珍奇ノート:国栖の資料



『古事記』※クズの登場部分を抜粋


吉野国巣の祖・イワオシワクノコ


(イワレビコが東征の際にヤタガラスの導きによって吉野に入った時のこと。)

尾のある人が岩を押し分けて出てきたので、イワレビコ(神武天皇)が素性を尋ねると、その人は「私は国津神のイワオシワクノコです。今、天津神の御子が来られたと聞きまして参上いたしました」と答えた。

このイワオシワクノコは吉野国巣の祖先である。

豊明節会の吉野国主


(応神天皇の御代に豊明節会が行われた時のこと。)

吉野の国主(クズ)たちがオホサザキ(後の仁徳天皇)の帯びている刀を見て、このように歌った。

「品陀の 日の御子 大雀 大雀 佩かせる大刀 本剣 末ふゆ ふゆ木の すからが下樹の さやさや」

また、吉野の白樫で臼を作り、その臼で酒を造った。そして、その酒を献上する際に口鼓を打ち、このように歌った。

「白梼の生に 横臼を作り 横臼に 醸みし大御酒  うまらに 聞こしもち飲せ まろが父」

この歌は、クズたちが土地の産物を献上する際に、今でも歌われる歌である。

『日本書紀』※クズの登場部分を抜粋


吉野国巣の祖・イワオシワケ


(神武天皇が東征の折に吉野に到った時のこと。)

そこに尾があって磐岩(いわ)を押し分けて現れた者がいた。そこで、天皇が素性を尋ねると、その者は「私はイワオシワケの子です」と答えた。この者は吉野国巣などの祖先である。

吉野国巣の来朝


応神天皇即位19年冬10月1日、天皇は吉野宮に行幸した。その時に国巣人(クズヒト)がやって来て醸酒を献上し、このような歌を歌った。

「橿の生に 横臼を作り 醸める大御酒 うまらに 聞し持ち食せ まろが父」

歌い終えるとすぐに口鼓を打ち、仰け反って笑った。このように、国巣人が土毛(土産)を献上する日に歌を歌い終えてから口鼓を打ち仰け反って笑うのは、上古から行われているやり方である。

また、国巣人の人柄は素直であり、いつも山で木の実を取って食べたり、カエルを煮て食べたりしていた。これを名付けて毛瀰(モミ)という。

その土地は都(大和)から東南にあり、山を隔てた吉野河の上にある。この峯は険しく、谷は深く、道は狭くて高いところにあり、都から遠くは無かったが朝廷に来ることは稀であった。だが、これ以降に国巣人は度々朝廷にやって来て土毛(土産)を献上した。それは栗・菌(タケ)・年魚(アユ)の類である。

『常陸国風土記』


ツチクモ(ヤツカハギ)


昔 国巣がおり、その名を山の佐伯・野の佐伯ともいう。これは土地の言葉でツチクモ(土蜘蛛・都知久母)またはヤツカハギ(八束脛・夜都賀波岐)と呼ばれる土着の原住民である。佐伯とは「さえぎる者」すなわち天皇に従わなかった者である。

(この佐伯らは)あちこちに穴を掘って土窟(つちむろ)を設け、常に穴に住んでいた。人が来るとすぐに窟に入って隠れるが、人が去ると外に出て遊んだ。(その性質は)狼の性に梟の情を持ち、鼠のように窺い、狗のように盗むというもので、招いても慰められることはなく、一般の人々とは相容れない隔たりがあった。

この時、大臣の一族の黒坂命(クロサカ)が、佐伯らが外に出ている時を窺って、その居穴に茨棘(うばら)を施しておき、騎兵を以って急襲した。すると、佐伯らはすぐに土窟に走り帰り、仕掛けられた茨棘にかかって身動きが取れずに死んでしまった。よって、茨棘が由縁で県の名となった。いわゆる茨城郡は、今は那珂郡の西にある。昔、郡家が置かれており、それは茨城郡の中にあった。土地の諺に「水うつくしぶ茨城国」というものがある。

別の説では、山の佐伯・野の佐伯は自ら賊長となり、手下を率いて国中で悪事を働き、多くの人の命を奪った。そこで黒坂命は計略を以って賊を滅ぼそうと茨城を造った。これによって茨城という地名が付いた。

ヤサカシとヤツクシ


崇神天皇の御世に東国の荒ぶる賊を平定しようと、天皇は建借間命(タケカシマ)を遣わせた。建借間命は軍兵を率いて凶賊を討伐した。安婆之島(あばのしま)に駐屯して、海の東の浦を遥かに望んだ。その時に煙が見えたので、そこに人が居るだろうと疑い、建借間命は天を仰いて誓約して「もし、天人(大和朝廷方の人)が起こした煙ならば こちらに来て我が上を覆うだろう。もし荒ぶる賊が起こした煙ならば海中に棚引くだろう」と言った。その時、煙は海に向かって流れた。これによって凶賊が居ることが分かったので、部下に命じて早々に食事を済まさせて海を渡った。

