鬼女紅葉の伝説
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『戸隠山鬼女紅葉退治之伝』
清和天皇の御代、伴義男(ばんのよしお)という者が陰謀を企て、都の応天門に放火して伊豆に流された。この後 大赦があり、その子孫が延喜の御代の末に奥州会津に流れていった。その名を伴笹丸(ばんのささまる)と言い、妻は菊世(きくよ)と言う。子がない二人は神仏に子宝を願ったが利益がなく、人に勧められて第六天の魔王に祈ったところ、承平7年の秋に女児を授かったので呉葉(くれは)と名付けた。
呉葉は大人以上に賢い子供で、読み書き、算用、琴、三味線、和歌の道に至るまで様々な技術を習得し、15,16歳になる頃には その美貌に言い寄る男も多かった。その中の一人に会津の里に近い村に住む河瀬源右衛門の子の源吉(げんきち)が居り、呉葉に恋文を送ってはいつも突き返されていた。この叶わぬ恋に心を痛めた源吉は日に日に痩せ衰え、やがて床に伏せるようになると、両親は心配して薬・針・灸などを試したが効果はなく、神社仏閣で祈願しても改善しなかった。
そこで、源右衛門に仕える勝丞(かつじょう)と千代平(ちよへい)は源吉を訪ねて病の原因が恋煩いだと確かめると、親の源右衛門に報告し、事情を知った両親は二人に仲立ちを頼んで当座の資金として100両を渡した。翌朝、二人は笹丸宅を訪ねて事情を話し、相手は近くの村に住む金持ちだと言って呉葉に縁談を持ちかけたが、美貌と才知に恵まれた呉葉を都の身分の高い者に嫁がせたいと思っていた笹丸は、二人の申し入れをあっさり断った。そこで千代丸は一昨年前に笹丸に貸した15両の返済を求め、出来なければ呉葉を源右衛門の家に奉公に出すようにと迫った。
これに困った笹丸は「貧苦に困っている上に一人娘まで取られてしまっては生きていく甲斐なし、もはや切腹しかあるまい」などと騒ぎ出し、それを菊世と呉葉が止めに入るという有様に、呆れた二人は出直すことにした。二人が帰ると、笹丸は声をひそめて妻子に向かい「呉葉を取られては、呉葉を都の高貴な者に嫁がせるという夢が潰える。こうなったら家を出て都に逃げるしかあるまい」と打ち明けたが、呉葉は「まずは私を守護神に頼んでみましょう」といって庭に出て、天を仰いで何かの秘文を唱え始めた。すると、不思議なことに呉葉と瓜二つの娘が現れた。呉葉は「これを身代わりに嫁がせて結納金を受け取り、それを持って都に上りましょう」と言うと、笹丸は「呉葉は第六天の申し子だからだろうか」と不思議がった。
一方、勝丞と千代平は笹丸の腹切り騒ぎに驚いたが、返す金がすぐに出来るはずがないと高を括っていた。その翌日、返済の代わりに呉葉を貰おうと笹丸宅を尋ねると、笹丸は先日の騒ぎについて謝り、借金の代わりに呉葉と瓜二つの娘を差し出した。上手くいったと思った千代平は「では、結納酒代に100両をお渡しします。これで廓の借財を返していただき、今より同道して呉葉さんに源吉殿の介抱をしていただきましょう」と身代わりの呉葉を駕籠に乗せて源右衛門宅に急いだ。これを見送った笹丸一家は、日暮れを過ぎると都を目指して逃げていった。このとき、天暦6年の5月半ばのことである。
呉葉を迎えて源吉の病はすぐに改善し、源右衛門夫婦以下、家中の者は呉葉を生き神様と敬っていたが、ある日、源吉が見ている前で「蜘蛛の糸を風が払う前に私が払ってあげましょう」と、ホウキを持って払うと蜘蛛の糸が布一反ほどの雲となり、呉葉はそれに乗って空を飛んでいってしまった。これに一同大騒ぎして、千代平が急いで会津の笹丸宅に駆けていくと、笹丸の家はすでに空き家になっていた。
都に上った笹丸は皆 名を改めることにし、笹丸は伍輔(ごすけ)、菊世は花田(はなだ)、呉葉は紅葉(もみじ)と名乗った。伍輔は宿の主人の好意で四条通の町外れに小店を開き、髪道具や履物の商売を始めた。また紅葉は弟子を集めて琴の稽古をつけた。天暦7年の水無月の末、四条河原の夜涼みに出た源経基の御台所は、紅葉の弾く琴の音に心惹かれ、腰元として館に呼び寄せた。そこで、人知れず怪しい術を具えていた紅葉は、御台所の心を読んで己の評価を上げ、すぐに局に住み下女を召使う身となった。
紅葉の才気と琴の技術はいつしか経基の耳に入り、ある日の宴で紅葉は琴一曲を調べることになった。心に例の第六天を念じつつ琴を弾くと、経基は紅葉の美しさに心を動かされた。これぞ紅葉が邪術を以って経基の心を操り始めた最初であった。こうして経基の寵愛を受けることとなった紅葉はいつしか経基の子を宿し、「多くの侍が私のために働き、父の伍輔も武士となり、身も家も起こしたいものだ」と悪念を抱くようになった。そのために目障りなる御台所を亡き者にしようと怪しい術で御台所を調伏し、これによって病に伏した御台所は、丑三つ時に鬼に苦しめられるようになった。
