大武丸【オオタケマル / オオダケマル】
珍奇ノート:大武丸 ― 岩手県に伝わる鬼の頭目 ―

大武丸(おおたけまる)とは、陸奥国の岩手山に住んでいたとされる鬼もしくは蝦夷の頭目のこと。

岩手山の周辺一帯を支配して悪事を働いていたことから、坂上田村麻呂に討伐されたと伝えられている。

岩手県・宮城県・福島県などに伝説があり、その一部には英雄視する内容もものもある。


基本情報


概要


大武丸は、岩手県に伝わる鬼あるいは蝦夷の頭目で岩手山の周辺一帯を支配していたとされており、悪事を働いて良民を苦しめていたことから、坂上田村麻呂に討伐されたと伝えられている。この大武丸の伝説は東北地方の各地に数多く残されており、その中でも色濃い伝説のある岩手県滝沢市には以下のように伝えられている。

昔、達谷岩屋を根城とした高丸(悪路王)は、岩手山の麓に住む大武丸と共謀して坂上田村麻呂を夜襲したので、田村麻呂は逃げ出すことを余儀なくされた。その後、数年にわたって戦い、田村麻呂は高丸兄弟を討ち取った。

大武丸は姥屋敷の南の長者館を根城にしていたが、後に岩手山の9合目の鬼ヶ城に移り住んだ。この大武丸は、巨体で怪力と機敏さを持ち合わせており、酒と女を好んでいた。また、巧みな戦術を用いる者で、柴波・稗賀・下閉伊辺りに11人の頭目を配してそれぞれに子分を持たせ、良民から略奪させることを常としていた。

田村麻呂は雫石西根の篠崎八郎という者を案内役として大武丸の足取りを追い、岩手山の鬼ヶ城に攻め込んだ。すると、大武丸は田村麻呂の猛攻に耐えかねて外に逃げ出したが、やがて疲れて力尽きたので田村麻呂の部下が諸葛川の河原で大武丸の首を討ち取った。そこで当時の習いに従って耳を切り取り、高丸兄弟のものと共に都に送られたという。

以上が滝沢市の伝説をざっくりまとめたものになるが、この伝説に登場する大武丸の特徴は、長身、醜い顔、怪力、機敏、戦術家、酒好き、女好き、というもので、山木(加工されてない木)を弓として使っていたとされる。また、大武丸が鬼ヶ城から逃げ延びる際には多くの地名が生まれたとされている。

また、遠野市には、大武丸(大岳丸)が玉山立烏帽子姫という女性に言い寄っていたという伝説もあり、これによれば 立烏帽子姫は大岳丸の誘いに応じることはなく、田村麻呂の案内役を務めて岩手山の大岳丸を討ったとされている。

また、奥州市には、人首丸という大武丸の子の伝説が残っており、これによれば 田村麻呂は悪路王を討った後に、その弟の大武丸を討ったが、その子の人首丸は江刺まで逃げのびて、当地の鬼ヶ城と呼ばれる絶頂の岩窟に隠れたとされる。しかし、田村麻呂の部下によって発見され、山道で挟み撃ちにされて殺されてしまったという。また、同市には「鬼石」と呼ばれる巨石が残っており、この石に付いた痕は大武丸の金棒痕あるいは田村麻呂の馬の馬蹄痕と伝えられている。

また、一関市には「鬼死骸」という地名が残っており、『安永風土記』によれば 田村麻呂が討ち取った大武丸の死骸を埋めたために この名で呼ばれるようになったとされている。

また、八幡平市の「長者屋敷」は大武丸の配下で高丸悪路の一子の登喜盛の居城であったとされ、ここに伝わる伝承では「大武丸は大和朝廷の侵略に対抗した英雄」として語り継がれている。

宮城県の大武丸(大竹丸・大武麻呂)
宮城県にもいくつかの大武丸伝説が残されている。

石巻市の伝説によれば、田村麻呂は大武丸を討った後に 首・胴・四肢 を3箇所に分けて埋葬し、それぞれの墓上に観音堂を建てた。その観音堂は 牧山観音(牧山)・富山観音(松島町)・箟岳観音(涌谷町)であり、これらは奥州三観音と呼ばれている。また、牧山には大嶽丸の妻あるいは妾の魔鬼女という鬼女が棲んでいたとも伝えられている。

