珍奇ノート:大武丸の伝説



『安永風土記』


鬼死骸村


往古は吾勝郷(あかつごう)と呼ばれていたが、田村将軍が夷賊を退治した折に賊主の大武丸の死骸をここに埋めたので、それ以来、この村名で呼ばれるようになった。

岩手山の大武丸(岩手山近辺)


昔、岩手山の山頂にある鬼ヶ城に大武丸という鬼が棲んでおり、周辺一帯を支配していた。延暦16年(797年)に坂上田村丸が討伐に向かうと大武丸は霧深い鬼ヶ城の中に立て籠もった。田村丸は霧の晴れるのを待って一挙に攻め入り、大武丸を八幡平に追いつめて滅ぼした。

その後、岩手山には神となった田村丸が岩鷲大権現として現れ、烏帽子岳(乳頭山)には田村丸の妻である立烏帽子神女が現れ、姫神山には田村丸と立烏帽子神女の娘の松林姫が現れたという。

田村麻呂の大武丸退治(岩手県滝沢市)


昔、南方の達谷岩屋に住む高丸すなわち悪路王が、北方の岩手山麓に住む大武丸と呼応し、坂上田村麻呂を夜襲して挟撃したので、鬼神のような田村将軍も逃走を余儀なくされた。その後、野戦は数年にわたって行われ、田村将軍は辛うじて高丸兄弟を討ち取った。

大武丸は姥屋敷南方の長者館を根城にして、柴波・稗貫・下閉伊地方に11人の親分を配置し、親分のそれぞれに子分を付けさせて、付近の良民から略奪することを事としていた。大武丸の身長は大きく、顔は醜く、機敏で7,8人力を持ち、山木(加工していない木)の強い弓を引き、戦術は大層巧みであり、大酒を好み、常に婦女子を側に侍らせていた。

田村将軍は、雫石西根の篠崎八郎を案内役として大武丸を追い回して戦い、岩手山の9合目の鬼ヶ城に縄梯子を使って上り下りし、その坑内を居城としていた大武丸を攻め立てた。すると、大武丸は耐えかねて坑外に逃走し、御神坂から盗人森に差し掛かり、元の居城の長者館を経て、燧堀山の北側の坂を下って行った。これを見た人々はそこを「鬼越坂」と名付けた(この他にも鬼越・鬼古里山の地名が現存している)。

その後、大武丸は逃走に疲れて力尽きたので、田村将軍の部下が諸葛川の河原で大武丸の首を討ち取った。そして、当時の習いとして耳を切り取り、それを塩漬けにして、高丸兄弟のものと共に都に送り、田村将軍らも帰京して復命したという。このことから、耳を切り取った場所は「耳取」と名付けられることになった。

なお、田村麻呂は大武丸がなかなか服さなかったので、岩手山の神霊に祈念した。その後、大武丸を討ち取った際に、その神徳によって平定できたと捉えたので、凱旋する際に従臣の斉藤五郎兼光を別当として、神霊を厚く祀らせたという。

三女神伝説(岩手県遠野市)


坂上田村麻呂が東夷征討に向かった頃、奥州に国津神の後胤である玉山立烏帽子姫という者がおり、その美貌から夷の首長・大岳丸に言い寄られていたが応じることはなかった。田村麻呂は立烏帽子姫の案内によって夷を討伐し、岩手山で大岳丸を討ち取った。

この後、田村麻呂と立烏帽子姫は夫婦となって一男一女を産んだ。その名を田村義道、松林姫という。その後、義道は奥州安倍氏の祖となり、松林姫は お石、お六、お初 という三女を産んだ。この三女は各地にいた牛や鳥に乗って集まり、その場所を附馬牛という。

天長年間(824~834年)、お石は守護神として崇敬していた速佐須良姫の御霊代を奉じて石上山に登り、お六は守護神の速秋津姫の御霊代を奉じて六角牛山に登り、お初は瀬織津姫の御霊代を奉じて早池峰へと登った。

人首丸伝説(岩手県奥州市)


昔、坂上田村麻呂が蝦夷征討にやって来た時、蝦夷の酋長・悪路王を磐井で討ち、さらに その弟の大武丸を追討して栗原で捕えて殺した。その子の人首丸(ひとかうべまる)は逃げ延びて江刺に来て、この地の大森山に入り、絶頂の岩窟(俗に鬼が城と呼ぶ)に隠れた。しかし、田村麻呂の部下の田原阿波守兼光という者が遠見を物見山(種山)に置き、山道にて挟み撃ちにして人首丸を殺した。そこに死体を葬り観音堂を建てた。