経基の側用人の三谷隼人の妻の百手(ももで)によれば、紅葉は御台所の看病に付きっきりであったが、一方で局では同じ紅葉が怪しげに祈る姿が見られるという。この一身両体を怪しんだ隼人は、妻の弟の浅田伝蔵を比叡山に送り、大行満の律師から加持符をいただいた。その加持符を御台所の看病をする紅葉の襟に付けようとすると、不思議と紅葉の姿が消え失せる。一方、伝蔵が局で祈る紅葉を捕えてみれば、これこそ真身の紅葉だった。こうして紅葉の陰謀は露見し、紅葉を寵愛したことを過ちだと知った経基は「我が過ちを隠さんがため、信濃の戸隠山の深みに追いやれ」と紅葉を追放した。このとき、天暦10年9月の末であった。
戸隠の山奥に捨てられた紅葉は、経基の子を身籠っていたために御台所に罪を着せられて流罪にさせられたが、父母は譜代の家来であったので、腹の子が生まれればいずれは都に帰れるだろうと思い、戸隠の人々を欺いて、秘文を唱えて加持祈祷を行い、病を治していたことから生き神様と呼ばれて評判になった。そこで紅葉を慕う者が山中の岩屋に家を造り、そこで出産すると珠のような赤ん坊が誕生した。男児であったため、父の経基から経の字を取って経若丸(つねわかまる)と名付けた。
その一方、悪事に傾く心の紅葉は、夜な夜な男に化けて遠く離れた土地の富豪を襲っては金銀財宝を奪うようになった。これを知った付近の盗賊の 鬼武(おにたけ)、熊武(くまたけ)、鷺王(さぎおう)、伊賀瀬(いがせ) という四人は平将門の家来の末裔を名乗って紅葉に力試しを挑むが、紅葉は氷の玉や火の玉を降らせたり、檜扇を用いて水を出すなどの幻術を以って翻弄し、あっさりと手下にしてしまった。この四人は経基に送られた経若丸の家来を名乗って里人を騙し、さらに鬼のおまんという70人力の23,24歳ほどの女も仲間に加えることとなった。
父の伍輔は紅葉が悪事を働いていることを知って諌めはするものの、魔王に祈って儲けた子だけに悪縁悪果を結ぶのは宿命であったので、紅葉は悪事を止めることはなく、伍輔はついに病に倒れてこの世を去ることになった。こうして四人の盗賊も遠い村里から若い女をさらっては妻とし、飲酒にふければ、手下も真似て反抗するものを容赦なく斬り殺した。また、紅葉も人の生血を取らせて酒となし、人肉を炙って喰うようになった。こうして、いつからか戸隠の岩屋に住む紅葉は鬼神であるという噂が世間に広まるようになったので、紅葉らは国守に知られる前に下準備と、槍や薙刀、太刀などの武具を集めていたが、たがて危惧した通りに国守に知られることになった。
これが朝廷に伝わると、安和2年7月に冷泉帝は平維茂を信濃守に任じ、山賊紅葉討伐の勅命を下した。これにより維茂が官軍を率いて戸隠山に下向すると、迎え撃つ 鬼武、熊武、鷺王、伊賀瀬 らは「天慶3年、我らが主 平将門王を討ち滅ぼし、先祖の長狭、鷺沼をも討ったのは平定盛、繁盛の兄弟である。今から来る維茂は繁盛の嫡男であるから、これこそ仇討ちの良い機会ぞ」と勇んでおり、紅葉も維茂の首を取って信濃一国を奪い取ろうと守りを固めていた。この騒動を見た紅葉の母の花田は、経若丸に自らを祖母だと打ち明けると「死んで恥をさらすな」と言い残して自害した。
一方、維茂は紅葉退治の官軍に、譜代の功臣・金剛兵衛政景、金剛太郎政秀、成田左衛門長国、真菰の次郎、河野三郎勝永など総勢250余騎を引き連れ、信濃国の出浦(塩田)の里に到着し、まずは河野三郎と真菰次郎に兵卒150余騎を授けて今の水内郡笹平村に布陣させた。その一団は曲がり曲がれる山路を登り、裾花川にかかる藤橋を敵の難所として賊徒に兵を差し向けて攻めさせたが、紅葉が幻術で火の雨を降らせ、足元深くまで水で押し攻めたのであえなく敗北した。
官軍は、紅葉の幻術を防ぐには蜀の孔明が南蛮の幻術を防いだように、武器に不浄なものを塗ると良いだろうと考えて、藤橋での勝利の宴会をする紅葉らを不浄なものにて攻撃したが全く効かず、再び幻術によって敗北した。この知らせに老臣の金剛兵衛の勧めで、維茂は神仏の加護を求めて北向観音に参籠すると、夢に白髪の老僧が現れて維茂を雲に乗せ、紅葉の陣営を眼下に見せた。さらに降魔の剣を授かったので、維茂は全軍を戸隠に向かわせることにした。
官兵が一つ目の木戸を破り、二つ目の木戸に迫ると、賊徒の伊賀瀬は幻術の助けを求めて紅葉のもとに走った。しかし、術を行おうと壇に登った紅葉は寒気立って壇から転げ落ち、官兵に敗れた賊徒が火水の幻術を求めて次々に駆けつけるも、もはや紅葉の身は氷のごとく冷えるだけであった。この様子を見ていた経若丸は、祖母の「恥をさらすな」という言葉を思い出して自害してしまった。