栗原市・大崎市の伝説によれば、大武丸(大竹丸・大武麻呂)は栗原の地で田村麻呂に首を打ち落とされ、その時に首が西の空に飛んで今の大崎市に落ち、そこから湯が吹き出したという。それから大武丸の首が落ちた所を「鬼切辺(後に鬼首)」と呼び、湯が吹き出た場所を「吹上」と呼ぶようになり、湧き出た湯は今の鬼首温泉となったとされている。

福島県の大武丸(大竹丸)
福島県にもいくつかの大武丸伝説が残されている。

郡山市の伝説によれば、大武丸は田村麻呂の父である刈田丸(刈田麻呂)に討たれたとされる。この伝説では、刈田丸はこの戦の際に陣中で怪しい光を見て、これを追っていくと三国一の醜女と出会ったとされ、この醜女に契りを籠めると後に田村麻呂が誕生したという。なお、この伝説では田村郡という地名は田村麻呂に由来しているとされている。

伊達郡の伝説によれば、田村麻呂は蝦夷の首長の大竹丸を追って当地にやって来た際に、大竹丸の弟の赤頭太郎を討ったとされる。その後、赤頭太郎の祟りを恐れた村人たちは社を建てて赤頭太郎を祀り、赤頭大明神として崇めたとされている。

補足
大武丸の表記について

この大武丸の表記は伝説によって異なり、大猛丸・大岳丸・大嶽丸・大竹丸・大武麻呂 と書き表されることもあるが、当時は音に漢字を当てた万葉仮名を使っていたこともあり、これらは同一の存在を示すものと考えられている。ただし、青森県に伝わる大丈丸や、福島県の田村市や郡山市に伝わる大多鬼丸の説話は明らかに内容が異なっている。

悪路王、高丸との関係


岩手県磐井郡の達谷窟には、悪路王高丸赤頭という蝦夷が根城にしていたという伝説がある。滝沢市の伝説によれば、大武丸は悪路王や高丸とは別の集団であったが共謀して田村麻呂と戦ったとされており、八幡平市の登喜盛伝説では、大武丸の配下だったといわれている(ただし、登喜盛が大武丸配下であっただけとも取れる)。その一方で、欧州市の人首丸伝説では、大武丸は悪路王の弟とされている。だが、多くの伝説を見ると、別の集団とされていることが多いように見られる。

赤頭との関係


大船渡市や陸前高田市には、大武丸の残党とされる赤頭(金犬丸)・早虎・熊井(猪熊)の伝説があり、赤頭は気仙地方を支配していたといわれる。この3人は大武丸の残党狩りの際に田村麻呂あるいは副将・別府隼人に討ち取られて土中に埋葬され、その上に観音堂を建てられたとされており、この観音堂は気仙三観音と呼ばれているという。

また、福島県に伝わる大竹丸には弟に赤頭太郎(赤瀬太郎)がいたとされる。この赤頭太郎は領民の安全のために自ら投降したともいわれており、地元では英雄視されていることもある。

大嶽丸との関係


御伽草子や浄瑠璃には「大嶽丸」という鬼神が登場するが、これは恐らく この「大武丸」あるいは福島県の「大多鬼丸」がモデルになっていると思われる。

なお、この大嶽丸は身の丈30m以上の巨体であり、変身能力や森羅万象を操る能力を持っているとされ、作品によっては三明の剣と呼ばれる3本の剣を持っていたために日本が総出で掛かっても倒せないと称されている。