登喜盛伝説(岩手県八幡平市)


長者屋敷は、奈良時代に大武丸の配下で高丸・悪路の一族の登喜盛が立て籠もった館で登喜盛屋敷と呼ばれていた。登喜盛の一族は各地から財宝を略奪してこの屋敷に蓄えていたが、征夷大将軍の坂上田村麻呂に討たれて滅ぼされたという。その後、坂上田村麻呂は当地の霊泉から湧く清水で太刀を洗ったことから、この清水は「太刀清水」と呼ばれるようになったという。

奥州三観音の由来(宮城県石巻市)


昔、坂上田村麻呂が奥州の達谷窟にいた大武丸、高丸、悪路王を討った時、大武丸の首・胴・四肢を3箇所に分けて埋め、それぞれの上に観音堂を建立した。その観音堂は 牧山観音(牧山)・富山観音(松島町)・箟岳観音(涌谷町)であり、これらは奥州三観音と呼ばれている。

大嶽丸と魔鬼女の伝説(宮城県石巻市)


その昔、箟岳山には大嶽丸という鬼が棲んでおり、魔鬼山(牧山)には妾の魔鬼女が棲んでいた。この鬼たちは坂上田村麻呂によって討伐されたが、田村麻呂は帰京する際に魔鬼女の髻(もとどり)を納めた聖観音を本尊とした魔鬼山寺を建立し、魔鬼女の霊を慰めたという。

梅渓寺(牧山観音)の由来(宮城県石巻市)


延暦17年(798年)、延鎮によって魔鬼山(牧山)に魔鬼山寺が創建された。その当時、魔鬼山には蝦夷の頭領の一人であった大嶽丸が住んでいて周辺の良民を苦しめていたことから、都から坂上田村麻呂が討伐に派遣された。田村麻呂は苦戦の末に大嶽丸の妻(または妾)の魔鬼女を討ち取り、その菩提を弔って魔鬼山寺に葬った。また、魔鬼女の祟りを恐れて観世音菩薩(牧山観音)を安置した。その後、この観世音菩薩は、富山観音(松島町)、箟岳観音(涌谷町)と共に奥州三観音に数えられることになった。

鬼首の地名由来(宮城県栗原市)


延暦20年(801年)、蝦夷征討の折に坂上田村麻呂が「鬼」と呼ばれて恐れられていた蝦夷の首長・大竹丸と戦い、首を打ち落とした際に首が飛んでいき、その首が落ちた場所を「鬼切辺(おにきりべ)」と呼ぶようになった。後に鬼切辺が訛って「鬼首」という地名になったと伝えられている。

田村麻呂の大武麻呂退治(宮城県大崎市 鳴子温泉)


坂上田村麻呂が蝦夷の頭目の大武麻呂を捕えて箆岳山で斬首した。その首は泣きながら西の空に飛んでいき、落ちたところから湯が吹き上がった。よって、その場所は「鬼首」と呼ばれるようになり、そこから吹き出した湯を「吹上」という。

刈田丸と田村麻呂の伝説(福島県郡山市)


国見山で大武丸が反乱を起こした時、刈田丸(刈田麻呂)が討伐に派遣された。そこに刈田丸が陣を敷くと、陣中に怪しい光が差し込んだので その光を追っていくと、木賊田村の清水で根芹を摘んでいる三国一の醜女が目に入った。そこで、刈田丸がその醜女を伴うと、珠のような男児が生まれた。

その後、刈田丸が大武丸を倒すと都に帰っていった。それからしばらくして男児が成人になると、父の刈田丸に逢いに都に向かった。男児が刈田丸と対面するとそこで田村麻呂と名付けられた。田村郡という名は田村麻呂の出身地であることに因んで名付けられたという。

益子神社にまつわる伝説(福島県伊達郡桑折町)


昔、陸奥国に大竹丸という蝦夷の首長がおり、坂上田村麻呂が東征の折に討伐に向かった。この際に伊達郡で大竹丸の弟の赤頭太郎(赤瀬太郎)を討つと、その祟りを恐れた村人たちは社を建てて赤頭太郎を祀り、赤頭大明神(赤瀬大明神)として崇めたという。その後、赤頭大明神は益子神社と社名を改められた。なお、赤頭太郎は大男だったとされており、後世に赤頭太郎の墓を掘り起こすと、馬のように大きな骨が出てきたともいわれている。