さて、やっと立ち上がった紅葉を、維茂が降魔の剣を矢の根にした白羽の矢で射ると、紅葉の右肩に刺さった。すると、紅葉はこの姿では敵わぬと本形の鬼神の姿になって、宙を舞いながら維茂目掛けて火炎を吹き出すと、不思議なことに空中から金色の光が射して紅葉の頭に触れ、紅葉はこれにたまりかねて大地に堕ちた。そこで紅葉は「口惜しいことよ」と言って維茂に飛びかかったが、そこを金剛太郎が横から出て胴腹深くに刃を突き通した。これで紅葉は体勢を崩したが、太郎の腕を握って引き倒し、足で踏みつけると、維茂が紅葉の首をちょうど打ち落とした。その首は宙を舞っていずこに消え失せてしまった。
こうして維茂は妖賊紅葉を退治し、事の次第を都に報告させると、紅葉の首桶を穴の底に埋め、離れたところには胴を埋め、後に悪徒が籠もらないように砦を破壊した。また、紅葉の手下の賊徒は悉く捕えられ死刑にされた。
ただ、鬼の おまん だけは官兵から逃げのびたが、自分の身の上を振り返ると、金品を奪い、多くの人を殺したという罪で、生きていてもやがて捕えられる運命だと悟っていたので、身を投げて死のうと考えたが、それにつけても今までの悪事を懺悔して来世の苦しみを軽くしようと、夜な夜な善光寺如来の御堂に忍び込み、拝んで救いを祈る日々を送っていた。しかし、おまんはお尋ね者の身であり、追手が引くことがなかったので、追われては山に逃げ、死のうと思っても業障を恐れてなかなか死ねないという苦悩が毎日つきまとう。
そこで、おまんは戸隠の寺に入って、住僧の寛明に弟子入りすることにした。寛明はおまんに三帰五戒を授け、髪を剃り落とし、袈裟と衣を与えると、おまんは歓んで三拝九拝し、これで死ねると思って懐剣で喉笛を突いて自害したのであった。寛明はおまんの髪を箱に入れ、仏間で朝夕に菩提を弔った。後にその頭髪は「おまん坊の毛」あるいは おまんが女ということで「おまんぼぼの毛」として伝えられているという。
一方、維茂は出浦の里に帰陣し、霊験を被った七久里の里に鎮座する北向厄除観音に御礼参拝し、寄進して堂宇伽藍を建てた。また、手負いの諸士を温泉に入れれば重症も速やかに癒えたということである。この七久里の里は、当時は別処(別所)と呼ばれていた。
『鬼女紅葉(長野県の民話)』
昔、奥州の会津に笹丸と菊世という貧しい夫婦が暮らしていた。二人は子宝に恵まれなかったので、毎日 第六天の魔王に子宝を祈願していたところ、菊世の夢に魔王が現れて「お前たちの願いを叶えてやろう」と言った。目覚めた菊世は喜んで笹丸に報告し、これが正夢であるようにと第六天の魔王を拝んだ。
その後、日が立つにつれて菊世の腹が大きくなり、やがて月が満ちると珠のような赤児が産まれた。その子供は女だったので呉葉(くれは)と名付けられて、二人に大切に育てられた。呉葉は成長するにつれて美しくなり、年頃になると美貌に加えて琴も弾くようになった。そのため、呉葉はたちまち評判になり、近隣から遠国に至るまでの長者から息子の嫁として求められるようになった。
笹丸と菊世は長年貧しい生活を送っていたが、呉葉が評判になったことで各地の長者から金銀財宝が貢がれるようになったので、次第に裕福になっていった。これに味を占めた二人は欲深くなっていき、どうせなら都の高貴な人に呉葉を嫁がせようと考えて、ある夜に家族総出でありったけの財宝を抱えて京に上ることにした。
京に入った3人はすぐに家を買い、呉葉は紅葉(もみじ)と名を変えて琴指南の看板を掲げた。琴が上手く、容姿端麗だった紅葉は都でもすぐに評判になり、その噂はやがて源経基の奥方の耳にも入るようになった。そこで、奥方は紅葉に琴指南を頼むことにして、しばらく通っていると、いつしか経基も同席するようになり、そのうちに経基が紅葉の家に通って愛し合うようになった。
経基と紅葉の仲を知った奥方は悔しがり、憎しみの余り紅葉を流罪にするように謀った。これにより、紅葉は裸一貫で戸隠の岩屋に流されることになった。紅葉は戸隠で生活するようなっても、経基や両親を想わない日は無かった。ある日 両親が乞食になって死んだと知らされた紅葉は、ひどく悲しみ、また怒り狂って、ついに鬼女となってしまった。
そして、村や里に降りては荒らし回るようになったので、人々は仕事ができずに家に籠もるようになった。これに困り果てた人々が帝に訴えると、帝は平維茂に紅葉退治の勅命を与えた。戸隠にやってきた維茂は、山中で紅葉を見つけて弓矢や槍で攻め立てたが、堅固な紅葉にかすり傷一つ負わせることはできなかった。一方で鬼神になった紅葉は、空中を舞ったり、火炎を吐いたりして維茂を苦しめた。
紅葉が維茂に止めを刺そうと飛びかかって行った時、維茂が「南無戸隠権現」と念じると、戸隠の奥の院から光が放たれて飛んでいる紅葉を大地に落とした。その隙きに維茂が太刀を突き立てると、紅葉は「口惜しや」と一言残して死んでいった。紅葉が退治されたことで、紅葉の居た村は鬼の無い里ということで「鬼無里(きなさ)」と呼ばれるようになった。
