぶて)と呼ばれる者が現れて、人を襲って金品を奪うので、人々は奈良坂山を通らなくなり、都への貢物が滞ってしまった。そこで、帝は稲瀬五郎俊宗に急いで金礫を討てという勅命を下し、100余騎の軍勢を与えて奈良坂山へと向かわせた。

金礫は金品を奪うということで、俊宗は色の良い染物を集めて華やかにこしらえて、奈良坂山の峠に並べて待っていた。すると、遥か遠くの谷から身の丈2丈(6.06m)ばかりの奥目の法師が現れて、高い所に登って「なんと珍しい、この山に住んで5,6年になるが、このような物を隠さずに置いてあったことなど無かった。いかなる貢物もこの山を通るときには包み隠してあるというのに。我は神通の者にして賢しくもあるからこそ、志も無く取ることはない。これが帝への貢物ならば、まずはハツを参らせよ。さもなくば、この金礫を取り出してお前の命を止めてやろう」と大声で言った。

ここで俊宗は騒がずに「それは かたじけなくも帝の物である。それを奪うお前をどうにかして止めなければならない。その気ならば、この神通の鏑矢で仕留めてやろう」と言うと、金礫は「稀代な物言いだが、それはどうでもよい。この先祖より相伝してきた金礫、三郎礫を食らわせてやろう。これは金の重さは3000両、角は460ある。響く声は千の牛が吠えるが如し。これを受けてみよ」と言って金礫を投げつけてきたが、俊宗は少しも騒がずに これを打ち落とした。

すると、金礫は「三郎,二郎礫を受けてみよ。これは投げれば雷電を放ち、岩をも崩すことができる」と言って別の金礫を投げたが、俊宗はこれも扇で打ち落とした。金礫は「これは曲者だな。ならば この太郎礫を食らうが良い。この礫は普段は使わないが、余りに主を憎く思った時に投げたものである。しかと受けてみよ」と言って投げつけたが、俊宗は鐙に乗ったままで蹴落とした。

これを見たコンサウ法師(金礫)は今は敵わないと思って逃げていったが、俊宗が「あの法師はどこに逃げるつもりだ。手並みの程を見せてみよ」と言って、角の槻弓に神通の鏑矢をつがえて射放つと、法師の左耳に付き纏って7日間鳴り続けた。法師は散々逃げ回ったが余りの煩さに、やがて元の場所に戻ってきて俊宗に命乞いをした。俊宗は、ここでコンサウ法師を捕らえると、500余騎の馬の前に立たせて都に連れ帰った。これを帝に報告すると「斬るべし」と勅命が下ったので、法師は首を斬られて奈良坂山の峠に晒された。その後、しばらくは平和が戻り、俊宗は今回の活躍によって天下の大将軍に任じられた。

田村殿と鈴鹿御前の出会い


それから年月を経たある時、俊宗は帝から「伊勢国の鈴鹿山という所に立烏帽子(たてえぼし)という目に見えない不思議な者がおり、貢物を奪うなどの狼藉を致すので これを討て」との勅命を下され、500余騎の軍勢を率いて鈴鹿山に向かうことになった。鈴鹿山に着くと、手分けして その立烏帽子を探し回ったが、何処を探しても見つからないので、軍兵を山の四方に配置して、人や獣、鳥までの山を通るものを監視させたが、1年掛けても見つからなかった。

そこで、俊宗は「屍をこの山に晒すことになろうとも、立烏帽子を見ずして都に帰るわけにはいかない。この宣旨を賜ったからには、討てなかったとしても、姿を見ずには帰るべきではない。もし、このまま帰れば、きっと人々の笑い者になるだろう。だが、私に着いてきた者どもは早々に帰るがよい」と言って、一人残って他の者はすべて帰らせた。こうして一人になった俊宗は、山で寝泊まりして探し続けた。しかし、立烏帽子は見つかることは無く、人気もない山は物寂しい有様で、たまに聞こえるのは猿の声や風の音くらいのものだった。

