水虎考略【スイココウリャク】
珍奇ノート:水虎考略 ― 江戸時代の河童研究書 ―

水虎考略(すいここうりゃく)とは、江戸後期に編纂された河童研究書のこと。

河童に関する記録や伝承、古典文献、写生図などが集約された書籍となっている。


基本情報


水虎考略とは?


『水虎考略』は、江戸時代後期の儒者・古賀侗庵(こがとうあん、別号・黙釣道人)が編纂した河童研究書である。

文政3年(1820年)、昌平坂学問所の儒者であった古賀侗庵は、河童遭遇者の聞き取り記録と写生図に加え、和漢の地誌・奇談集を合わせて編纂した。さらに江戸城御殿医で本草学者の栗本丹洲が各地の河童写生図を多数付加している。

水虎考略の主な内容


『水虎考略』は、主に様々な水虎(河童)に関する文献や記録を引用し、それについて著者が私見を述べるという形式の書籍となっている。引用される情報の分野は歴史書・百科事典・奇談集など幅広く、その情報に沿った図像が数多く添付されていることが特徴である。

また、各地に伝わる水虎伝承の違いや特徴、祭祀や風習などにも言及されているが、分野ごとに考察がまとめられているわけではない。そのため、辞典的な書籍というよりも、記録集あるいは説話集と呼べるような内容となっている。

古賀侗庵の私見


『水虎考略』の序文によれば、古賀侗庵は豊後国日田の代官が収集した水虎の目撃記録や写生図や昌平学の神主簿が所蔵していた図録などを見たことをきっかけに、水虎についても実際に資料を集めて検証すべきだと考えた。そこで、各地の証言や図像、古典文献を収集・比較し、『水虎考略』を編纂したという。

なお、侗庵は編纂にあたり、水虎を単なる迷信や老いた鼈(すっぽん)の誤認とは考えず、各地の証言や図録から実在する怪異的な水棲生物であると判断している。また、水虎には地域による形態や気質の違いがあると考え、その差異は風土や土地の気風によるものだと述べている。

さらに、後年の『水虎考略後編』では新たな証言や資料を追加し、自ら水虎の腕とされる標本を目撃したことも挙げて、水虎の実在はもはや疑う余地がないと結論づけた。その一方で、水虎研究はあくまで数ある研究対象の一つに過ぎず、他にも究めるべき事物は無数にあるとして、それ以上の編纂は打ち切る意向を示している。

『水虎考略』に見える水虎図各種


河童聞合における河童図


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『河童聞合』とは、文化二年(1805年)、豊後国日田の代官・羽倉秘救の命を受け、当地の儒学者・広瀬三郎右衛門桃秋が、河童に遭遇したとする人々から聞き取った六件の体験談をまとめた記録のことである。

『水虎考略』には『河童聞合』の文章が引用され、それぞれの体験談に対応する六体の河童図も収録されている。『河童聞合』の原画は現存しないが『水虎考略』所収の図は、その原画を写したものと考えられている。

三河国の水虎


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三河国で捕らえられた水虎の図とされる。

「全身の色は青黒く、腹部の色は黄白く、目は黄色である」と記されている。

越前国の河童


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徳川家斉の時代に、越前国から献上された河童の図とされる。

体長は二尺(約60センチ)ほど、全身は水苔のようで、エラはウナギの肌に似てヌメりがあるという。また、頭の毛は檳榔(ビンロウ)の毛のように黒みを帯びており、背と腹には甲羅が見られ、腕は魚のヒレのようであったとされている。

田んぼの中で生まれていたところを捕らえられて献上され、これを見た将軍は「人間の赤子に似ている。頭の形はひどく醜く、目鼻がある」と述べたとされる。なお、大きい個体と小さい個体では、非常に大きな違いがあると述べられている。

水戸浦の河童


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江戸後期に水戸浦で捕らえられた河童の図とされる。

漁師の網に14匹ほど入っており、みな逃げ出したが一匹だけ捕らえることに成功したという。その際、手足を縮めて動こうとしない様子だったとされる。なお、打ち殺すと節々が曲がって身体が収縮すると述べられている。

顔には毛が生えており、亀のように首や手足を甲羅に引っ込めることができる、臭気があって近寄りがたい、などといった特徴が記されている。

越後国の水虎


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寛政6年(1794年)の秋に越後国の新潟で出た水虎とされる。

越後の商人、香具商氏の持ち物だったと述べられている。

豊後国肥田の水虎


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寛永年間(1624~1644年)に豊後国肥田で見つかった水虎とされる。

頭の皿は貝殻のようで深さが一寸(約3cm)ほどあり、歯はすっぽんの歯のようで奥歯が上下四つずつある。背と腹は亀の甲羅のようになっており、背側の色は黒い。手足も亀のようだが、手の内側は人のようで丸い爪もあり、尻は亀のようである、といった特徴が記されている。

熊本の川太郎


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熊本で写し取られた川太郎の図とされる。

体長は一尺七寸(約51.5センチ)で、全身に細かい体毛が生えている。猿に似ているが、手足にはヒロのようなものがあると記されている。但書に「江戸では"カッパ"、山城では"カワタロウ"、但馬では"カワロ"と呼ばれる」とある。

深川木場の河童


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ある時に深川木場で捕らえられた河童とされる。

豊後国肥田の河童


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宝永年間(1704~1711年)に豊後国肥田で写し取られた河童とされる。

胸と手足の色は頬の色と同じである、と注記されている。

カワツハ


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カワツハとされる。

体長は一尺程(約30センチ)と、と注記されている。

水虎


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水虎(河童)の図とされるが詳細不明。

豊後国の河太郎


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平瀬徹斎『日本山海名物図会』巻之三より「豊後河太郎」の引用。

豊後では河太郎、江戸では河童と呼ばれ、豊後では姿を見かけると災いがあると言われている。その姿は5~6歳の子供のようで、顔の色が赤く、体毛が生え、腕が太く、眼光鋭い。相撲を好み、人に襲いかかって力比べをする。近づくと、水中へ引きずり込むが、人を水死させることはない。河太郎と相撲を取ると、正気を失い大病を受ける。などと記されている。

石見の水虎


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中川顕允『石見外記』の引用。

三隅郷岡崎で、昔 水虎と相撲した人の話によれば、全身はヌルヌルして滑るため手で捉えにくく、強く鋭い爪を持っている。胸を打たれた場所には、小さな三つ股の鍬(くわ)のような跡が付いていたとされる。また、頭髪があり、手には水かきが見られるとも記されている。

水虎の頭蓋骨の図


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水虎の頭蓋骨の図とされる。

推古天皇27年(619年)4月4日に、近江国から「蒲生の河に人のようなものがいた」という奏上があったとされる。また、同年の7月には摂津国から「漁夫が堀江にカゴを下ろして小児のようなものを捕らえた」という奏上もあったとされている。

これらについて当時は「水虎」という呼称はされていないが、著者は水虎と同様のものだと注記している。

深川仙台堀の妖怪


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天明元年(1781年)8月に深川の仙台堀に現れた妖怪の図とされる。

付近で小児が水に引き込まれて溺死する事件が続いたため、その原因として捕らえられて射殺されたという。大きさは七、八寸(約21〜24cm)ほどで、おそらく河童というものだろうと注記されている。