謡曲『紅葉狩』
若い女が二人の侍女を連れて戸隠山に紅葉狩りにやってきて、深い山路で紅葉を見ながら酒宴を楽しんでいたところ、鹿狩りに来た平維茂が付近を通りかかり、山陰に見えた女たちに気づいたので、従者に命じて若い女の素性を尋ねさせた。従者が声をかけると、逆に侍女に素性を尋ねられたので、平維茂の一行であると名乗ったが若い女は目もくれず、侍女は若い女を「ある御方」とだけ紹介した。
戻った従者が維茂に報告すると、維茂はこのような深山に高貴な女性がいることを不思議に思ったが、いずれにせよ高貴な女性の前を乗馬したまま通るのは無礼だと思ったので、馬から降りて足音を立てぬよう配慮しながら通り過ぎようとすると、その若い女に呼び止められた。女は自らを「紅葉」と名乗って維茂を酒宴に誘うと、維茂は遠慮して通り過ぎようとしたが、紅葉はここで会ったのも前世からの縁と言って酒宴に加えた。維茂は紅葉に勧められて酒を飲みながら会話を楽しんでいると、やがて夜が更けていき、その場で眠ってしまった。
そもそも維茂が戸隠山に来たのは、戸隠山に棲む鬼神が近隣の人々に害をなすということで、鬼神退治の勅命が下ったからであった。維茂はもとより腕の立つ武人だったので、鬼神を退治せねばならないことも気にせずに、戸隠山に向かう道すがら紅葉を眺めたり鹿狩りをするなど、悠々とした態度で山に分け入ったのである。一方 鬼神は、都から維茂が退治に来るという噂を聞きつけて、何とかして維茂の命を取ろうと策を練り、若い女に化けて維茂を誑かそうと考えた。そこで、戸隠山の山路に幕を垂らして屏風を立て、酒宴を催しながら維茂が来るのを待ち受けた。こうして維茂は紅葉の正体が鬼だということを知らずに酒に酔って寝てしまったのである。
紅葉が維茂の命を取ろうとする時、維茂に危機を知らせようと八幡八幡宮の神が末社の武内の神に命じて戸隠山に遣わせた。武内の神は神通力で瞬時に戸隠山に現れると眠っている維茂を見つけ、そこで紅葉の正体が鬼であることを告げ、八幡宮の神から授かった御佩刀(おんばかせ)という刀を維茂の前に置き、これで鬼を斬れと命じると足拍子を打って維茂を起こした。
維茂が目覚めると、枕元には稲妻が乱れ飛んでおり、風が吹き、天地には雷鳴が響き渡っていた。そこに鬼神の姿になった紅葉が現れた。鬼神の姿は、身の丈1丈(3.03m)で、鹿のような枝分かれした角を持ち、眼は日月のように輝き、とても正面から見ることのできない醜悪な容姿であり、岩の上に立って火炎を放っていた(あるいは空中に日を降らしていた)。
これに維茂は騒ぐこと無く、心の中で八幡大菩薩に加護を祈りながら斬りかかると、鬼神も負けじと飛びかかってきて、飛び違いざまに組み合った。そこで維茂は鬼神の身の中心を狙って刀を刺そうとし、鬼神は維茂の頭を掴んで空中に飛び上がろうとした。また、維茂が鬼神の攻撃を斬り払った時に鬼神が岩に飛び乗って刃を避けたので、維茂はそこで引きずり下ろして刀を刺し通して鬼神の息の根を止めた。こうして鬼神は退治されたのである。
紅葉鬼人
昔、八坂村の一番高い山には紅葉鬼人という赤い顔の女が棲んでいた。紅葉鬼人は有明山に棲む八面大王と恋仲になり、やがて大王の子を宿した。そこで産まれたのが金太郎である。
金太郎は山麓の池で産湯に浸かった時から怪力で、北の戸隠山の悪鬼を源頼光と共に退治した。それ以来「坂田の金時」と名乗って頼光四天王に加えられたという。
『とがくし山(戸隠山絵巻)』
神武天皇以来、44代を経て国を治める帝を元正天皇という。この帝が古代中国の三皇五帝を慕って信心に励み、賢臣の諌めを用いて佞臣を退けた。これによって善に近づき悪を離れたからであろうか、国は豊かに治まり、民は安穏に暮らしていた。このため、国土の人民はもとより波を隔てた遠国に至るまで、帝になびかない草木も無かったのである。
すると、治安の良い御代の徴であろうか、美濃国から不思議な奏聞があった。というのも、本栖郡に泉が湧き出て、この水を飲めば 白髪の者は黒髪に、老いた者は若返り、若者はいつになっても年を取らないということである。このことを土地の住人が都に申し上げたところ、殿上人も奇異に思って急いで帝に申し上げると、帝は「このような不思議な事は今まで無かった。急いで勅使を遣わせて見てまいれ」との勅命を下した。
これにより勅使が派遣され、事の様子を見に行ってみると、まことに世にも稀な不思議な有様であった。勅使が辺りの里人に事の詳細を尋ねると、里人は「この泉がいつ湧き出したのかは分かりませんが、私は老いた父を養うために山に入って薪を切っており、休憩の折に泉を見つけてなんとなしに飲んでみたところ、疲れが取れ、心身共に若返りました。ですので、水を持って急ぎ帰って父に与えると、白髪は黒髪になり、足も軽く、寝起きも良くなって、疲れがなくなったということです。それで朝夕欠かさず水を飲み続けましたら、いつしか自分も年を取ることがなくなりました。こうしたわけで飲み始めた人々も この不思議を知ったのです」と答えた。