このように大嶽丸は史上最強級の悪鬼として描かれていることが多く、酒呑童子、玉藻前(九尾の狐)と並んで日本三大妖怪に数えられることもある。

データ


種 別 伝説上の人物、鬼
資 料 『安永風土記』、東北地方の伝承
年 代 平安時代
備 考 東北地方には複数の大武丸伝説がある

大武丸の関連スポット
・鬼死骸(地名):大武丸の死骸を埋めた場所に由来(岩手県一関市真柴辺周辺)
・鬼首(地名):大竹丸(大武麻呂)の首が飛んで落ちてきた場所(宮城県鳴子町 鬼首温泉)
・鬼手(地名):鬼の手骸が落ちてきた場所(宮城県片馬合手柄沢)
・鬼石:大武丸の鉄棒痕あるいは田村将軍の馬蹄痕が付いた巨石(岩手県奥州市水沢大手町5丁目)
・人首(地名):大武丸の人首丸が逃げたところ(岩手県奥州市江刺区米里字荒町)

大武丸に類似するもの


青森県の大丈丸
青森県には、坂上田村麻呂が大丈丸という悪者の頭と戦ったという伝説がある。

これによれば、大丈丸は駿河国や伊勢国まで出向いて都に向かう人々に悪事を働いていたとされるが、田村麻呂が攻めると平内山(浅虫温泉)の砦に立て籠もったという。この砦は海に囲まれていたので容易に近づけず田村麻呂が攻めあぐねていると、家来が"砦の外で太鼓や鉦を鳴らして祭りを装えば大丈丸も砦から出てくるでしょう"と進言した。

そこで田村麻呂は巨大な張り子人形を作らせて中に兵を仕込み、これを山車に乗せて中で火を灯し、山車を走らせながら太鼓や笛の音を響かせて祭りを装った。すると、物珍しさに大丈丸が出てきたので、張り子人形の中から一斉に飛びかかって大丈丸を討ち取ったという。また、この後に八甲田山の籠った大丈丸の残党の阿屋須と屯慶も同様の方法(茅人形とされる)で討ち取り、これが青森ねぶたの基になったとされている。

秋田県の大長丸

『房住山昔物語』によれば、秋田県の房住山には阿計徒丸・阿計留丸・阿計志丸という長面三兄弟と呼ばれる鬼が棲んでいたとされ、この3人は坂上田村麻呂が蝦夷征討の残党狩りを行った際に討ち取られたとされる。最初は次男の阿計留丸が討たれ、次に三男の阿計志丸が討たれたが、長男の阿計徒丸は逃げのびた。

その後、阿計徒丸は都に奏上した寺の僧侶たちに復讐に向かったが、ここで大声で名乗りを上げた際に、周辺を支配していた優れた者の名を「大長丸」であると言っている。ただし、その大長丸はこの時には既に田村麻呂に討たれてしまっていた。なお、別説に阿計徒丸自身が大長丸と名乗ったとする話もあるらしい。

福島県の大多鬼丸

福島県には、坂上田村麻呂が大多鬼丸という鬼と呼ばれた蝦夷の首長と戦ったという伝説がある。なお、伝説によっては悪路王大武丸や悪路王大滝丸と呼ばれることもある。

郡山市の伝説によれば、大多鬼丸は生まれた時から角が生えていたとされる。早熟で並の人間よりも長身であり、性格も荒々しかったため、村人たちに粗暴な振舞いをしたという。それから村人たちに謀殺されそうになったので、村を逃げ出して大滝根山に移り住み、手下を引き連れるようになって周辺を荒らし回るようになったので、勅命によって田村麻呂が派遣されたという。その後、大多鬼丸は田村麻呂と戦ったが、大滝根山の鬼穴で敗れて紀伊国の熊野に逃げて行ったとされている。だが、これとは逆に大和朝廷の侵攻から土地を守るために戦ったという伝説もある。

田村市の伝説によれば、大多鬼丸は大滝根山を根城として良民を苦しめていたことから、勅命によって田村麻呂が派遣されたという。田村麻呂は苦戦しながらも大多鬼丸を果敢に攻めたので、大多鬼丸は鬼穴に追い詰められてそこで自害したという。だが、これとは逆に、大多鬼丸は大滝根山の白銀城から周辺を平和に治めていたが、そこに大和朝廷の者がやって来て領土と領民の譲渡を要求してきたので、大多鬼丸が断ると、朝廷は田村麻呂を派遣して平定するように命じたという。そこで、大多鬼丸は鬼五郎らと共に奮闘したが、数に勝る朝廷軍に追い詰められて鬼穴で自害した という伝説もある。