土蜘蛛(民族)の伝説
スポンサーリンク
資料の伝説
『古事記』
(イワレビコが日向国から東征に出た時のこと。)
イワレビコ(神武天皇)が忍坂の大室に到ると、そこには尾の生えたツチグモヤソタケル(土雲八十建)が唸り声を上げながら岩屋で待ち受けていた。
イワレビコはツチグモらのそれぞれに膳夫(料理人)を付き添わせて御馳走を振る舞うことにし、膳夫に刀を持たせて「歌を聞いたら一斉に斬りかかれ」と命じた。そして、
忍坂の 大室屋に 人多に 来入り居り 人多に 入り居りとも みつみつし 久米の子が 頭椎 石椎もち 撃ちてし止まむ みつみつし 久米の子等が 頭椎 石椎もち 今撃たば良らし
(忍坂の大きな土室に、大勢の人が入り込んでも、大勢の人が来て入り込んでも、勇ましい久米の猛者たちが、太刀や石斧で撃たずにおくものか、力満ちた久米の猛者たちが、太刀や石斧で今撃てばよい)
と歌うと、膳夫は刀を抜いて一斉にツチグモを斬り殺した。
『日本書紀』※土蜘蛛の登場部分を抜粋
(神武天皇が大和国を治めていたニギハヤヒを従えた後のこと。)
大和国の層富県の波多丘岬には新城戸畔者(ニイキノトベ)、和珥坂下には居勢祝(コセノハフリ)、臍見の長柄丘岬には猪祝(イノハフリ)という3人の土蜘蛛がおり、これらの者たちは武力を以って天皇に抵抗していた。そこで天皇は兵を派遣して全員を誅殺させた。
また、高尾張邑にも土蜘蛛が居た。その人となりは、身長が低く、手足が長くて、侏儒(わきひと)※のようであった。皇軍は葛を編み、これで襲って殺したので、その村を葛城と名付けた。
※侏儒:背丈が並み外れて低い小人、あるいは見識のない者
(景行天皇が熊襲征伐のために九州に向かった時のこと。)
碩田国の速見邑に至ると、そこの首長である速津媛(ハヤツヒメ)が出迎えて「この山には大きな石窟があり、そこは鼠の石窟と呼ばれています。そこには青と白という土蜘蛛が住んでいます。また、直入県の禰疑野には打猿(ウチサル)・八田(ヤタ)・国摩侶(クニマロ)という土蜘蛛がいます。この5人の土蜘蛛は、並の者よりも力が強く、仲間も多いので、皆が天皇に従わないと言っています。もし、無理に呼び寄せようとするならば、兵を起こして反抗するでしょう」と天皇に教えた。
これを聞いた天皇は難色を示して、來田見邑に仮宮を建てて そこで対策を練ることにした。そこで天皇は群臣を集めて「今から大勢の兵を動かして土蜘蛛を討とうと思う。もし土蜘蛛が我らの兵の勢いを恐れて山野に隠れてしまえば、必ず後の憂いとなるだろう」と言った。
そして、すぐに海石榴を採らせて、それで槌を作って武器を造らせた。また、勇猛な卒(兵士)を選んで槌を与え、山を掘らせたり草を払わせたりして、土蜘蛛の住む石室に攻め入らせた。そこで、兵たちは稲葉の川上で土蜘蛛を破り、仲間もすべて殺してしまった。すると、その血が流れて、くるぶしにまで達した。当時の人は、海石榴で槌を作った所を海石榴市(ツバキチ)と呼び、血が流れた所を血田(チタ)と呼んだという。
それからウチサルを討とうと禰疑山に向かうと、敵の矢が雨のように飛んできたので、天皇は一旦 城原に帰って水上で占いをさせた。そして兵を整えて禰疑野でヤタを討ち取ると、ウチサルは恐れをなして服従を願い出たが、天皇は聞き入れなかった。それで、ウチサルとその仲間たちはすべて潤谷に落として殺してしまった。
(景行天皇が九州で熊襲を平定した後のこと。)
高来県から玉杵名邑に渡った時、その土地の土蜘蛛津類(ツチグモツヅラ)を殺した。
(神功皇后が九州に熊襲征伐に向かった時のこと。)
皇后は山門県で土蜘蛛の田油津媛(タブラツヒメ)を誅殺した。その時、田油津媛の兄の夏羽(ナツハ)が軍を起こして迎えに来たが、田油津媛が誅殺されたと聞いて逃げ帰った。
『常陸国風土記』