話を聞いた勅使も自ら泉を訪れ、その様子を調べた後に都に帰って帝に奏聞した。これに帝も大いに関心し、すぐに年号を養老と改めた。まことに聖代の御代には、このような瑞相(めでたい事の前兆となるできごと)がある。漢朝にもその例が多い。よって、帝も政を怠ることなく、君も臣も安穏に過ごしていた。
こうして、年月を過ぎていくうちに、また人々が煩うことが出てきた。というのは、東山道の信濃国の戸隠山に不思議な変化の者(鬼神)が棲み着いて、最初は日暮れに動いていたので人と出くわすことも少なかったが、後に昼夜問わず鬼神の姿を現すようになり、麓に居りてきては、往来するものを苦しめたという。このため、関東からの貢物を都に送ることができず、都から東に向かうのも困難になった。また、近隣の住民は鬼神に襲われて殺された者もいるということで、次第に田畑を耕すことがなくなり、昼夜通して家に閉じこもるようになった。
そこで信濃国の人々は皆で集って「昔もこのような事があったが、このままにしておけば土地の者は悉く鬼神に滅ぼされてしまうだろう。生き残っていても家から出られないのならば将来も不安である。こうなったら都に訴えて、信濃国に平安を取り戻そうではないか」と相談し、向かう者を数十人集めて都に向かわせたのであった。
こうして一行が都に着くと、早速 事の次第を帝に訴えた。すると、帝は大層驚いて信濃国の者にさらに詳しく事情を聞くと、帝は殿上人を集めて その対策を相談させた。そこで堀川内大臣が「昔もこうした例があります。天智天皇の御代にも、藤原千方という逆臣が鬼を従えて召使っていましたが、宣旨を頂いて改めるとたちまち滅びたという例があります。今もそうでしょうから、急いで武士に命じられて退治されてはどうでしょうか」と進言すると、帝は納得してその適任となる者を問うた。すると、内大臣は「吉備大臣(きびのおとど)という者は文武二道ですので、この者に命じられるのがよろしいでしょう」と申し上げたので、早速 吉備大臣のもとに勅使が遣わされた。
勅使から話を聞いた吉備大臣は驚いてすぐに参内すると、帝は「信濃国の戸隠山に鬼神が棲み着き、国中の人々を悩ませている。よってお前は急いで信濃に下ってこの鬼神を退治せよ」と勅命を下した。吉備大臣は了承したものの「私のような者が一人で行っても退治するのは難しいでしょう。そこで天下に名の通った者を遣わせたほうが良いのではないでしょうか」と申し上げたところ、公卿や殿上人が「お前の申すことも尤もであるが、数多の者の中からお前が選ばれたことこそ面目である。その上、このような帝のお言葉は倫言汗の如くであるから、すぐに向かわねばならぬ」と言った。これに吉備大臣は「重ねて申し上げることは勅諚に背くことになるので、そう言われるのであればすぐに向かいましょう」と言って出ていった。
吉備大臣は宿屋に帰ると、郎党の蘇我河麿と紀貞雄という大剛の者を召して「お前達よく聞け、今 信濃国の戸隠山には鬼神が棲んで人々を悩ませて困窮を招いているという。そこで我らに鬼神退治の勅命が下ったのだ。よって明日には信濃に下ることになる。汝ら二人は共に付いてまいれ」と言った。二人は了承し「これは大事だが、数多の者の中から我が主人に勅諚が下った家の誉である。たとえ鬼神が神通力を持っていても目さえ見えれば滅ぼすことができよう。その上、勅諚があるのだから、いよいよ頼もしく思われる」などと言って喜んだ。
吉備大臣は「お前達が言うように勅諚を持っていくのであれば少しも心配することはないが、ここは神仏の力を借りるべきだろう。我は長年 長谷の観音を信仰してきた。参籠したいと思うもが、今はその時間が無い。早く出かけよう」といって、長谷の観音に使者を送った。養老2年9月中旬、吉備大臣は河麿と貞雄を大将として総勢50余騎を引き連れ、信濃国の者3人に道案内させて都を出発し、やがて大津の浦に辿り着いた。
そこから瀬田の橋を渡り、野路の篠原を過ぎ、夜も進んで急ぎ行き、とうとう信濃国に着いた。案内の3人は、まず大臣一行を民家で休ませた。大臣は夜明けに戸隠山に分け入ろうと提案し、3人の案内人を呼んで山の様子を尋ねたところ、3人は「あの山は越中の立山、加賀の白山に続きますが、なかなか険しく鳥でなくては通いようもありません。老木が茂って月や日の光も届かず、木の葉が積もってまともな道も無いので、たまたま往来した者が迷ってしまうこともあります」などと説明した。これを聞いた大臣は「いずれにせよ、山に向かって見なければ様子も分からない。そこで、もし鬼神と出くわしたならば、こちらの思い通りに退治してやろう」と言って、その夜は床に就いた。