ある時、俊宗が山の清水で身体を禊ぎ、高い所に登って都の方を伏し拝みながら「南無帰命頂礼…」と八幡大菩薩、鈴鹿山の神などの神仏に祈念して、立烏帽子の手がかりを得られるように願をかけると、今まで見つからなかった"こまつ原"という場所が現れた。俊宗は「これぞ祈念の験」と思って、嬉しく思いながら こまつ原に分け入った。

そこには池があり、その中に24,5町ほどの島が浮いており、水面には五色の波が立ち、水際には蓮の花が咲いていた。まるで極楽浄土のような風景に楽しみながら散策すると、池には反り橋が架けられ、その先に進めば白金の築地に12の門が付けられており、その門の先には黄金の砂金の庭があり、四方には四季折々の風景が見えた。

まず、東には春の景色が見え、松の上でウグイスがさえずっていた。また、南は夏の風景で、青々と繁る木々からセミの鳴き声が聞こえ、ホトトギスが鳴き、澤の辺りにはホタルが飛び交っている。また、西は秋の風景で、萩野に露が浮き、鹿の鳴き声が聞こえ、様々な虫も鳴いている。そして、北は冬の景色で、木々の梢に雪が積もっていた。

その庭先には豪華絢爛な館があり、柱は黄金で、天井には瑪瑙があしらわれ、玉の床には錦の褥が敷かれ、簾には瓔珞が掛けられていた。また、中の覗いてみれば、17歳ほどの輝くばかりの美女がおり、この世の人には見えない様子だった。田村殿(俊宗)はこれを見て「どのような罪の報いで、このような美女を敵とせねばならぬのか。できることなら近づきたいものだ」と思ったが、まずは相手の心を試そうと、剣を抜いて鈴鹿御前(美女)の頭上に向かって投げつけた。

その時、鈴鹿御前は少しも騒がずに、いつの間にか居なくなり、側に立て掛けてあった琴を弾き始めた。そして、噂に聞いていた立烏帽子の正体を現した。その姿は、金輪状の直垂に鎧を付けて高紐を強く締め、三代具現の小手を差し、上覧美麗の脛当てを付け、示現灯明の御刀を差し、三尺一寸の如何物造りの太刀を帯びているというものだった。

そして、帳台を外に投げ出して、田村殿と鈴鹿御前は互いに剣を投げ合い、それを打ち合わせて戦うと、やがて田村殿の剣は打ち負けたので、その剣は黄金の鼠に姿を変えて御簾の外に逃げ出した。それでも鈴鹿御前の剣に追い詰められると、今度は7頭の鳥になって鈴鹿御前の髪の上に飛びかかって鈴鹿御前を悩ませた。そこで、鈴鹿御前は紅蓮の妙の隠れ印を結んで自らにかけて落ち着くと、田村殿の剣は雉や鷹に化けて鈴鹿御前を追い詰めた。

そこで、鈴鹿御前は「田村殿よ、私の姿は人には見ることができないが、そなたは神仏に念じて私の姿を見ている。ならば とくと見るがよい。しかし、初めに弱々しく剣を投げつけたことは なかなか浅ましかったぞ。しかしながら、昔から私の姿を見た者はいなかった。され田村殿は由々しき名を上げて帝に気に入られようと この世においては務めているのだろう。そなたは男だがソハヤノツルギしか持ってはおらぬ。だが私は女人だが3本の剣を持っている。よって、そなたに討つことは難しいだろう。また、私がそなたを討つのは容易い」と言って大通連(だいとうれん)という剣を出した。