昔 国巣がおり、その名を山の佐伯・野の佐伯ともいう。これは土地の言葉でツチクモ(土蜘蛛・都知久母)またはヤツカハギ(八束脛・夜都賀波岐)と呼ばれる土着の原住民である。佐伯とは「さえぎる者」すなわち天皇に従わなかった者である。
(この佐伯らは)あちこちに穴を掘って土窟(つちむろ)を設け、常に穴に住んでいた。人が来るとすぐに窟に入って隠れるが、人が去ると外に出て遊んだ。(その性質は)狼の性に梟の情を持ち、鼠のように窺い、狗のように盗むというもので、招いても慰められることはなく、一般の人々とは相容れない隔たりがあった。
この時、大臣の一族の黒坂命(クロサカ)が、佐伯らが外に出ている時を窺って、その居穴に茨棘(うばら)を施しておき、騎兵を以って急襲した。すると、佐伯らはすぐに土窟に走り帰り、仕掛けられた茨棘にかかって身動きが取れずに死んでしまった。よって、茨棘が由縁で県の名となった。いわゆる茨城郡は、今は那珂郡の西にある。昔、郡家が置かれており、それは茨城郡の中にあった。土地の諺に「水うつくしぶ茨城国」というものがある。
別の説では、山の佐伯・野の佐伯は自ら賊長となり、手下を率いて国中で悪事を働き、多くの人の命を奪った。そこで黒坂命は計略を以って賊を滅ぼそうと茨城を造った。これによって茨城という地名が付いた。
これより北に薩都里(さつのさと)がある。古に国栖がおり、名を土雲(ツチクモ)と言った。これを兎上命(ウナガミ)が兵を挙げて誅滅した。その時に上手く殺せたので「福哉(さちなるかも)」と言った。これにより佐都(さつ)と名付けられた。
『肥前国風土記』
肥前の国は、もとは肥後の国と合せて一つの国であった。昔、崇神天皇の御世に肥後国益城郡の朝来名の峰に打猿(ウチサル)と頸猿(クビサル)という二人の土蜘蛛がおり、これらは180人余りの軍勢を率いて天皇に服従しなかった。そこで、天皇は肥君らの祖である健緒組(タケヲクミ)に征伐するよう勅命を下すと、健緒組はそれを承って土蜘蛛らを悉く滅ぼした。それから健緒組は国を巡って観察したが、日が暮れたので八代郡の白髪山で宿をとった。
その夜、虚空に火が現れて自然に燃え上がり、それがだんだんと下ってきて山に火が付いたので、それを見て驚いた健緒組は不思議に思って復命した際に「勅命を受けて西夷を攻めましたところ、刀刃を濡らさずして首長どもは自ずと滅びました。ですが、後に威霊のようなものが現れ、それは火が下りてくるようでした。これは何でしょうか」と申し上げた。すると、天皇は「そのような事は聞いたことがない。火が下った国は火の国というべきだろう」と言った。これにより、健緒組は火の君 健緒紕(タケヲクミ)の姓名を賜り、この国を治めさせた。また、これに因んで この国は火の国と呼ばれるようになった。この後、この国は肥前と肥後に分けられることになった。
佐嘉川の川上には荒ぶる神がおり、道を行き交う人々の半数を生かし、半数を殺した。そこで県主らの祖である大荒田(オオアラタ)が占って鎮める方法を問うた。
その時に土蜘蛛の大山田女(オオヤマダメ)と狭山田女(サヤマダメ)という2人の女が「下田村の土を取り、それで人形と馬形を作って この神を祀れば、必ず和らぐことでしょう」と言ったので、大荒田はこれに従って神々を祀ると、神は歓んで和やかになった。そこで、大荒田は「彼女らは実に賢い。これを以って賢女(さかしめ)を国の名としたい」と言った。これによって賢女郡と名付けられ、今は訛って佐嘉郡となった。
昔、この村には土蜘蛛がおり、堡(をき=砦)を造って隠れ住み、天皇に従おうとしなかった。そこで、日本武尊(ヤマトタケル)が巡幸した時に皆 悉く誅殺した。これに因んで小城郡と名付けられた。
昔、この里に土蜘蛛がおり、その名を海松橿媛(ミルカシヒメ)と言った。纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)がこの国を巡った時、従者の大屋田子(オオヤタコ)を遣わせて誅滅させた。その時に霞で四方が見えなくなっていたので、これによって霞里(かすみのさと)と呼ばれるようになり、今は訛って賀周里といわれている。
昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が巡幸した時、この村には土蜘蛛がおり、その名を大身(オオミ)と言った。大身は天皇の命令を拒み、降伏することも無かったので、天皇は勅命を下して誅滅させた。これ以来、白水郎(あま=漁民)らが この島に家を造って住み着くようになった。これによって大家郷といわれるようになった。
昔、景行天皇が巡幸した時、志式島(ししきのしま)の仮宮から西海を見ると、海上の島から多数の煙が立ち上っており、その煙が辺りを覆っている様子が見えた。
そこで、天皇は阿曇連百足(アヅミノムラジモモタリ)を遣わせて偵察させると、そこには80余りの島があり、そのうち2島にはそれぞれに人が住んでいた。第一の島を小近(をちか)と言い、そこには土蜘蛛の大耳(オホミミ)が住んでいた。第二の島を大近(おほちか)と言い、そこには土蜘蛛の垂耳(タリミミ)が住んでいた。その他の島には人は住んでいなかった。
そこで百足は大耳らを捕えて報告すると、天皇は「誅殺せよ」との勅命を下した。その時に大耳らは頭を下げて「我々の罪は実に極刑に値します。これは万回殺されても足りない罪です。しかし、もし恩情によって生かして下さるのならば、御贄を作って奉り、御膳を恒に献上しましょう」と申し上げ、すぐに木の皮を取って、長鮑・鞭鮑・短鮑・陰鮑・羽割鮑などの料理を作り、それを見本として献上した。すると、天皇は恩赦を与えて放してやり、そこで「この島は遠いが、まるで近いようにも見える。よって近島(ちかしま)と呼ぶが良い」と言った。これによって値嘉(ちか)という。
景行天皇が行幸した時、この山の山頂に八十女(ヤソヲミナ)という土蜘蛛がいた。八十女は天皇の命令を拒み、背いて降伏することも無かった。そこで、天皇は兵に奇襲させて滅ぼしたという。これによって嬢子山と呼ばれるようになった。
昔、景行天皇が行幸した時、この里に土蜘蛛三兄弟がおり、兄の名は大白(オホシロ)、次の名は中白(ナカシロ)、弟の名は少白(ヲシロ)と言った。
この者共は、砦を築いて隠れ住み、天皇に背いて降伏することは無かった。そこで、天皇は紀直らの祖である穉日子(ワカヒコ)を遣わせて誅滅させようとすると、三兄弟はただ叩頭(のみ=頭を地面に擦りつけること)をして、己の罪を述べて共々に命乞いをした。これによって能美郷と呼ばれるようになった。
昔、景行天皇が球磨噌唹(クマソ)を誅滅して凱旋し、豊前国の宇佐の海浜の仮宮に居た時のこと。天皇は従者の神代直(カミシロノアタヒ)をこの郡に遣わせて、速来村(はやきのむら)に居た土蜘蛛を捕えさせた。
景行天皇が宇佐の浜の仮宮に居る時、神代直に「朕は今まであまねく諸国を巡り、そのほとんどを平定して統治してきた。未だに朕の統治を受け入れない者どもは居るだろうか」と問うと、神代直は「あの煙の立っている村は統治を受け入れていないようです」と答えた。
そこで、天皇は この村に神代直を遣わせると、そこには浮穴沫媛(ウキアナワヒメ)という土蜘蛛がいた。この者は天皇に従わないとても無礼な者だったので、すぐに誅殺した。これによって浮穴郷と呼ばれるようになった。
昔、神功皇后が新羅征伐のために行幸した時、御船に従った船は風に漂って沈んでしまった。その時、欝比表麻呂(ウツヒオマロ)という土蜘蛛が その船を救った。これによって救郷(すくひのさと)と呼ばれるようになり、今は訛って周賀郷となった。
『豊後国風土記』
昔、この村には土蜘蛛の堡(をき=砦)があり、それは石を使わず、土を以って築かれていた。これによって無石堡(いしなしのをき)と名付けられたが、これが後の人の誤りによって石井郷と呼ばれるようになった。
