桃太郎【モモタロウ】
珍奇ノート:桃太郎伝説 ― 桃太郎のルーツとなった伝説とは? ―

桃太郎(ももたろう)は日本の代表的なおとぎ話の一つで、桃の実から生まれた桃太郎がお爺さんお婆さんから黍団子を貰い、イヌ・サル・キジを家来に従えて、鬼ヶ島の鬼を退治しに行くという物語として知られている。

桃太郎の成立年代は分かっていないが、口承文学としては室町末期から江戸初期に確立したと見られ、江戸時代に出版された娯楽本などの読み物によって広まったとされる。また、桃太郎の伝説は全国各地によって様々であることから発祥は分かっておらず、土地によっては伝説にまつわる人物や地名が残っているという場合もある。


基本情報


概要


現在語られている桃太郎の主な内容は、

昔々、あるところにお爺さんとお婆さんがいた。お爺さんは山に芝刈りに、お婆さんは川に洗濯に行ったところ、川から大きな桃が流れてきた。お婆さんは桃を持ち帰り、お爺さんと一緒に食べようと桃を切ってみると、中から元気な男の赤ん坊が飛び出した。今まで子供がいなかった二人はきっと神様が授けてくださったにちがいないと大喜び。その子は桃太郎と名付けられ、強い男の子に育っていった。

ある日、桃太郎は鬼ヶ島にいる悪い鬼を退治しに行くことを決意し、お婆さんにきびだんごを作ってもらって鬼ヶ島に出かけていった。旅の途中でイヌ、サル、キジと出会い、きびだんごを一つずつやって家来にし、遂に鬼ヶ島へとやってきた。鬼ヶ島で鬼たちは人々から奪った宝物や御馳走を並べて酒盛りの真っ最中だった。そこで桃太郎は家来と共に一斉に飛びかかって鬼たちをやっつけると、鬼の親分は降参して宝物を桃太郎に差し出した。こうして桃太郎は無事に鬼退治を果たし、お爺さんとお婆さんと一緒に幸せに暮らしたとさ。

というものだが、桃太郎の出生については、桃から生まれたとする「果生型」と、桃を食べたお爺さんとお婆さんが若返り出産によって生まれたとする「回春型」があり、現在では「果生型」が一般的だが、古くは「回春型」が主流だったという。

また、地域によっても内容が様々であり「流れてきた香箱に赤ん坊が入っていた」「桃太郎は男の子のように元気のよい女の子であった」「桃太郎は寝てばかりいる怠け者であった」「石臼・針・馬の糞・百足・蜂・蟹を家来にした」「桃太郎は鬼退治の後に怠け者になって鬼たちに逆襲された」など、主流とはかけ離れた物語になっていることもあるという。

なお、全国には桃太郎のルーツとなった伝説が残っているという場所もあり、有名なものに岡山県の「吉備津彦命の温羅退治」がある。その他にも愛知県・香川県・山梨県などの伝説が知られており、香川県の「稚武彦命の鬼退治」の伝説によれば、讃岐に赴任していた菅原道真が地元の漁師からこの伝説を聞いて「桃太郎」というおとぎ話にまとめたという話もある。

桃については、古代中国の西王母伝説に見られる「不老不死」あるいは日本神話に黄泉国訪問に見られる「鬼除け」といった思想に関連するといわれ、老夫婦の若返りや桃太郎の鬼退治にその発想が見られる。ちなみに愛知県の桃太郎伝説によれば、桃太郎は日本神話に登場する大神実命という桃の神だったとされ、伝説に基いて今でも現地の神社で祀られている。

全国の桃太郎伝説




岡山県の桃太郎伝説


第11代垂仁天皇の時代、異国より空を飛んで吉備の国にやってきた者がいた。その者は名は温羅(ウラ)といい、身長は1丈4尺(約4.2メートル)で、両目は虎や狼のように爛々と輝き、頭には赤みがかった髪が茫々と生えた異様な姿であった。性質は極めて凶悪で、火を吹いて山を焼き、人並み外れた腕力で岩を穿ち、人間や猿を捕えて喰ったという。温羅は新山にに居城を築き、西国から都へ送られる船を襲って貢物や婦女子を略奪したり、気に入らぬ者を捕えて大釜で煮て食べたりしていたことから、人々は温羅を"鬼神"と呼び、居城を"鬼ノ城(きのじょう)"と呼んで大変恐れた。

