国栖 / 国巣 / 国主【クズ / クニズ】
珍奇ノート:国栖 ― 大和国や常陸国に住んでいた異俗の人々 ―

国栖(くず)とは、上古の日本に住んでいた土着の民族のこと。

異俗の人々で、険しい山中や岩窟の中などに居住していたとされる。


基本情報


概要


国栖は上古の日本に住んでいた土着の民族で、険しい山中や岩窟の中などに居住しており、村里に住む人々とは風習が異なっていたとされる。文献によって表記が異なり、国栖・国巣・国主などと記されている。

『記紀』には大和国吉野郡に住んでいた国巣について記されている。吉野の国巣は神武東征の際に吉野で出迎えた国津神のイワオシワクノコを始祖とし、応神朝では皇族の祭典で歌を歌ったり、朝廷に貢物を送ったりしており、大和朝廷に協力的な部族だったとされている。

『常陸国風土記』には常陸国に住んでいた国栖について記されている。常陸国の国栖は土窟や岩窟などに住んでおり、常に穴の中に居て、里人とは隔たりがあったとされている。また、大和朝廷に反抗的であったために討伐されたという説話がいくつか記されている。ちなみに、同書では国栖の別名として「佐伯」という呼称が登場しており、これは「さえぎる者」の意で天皇に従わなかった者を指すとされている。

大和国の国巣
大和国の国巣については『記紀』に記されており、神武天皇が東征の折に吉野に到った時、これを出迎えた国津神のイワオシワクノコが始祖であるとされている。

大和朝廷に従った部族で、『古事記』よれば 応神天皇の御代に行われた豊明節会に参加して、歌を歌ったり、自分たちで作った酒を献上したという。なお、国巣が貢物を献上する際には、歌を歌うのが作法であったとされている。

『日本書紀』によれば、吉野の国巣は吉野河の上の険しい土地に住んでおり、性格は素直で、いつも山で木の実を採って食べたり、カエルを煮て食べていたとされている。応神天皇が吉野宮に行幸した際に、歌を歌って酒を献上し、歌い終えると口鼓を打って仰け反って笑ったという。これも国巣が貢物を献上する際に行う作法であったとされている。また、吉野の国巣は都から離れた交通に不便な場所に住んでいたので朝廷に来るのは稀だったが、天皇が吉野に行幸して以降は度々朝廷に来て貢物を献上するようになり、それは栗・菌・鮎だったとされている。

また、吉野には壬申の乱の際に国栖が大海人皇子を助けたという伝説がある。これによれば、大海人皇子が大友皇子の兵に追われて国巣の村に逃れてきた際に、村人は逆さにした川舟に隠して助けようとした。しかし、その周りで犬が吠えて嗅ぎ回ったので、村人は犬を打ち殺して大海人皇子の危機を救ったという。これ以来、この地では犬を飼わなくなり、神社には狛犬が置かれなくなったといわれている。

常陸国の国栖
常陸国の国栖は『常陸国風土記』に登場し、この文献にはいくつかの説話が載せられている。

茨木郡条には、山の佐伯・野の佐伯という国巣について記されている。この国巣は俗に土蜘蛛(ツチグモ)または八束脛(ヤツカハギ)と呼ばれていた土着の原住民であり、土地の人々とは隔たりがあったという。普段は穴を掘って土窟を作り、常に穴の中にいて、人が近づくと穴に隠れるが、人が離れると外に出ていたとされる。また、その性格は「狼の性に、梟の心を持ち、鼠のように窺い、狗のように盗む」と表現されている。

この土蜘蛛は天皇に背いたために黒坂命によって討伐されたと伝えられており、その方法は 土蜘蛛が外に出ていた所を見計らって土窟の入口に茨棘(うばら)を仕掛けておき、騎馬で土蜘蛛を追い込んで土窟に逃げ込んだところ、その茨棘に掛かって棘に刺さって死んだという。ちなみに、これが茨城の地名由来とされている。

行方群条には、夜石斯(ヤサカシ)と夜筑斯(ヤツクシ)という国栖について記されている。この国栖らも普段は穴を掘って造った砦に住んでおり、常に穴の中に居たとされる。また、この二人は自ら首長となって天皇に背き、砦から官軍を狙って隙を窺っていたので、官軍も容易に攻められなかったとされる。そこで、官軍は国栖らを砦の付近に伏兵を潜ませ、砦の近くで琴や笛の音を響かせて、7日7晩の間 祭りのように振る舞ったという。すると、国栖らは皆で外に出てきたので、伏兵に砦の入口を封鎖させ、国栖らを背後から襲撃して誅滅したとされている(ちなみに、この説話は高丸や金平鹿の説話に見られる戦法に似通っている)。

また、寸津毗古(キツヒコ)と寸津毗賣(キツヒメ)という国栖についても記されており、この二人はヤマトタケルの御代の人物で、キツヒコがヤマトタケルに背いて無礼に振る舞ったので、キツヒコはヤマトタケルに直ちに斬り伏せられて死んだという。キツヒメはこれに恐れを抱いて降伏し、それからはヤマトタケルに懇ろに尽くしたので、ヤマトタケルはキツヒメを愛でて愛おしんだとされており、その事蹟が地名由来にもなったとされている。

久慈郡条にも、土雲(ツチクモ)という国栖がいたことが記されており、この国栖は兎上命(ウナガミ)によって誅滅されたと伝えられている。なお、同書におけるツチクモは個人名とされているが、『記紀』や『風土記』における土蜘蛛は天皇に従わなかった部族を指す語として記されている。

データ


種 別 上古の民族
資 料 『古事記』『日本書紀』『常陸国風土記』ほか
年 代 上古
備 考