昔、この山には土蜘蛛がおり、その名を五馬媛(イツマヒメ)と言った。これによって五馬山という。
昔、景行天皇が行幸した時、この野には打猿(ウチサル)・八田(ヤタ)・国摩侶(クニマロ)といった3人の土蜘蛛がいた。天皇は自ら賊を討伐しようと思い、この野にやって来て あまねく兵たちを労った。これによって禰疑野と呼ばれるようになった。
昔、景行天皇が球覃の仮宮に住んでいた。そこで鼠石窟(ねずみのいわや)に住む土蜘蛛を討伐しようと、群臣たちに命じて海石榴(つばき)の樹を伐らせ、それで槌を作って武器とし、勇猛な兵に授けた。
それから、兵たちは槌で山に穴を開け、草を押し倒して土蜘蛛を襲い、悉く誅殺した。すると、土蜘蛛たちの血がくるぶしに達するまで流れ出た。その槌を作った場所を海石榴市と言い、血が流れた場所を血田という。
景行天皇が御幸した時、此処に土蜘蛛がおり、その名を小竹鹿奥(シノカオキ)・小竹鹿臣(シノカオミ)といった。この二人の土蜘蛛は、天皇に食事を献上しようと狩りをしたが、その声がとてもやかましかった。そこで天皇は「大囂(あなみす=うるさい)」と言った。これによって大囂野(あみなすの)と呼ばれるようになったが、今は訛って網磯野と呼ばれている。
昔、景行天皇が球磨贈於(クマソ)を征伐しようと筑紫に向かった。そこで周防国の佐婆津(さばつ)から船出して海部郡の宮浦に到った時、この村には速津媛(ハヤツヒメ)という女がおり、この者は村の長であった。
速津媛は自ら出向いて天皇を迎えると「この山には鼠磐窟(ねずみのいわや)という大きな磐窟があり、そこには2人の土蜘蛛が住んでいます。その名を青(アヲ)・白(シロ)と言います。また、直入郡の禰疑野には3人の土蜘蛛がいます。その名を打猿(ウチサル)・八田(ヤタ)・国摩侶(クニマロ)と言います。この5人の人となりは並んで強暴で、また多くの仲間がおります。そして皆 誹って『天皇になど従うものか』と言っており、もし服従を強いるならば、兵を起こして抵抗するでしょう」と教えた。
そこで天皇は兵を遣わせると、兵たちは要害を遮って土蜘蛛たちを悉く誅滅した。これによって速津媛国(はやつひめのくに)と名付けられたが、後の人によって速見郡と改められた。
『陸奥国風土記 逸文』
八槻郷
陸奥国風土記にはこのようにある。
これが八槻(やつき)と名付けられた由来である。巻向日代宮御宇天皇(景行天皇)の御世に日本武尊(ヤマトタケル)が東夷を征伐しようと此地に至った時、八目鳴鏑(やつめのかぶら)で賊を射殺した。その矢が落ちた場所は矢着と呼ばれるようになった。ここには正倉があり、神亀3年(726年)に八槻と字を改めた。
古老が言うには、昔 この地には8人の土知朱(ツチグモ)がいた。その一を黒鷲(クロワシ)・その二を神衣媛(カムミゾヒメ)・その三を草野灰(クサノハヒ)・その四を保々吉灰(ホホキハヒ)・その五を阿邪爾那媛(アザニナヒメ)・その六を栲猪(タクシシ)・その七を神石萱(カムイシカヤ)・その八を狭磯名(サシナ)と言い、それぞれに一族があり、その住処は八處石室(八ヵ所の石窟)であった。
この八ヵ所は皆 要害の地であった。よって、天皇には従わなかった。国造の磐城彦(イワキヒコ)が敗走した後は、百姓から略奪することを止めなかった。そこで纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)は日本武尊に詔をして土知朱の征討を命じた。これに土知朱らは力を合わせて防戦した。また、津軽の蝦夷と共謀し、鹿や猪を狩るのに使う弓を石城に重ねて張って、それで官兵を射った。これにより官兵は進軍することができなくなった。
そこで日本武尊は、槻弓に槻矢をつがえて7発,8発と射った。すると、その7発の矢は雷鳴の如く鳴り響いて蝦夷らを追いやり、8発の矢は8人の土知朱を射貫いて殺した。すると、射たれた土知朱に刺さった矢から悉く芽が生えて、やがて槻の木になった。その地を八槻郷という(ここには正倉がある)。また、神衣媛と神石萱の子孫は許されて郷の中に住んでいる。今は綾戸(あやべ)というのがこれである(大善院旧記)。