このことはやがて都にも伝わり、朝廷は温羅討伐のために名のある武将を吉備に送り込んだが、神出鬼没で変幻自在の温羅の前に武将たちはことごとく敗れ去った。そこで、白羽の矢が立ったのが武勇に優れた五十狭斧彦命(イサセリヒコ)であった。吉備に入ったイサセリヒコは大軍を率いて吉備の中山に陣を敷き、片岡山に石盾を築いて戦の準備を整えた。

遂に戦が始まると、イサセリヒコは鬼ノ城に矢を放って攻撃したが、ことごとく温羅が投げた岩に阻まれて全く届くことはなかった。戦は長引いたが、ある日 イサセリヒコの夢に住吉大明神が現れて"2本の矢で温羅を射て"との神託を下した。イサセリヒコが神託の通りに2本の矢を温羅に放つと、1本目は岩に落とされたものの、2本目は温羅の左目に命中した。このとき、温羅の目から血潮が吹き出し、その血は今の血吸川から下流の赤浜まで真っ赤に染めたという。

これに怯んだ温羅は雉(キジ)に変化して山中へと逃げ出したが、イサセリヒコは鷹(タカ)に変化して追跡した。すると、温羅は鯉(コイ)に変化して血吸川に潜って逃げたが、イサセリヒコも鵜(ウ)に変化して食らいつき、遂に温羅を捕らえることに成功した。追い詰められた温羅はイサセリヒコに降参し、人々に呼ばせていた"吉備冠者"の名をイサセリヒコに献上した。このため、イサセリヒコは以降は吉備津彦(キビツヒコ)と呼ばれるようになった。

戦に勝利したキビツヒコは、温羅の首をはねてとどめを刺すと その首を串に刺して首村(こうべむら)に晒した。しかし、不思議なことに温羅は首だけになった後も何年も生き続け、大声を上げてうなり続けた。そこで、キビツヒコは家来の犬飼健命(イヌカイタケル)に命じて、首を犬に喰わせたが、髑髏になってからも唸るのを止めることはなかった。そのため、今度は土を掘って土中深くに髑髏を埋めさせたのだが、それから13年経っても唸り声は続いたという。

そんなある夜、キビツヒコの夢枕に温羅が立ち"我が妻、阿曽郷の祝の娘である阿曽姫(あそひめ)に釜で神饌(みひ)を炊かせよ。そうすれば、これまでの悪行の償いとして、この釜をうならせて世の吉凶を告げよう。釜は幸福が訪れるのなら豊かに鳴り響き、災が訪れるなら荒々しく鳴り響くだろう"と告げた。キビツヒコは温羅の願いを聞き入れて告げられた通りにすると、温羅の首は唸るのを止めたという。また、この行事は以降もその年の吉凶を占うべく毎年続けられ、今では吉備津神社の鳴釜神事として伝えられている。

こうした温羅を退治したキビツヒコは吉備中山の麓に茅葺宮(かやぶきのみや)を建てて住み、吉備津の統治にあたった。そして、281歳という長寿を全うして今の中山茶臼山古墳に葬られた。一方、温羅は艮御崎神(うしとらみさき)として吉備津神社の脇に封じられたという。



香川県の桃太郎伝説


昔、大和朝廷は全国の支配を確立するために各地に将軍を派遣した。そのうち、西道には吉備津彦命(キビツヒコ)、稚武彦命(ワカタケヒコ)という兄弟が派遣され、兄のキビツヒコは中国地方を、弟のワカタケヒコは瀬戸内海一帯の平定を任されることになった。

ある時、ワカタケヒコは讃岐にいた姉の倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)に会いに行こうと河口から船に乗って本津川を上っていった。そのとき、川で洗濯している美しい娘に一目惚れし、素性を訪ねてみると、その娘は宇佐津彦命の後裔で年老いた両親と共に"大古家(おおふるや)"という土地に住んでいたが、たびたび鬼に襲われるので"神高(かんだか)"という土地に逃れて来たのだと話した。それを聞いたワカタケヒコは婿養子として娘の家に入ることにし、鬼退治に向かうことを決意した。

その鬼とは、当時 讃岐の海を荒らしていた海賊で"鬼大王"とも呼ばれ、村々を襲って人々を苦しめていた。鬼たちの根城は讃岐の沖合に浮かぶ"鬼ヶ島(女木島)"であり、その島の山中の洞窟に隠れ住んでいるのだという。

