温羅 ― 岡山県の桃太郎伝説に登場する鬼 ―
温羅(うら・おんら)とは、岡山県に伝わる伝説の鬼神のこと。
鬼ノ城から一帯を支配していたされるが、朝廷から派遣された吉備津彦命に退治されたといわれている。
そのため、岡山県ではこの伝説が「桃太郎」のモチーフとなったとされている。
基本情報
概要
温羅は岡山県の吉備地方に伝わる鬼で、伝説によれば異国から空を飛んで吉備国にやってきて、新山に「鬼ノ城」と呼ばれる居城を築き、そこを拠点としていたとされる(一説には製鉄技術を以って周辺一帯を支配していたともいわれている)。
風体は身の丈1丈4尺(約4.2メートル)で、両目は虎や狼のように爛々と輝き、頭には赤みがかった髪が茫々と生えた異様なものであり、性格は極めて凶悪で、岩を穿つほどの人並み外れた腕力を持ち、火を吹いて山を焼いたり、都に向かう船を襲って貢物や婦女子を略奪したり、気に入らない者を捕えて大釜で煮て食ったりして近隣の人々を苦しめたという。
このことが都に伝わると、朝廷は温羅を討伐するために名だたる武将を吉備に送り込んだが、神出鬼没で変幻自在の温羅には敵わずに尽く敗れ去ったため、四道将軍の一人である五十狭斧彦命(イサセリヒコ)が討伐軍の指揮を執ることになった。
五十狭斧彦命は大軍を率いて吉備国に入り、吉備の中山に陣を敷いて戦の準備を整え、鬼ノ城に向かって矢を放って攻撃したが、温羅の投げた岩に阻まれて矢が届かず、進展しない戦況に喘いでいたところ、五十狭斧彦命の夢枕に住吉大明神が立ち「2本の矢で温羅を射て」との神託が下された。
五十狭斧彦命が神託通りに2本の矢を温羅に放つと、1本目は阻まれたものの、2本目が温羅の片目を射抜いた。すると、温羅の目から血潮が吹き出して付近の川から下流の浜までを真っ赤に染めたという。
怯んだ温羅はキジに化けて山中に逃げたが五十狭斧彦命はタカに化けて追跡し、温羅がコイに化けて水中に逃げると五十狭斧彦命はウに化けて食らいつき、遂に温羅に捕えた。ここで温羅は降参し、五十狭斧彦命に自分の名である「吉備冠者」の名を献上した。それ以来、五十狭斧彦命は吉備津彦(キビツヒコ)と呼ばれるようになったという。
その後、五十狭斧彦命は温羅の首を刎ね、その首を串刺しにして晒した。すると、不思議なことに首だけになった温羅は何年も生き続け、大声を上げて唸るのを止めなかった。そこで五十狭斧彦命は、温羅の首を犬に食わせて髑髏にしたが、それでも唸るので、今度は土中深くに埋めたがそれでも唸るのを止めず、それから13年も唸り続けたという。
そんなある夜、五十狭斧彦命の夢枕に温羅が現れて、自分の妻の阿曽姫に釜で神饌を炊かせるようにすれば、これまでの悪行の償いとして釜を唸らせて世の吉凶を知らせようと告げた。五十狭斧彦命は温羅の願いを聞き入れてそのようにすると、温羅の首は唸るのを止めたという。
この行事は以降も続けられるようになり、今では吉備津神社の鳴釜神事という特殊神事として伝えられている。そして、温羅は吉備津神社の脇に封じられ、艮御崎神(うしとらみさき)として祀られるようになったという。
これが「吉備津彦の温羅退治」として伝えられている伝説であり、『鬼城縁起写』や『吉備津宮縁起』などの資料のほか、吉備地方の民話として伝えられている。そのため、詳細がところどころ違っていたりするが、大体は上記のような内容となっている。なお、岡山駅前には桃太郎像があるが、この伝説が桃太郎のモチーフなったと考えられているからであり、伝説における吉備津彦が桃太郎のモデルとなったとされている。
・剛伽夜叉(ごうきゃやしゃ):吉備国に入り、新山の岩屋に籠もっていた頃の名前
・吉備冠者(きびのかじゃ):吉備地方の支配者としての名前