『越後国風土記 逸文』
八掬脛
越後国風土記には このようにある。
御間城天皇(崇神天皇)の御世、越国に八掬脛(ヤツカハギ)という人がいた。その脛は長く八束(約64cm)あり、力もとても強かった。これは土雲(ツチグモ)の後裔であり、その一族は大勢いた。
『摂津国風土記 逸文』
土蛛
畝傍橿原宮御宇天皇(神武天皇)の御世、土蜘という偽物(にしもの)がいた。この人は常に穴の中にいた。よって、賤しい呼び名を賜って土蜘(つちぐも)と名付けられた。
『肥後国風土記 逸文』
肥後國號 火國
公望私記(きみもちのしき)、肥後国風土記には このようにある。
肥前の国は、もとは肥後の国と合せて一つの国であった。昔、崇神天皇の御世、益城郡の朝来名の峰に打猿(ウチサル)と頸猿(クビサル)という二人の土蜘蛛がおり、これらは180人余りの軍勢を率いて峰の山頂に隠れ住み、常に天皇に逆らって決して服従しようとしなかった。
そこで、天皇は肥君らの祖である健緒組(タケヲクミ)に征伐するよう勅命を下すと、健緒組はそれを承って土蜘蛛らを悉く滅ぼした。それから健緒組は国を巡って観察したが、日が暮れたので八代郡の白髪山で宿をとった。その夜、虚空に火が現れて自然に燃え上がり、それがだんだんと下ってきて山に火が付いたので、それを見て驚いた健緒組は不思議に思い、復命した際に これを奏上した(云々)。すると、天皇は「賊徒を切り払ったため、たちまち西の憂いは無くなった。海のともがらの勲功を誰と比べることができようか。また、火が空から下って山を焼いたとは不思議なことだ。火が下った国ということで火国(ひのくに)と名付けるべきだろう」と勅した。
また、景行天皇が球磨贈於(クマソ)を誅して筑紫国を巡狩した(云々)。火国を行幸した際、海上で日没になり、暗くて何処に居るかも分からなくなった。そんな時、忽然と光り輝く火が現れ、それを遥か遠くに目撃した。そこで天皇は棹人(かぢとり)に「行く先に火が見えるだろう、あれを真っ直ぐに目指せ」と命じると、やがて岸壁に辿り着くことができた。
そこで天皇は「火の起こった場所はどこだ?これは何と呼ばれるのだ?この火はどのように起こされたのだ?」などと問うと、土地の人は「これは火の国八代郡の火の邑で起こりましたが、この火の主は知りません」と答えた。これを聞いた天皇と群臣たちは「この火は土地の者が起こした火では無いが、これが火の国と呼ばれる由縁であることは分かった」と言ったという。
『日向国風土記 逸文』
知鋪郷
高千穂岳に住む者が日向国に居た。風土記が言うには、臼杵郡(うすきのほこり)内の知鋪郷(ちほのさと)がある。
天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギ)が、天磐座(あまのいわくら)を離れて、天八重雲(あめのやえくも)を押し開き、稜威之道別道別(イツノチワキニチワキ=勢いよく道を進み)に日向の高千穂二上峰(たかちほふたがみのみね)に天降った時、空は暗く、昼夜の区別もなかったので、人や物は道を見失い、物色してそれを判別するのも難かったという。
その時、此処には大鉗(オホハシ)・小鉗(ヲハシ)という二人の土蜘蛛がいた。この者は瓊瓊杵尊に「皇孫尊(スメミマノミコト)よ、その尊い御手で稲穂をたくさん抜いて籾とし、それを四方に投げ散らせば、必ず空が開けて明かりを得られるでしょう」と申し上げた。そこで瓊瓊杵尊は、この者たちの言う通りに たくさんの稲穂を揉んで籾とし、それを投げ散らした。すると、すぐに空が開けて晴れ、日月が照り輝いて明るくなった。これによって高千穂二上峰と呼ばれるようになった。これが後の人によって智鋪(ちほ)と改められた。