ワカタケヒコが鬼退治のために軍を募ると、近隣の村や島の人々が続々と集まってきた。集まった者のうち、瀬戸内海の"犬島(いぬじま)"の人々は船の扱いが得意で、陶芸師の"猿王(ざるおう)"という者は職業がら火の扱いが得意とし、"雉子谷(かしがだに)"の人々は弓矢の扱いを得意としていた。こうして軍勢が整うと、ワカタケヒコらはお婆さん(娘の母)が作ってくれた"きびだんご"を兵糧として携えて鬼退治に出発した。

鬼ヶ島では鬼たちと激しく争うことになったが、ワカタケヒコらは勝利して無事に凱旋を果たし、鬼が人々から奪った宝物を持ち帰ってきた。この戦いで、鬼を弓で追い払った場所は"弦打"、勝どきをあげた山は"勝賀山"と呼ばれるようになった。

後日、生き残った鬼たちが逆襲してきたが、ワカタケヒコらは"せり塚"という場所で一人残らず返り討ちし、鬼たちを全滅させた。その鬼たちの屍を埋めたのが"鬼ヶ塚"である。こうして鬼たちを倒して平和を取り戻すことができたので、最後に鬼を滅した里を"鬼無(きなし)"と呼ぶようになった。

その後、讃岐国守として6年在任していた菅原道真は、漁師たちに鬼退治の話を聞き、これをおとぎ話としてまとめて全国に"桃太郎"を広めたという。



愛知県の桃太郎伝説


昔、木曽川の畔に"粟栖(くりす)"という村があり、その村には子供のないお爺さんとお婆さんが住んでいた。お爺さんとお婆さんは子宝を願いながら日々暮らしており、お爺さんは山に芝刈りに、お婆さんは川に洗濯に向かうことが日課であった。その頃、木曽川上流には桃林があり、そこは"大桃(だいとう)"と呼ばれていた。

ある日、いつものようにお婆さんが川で洗濯していると、川上から大きな桃が流れてきた。お婆さんはお爺さんと一緒に食べようと思い、桃を拾って洗濯物と一緒に持ち帰った。お爺さんが帰ってくると、お婆さんは川で拾った大きな桃を見せて、早速切ってみようと話した。そして、桃を切ろうとすると、突然桃が割れて中から元気な男児が出てきた。二人はとても驚いたが、きっと子供のない自分たちのために神が授けてくださったのだろうと思い、その子を桃太郎と名付けて大切に育てることにした。

桃太郎はやがて立派な若者に成長し、お爺さんと共に芝刈りに向かったある日、山道の途中で子供を抱きながら泣いている女達に出会った。二人がどうして泣いているのか尋ねると、女達は鬼ヶ島に住む鬼に村を荒らされ、村の女 子供をさらっていくので逃げてきたのだと話した。この地は"乳母の懐"と呼ばれ、"鬼ヶ島"は可児川にある島のことである。

この話を聞いた桃太郎は鬼退治を決意し、そのことをお爺さんとお婆さんに話した。二人は桃太郎が強く勇敢であったことを知っていたので鬼退治に賛成し、土地の名物であった"きびだんご"をたくさん作って渡した。

桃太郎はきびだんごを網袋に入れて腰にさげ、日本一と書いた小旗を立てて意気揚々と鬼退治に向かった。桃太郎が去ると、お爺さんとお婆さんは桃太郎の無事を祈って洞窟に籠もることにした。この桃太郎が進んだ道を"旗がひら"といい、お爺さんとお婆さんが籠もった"洞窟を断食"の洞窟という。

桃太郎が出発すると、日頃から仲良くしていたイヌがやってきたので、桃太郎は頼もしいお供ができたと喜んでイヌにきびだんごを一つやった。このイヌが棲んでいたところを"犬山"という。

しばらく進むと、今度は付近の崖から大きなサルが現れて仲間にしてほしいと頼まれた。桃太郎はイヌと仲良くするようにいいつけてきびだんごを一つやり、お供として連れて行くことにした。このサルが現れた辺りには"猿洞"や"猿渡り"というところがある。

桃太郎たちが、木曽川伝いに船で上流に向かっていたところ、山からキジがやってきたのできびだんごを一つやってお供に連れて行くことにした。このキジが棲んでいたところを"堆ケ棚(きじがたな)"という。

かくして桃太郎たちは鬼ヶ島にほど近い川岸にたどり着いた。この川岸は"古渡し"と呼ばれている。川岸からしばらく進むと、イヌが激しく吠え立てた。すると、岩陰から4,5人の鬼が現れて桃太郎たちに襲いかかってきた。ここは"敵がくれ"と呼ばれている。