夜が明けると一行は戸隠山に分け入り、そのまま進んでいくうちに、山の端は白くなり、横雲が棚引き、日の光も次第に差してきたので、大臣は「人が多くて思うように進めない。河麿・貞雄の二人だけ着いてこい。残りの者は麓で待て。人が多ければ鬼神も恐れて出てこないだろうから、お前達は出てきた時の用意をしておけ」と命じた。
吉備大臣は、真新しく照り輝く緋縅の鎧、赤地の錦の直垂を着け、二尺八寸の太刀を佩き、上に薄衣を一つ打ちかけて戸隠山に分け入り、河麿も萌葱糸縅の鎧に褐色の直垂を着け、貞雄も小桜縅の鎧を着けて後を追った。残りの者どもは、麓の野辺に留まり、そこで鬼を捕らえようと気張って待ち受けることにした。
こうして3人で戸隠山を進んでいくと、案内人に聞いた通りに凄まじい場所で、9月の下旬ともあった峰には木枯らしが吹き、木の葉が積もって道も無い。山路には霞が深く、日の光も稀に指す程度なので時刻も分からなかった。このような不気味で険しい所を過ぎると やがて穏やかな場所に出たので、3人はここで休憩することにした。
そこで吉備大臣が「ようやくここまで来て夕日も沈んでしまったが、未だに鬼は見つからない。されは宣旨を畏れたか、または観音の仏力で我らの威勢を恐れたか、誠に不思議なことだ」と言うと、二人は「誠におっしゃる通りです。ですが、いずれにしても鬼を見つけるまでは山を降りるわけにはいかないでしょう」と申し上げた。これに吉備大臣は「よく言った、俺もそれは心得ている。この山で暮らすことになろうとも鬼の姿を見ずに故郷に帰ることはできまい」と言い、持参した乾飯などを食べながら飢えを凌いだ。
すると、峰の方から人の声が聞こえたので、大臣は不思議に思って「これこそ例の鬼であろう、さあ行くぞ」と言って、山奥に分け入っていくと、そこには美しい女房が2人居て涙を流していた。大臣は「これはきっと変化の者だろう。我々を騙そうとして女に化けて出てきたのだ。お前たちはあやつらを連れてまいれ」と言うと、河麿が女のもとに近づいて行ったが、女は恥ずかしげに木陰に隠れてしまった。
河麿が「お前たちは何者だ。なぜこのような人気の無い山に居るのだ。怪しいぞ」と言うと、女房は「私たちはこの山の者ではありません。麓の者です」と答えた。これを聞いた河麿は帰って大臣に報告すると、今度は大臣自ら近づいて「お前たちはよく聞け、この山には鬼が棲むと聞くが、それが何処であるか教えよ」と言った。すると、女房は涙を流しながら「左様でございます。ですが、私たちは存じません。この峰の向こうに気高い上臈が大勢で酒盛りしていらっしゃいます。彼らこそよく知っておられるでしょう。私たちは鬼の棲んでいる所に入ったことはありません。ですので、酒盛りの所に行って尋ねてください」と答えた。
大臣は この女房たちも一緒に連れて行くことにし、また峰を遥々と越えて行くと、聞いていた通りに気高い女房が6,7人で酒宴をしているようだった。そこに大臣が立ち寄ると、女房たちは恥ずかしげな様子で木陰や岩陰に隠れたので、大臣が「皆様方、どうかされましたか、私は怪しいものではありません。どうして隠れるのですか、早く出てきて下さい」と言うと、女房たちが恥ずかしげに出てきて「お姿をお見受けしますに都の人かと存じます。私たちはこの山の者ではありませんが、わけあってこのような深山に来て、誰にも知られずに遊んでいました。そこに突然あなた方が現れたので、恥ずかしくなって隠れてしまったのです」と答えた。
大臣は「恥じられることはありません。一樹の陰の宿りにも他生の縁と聞いております。このような時に言葉を交わすのも前世からの縁でしょう。我らは都の者で東に下ってきたのですが、道に迷ってここまで来てしまったのです。どうか帰り道を教えて下さい」と尋ねると、女房は「都の人と聞けば懐かしく感じます。ならばこちらへおいで下さい。道をお教えしましょう。ですが、この一河の流れを汲む酒を見捨てて行くのも気が引けます。ですので、どうぞどうぞ」と言って酒を勧めてくる。
大臣たちも人間なので心弱くも立ち寄って、紅葉の見える風情を楽しみながら酒宴に加わると、やがて女房たちと打ち解けた。そこで大臣は「どうか皆様お聞き下さい。この山には鬼が棲むと聞きましたが本当でしょうか。もし知っているのであれば何処にいるのかお教えください」と尋ねると、女房たちは「左様でございます。この山には九生大王(くしょうだいおう)という、身の丈1丈(3.03m)あまりの鬼が棲んでおります。その眷属も相当の腕を持つ者ばかりです。今は陸奥国に行っているので2,3日は帰らないでしょうから、私達は鬼の居ぬ間にこうして心を慰めているのです」と言い、打ち解け顔で酒を強いるので、大臣たちは盃を受けては酒を飲み、やがて前後不覚になるほど酔ってしまった。