『丹後国風土記 残欠』
甲岩
甲岩(かぶといわ)は、古老が言うには、御間城入彦五十瓊殖天皇(祟神天皇)の御代に、この国の青葉山の山中に陸耳御笠(クガミミミカサ)という土蜘蛛がいた。
この者が人民を害したので、日子坐王(ヒコイマスノキミ)が勅命を受けて征伐に来た。日子坐王が丹後国と若狭国の境に到ると、鳴動して光燿(こうよう)を顕す岩石が忽然と現れた。その形はとても金甲(かぶと)に似ていた。これによって将軍の甲岩と名付けた。また、その地を鳴生(なりふ)と呼んだ。
爾保崎
爾保という所以は、昔、日子坐王(ヒコイマスノキミ)が勅命を受けて土蜘蛛討伐に向かった時に、持っていた裸の剣が湖水に触れて錆びてしまった。すると、二羽の鳥が忽ち並んで飛んで来て、その剣に貫き通されて死んでしまった。これによって錆が消えて元に戻った。よって、その地を爾保というのである。
志託
志託という所以は、昔、日子坐王(ヒコイマスノキミ)が官軍を率いて陸耳御笠(クガミミミカサ)の討伐に来た時、青葉山から陸耳を追って この地に到った。そこで陸耳は忽ち稲梁の中に潜って隠れた。
王子は急いで馬を進め、その稲梁の中に入って陸耳を殺そうとした時、 陸耳は忽ち雲を起こして空中を飛び、南に向かって走り去った。これにより、王子は甚だしく稲梁を侵して荒蕪のようにした。よって、その地を荒蕪(したか)というようになった。
川守郷
川守と呼ぶ所以は、昔、日子坐王(ヒコイマスノキミ)が土蜘の陸耳(クガミミ)・匹女(ヒキメ)らを追って、蟻道郷の血原に到った。そこで、先に土蜘匹女を殺した。よって、その地を血原という。
ある時、陸耳は降伏しようと思っていたが、その時に日本得玉命(ヤマトエタマ)が川下から追い迫っていたので、陸耳は急いで川を越えて逃れた。そこで官軍は楯を並べて川を守り、蝗(バッタ)の飛ぶように矢を放った。陸耳の仲間は この矢によって死ぬ者が多く、その死骸は流れ去っていった。よって、その地を川守というのである。
また、官軍の頓所の地を名付けて、今も川守楯原というのである。その時、一艘の船が忽ち(欠字13字)その川を降った。これで土蜘を駆逐し、遂に由良の港に到ったが、土蜘の住処は知ることができなかった。これによって、日子坐王は陸地に立って礫(つぶて)を拾い、これを占った。すると、与佐の大山に陸耳が登ったことが分かった。これによって、 その地を石占という。また、その船を楯原に祀って船戸神と名付けた。
地方の伝説
葛城一言主神社の土蜘蛛塚のいわれ
昔、神武天皇が日向から大和に東征に向かった時、高尾張邑で土蜘蛛と戦って誅滅した。この時、葛の蔓で作った網を用いて土蜘蛛を殺したので、この地は葛城と名付けられた。また、神武天皇は土蜘蛛の怨念が蘇らないように、頭・胴・足を別々に埋め、その上に巨石を据えたという。それが一言主神社にある土蜘蛛だと言われている。
陸耳御笠の伝説
第10代崇神天皇の御代、陸耳御笠(クガミミノミカサ)と匹女(ヒキメ)を首領とする土蜘蛛(つちぐも)が、丹後国の青葉山中に棲みついて人々を苦しめていた。そこで朝廷は、日子坐王(ヒコイマスノキミ)に兵を与えて土蜘蛛の征伐を命じた。
日子坐王率いる官軍は、青葉山から陸耳御笠らを追い落とすことに成功し、追撃して丹後国と若狭国の境に到ると、忽然と鳴動して光輝く巌石を見つけた。その形が金甲(かぶと)に似ていたことから、これを「将軍の甲岩」と名付け、その地を「鳴生(なりう)」と名付けた。
官軍は その後も陸耳御笠らを追って蟻道の郷まで到り、そこで匹女を討ち取った。そのとき、匹女の血で周辺を真っ赤に染めたことから、その地を「血原」と呼ぶようになった。
匹女を失った陸耳御笠は 一度は降伏を考えたものの、川下から日本得魂命(加佐郡一帯の領主)の軍勢が攻めてきた為、たちまち川を越えて逃げようとした。そのとき、官軍は河原に楯を連ねて退路を絶ち、蝗(いなご)が飛ぶ如く矢を射掛けた。