そこで、鈴鹿御前は「これでそなたの首を討つことはとても容易い。だが、そなたを討つ気はない。さあ、早々に都に帰られよ」と言うと、田村殿は「私は都に帰ることはない。その上、お前は私の心の内を知っておるのだろう」と言うと、鈴鹿御前は笑いながら「そなたの心の内はよく知っている。私の姿を見て"前世のどんな罪で、このような美女を敵とせねばならぬのか"と悲しんでいたのだろう。また、邪険の心を翻して"この女を討ち取って帝に差し出せば、後世に名を残せる"と思って私に剣を投げつけたのだろう。三千世界を見るに、そなたとはこのように逢う運命だったのだろう」と言うと、田村殿は喜び、互いに剣を収めて意気投合し、琵琶や琴を楽しんで、一緒に日々を過ごすようになった。

鈴鹿御前との別れ


その後、田村殿と鈴鹿御前が仲睦まじく過ごしていると、やがて鈴鹿御前が子を身籠り、その翌年の春に珠のような姫君が一人産まれた。この姫君はショウリュウ(しやうりう)という。それから姫君が3歳になった年の8月7日に、田村殿が庭に出て雁を見ながら都を恋しく思っていると、その様子を見ていた鈴鹿御前が懐に忍ばせた文を雁に括りつけて都に運ばせた。

その文は「鈴鹿の立烏帽子を討って参れとの宣旨を被り、3年間鈴鹿山に籠っていましたが、その者の姿を見ることが出来ず、その上 子を儲けてしまいました。討とうとは思っていましたが、宣旨に背くことになるので帰るわけにはいきません。来たる8月15日の夜に計略を成しますので、その時に軍勢を向かわせて討ち取りましょう」という内容で、その雁は文を内裏の総門に落として飛び去っていった。

これを大臣が見つけ、喜んで早速 帝に差し出すと、帝は「田村がまだこの世に居ただけでもめでたいことだ。鈴鹿山には武士も近づかないというのに、そこで暮らして子まで儲けていると不思議なことよ。ならば軍勢を揃えて向かわせよ」と勅命を下し、10000余騎の軍勢を揃えて決行の日に向けて準備をさせた。

そうして、その日が近づくと、田村殿は鈴鹿御前に「これは面白いことだが、こうなっては此処に住んでいられなくなるぞ。私はこの山に住んで既に6年になるが、今はお前を敵とは思えない。軍が立つ前に都に上らねばなるまい」と言うと、鈴鹿御前は黙って涙を流した後に「出逢いは別れの始まりです。何を言うのですか、私はこの命を惜しくは思っていません。その上、こうしてあなたと連理の枝のように結ばれて4,5年の間は幸せな日々を過ごせたのですから情けは要りません。あなたは天下の大将軍となるべく生まれましたが、私は天上界の天女で人々を導くために示現したのです。情けは要りません。あなたは過ぎし8月に縁側に立って都を恋しく思っていました。そこに雁がやって来たので私が文を忍ばせて都に運ばせたのです。それを大臣殿が見つけて帝に伝え、このような命令が下ったのです。私を討とうとひしめく景色をよく見ておいて下さい。そして、ショウリュウのことをよろしくお願いします。これにて、私は自ら命を絶とうと思いますが、少しも後悔はありません。私は神通の者ですので、討つ討たれるは我がままに決めさせていただきます。田村殿は後世に名を挙げたければ、内裏に向かって下さい」と言うので、田村殿も流石に恥ずかしく思った。

そして、8月15日の夜になったので、田村殿は神通の車に乗って都に飛び立ち、内裏の西門に着くと、そこに数万騎の軍兵が移動しているのが見えた。この時、鈴鹿御前は"なんてんだい"の床におり、田村殿はその天井で畏まっていたので、これを見た帝は「田村が この女房を立烏帽子と見抜いたのも道理である」と思った。そこで鈴鹿御前が「妾が何をした咎によって敵と思われているのか、帝は十全の王であるが、人界においては卑しき身である。妾は甲斐なき様であるが、さすがに上界の天人であるので、位も君に勝っている。この妾を討つというのならば早々に討ちたまえ…」と涙を流して言うと、帝はあまりの事に返事をせずに黙っていた。