大臣たちが辺りの岩を枕に微睡んでいると、女房たちはしてやったりと喜び、皆 本性の鬼の姿を現して「急ぎ九生大王に伝えよ」といって鬼の窟に戻っていった。こうして大臣たちは知らぬ間に窮地に追い込まれたが、そこに長谷の観音が現れて「大臣よ、何をしておるのだ。このような宣旨を承ったのに大事の敵に気づかず、かような不覚をとろうとするのか、さあ早く起きよ」と言い、かき消すように消え失せてしまった。
ここで大臣は目覚め、辺りを見渡してみても女房たちの姿は無い。また家来の二人も野原に伏している。そこで大臣は声を張り上げて二人を起こすと、二人も目覚めて四方を見渡し、どういうことかと不思議がる。大臣は「不思議なことだ。先程の女房たちはこの山の鬼だぞ。戦の用意をせよ」と言い、薄衣を脱ぎ捨てて、太刀を抜き、三人で身を寄せ合って大木を盾にしながら鬼が現れるのを待っていた。その時の心境はとても頼もしいものだった。
そうこうしているうちに、例の女房たちは鬼の姿を現して窟に戻り、九生大王の前に出て「大臣たちを騙してたっぷり酒を飲ませてやりました。今頃は酔っ払って寝ているでしょう。急いでお出になられて、さっさと餌食にするのが良いでしょう」と言うと、大王は大いに喜び、眷属どもを引き連れて大臣の居る場所に向かったが、そこには大臣の姿が無かった。これに大王たちは慌てふためいて、そこら中を探し回っていると、三人はその様子を見て「おう、鬼が出てきたぞ、一人も打ち漏らすな」と言って身構えた。
そして木陰から姿を現して大声で「おい、鬼ども、しかと聞け。普天の下卒土の中、王土に非ずという事無し。それに何だ、汝は王地を犯すのみならず、往来する者をも悩ませる。その天罰は遁れられまい」と言って、一斉に打ちかかると、鬼どもも「何、王土を犯すだと、昔はそうだったかも知れぬが今は違う。手並みの程を見せてやろう」と言い、皆で三人を取り囲んで攻めた。
両方とも相当な手並みだったので、力比べではなかなか勝負がつかなかった。そこで大王は通力を以って悪風を吹かせたり、火を放ったり、谷や峰を駆けて岩を崩したり、古木を倒して攻めるので、三人は手出しのしようが無くなって窮地に追い込まれた。しかし、帝の威光により、どこからともなく17,18歳くらいの一人の天童が飛んできて、鉄の楯を手に三人の前に立ち、大王の攻撃を防いでくれた。大臣が「かたじけない、されは神仏の擁護であろうか」と言い、三人は奮起して戦い続けたので、飛行自在の鬼どもも、たちまち通力を失って尽く討たれてしまった。
この様子を見て激怒した大王は「憎い奴らめ、さあ俺の手並みの程を見せてやろう」と言って、小高い岩上に飛び乗り、大臣を睨んで立ったのだが、その様子は身の毛もよだつものであった。三人は力を合わせて隙間なく斬りかかると、流石の大王も敵わぬと思ったのか、宙に浮き大臣だけを狙って飛びかかり、組み合ったと思うと険しい山中を上下になって転がっていった。これを見た二人は鬼に向かって休み無く斬りかかると、鬼が少し弱ったように見えたので、そのまま押さえつけて首を斬り落とした。すると、鬼の首は虚空に飛び上がり、口から火焔を吐き出して三人に吐き懸けた。この火焔は防ぎようもなく、鎧の袖を頭に被って木陰を求めて逃げ回っていると、どこからか鷲と能鷹が飛んできて、宙に浮いている鬼の首を続けざまに蹴りつけてたので、鬼の首は深谷の底に堕ちて微塵に砕けてしまった。
三人はかたじけなく思い、手を合わせて拝みながら「今はもう、目的の鬼を滅ぼした。もう心掛かりはない」といって、木陰に立ち寄って休憩すると、やがて日が落ちて暗くなってきた。山路には月明かりも届かないため帰り道も見えず「今宵はこの山で夜を明かそう」と言って、木の葉を集めて焚火を起こし、長い夜寒を明かした。
一方、麓で待っていた残りの者どもは「どうなさったのだろうか、心配だ。さあ探しに行ってみよう」と言って、道も見えない険しい山中を進み、三人を探し回った。そうこうしているうちに夜が明けてきたので、三人は鬼の首を2つばかり持ち帰ろうとしたが、貞雄が「今はもう目的の鬼は滅ぼしたので気にかかることもない。いっそのこと鬼の住処を見に行って故郷の土産話としよう」と提案すると、大臣も納得したので、また山奥に入って鬼の住処を探しに行った。しかし、いくら探しても そのような場所は見つからない。
三人は谷を下って行ったところ、そこに大きな岩穴があったので立ち寄って見ると、入口は石を畳んで門のようになっているが、その奥はどうなっているのか見えない数千丈はある深い谷になっている。藤の蔓を伝って出入りしていたと思われる藤葛がたくさんある。入ってみる必要もないので、大臣が「もう帰ろう」と言うと、二人も了承して帰ることにした。