・禍又温羅(かしゃうら):温羅の別名
・艮御崎神(うしとらみさき):死後、神として祀られるようになった温羅
・丑寅御前(うしとらみさき):艮御崎神の別名
・温羅命(うらのみこと):祭神としての温羅の名前
・吉備冠者(きびのかじゃ):吉備地方の支配者としての名前
・禍又温羅(かしゃうら):温羅の別名
・艮御崎神(うしとらみさき):死後、神として祀られるようになった温羅
・丑寅御前(うしとらみさき):艮御崎神の別名
・温羅命(うらのみこと):祭神としての温羅の名前
・身の丈1丈4尺(約4.2メートル)
・頭に瘤(こぶ)があった
・両目は虎や狼のように爛々と輝いている
・頭には赤みがかった髪が茫々と生えていた
・大岩を穿ったり持ち上げたりするほどの怪力を持つ
・山火事を起こすほどの火を吹ける
・鳥獣に変化することができる
・首だけ、また骨だけになっても生きられる
・頭に瘤(こぶ)があった
・両目は虎や狼のように爛々と輝いている
・頭には赤みがかった髪が茫々と生えていた
・大岩を穿ったり持ち上げたりするほどの怪力を持つ
・山火事を起こすほどの火を吹ける
・鳥獣に変化することができる
・首だけ、また骨だけになっても生きられる
・阿曽媛(あそひめ):温羅の妻
・王丹(おに):温羅の弟
・王丹(おに):温羅の弟
・出雲
・九州
・百済
・新羅
・加耶
・天竺
・九州
・百済
・新羅
・加耶
・天竺
・『鬼城縁起写』延長元年(923年)
・『備中国吉備津宮勧進帳』天正11年(1583年)
・『備前国々中神社記』延宝3年(1675年)
・『備中吉備津宮縁起』元禄13年(1700年)
・『備中吉備津宮五社明神記』享保10年(1725年)
・『備中集成志大全』宝暦3年(1753年)
・『吉備津宮旧記』寛政11年(1799年)
・『備中一品吉備津彦明神縁起』享保年間
・『鬼城岩屋ノ事』享保年間
・『備中大吉備津宮略記』文化年間
・『備中国大吉備津宮略記』文政年間
・『吉備津宮縁起』嘉永6年(1853年)ほか
・『備中国吉備津宮勧進帳』天正11年(1583年)
・『備前国々中神社記』延宝3年(1675年)
・『備中吉備津宮縁起』元禄13年(1700年)
・『備中吉備津宮五社明神記』享保10年(1725年)
・『備中集成志大全』宝暦3年(1753年)
・『吉備津宮旧記』寛政11年(1799年)
・『備中一品吉備津彦明神縁起』享保年間
・『鬼城岩屋ノ事』享保年間
・『備中大吉備津宮略記』文化年間
・『備中国大吉備津宮略記』文政年間
・『吉備津宮縁起』嘉永6年(1853年)ほか
データ
種 別 | 日本妖怪、神仏 |
---|---|
資 料 | 『備中一品吉備津彦明神縁起』ほか |
年 代 | 垂仁11年(BC19年) |
備 考 | 渡来人、朝廷に服従しなかった土豪という説がある |
史跡・神社仏閣
吉備津神社
吉備津神社は岡山市北区吉備津にある神社で、温羅と戦った吉備津彦命を主祭神として祀っている。境内には御釜殿があり、ここでは温羅伝説にちなむ「鳴釜神事」という特殊神事が今でも行われている。
一説に、温羅は吉備津彦に「自分の首を釜の下に祀り、その釜の守役として妻の阿曽媛を初代とし、以後はその血筋の娘に代々守役を継がせるならば、祟り神から先触れの神となって吉備津彦の力になろう」と告げたといわれており、神社HPによれば 今でも神事に仕える阿曽女(釜の守役)は阿曽の郷の娘が代々その役を継承しており、伝説通りに温羅の遺言を守っているのだという。