この攻撃によって土蜘蛛の多くを討ち取り、また、舟で川を下って残った土蜘蛛を駆逐した。官軍が川を守ったことから、その地を「川守」と呼び、官軍の駐屯地を「川守楯原」を名付けた。
しかし、首領の陸耳御笠は行方知れずであったため、日子坐王は由良の港で礫(つぶて)を拾い、その行方を占ったところ、与謝の大山に登った事が分かった。そのため、その地を「石占(いしうら)」と名付け、楯原に舟を祀って「舟戸神」と名付けた。
その後、陸耳御笠は丹後を抜けて但馬に到ったが、但馬の鎧浦で日子坐王に討ち取られたという。
阿良須神社の由緒
当社は崇神天皇10年に、丹波将軍の道主王(丹波道主命)が青葉山に住む土蜘蛛の陸耳御笠と云う兇賊を征伐した時、豊受大神を神奈備の浅香の森に祀ったことを創祀とする。
大鮑の伝説(『阿良須神社誌』)
陸耳御笠(クガミミカサ)と匹女(ヒキメ)は共に一党を率いる土蜘蛛の首領であり、陸耳御笠は若狭富士と呼ばれる青葉山を根城とし、匹女は但馬の馬琴川の下流にある一嶺岳の周辺を根城としていた。この二人は互いに連携して大勢力を誇っており、若狭・丹後・丹波あたりを支配していた。
ある時、城崎郡主の櫛岩竜が殺されたので、県主の穴目杆が朝廷に奏上した。そこで天皇は彦坐王命(ヒコイマスノキミ)に陸耳御笠・匹女の討伐を命じると、彦坐王は丹波道主命と丹波国造の倭得王らを召して、大軍を率いて丹波国に向かって行った。
これを知った陸耳御笠は、朝廷の大軍には敵わないと思、船を出して海に逃げた。すると、彦坐王も早速 船を仕立てて後を追ったが、強い南風によって波は荒れ、時には暴風となって襲ってきたので、官軍の船は海上で自由を失い、また岩礁に衝突して傷付き、やがて船に海水が浸水するようになった。
この時、陸耳御笠の船も勢いを失っていたので、彦坐王は船を進めて追いつこうとしたが、傷付いた船では思うように進めることが出来なかった。そこで、彦坐王は手を合わせて海神に祈願すると、次第に船に浸水してくる海水が減っていった。これは忽然と現れたアワビの大群が船底にくっついて穴を塞いだのであった。また、沖に美保大神が天降って彦坐王を助けたので、賊徒は散り散りになり、やがて討伐された。
この後、彦坐王はこの勝利を天祖の加護と美保八千戈の助力の賜であるとして、出雲に船を進めて神を詣でた。すると、その帰途に巨大なアワビが現れて船の先導を務め、それから上陸して船を改めると船底の丸穴に大きなアワビが横たわっていたという。
士蜘蛛童子の伝説(京都府舞鶴市下見谷)
士蜘蛛童子(陸賀耳御笠)は、四道将軍の日子座王(ヒコイマスノキミ)に追われて志託の戦で壊滅し、由良石浦の地に上陸して与謝郡と境の大山に逃れ、漆原の地を目指して進んだ。
そこで日子坐王は源蔵人を将として、選りすぐり4名の若武者に後を追わせることにした。屈強な若武者に追い立てられた童子は、漆原の地に落ち着くことができずに下見谷に逃げ込んだが、追手が厳しく追い立てるので、童子は赤岩越えを決意して再び山に入っていった。
しかし、童子は追い詰められてしまったので、赤岩山の ごら場に逃げ込むことにした。その ごら場には、家ほどもある大石から小石までが累々と積み重なっており、樹木も育たない石ごらの原であった。これに流石の若武者も童子の姿を見失ってしまい、岩場や付近の山中までも隈なく探したが、その足取りを掴むことができなかった。
その後、源蔵人は疲労から病に罹って倒れてしまった。やがて、土地の人はこの地を源蔵と呼び、蔵人の武威を偲ぶことにしたという。また、4人の若武者は土蜘蛛を討伐の目的は果たしたものの、その首級を取ることができなかったので、これを面目なく思って都に帰らずに野に下ることを決意した。この時、4人は姓に田の字を入れる約束をして土着したので、当地に残る太田・河田・池田・藤田などの姓は4人の末裔ではないかと言い伝えられている。
スポンサーリンク