この後、鈴鹿御前は田村殿に「男女の仲は今に始まることではありませんが、私にはショウリュウが居ますので、いつでも訪ねて来て下さい。それから8月21日に、近江国の蒲生山という所に悪事の高丸(あくしのたかまる)という魔王が現れたということで、これを討てとの宣旨が下されることになるでしょう」と言って、互いに涙を流して別れを惜しんだ。そこで鈴鹿御前が左手上げて天を招くと白い蝶となり、内裏の中から愛宕山に飛んでいった。

田村殿と鈴鹿御前の高丸退治


その後、田村殿は都の屋敷に帰って「宣旨であれば仕方がない」と落ち込んだ。それから日が経ち、8月21日になると鈴鹿御前が言った通りに、近江国の蒲生山の腹に悪事の高丸という魔王が現れて日本を征服しようとしているので、これを討てとの宣旨が下った。そこで田村殿は10万余騎の軍勢を引き連れて近江国に向かった。

蒲生山に到着後に周辺を見渡してみると、高丸の城には神仏が左右になく、破れると思えなかった。また、築地は40町に付けられており、どうやって入るのかも分からなかった。そこで、田村殿は"しやくわんの印"を結んで城に投げ入れると、火の雨となって7日間降り続いた。これに鬼どもも堪えかねて、木で人形を作って夜はこれに戦わせ、昼は鬼ども自らが戦った。この後、ついに高丸は戦い負けて、駿河国の富士岳に退いていったので、追って攻めると、次は武蔵国の秩父岳に逃げ、また攻めると、次は相模国の足柄山に逃げ、それから白河の関、那須岳と逃げ続け、7日目に海上に浮かぶ島に逃げてそこに立て籠もった。

そこで争うと、田村殿の軍勢は迎え撃たれて、やがて300余騎にまで減らされてしまった。そのときに田村殿は「さて、どうしたものか、一度都に帰って軍勢と船を用意して また攻めようか」と言って都に退くことにした。帰路の途中、伊勢国の鈴鹿山の麓に着くと、田村殿は疲弊している兵たちを休ませて、鈴鹿御前に相談しようとこれまでのことを話すと、鈴鹿御前は苛立って「私が行って田村殿の手助けをしたいところですが、ショウリュウを見捨てて行くことになるので それはできません。その高丸は化生の者なので凡夫を集めて掛かっても討つことは出来ないでしょう。そこで、私が自ら行って高丸を討ち、帰ってきたらショウリュウを共に育てたいと思っております。では、15日の暇をいただき、この島に下って討ち取って参りましょう」と言った。

この後、田村殿は大通連、小通連、小明連という3本の剣を取って、神通の車に乗って鈴鹿御前の館を飛び立ち、麓の宿で軍勢と合流した。そこで休んでいると、人の目に見えぬ者が 用心して寝ている軍勢の中をかき分け 田村殿の元にやって来て、傍に置かれた剣を抜きかけて枕元に置いた。それは鈴鹿御前で「どうして私と行くと言っているのに、この剣を取って行くのでしょうか。なぜ田村殿は浅ましいことをされるのでしょうか。私が行けば高丸など諸共に討てるというのに、恨めしくもこのようにされるのでしょうか」と言うと、これを聞いていた田村殿は「以前に都を謀った時のことを無念に思い、それを恥じてこのようにしてしまったのだ」と言って涙を流すと、鈴鹿御前もそれを恨んでひどく涙を流した。

それから夜が明けると、鈴鹿御前が「皆は都に帰しましょう。田村殿と私の二人で高丸を討つのは容易いことです」と言うので、田村殿は軍兵を都に帰ると、二人で神通の車に乗って高丸の居る外浜へと飛んでいった。その時、高丸は油断して昼寝をしていたが、何気なく空を見て敵意を察知したので、高丸は「東の雲が西に険しく向かっているのは、きっと田村が鈴鹿御前と語らって我を攻めに来るからだろう。さあ、どうしたものか。ただし、鈴鹿御前を射伏せればどうにかなる。鬼どもよ、よくよく防げ」と言うと、神通の車が中天に上がる所を、80人の鬼どもが一度に磯を吹き出して車を目掛けて吹き付けた。そこで、田村殿の剣と鈴鹿御前の剣と四の剣を天地に投げると、たちまち80人の鬼どもに首を打ち落とした。