また、一説に吉備津神社の本殿の四隅にある御崎神社(艮の方角のみとも)には温羅や温羅の弟の王丹(おに)が祀られているとされる(資料にこの記述があるが、神社HPにそのような記載は無い)。ちなみに岡山市辛川市場にその分社があり、ここでも温羅と王丹が祀られている。
アクセス:岡山県岡山市北区吉備津931
鬼ノ城(温羅旧跡碑)
鬼ノ城は、岡山県総社市にある標高400mの鬼城山に築かれた古代山城で、現在は国の史跡に指定されている。資料に記録がないため、築城年は不明であるが、発掘調査で7世紀後半頃に築かれたと推定されている。
伝承では、朝鮮から渡来した温羅一族が居住したといわれており、付近の城塁は当時のなごりだともいわれている。鬼ノ城には温羅にまつわる具体的な痕跡は無いが、敷地内に温羅旧跡碑がある。
アクセス:岡山県総社市黒尾
岩屋寺(鬼の岩屋)
鬼ノ城の北方には岩屋寺という廃寺があり、その敷地内にある毘沙門堂の横には「鬼の岩屋」と呼ばれる岩窟がある。案内板によれば、岩窟の天井石にあたる巨石は「鬼の差し上げ岩」と呼ばれ、その大きさは縦幅15m、横幅5m、厚さ5mともなるという。伝承では、温羅がこの巨石を差し上げて岩窟を造り、ここを住処にしていたといわれ、差し上げ岩の裏側には「鬼の手型」と呼ばれる温羅の手形のような窪みがある。
アクセス:岡山県総社市奥坂
矢喰神社(矢喰の岩)
矢喰神社は岡山市北区にある神社で、吉備津彦命と温羅が戦った際に互いに射った矢が空中でかち合って落ちた場所に作られたという伝説がある。また、境内には「矢喰の岩」と呼ばれる巨石がいくつかあり、これは吉備津彦命が射った矢を落とすために温羅が投げたものだという伝説があるとされている。
アクセス:岡山県岡山市北区高塚108
温羅(艮御崎神)に関連する神社
・阿宗神社(岡山県総社市奥坂96):温羅の妻の阿曽媛の関係地に建てられた神社
・青陵神社(岡山県岡山市北区谷万成2-439):温羅夫婦を五穀豊穣の神として祀る
・温羅神社 [吉備津彦神社](岡山県岡山市北区一宮1043):吉備津彦神社の末社で、温羅の和魂を祀る
・艮御崎神社(岡山県岡山市辛川市場160):吉備津彦命、温羅命、王丹を祀る(温羅の胴体を祀るとも)
・艮御崎神社(岡山県倉敷市真備町川辺208):温羅は祭神に無いが、温羅にまつわるいわれがある
・吉備津神社(岡山県岡山市北区吉備津931):本殿の艮の方角に温羅を祀っているといわれる
・鯉喰神社(岡山県倉敷市矢部109):鯉に化けた温羅を、鵜に化けた吉備津彦が捕まえた地に建てられた神社
・米神 [白山神社](岡山県岡山市北区首部236):白山神社の末社で、温羅の首を祀っている
・矢喰神社(岡山県岡山市北区高塚108):吉備津彦と温羅が撃ち合った矢が落ちた場所に建てられた神社
・青陵神社(岡山県岡山市北区谷万成2-439):温羅夫婦を五穀豊穣の神として祀る
・温羅神社 [吉備津彦神社](岡山県岡山市北区一宮1043):吉備津彦神社の末社で、温羅の和魂を祀る
・艮御崎神社(岡山県岡山市辛川市場160):吉備津彦命、温羅命、王丹を祀る(温羅の胴体を祀るとも)
・艮御崎神社(岡山県倉敷市真備町川辺208):温羅は祭神に無いが、温羅にまつわるいわれがある
・吉備津神社(岡山県岡山市北区吉備津931):本殿の艮の方角に温羅を祀っているといわれる
・鯉喰神社(岡山県倉敷市矢部109):鯉に化けた温羅を、鵜に化けた吉備津彦が捕まえた地に建てられた神社
・米神 [白山神社](岡山県岡山市北区首部236):白山神社の末社で、温羅の首を祀っている
・矢喰神社(岡山県岡山市北区高塚108):吉備津彦と温羅が撃ち合った矢が落ちた場所に建てられた神社
温羅に関する史跡
・鬼ノ城(岡山県総社市黒尾):温羅が根城にしたとされる場所