ところで、国栖の中に夜石斯(ヤサカシ)・夜筑斯(ヤツクシ)という2人がいた。これらの者は自ら首長となり、穴を掘って砦を造り、常に此処に住んでいた。そして、官軍を狙って隙を窺おうと、身を伏せて守りを固めていた。建借間命は兵を遣わせて追いやると、賊はにわかに逃げ帰り、砦の戸を堅固に閉ざした。そこで建借間命は大きな計略を思いつき、決死の覚悟を持つ兵を選んで山の曲がり角に伏せ隠しておき、それから賊を滅ぼすために造った兵器を備えさせた。それから渚を飾り、舟を連ねてイカダを編み、雲のような天蓋を翻し、虹のような旗を張った。そして、天之鳥琴(あめのとりごと)・天之鳥笛(あめのとりぶえ)の音を潮の波音と共に響かせ、杵を鳴らして唄を歌い、それを7日7夜続けて 遊び楽しみ 舞い踊った。その時、賊の仲間が盛んな音楽に聞くと、男女ともに皆で家から出てきて、(建借間命の葬儀だと思って)浜に並んで歓び笑った。

そこで、建借間命は騎兵を走らせて砦を閉鎖させると、賊を背後から襲撃し、一族を悉く捕らえると、一時に焼き滅してしまった。この時に「痛殺(いたくころす)」と言ったので伊多之郷(いたくのさと)と呼ばれるようになった。また「臨斬(ふつにきる)」と言ったので布都奈之村(ふつなのむら)と呼ばれるようになった。また「安殺(やすくきる)」と言ったので今は安伐之里(やすきりのさと)といわれている。また「吉殺(えくさく)」と言ったので今は吉前之邑(えさきのむら)といわれている。

キツヒコとキツヒメ


当麻より南には藝都郡(きつのさと)がある。古に国栖が住んでおり、その名を寸津毗古(キツヒコ)、寸津毗賣(キツヒメ)という二人であった。この寸津毗古(キツヒコ)がヤマトタケルが行幸した時に命令に背いた上に大変無礼に振る舞った。そこでヤマトタケルは剣を抜いて直ちに斬り殺した。

これに寸津毗賣は恐れ愁いて、白旗を掲げながら道に出迎えて拝礼した。ヤマトタケルは哀れんで恵みを与え、放免して家に帰してやった。また、ヤマトタケルが乗輿(みこし)に乗って小抜野の仮宮に行幸した際、寸津毗賣は姉妹を率いて誠に心を尽くし、雨風も避けることなく朝夕に仕えた。

ヤマトタケルは、その真心のこもった礼儀正しさを愛でて慈しんだ。この慇懃惠慈(ねもころうるはしみ)ということに由来して、この野は宇流波斯之小野(うるはしのをの)と呼ばれるようになった。

土蜘蛛(土雲)


これより北に薩都里(さつのさと)がある。古に国栖がおり、名を土雲(ツチクモ)と言った。これを兎上命(ウナガミ)が兵を挙げて誅滅した。その時に上手く殺せたので「福哉(さちなるかも)」と言った。これにより佐都(さつ)と名付けられた。

能『国栖』


ある貴人(大海人皇子)が親族(大友皇子)に襲われて、御伴を連れて吉野の山中に逃げこんだところ、川沿いに一軒の民家を見つけたので、そこに入って休んでいた。そこに家主の老夫婦が帰ってきたが、みすぼらしい我が家に不思議な兆しを見て、貴人が入ったのではないかと考えた。

老夫婦が家の中に入ると、確かに貴人が休んでいたので、そこで事情を聞いて貴人を匿うことにした。すると、従者から貴人に食事をさせてやって欲しいと頼まれたので、根芹に焼いた国栖魚(鮎)で饗すと、貴人は魚の半身を残して老翁に与えた。この魚が生き生きとした様子だったので、老翁が川に放すと魚は蘇って泳いでいった。これを見た老翁は吉兆だと思い、これを貴人に伝えて励ました。

この後、敵の追手がやって来たので、老翁は仕事で使っていた川舟を裏返して その中に貴人を隠した。追手は老翁に貴人の行方を尋ねたが、老翁はとぼけてやり過ごした。しかし、追手は不自然に裏返された川舟を怪しんで検分させよと迫ったが、老翁はこれを拒み、終いには怒って近隣の一族を大声で呼びつけた。この気迫に恐れをなした追手は逃げ帰っていった。

窮地を救われた貴人は老夫婦にねぎらいの言葉をかけると、老夫婦は感激の涙を流した。それから夜が更けると、天女が現れて舞い踊り、その後に蔵王権現が姿を現し、威光を示して将来の帝の御代を祝福した。