これにより、高丸の軍勢は親子を合わせて7人になってしまった。それから日本と唐土の境にある"しゆかはら"の東の秩父の岩屋に引きこもって守りを固めた。そこで田村殿が「海底に入れれば攻めようがない、一旦退くぞ」と言うと、鈴鹿御前は「それが大将軍のお言葉ですか。私は討つまで帰るつもりはありません。私は飛行自在の特を得ていますので、すかし致して討ち取ってみせましょう」と言って、紅の扇を上げて招くと、空から12の星が降りてきて、雲の上に舞台を組み、秩父の岩屋の上で3時間ばかり遊び回った。

その時、高丸の娘の"きはた御前"が父に向かって「私が天竺に居た時に天人の舞を見ましたが、これほど面白いことはありません。どうしてもあれを見てみたいです」と言うと、高丸は「あれは誠の天人の舞ではない。我らを討とうと謀っておるのだ。だから、見せることはできぬ」と言った。しかし、娘は我慢できずに高丸の言うことに背き、少し覗いて見るとよく見えなかったので、戸を半分ほど開けて見ると面白い様子が見えた。娘はこれに興奮してさらに戸を広く開けたので、鈴鹿御前が「田村殿、あれを見て下さい」と言うと、田村殿は「高丸が左眼を出したな。私が討ってみせよう」と言って矢を射放つと、その矢は高丸の首に刺さり、骨ごと射落とした。そして剣を投げると、たちまち7人の首を刺し貫き、そのまま天に舞い上がった。

田村殿と鈴鹿御前の大嶽退治


高丸を討てたことを喜んだ田村殿は「さあ、高丸の首を取って都に帰ろう」と言うと、鈴鹿御前は「高丸を討ってまた一緒に暮らせると思っていましたが、また離れてしまうのですね。私は悲しく思います。今までは言っていませんでしたが その故は、陸奥国の霧山岳という所に大嶽という鬼が この3年の間、私に言い寄ってきており、拒んでも聞き入れようとしません。この大嶽は明日にも私を取ろうとしています。田村殿は早々に都に帰ってください。私が取られてしまっては都に帰れなくなります。さあ、早々に都に帰りなさい」と言った。

これに田村殿は「本当にその気があるのなら、とっくに取りに来ているだろう」と言うと、鈴鹿御前は「私が今まで大嶽に取られなかったのは、田村殿を想っていたからこそです。今3年と言ったのは、この大嶽を討てという宣旨を被らせるためだったのです。この大嶽は、高丸を千人集めて100年200年攻めようが、千万の剣を持って攻めても敵わないでしょう。ですので、敢えて取られて行こう思っている理由に、私が大嶽の心を3年のうちに誑かし、魂を抜いて、田村殿に易々と討たせようという魂胆があるからです」と言った。それを聞いた田村殿は、ただただ泣くばかりであった。

それから、田村殿は都に高丸の首を持ち帰って帝に差し出すと、詮議が行われた後に宣旨があり、田村殿を良将として仰がぬ者は居なくなった。その後、陸奥国の霧山岳に鬼が居て、王朝を乗っ取ろうとしているので、急いで討ち取れとの勅命が下った。田村殿は予てより知っていたので了承した後に、ソハヤノツルギを帯び、龍馬(りうむま)に金覆輪の鞍(きんふくりんのくら)を置き、御伴に"かすみのけんたい"という大将を連れて、陸奥国に向かった。