・鬼の釜(岡山県総社市黒尾):温羅が生け贄を茹でたという釜
・楯築遺跡(岡山県倉敷市矢部):吉備津彦が石楯を築いて防戦準備をした場所とされる
・血吸川(岡山県総社市黒尾):温羅の血で真っ赤に染まったという川
・赤浜(岡山県総社市赤浜):温羅の血で真っ赤に染まったという浜
・鬼の釜(岡山県総社市黒尾):温羅が生け贄を茹でたという釜
・楯築遺跡(岡山県倉敷市矢部):吉備津彦が石楯を築いて防戦準備をした場所とされる
・血吸川(岡山県総社市黒尾):温羅の血で真っ赤に染まったという川
・赤浜(岡山県総社市赤浜):温羅の血で真っ赤に染まったという浜
温羅を題材にした催物
・備中神楽:温羅が登場する
・温羅まつり:平成まで総社市で行われていた祭り
・温羅まつり:平成まで総社市で行われていた祭り
諸説
征伐された渡来人説
温羅は凶悪な鬼だったとされているが、一説に「他国からの渡来人であり、吉備地方に製鉄技術をもたらして一帯を支配していた人物だった」ともいわれている。ちなみに温羅は百済の王子だったともいわれるが、渡来人説における出身地については、出雲や九州といった別の地方だったり、朝鮮半島の一国だったり、大陸から朝鮮経由で渡来してきたなど、様々な説が唱えられている。
一方、温羅を倒した吉備津彦命(五十狭斧彦命)が吉備国にやってきた理由は、伝説では「温羅を討伐するため」とされているが、『日本書紀』では「崇神朝に国民の半数が亡くなるほどの疫病が蔓延した際、神の力によってこれを治めることができたため、天皇は神の教えを遠国に広めて強化すべく、四道将軍を任命し、それぞれ北陸・東海・西道・丹波に派遣した」とされ、このうち西道(山陽道)に派遣されたのが五十狭斧彦命だと記されている。つまり、『日本書紀』における五十狭斧彦命派遣の目的は温羅退治ではなく「異民族の教化」であると言える。
多くの温羅伝説では、温羅は凶悪な悪鬼であると断定されているが、農耕神である米神として温羅を祀っている岡山市北区首部の白山神社の由緒書には「鬼と恐れられた温羅は、実は心優しい青年で、朝鮮半島からタタラ製鉄技術を持ち込み、農民に鍬や鋤などを広め、農業の発展に力の限りを尽くしたのです。やがて、吉備の国は豊かな米どころとなり、温羅は農民から大変感謝され、功績をたたえられ、米の神として祀られました」と記されており、温羅が善人であったという真逆をいわれを伝えている。
『記紀』などの日本の歴史書を読めば、天津神から続く朝廷側は、神話時代から勢力を拡大していく過程で服従しなかった土豪を悉く征服していったことが記されている。こうした「まつろわぬ者」には土蜘蛛や国栖などがおり、鬼や蝦夷と呼ばれて忌まれていたことが分かる。そのため、温羅もこうした鬼として征伐されてしまった渡来人の一派だったのかも知れない、というのが渡来人説である。
余談だが、史実で悪人とされている人物が、ゆかりの地で善人として伝えていることは多々ある。例えば、飛鳥時代に悪政を敷いていたとされる蘇我入鹿は、地元の入鹿神社では実は善人だったという伝説が伝えられていたりする。
温羅族とする説
温羅は鬼の固有名詞とされているのが一般的だが、鬼ノ城の案内板など 温羅を一族名 として扱っていることもある。どういういわれで一族名とされたのかは(調査不足で)不明だが、上記の渡来人説のように温羅を渡来人の一派として捉えた時に当てはまる表現と言え、その族長が鬼神とされた温羅だったと考えると辻褄が合う。