谷を下り峰を登るうちに帰り道が分からなくなり、あちこち散策してみるも、行く先々は岩石が転がっているばかりである。困った三人は天を仰いで悩むばかりだった。そこで大臣は「知らない山路で迷ってときは、谷に従って出れば必ず里があるという。さあ、谷の水を辿って行こう」と言うので、谷の流れに沿って山を出ようとした。
一方で、大臣たちを探しに山に入った者どもが大声で「この辺りに吉備大臣はおりませんか。蘇我河麿と紀貞雄はおりませんか」と叫んでいた。この声が谷を進む三人にかすかに聞こえたので、大臣は不思議に思って耳を済ませると、どうやら自分たちの名を呼んでいるようなので、きっと麓で待たせた者どもが探しに来たのだろうと思い、すぐに谷から大声で答えた。大勢の者どもは大臣の声を聞いて、すぐに声の方向に探しに向かった。大臣たちが合流すると、者どもは鬼の首を見つけて大喜びし、道案内しながら勇んで麓に出ていった。
信濃国の里人は、この報告を聞くやいなや大臣たちの活躍に感謝して、総出で大臣を拝んだ。大臣はすぐに都に使者を出そうと、御内の者を一人呼び寄せて「良いか、お前は急ぎ都に上って事の次第を詳しく申し上げよ、私は明日にでも上がろうと思う」と言い、自分は民家に入ってしばらく休憩した。
一方、都では大臣が信濃国に下ってから、毎日人を出して大津・粟津・松本の辺りで御迎えしていたが、大臣の御使も程なく瀬田の橋に着いたので、その御迎えに対面した。そこで御使が事の次第を尽く語ったので、御迎えの人々は都に帰ってその報告をした。帝も大臣の活躍を聞いてとても御喜びになり、迎えを出すように言いつけると、殿上人はめでたいことだと我も我もと出迎え、大臣の御台所も思い思いに出迎えた。都から、大津、松本、粟津、瀬田、野路の篠原まで、馬、車、徒歩、裸足の人々は引きも切らない。都の人々はこれを聞き「さあ末代までの物語に見物しよう」といって見物に出て、逢坂辺りは桟敷が並べられていた。
一方、大臣は少しでも早く帰ろうと翌日には信濃国を出立すると、里人たちは大臣に感謝して皆で御見送りをした。こうして大臣は近江国の安川で御迎の人に会うと、皆が馬から降りて大臣に挨拶した。そして、大臣たちが大層な様子で都に凱旋すると、道中の御迎えからそれぞれ挨拶があり、宿所に入ると帝より「参内せよ」との命令があったので、大臣は河麿と貞雄のそれぞれに鬼の首を持たせて帝に参内した。そこで帝より「この度の忠孝は全くもって例えようもない。近くに参って戸隠山での出来事を話せ」と言われたので、大臣は畏まって近くに寄り「女房に酒を無理強いさせられたこと」「鬼の首が宙に飛び回ったこと」「鬼の住処を訪ねたこと」「道に迷ったこと」などを詳しく申し上げると、帝も臣下も驚いて大いに感心した。そして、帝は「誠に並ぶ者のない手柄である」と言って、ただちに大臣に信濃国を与え、その上に御剣や様々な巻物などを取り添えて与えた。また河麿と貞雄は少将に任じられたので、大臣は帝に感謝を述べて宿所に帰っていった。
大臣は「この度の忠孝が成せたのも、長谷の観音の守護があってこそのことだろう。早速参籠しよう」と言って、二人の少将を引き連れて観音に参籠し、33度の礼拝を奉り、それから堂塔を一字も残らず建立した。88間の回廊、44間の廊下、仏前の道具をすべて金銀で磨き調えた。これらは末世の今もそのままで世に珍しいことである。
この後、大臣は急いで戻ると、二人の少将に「この度のお前たちの忠孝は数える暇さえない。その恩賞を受けるが良い」と言って、信濃国の総政所に任じた。二人は感謝して御前を下がり、信濃国に下った。信濃の国中の人々はこれを聞いて「この国が平穏無事であるのも、ひとえにこの方々のお陰である」と言い、様々な果物や貢物を持って、少将殿の下に参上した。
二人は人々を前にして「この度、この国の鬼を従えたこと、これも一つは帝のお陰である。また神仏の力でもある。全くもって人間の力だけでできることではない、しかし勅諚を頂いたからであろうか、思い通りに鬼を滅ぼすことができた。方々も勅諚あるならば、必ず畏れ憚りなされよ。こうした変化の者までも勅諚の前には滅びるものであるぞ」と語れば、国の人々は帝を畏まり、皆 御暇を賜って自分たちの家に帰っていった。
この後、二人の少将は、思いのままに家を構えて栄華に栄えた。こうしたことで大臣は信濃国に下っても益無しということで、都に住み続けた。また、帝は二つの鬼の首を見てどうしようかと思ったが、このような者は末代まで語り伝えるべしということで、七条河原に獄門に懸けて晒されたのであった。
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