その時、龍を空に引き向けると、空に上って程なくして陸奥国の霧山岳の雲の釣殿に到着した。鈴鹿御前は 時々 昼寝していたが、魂は中央にあって遊んでいたので、田村殿を招こうと門に入れ、そこで鈴鹿御前の手を動かして「恋見ても 人の心は けふはまた 浮世に残る 形見なりけり」と恋しい気持ちを伝えた。

田村殿が周囲を見渡してみると、黒鉄の築地で囲まれている様子が見られた。そこで鈴鹿御前は涙を流して「この2,3年の間、鈴鹿山のショウリュウの元を訪れていません。風の便りも無いので恨めしくていつも涙を流しています。田村殿はこのような所にも容易く来るだろうと思っておりました。ですので、こうして再会できたことを嬉しく思います」と言った。そこで、しばらくして田村殿が「ところで大嶽は何処に居るのだ」と問うと、鈴鹿御前は「既に一の魂は抜きましたので、安心して討つ事が出来るでしょう。大嶽はこの城の上にいます。3月中の午の日に天降るはずです。そのとき珍しい会式をしようと、大唐の姫君、契丹国の姫君を集めて、その中から見た目の良いものを取ろうとしています。明日の未の時に此処に来るでしょう」と教えた。

そこで田村殿は「後世に伝える物語に、大嶽の住処を見たいものだ」と言うと、鈴鹿御前は「簡単なことです」と大嶽の住処を見せた。その様子は、ある所に 綾錦、隠れ蓑、隠れ笠、ハコウシヤウの鎧、打出の小槌 などが据えてあり、別の所を見れば、今まで捕えてきた人々の死骨が積み上げてあり、ひどく嘆かわしい有様だった。

その後、鬼の帰る時間になるということで、田村殿は四方に剣を立て並べ、神通の槻弓を張り、大嶽の帰りを待ち受けた。すると、今まで雲が無かった空が突然曇り出し、雷鳴が轟き、雨風が激しくなってきた。田村殿は高い櫓の上で この様子を見ていたが、大唐の姫君と思わせる女を6人の鬼が引き連れていた。また、大嶽自身は光を放ち、ケンショウキウの剣を持って「不思議なことよ。眷属どもが人間の声がするというので見てみれば、我らの敵が来ているではないか。葦毛の馬があるのはきっと田村という曲者が来ているからだろう」と言って門の近くにやってきた。

そこで大嶽が聞き耳を立てると、中で田村殿と鈴鹿御前の話し声が聞こえたので、大嶽は腹を立てて「帰ってきたぞ」と大声で喚くと、その声で門が敗れ、築地も崩れたので、そこから大嶽が入ってきた。そこに現れた大嶽の姿は、身の丈40丈(121.2m)ばかりに見え、その眼の数は72、面の数は60あった。そして、天地を揺るがせて五色の息を吹き出している。大嶽は激怒して「田村を捕らえよ」と眷属どもに命じると、田村殿は落ち着いて「噂に聞いた鬼をこうして眼で見ると、なんとも無惨な有様である。日本の我が朝には御裳川が流れ、十全の君が座し、その御遣いで私がやって来た。もしお前が命乞いをしようとも、助けるか助けないかは我がままである」と言った。

これを聞いた大嶽は嘲笑って「日本という小国の王など王の内に入るまい。天竺には童の主のサ大天に2人の王子、センサイ王、また父鬼の王など 50の王がいる。天竺にいるモン王の位に勝ることはない、唐土には7人の帝がいる。粟散なる僅かな秋津国(日本)を領する王など王とは言わん。ましてやお前に命乞いなどするわけがない。いざ微塵としてくれよう」と言い、大嶽を先頭に6人の鬼を引き連れて喚きながら掛かってきた。