一方で、現在の岡山県の一帯にはたくさんの鬼が棲んでいたという伝説もある。岡山県加賀郡吉備中央町には鬼突石という穴の空いた岩があり、その案内板には『豪快通岩鬼之力』という「当地が備中国賀陽郡竹部郷と呼ばれていた頃、備中の鬼の城(鬼ノ城)の辺りには鬼が結構鬼が棲んでおり、大山道にて和服姿の美しい娘と鬼が遭遇した時に、その娘に惚れた鬼が嫁にしようと後を追った。恐れた娘は走って逃げたが、やがて疲れて走れなくなったので、近くにあった大岩に自分の羽織を掛けて脇の茂みに隠れていると、その岩を娘と勘違いした鬼が岩に抱きついて一物で岩を突くと岩に亀頭の跡がついた。よって、この岩は『鬼突岩』と呼ばれるようになり、地名にも『鬼突き』と付けられるようになった」といった伝説が記されている。
これは穴の空いた岩に適当な伝説をこじつけたとも考えられているが、伝説に備中の鬼の城(鬼ノ城)とあることから温羅と関連付けられており、この伝説に登場する美しい娘が温羅の妻である阿曽媛であるという伝説もあるようで、何かとこの伝説に温羅は関係しているらしい。また、もし伝説通りに大岩に穴を空けるほどの一物を持っていたとするならば、とても人間業とは思えない。なので、温羅族と呼ばれる鬼の一派は人間ではなかったのかもしれないとも考えられる。
資料
吉備津彦の温羅退治
第11代垂仁天皇の時代、異国より空を飛んで吉備の国にやってきた者がいた。その者は名は温羅(ウラ)といい、身長は1丈4尺(約4.2メートル)で、両目は虎や狼のように爛々と輝き、頭には赤みがかった髪が茫々と生えた異様な姿であった。性質は極めて凶悪で、火を吹いて山を焼き、人並み外れた腕力で岩を穿ち、人間や猿を捕えて喰ったという。温羅は新山に居城を築き、西国から都へ送られる船を襲って貢物や婦女子を略奪したり、気に入らぬ者を捕えて大釜で煮て食べたりしていたことから、人々は温羅を「鬼神」と呼び、居城を「鬼ノ城(きのじょう)」と呼んで大変恐れた。
このことはやがて都にも伝わり、朝廷は温羅討伐のために名のある武将を吉備に送り込んだが、神出鬼没で変幻自在の温羅の前に武将たちはことごとく敗れ去った。そこで、白羽の矢が立ったのが武勇に優れた五十狭斧彦命(イサセリヒコ)であった。吉備に入った五十狭斧彦命は大軍を率いて吉備の中山に陣を敷き、片岡山に石盾を築いて戦の準備を整えた。
遂に戦が始まると、五十狭斧彦命は鬼ノ城に矢を放って攻撃したが、ことごとく温羅が投げた岩に阻まれて全く届くことはなかった。戦は長引いたが、ある日 五十狭斧彦命の夢に住吉大明神が現れて「2本の矢で温羅を射て」との神託を下した。五十狭斧彦命が神託の通りに2本の矢を温羅に放つと、1本目は岩に落とされたものの、2本目は温羅の左目に命中した。このとき、温羅の目から血潮が吹き出し、その血は今の血吸川から下流の赤浜まで真っ赤に染めたという。
これに怯んだ温羅は雉(キジ)に変化して山中へと逃げ出したが、五十狭斧彦命は鷹(タカ)に変化して追跡した。すると、温羅は鯉(コイ)に変化して血吸川に潜って逃げたが、五十狭斧彦命も鵜(ウ)に変化して食らいつき、遂に温羅を捕らえることに成功した。追い詰められた温羅は五十狭斧彦命に降参し、人々に呼ばせていた「吉備冠者」の名を五十狭斧彦命に献上した。このため、五十狭斧彦命は以降は吉備津彦(キビツヒコ)と呼ばれるようになった。
戦に勝利した吉備津彦は、温羅の首を刎ねてとどめを刺すと その首を串に刺して首村(こうべむら)に晒した。しかし、不思議なことに温羅は首だけになった後も何年も生き続け、大声を上げてうなり続けた。そこで、吉備津彦は家来の犬飼健命(イヌカイタケル)に命じて、首を犬に喰わせたが、髑髏になってからも唸るのを止めることはなかった。そのため、今度は土を掘って土中深くに髑髏を埋めさせたのだが、それから13年経っても唸り声は続いたという。
