宇賀神の資料

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『渓嵐拾葉集』(1318年頃)
「宇賀神(うがじん)」の体(本質)は、天地・陰陽・理智が不二(ふたつでひとつ)である状態を指し、これは弁才天の徳そのものである。
秘決によれば、「宇」は天であり父を、「賀」は地であり母を象徴する。この天地の間に人間が生まれるため、天地人の三才を兼ね備えた存在を「宇賀神王」と呼ぶ。
また、その種子(しゅじ)である「ウ(u)」の字は虚空蔵菩薩を表し、その徳は地蔵菩薩と虚空蔵菩薩の両方に通じる。方位においては、障害や悪神が居座る「巽(南東)」に対し、宇賀神は「乾(北西)」に位置してこれを示す。
『方広寺開山無文禅師行状』(14世紀?)
参州(三河国)宝飯郡豊川郷にある三明寺は、宇賀神が神としてこの世に現れた「垂迹(すいじゃく)の地」であり、古くから名刹として知られていた。
元暦年間の兵火によって一帯は草むらと化し、長らく荒廃していたが、無文元選(むもんげんせん)禅師がこの地を通りかかり、かつての聖地の滅失を嘆いて滞在を決めた。
禅師はここに堂宇を再興して三層の塔を建て、教えを革新して禅院(禅宗の寺)とし、香火(供養)を絶やさぬようにした。その塔は今なお現存している。
『塵添壒嚢鈔』巻第四「宇賀神事」(1532年)
福神・宇賀神とはどのようなお心(由来)か。
神代において、伊弉冉尊(イザナミ)が多くの神々をお産みになった中で、倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)という神がお生まれになった。この神は稲を司る神である。「ウカ」という音が転じて「宇賀」という名になったのかもしれない。
また、月讀尊(ツクヨミノミコト)は、姉である天照大神(アマテラスオオカミ)の教えに従い、保食神(ウケモチノカミ)のもとへ向かった。保食神は口から様々な食べ物を出して供したが、月讀尊はそれを「汚らわしい」と感じ、剣を抜いて神を切り殺した。その神の死体から、頭には馬が、眉には蚕(かいこ)が、目には稗(ひえ)が、陰部には麦や大豆、小豆が生じた。
天照大神はこれらを種として田畑を作り、養蚕を行い、後世まで残された。倉稲魂命も保食神も、結局同じ神のことであり、宇賀神と呼ばれるようになったのだろう。
さらに、丹後国(現在の京都府北部)竹野郡船木の里、奈具の村には奈具の社という神社があり、祀られている神は宇賀能賣命(ウカノメノミコト)と呼ばれる。その由来を聞くと、丹波郡比治山の頂に「麻奈井(まない)」という井戸があった。現在は沼となっている。
ある時、八人の天女がそこに降りて水浴びをしていた。そこへ老夫婦が現れ、二人の名は和奈佐(ワナサ)という。そのうち一人の天女の衣を取って隠してしまった。天女は水浴びを終えて空へ戻ろうとしたが、衣を失ってしまい、帰れなかった。天女は身を水に隠しながら泣いた。
老夫婦は「お前は我が子となれ、家に来い」と言い、天女を無理やり従わせ、衣を着せて家に連れ帰った。天女は十年以上、老夫婦に従い、酒を造り続けた。その酒を一杯飲めば万病が癒えるという。おかげで老夫婦の家は急速に富み栄えた。
しかし、十分に財を得た後、老夫婦は恩を忘れ、「お前は我が子ではない」と天女を追い出した。天女は嘆き悲しみ、空を仰ぎながら歌を詠んだ:
天の原 ふりさけ見れば 霞立ち 家路まどひて 行くへ知らずも
天女は足に任せて歩き回り、ようやく心が安らぐ場所にたどり着いた。その地が「奈具(なぐ)の里」と呼ばれるようになった。天女はここで祀られ、後に宇加之御魂神(ウカノミタマノカミ)とも宇加能賣神(ウカノメノカミ)とも呼ばれるようになった。
この神が「宇賀神」と呼ばれるのは、蛇の体に人の首を持つ姿で現れることによる。これは宇加神が蛇の形に変じて人間にその姿を見せる方便であり、その実地のご利益(福運)は計り知れないほど大きい。
倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)や保食神と同系統であり、福神として老夫婦の家を富ませた逸話に象徴される通り、家運や財運をもたらす存在とされる。
『藤澤山宇賀神縁起』(江戸時代)
徳川家の始祖とされる有親(ありちか)と親氏(ちかうじ)の父子は、南北朝の動乱の中で幕府に追われ、上野国(群馬県)から逃亡した。その際、有親は日頃から深く崇敬していた「宇賀神」に急難を救ってくれるよう嘆願した。
するとその夜、夢の中に「鼠色(ねずみいろ)の衣を着た僧」が現れ、囲みを脱して逃げよとの神託を授けた。有親はこの僧を時宗の遊行上人(尊観法親王)であると悟り、危難を脱することができた。
有親はこの報恩のため、自らの守り本尊であった「宇賀神の尊像」と自筆の「願状(がんじょう)」を、時宗の総本山である清浄光寺(藤沢市の遊行寺)に奉納した。これが「藤澤山宇賀神」の由来であり、後に徳川将軍家からも始祖を救った神として厚く信仰されることとなった。
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