そこで田村殿は剣に「失敗するなよ」と言葉を掛けると、四方に立てた剣の切っ先が揃ったので、これを見た鬼どもは「なんだこれは、命あってこその大嶽殿に仕えられる…」などと言いながら逃げ去っていった。この後、大通連と小通連の2本の剣は天地に入って攻め立て、ソハヤノツルギは天空から下りて攻めたので、ついに眷属どもは死に絶えてしまった。こうして一人残された大嶽は田村殿の剣から逃げ回ったが、剣は追うのを止めなかったので、大嶽が地中を破って土に潜って避けようとすると、地神に下から攻められて眷属諸共に地中に落ち失せてしまった。

この後、大嶽の首は天竺に向かって、クタノ王に「田村を討つべし」と言った。これを知った鈴鹿御前は「大嶽の首は今 空から落ちかかっています。用心しなさい」と言って、田村殿に鎧3両と兜10枚を重ねて着させた。すると、案の定 空から喚きながら首が降ってきて田村殿に噛み付いた。そのとき、鈴鹿御前が顕明連の剣を持って首に止めを刺した。このことから、兜にクワガタという者が付くようになった。

鈴鹿御前の死


それから、田村殿は鬼どもを皆焼き払って、大嶽の首を都に持ち帰えることにした。そこで田村殿は「大嶽を討ったことで鈴鹿御前と共に都に上れる」と喜んだが、鈴鹿御前は「私はあなたとショウリュウを共に育てていきたいと思っておりましたが、諸行無常の習いにて、自らの死期を定めました。鈴鹿山の主は、下の果報の者は12年を過ごし、中の果報の者は16年を過ごし、上の果報の者は25年が限りになります。ですので、私は上の果報の者で今年で25年になります。よって、心苦しく気の毒ですが、この8月15日を以って私の天命は尽き、独りであの世へ行くのです。ですので、ショウリュウのことが心配で心残りです」と言って大いに涙を流した。

それを聞いた田村殿は「とにかく共に鈴鹿に向かい、どうなるか分からないが最期まで見届けたいと思う」と言うと、鈴鹿御前は「どうしました、そのように嘆かないでください。大嶽の首を帝に届けずに鈴鹿に向かうなどあってはならないことです。せめてショウリュウが15歳になるまで生きていたいと思っていました…」と言ってまた涙を流した。それから、田村殿は都へ、鈴鹿御前は鈴鹿山へと、別れて向かうことにして神通の車に乗り込んだ。

この後、田村殿は大嶽の首を持って都に入った。そこで帝に首を見せると、大いに喜んで様々な恩賞を与えた。また、大嶽の首は末代まで伝えるために宝蔵に納められた。それから、田村殿は急いで鈴鹿山に向かい、門を開けようとした時に人のすすり泣く声が聞こえたので、嫌な予感がして急いで入って中を見ると、ショウリュウが「あと7日です」と言って、鈴鹿御前の枕元の傍で泣いていた。そこで田村殿も近寄って「動かなくて良い」と言うと、夢であってほしいと思いながら大いに嘆き、鈴鹿御前の手を取って胸に押し当て「今一度 物を申せ、約束が違うぞ」と言ってまた嘆いた。

しばらくすると、鈴鹿御前は苦しそうな息をついて「今一度、逢えて良かったです」と言って、大通連と小通連の2本の剣を田村殿に与え、顕明連をショウリュウに与えた。そこで、鈴鹿御前は「私が飛行自在の如くというのは、この顕明連を朝日に当てて三千大千世界を眼前に見ているからです。ショウリュウを守り、いつまでも末永くショウリュウを愛してやってください。このショウリュウは私に劣らぬ神通の者になりましょう。では私は暇をいただくことにします」と言って息を引き取った。それから姿も変わり果ててしまい、どうしようもなくなってしまった。この後、田村殿はこの「7日」という事を思い詰めすぎて、とうとう死んでしまった。こうして、ショウリュウ両親を失い、田村殿は冥土に行ったのである。

冥土では、倶生神をはじめとした者どもが、何事かと怪しんで門を開けると鈴鹿御前が居たので、者どもは「これは伊勢国の鈴鹿山という所で成業された女人で、限りが来て25年で命が尽きたのだ。これは上界の天人だぞ。仮に縁が深くて娑婆に出入りしたことで男女の習いで仮初めの縁を結んだが、思い死んだのだ。その焔は火となって帝釈天をも焼くだろう」と言った。