そんなある夜、吉備津彦の夢枕に温羅が立ち「我が妻、阿曽郷の祝の娘である阿曽姫(アソヒメ)に釜で神饌(みひ)を炊かせよ。そうすれば、これまでの悪行の償いとして、この釜をうならせて世の吉凶を告げよう。釜は幸福が訪れるのなら豊かに鳴り響き、災が訪れるなら荒々しく鳴り響くだろう」と告げた。吉備津彦は温羅の願いを聞き入れて告げられた通りにすると、温羅の首は唸るのを止めたという。また、この行事は以降もその年の吉凶を占うべく毎年続けられ、今では吉備津神社の鳴釜神事として伝えられている。
こうした温羅を退治した吉備津彦は吉備中山の麓に茅葺宮(かやぶきのみや)を建てて住み、吉備津の統治にあたった。そして、281歳という長寿を全うして今の中山茶臼山古墳に葬られた。一方、温羅は艮御崎神(うしとらみさき)として吉備津神社の脇に封じられたという。
このことはやがて都にも伝わり、朝廷は温羅討伐のために名のある武将を吉備に送り込んだが、神出鬼没で変幻自在の温羅の前に武将たちはことごとく敗れ去った。そこで、白羽の矢が立ったのが武勇に優れた五十狭斧彦命(イサセリヒコ)であった。吉備に入った五十狭斧彦命は大軍を率いて吉備の中山に陣を敷き、片岡山に石盾を築いて戦の準備を整えた。
遂に戦が始まると、五十狭斧彦命は鬼ノ城に矢を放って攻撃したが、ことごとく温羅が投げた岩に阻まれて全く届くことはなかった。戦は長引いたが、ある日 五十狭斧彦命の夢に住吉大明神が現れて「2本の矢で温羅を射て」との神託を下した。五十狭斧彦命が神託の通りに2本の矢を温羅に放つと、1本目は岩に落とされたものの、2本目は温羅の左目に命中した。このとき、温羅の目から血潮が吹き出し、その血は今の血吸川から下流の赤浜まで真っ赤に染めたという。
これに怯んだ温羅は雉(キジ)に変化して山中へと逃げ出したが、五十狭斧彦命は鷹(タカ)に変化して追跡した。すると、温羅は鯉(コイ)に変化して血吸川に潜って逃げたが、五十狭斧彦命も鵜(ウ)に変化して食らいつき、遂に温羅を捕らえることに成功した。追い詰められた温羅は五十狭斧彦命に降参し、人々に呼ばせていた「吉備冠者」の名を五十狭斧彦命に献上した。このため、五十狭斧彦命は以降は吉備津彦(キビツヒコ)と呼ばれるようになった。
戦に勝利した吉備津彦は、温羅の首を刎ねてとどめを刺すと その首を串に刺して首村(こうべむら)に晒した。しかし、不思議なことに温羅は首だけになった後も何年も生き続け、大声を上げてうなり続けた。そこで、吉備津彦は家来の犬飼健命(イヌカイタケル)に命じて、首を犬に喰わせたが、髑髏になってからも唸るのを止めることはなかった。そのため、今度は土を掘って土中深くに髑髏を埋めさせたのだが、それから13年経っても唸り声は続いたという。
そんなある夜、吉備津彦の夢枕に温羅が立ち「我が妻、阿曽郷の祝の娘である阿曽姫(アソヒメ)に釜で神饌(みひ)を炊かせよ。そうすれば、これまでの悪行の償いとして、この釜をうならせて世の吉凶を告げよう。釜は幸福が訪れるのなら豊かに鳴り響き、災が訪れるなら荒々しく鳴り響くだろう」と告げた。吉備津彦は温羅の願いを聞き入れて告げられた通りにすると、温羅の首は唸るのを止めたという。また、この行事は以降もその年の吉凶を占うべく毎年続けられ、今では吉備津神社の鳴釜神事として伝えられている。
こうした温羅を退治した吉備津彦は吉備中山の麓に茅葺宮(かやぶきのみや)を建てて住み、吉備津の統治にあたった。そして、281歳という長寿を全うして今の中山茶臼山古墳に葬られた。一方、温羅は艮御崎神(うしとらみさき)として吉備津神社の脇に封じられたという。
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