その後、田村殿も冥土に来たので、閻魔大王は「これは非業の者だぞ。早々に娑婆に返せ」と獄卒に命じると、急いで返そうとしたが、そこで田村殿が「私が一人で娑婆に帰った所で意味がない。どうか鈴鹿御前も共に帰してもらいたい」と手を合わせながら涙を流して頼んだが、閻魔大王は「この女は成業の者である。よって、お前は早々に帰るが良い」と言った

これに腹を立てた田村殿は、獄卒を押し分けて前に出て「この田村も只者ではないぞ」と言い、文殊の智剣である大通連を怪力を以って振るうと、獄卒や帝釈天を燃やしたので、閻魔大王も倶生神も大いに騒ぎ、閻魔大王が「帝釈天が滅びれば、冥土界が大変なことになる。ならば3年の暇をやって、田村も鈴鹿御前も娑婆に返すことにしよう」と言うと、倶生神が「この天女は既に身体が無くなっております。田村殿は非業の死なので返すことが出来ますが…」と言った。

これに閻魔大王は「急いで帰せ、女人も只者ではない上界の天女であるぞ。ならば、この天女と同じ年に生まれた近江国の東海という所に生まれた女と入れ替えよ」と言うと、田村殿は「元のような姿でない女と入れ替えるなど、なんと浅ましいことよ」と言ったので、閻魔大王は「では不死の薬を与えてやろう。これで元通りの美しい姿となるだろう」と言うと、田村殿は冥土で3年過ごした後に鈴鹿御前と共に娑婆に帰っていった。なお、冥土の3年は娑婆の6年に当たる。

こうして、二人が鈴鹿山に戻ると、田村殿はまた都に上るようになり、やがて新たに多くの姫君を儲けて、田村殿は永く将軍を仰がれるようになった。また、ショウリュウは鈴鹿の守護神となり、永い間 鈴鹿の主と言われるようになった。衆生済渡の方便であるが、鈴鹿を信じる人は必ず願いが成就するという。だが、そうでなければ日本は鬼の世界になるのだとか。よくよく聞いて鈴鹿に参るべし。ああ、恐れ多い。

主要な登場人物


人物

・俊佑(としすけ):俊仁の父(源氏の将軍とされる)
・俊仁(としひと):田村殿の父で、悪路王を討伐した(人と大蛇の間の子)
 ・日龍(にちりゅう):俊仁の幼名
・照日御前(てるひのごぜん):俊仁の正妻
・田村殿(たむらどの):俊仁の子で、様々な鬼神を討伐した
 ・臥丸(ふせりまる):俊仁と陸奥国の賤女の間に出来た子(後の田村殿)
 ・日龍(にちりゅう):臥丸が父・俊仁の幼名を受け継いだ時の名
 ・稲瀬五郎俊宗(いなせのごろうのとしむね):田村殿の正式名称
・鈴鹿御前(すずかごぜん):鈴鹿山の天女で、田村殿の妻となった(立烏帽子とも)
・ショウリュウ:田村丸と鈴鹿御前の娘で、鈴鹿御前の後に鈴鹿山の主となった

化物

・益田ヶ池の主(ますたかいけのぬし):俊仁の母
・ミツクシノタケ:見馴川に棲む大蛇で、日龍に討伐された(日龍丸の伯父)
・悪路王(あくろおう):陸奥国に棲む鬼で、俊仁に討伐された
・カナツブテ:かなつぶてを扱う怪僧で、田村殿に討伐された(コンサウ法師という)
・悪事の高丸(あくしのたかまる):近江国の鬼で、田村殿と鈴鹿御前に討伐された
・大嶽(おおだけ):陸奥国の霧山に棲んでいた大鬼で、田村殿と鈴鹿御前に討伐された