桃太郎たちが鬼たちと取っ組み合いの戦いを始めると、周りの山から大猿・小猿が滑り降りてきて桃太郎たちに加勢し、付近の村人も助太刀に駆けつけた。この辺りには"さるすべり"や"助の山"と呼ばれる山がある。この勢いにさすがの鬼たちも逃げ出したので、桃太郎たちは山上にて威勢よく勝どきをあげた。このことから、麓の村を"勝山村"といい、鬼と取っ組み合いをしたところを"取組村"という。

木曽川を渡った桃太郎たちは、いよいよ可児川の中洲にある鬼ヶ島に攻め入ることにした。まずはキジに空から偵察させて進路を定めることにしたが、鬼ヶ島は奇妙な形の岩石が重なり合い、毒気の湧く井戸や落とし穴などの罠もたくさんあった。また、雲をつくような大樹が生い茂っていたので、空からでは鬼の居場所がよくわからなかった。

すると、見張りの鬼たちが桃太郎たちを見つけて仲間の鬼たちに川を渡って島に攻め込んできたことを伝えた。ここは"今渡り"と呼ばれるようになった。こうして桃太郎たちと鬼たちとの戦いが始まると、イヌは鬼に投げつけるための石をたくさん集め、サルは木々を飛び移りながら鬼たちに噛み付き、キジは高所から全体を見渡して急降下して鬼たちを突いた。こうしたことから、この辺りには"犬石" "推ヶ峰" "猿噛城祉"などの地名が残されることになった。

桃太郎たちの猛攻にとうとう鬼たちも降参することにし、もう決して悪いことはしないと改心した印に宝物を桃太郎に差し出した。桃太郎たちは宝物を荷車に積んで帰路につくと、途中の村々では鬼退治をなした桃太郎たちを大喜びで迎えて、倉から酒を出して凱旋を祝った。この酒倉のあったところを"酒倉村"、祝ったところを"坂祝村"という。

桃太郎たちが栗栖の対岸まで来ると、いったんこの地に宝物を積み、集まった人々に鬼退治の報告をした。なので、この地を"宝積地村"といい、後に大勝山宝積寺という寺院もできたが、今は坂祝村の方に移されている。

かくして鬼退治という目的を果たし、たくさんの宝物を土産に我が家に帰った桃太郎は、お供のイヌ、サル、キジにもそれぞれ宝物を分け与え、その忠勤を労った。そして、イヌは"犬帰り"という場所の岩門をくぐって"犬山"へ、サルは"猿洞"へ、キジは"堆ヶ棚"へと帰っていった。

このあと、村には平穏が続き、桃太郎もお爺さんとお婆さんに孝行しながら暮らしていた。やがて二人がやすらかに天寿を全うすると、桃太郎も付近の山に登ったきり、そのまま姿を隠してしまった。それ以来、村人は桃太郎の姿を二度と見かけることがなくなったが、不思議なことに桃太郎の隠れた山の姿がだんだん桃のような形に見えるようになった。

ここで村人は、桃太郎はきっと桃の神様の生まれ変わりであり、子供の姿でこの地に現れて、人々を苦しめる鬼たちを退治してくれたのだろう、と言うようになり、その山を"桃山"と呼んで崇拝するようになった。また、山の麓に小さな祠を設けて桃太郎を祀ることにした。

その後、数百年の歳月が流れると、桃山の麓の祠は子供の守り神として崇められるようになり、子供の背丈の御幣を供えると、その子は桃太郎のように丈夫に育つと言い伝えられ、付近の村人をはじめ、遠方からも参詣されるようになった。

そして、昭和に入ると研究者たちによって古い言い伝えが発見されるようになり、この伝説も世間に広まっていった。そこで、祠を参拝に便利な場所に移そうと、どこか良い場所を探していたところ、突然 桃山から一羽のキジが飛び立って、お爺さんとお婆さんが住んでいたと伝わる"古屋敷"という場所に降り立った。この出来事を神の導きと捉えて、その場所に神社を新築し、昭和5年に移したのが今の桃太郎神社(愛知県犬山市)である。また、遷宮の時にこれを迎えるかのように山からたくさんの猿が出てきたといいい、その奇譚は人々を驚かせたという。

なお、桃太郎神社の祭神である大神実命(オオカムヅミ)は桃太郎に化身した神とされ、古事記では黄泉国でイザナギを助けた桃としても知られている。



山梨県の桃太郎伝説


昔、大月周辺がまだ海だった頃、"岩殿山"は島で赤鬼が住んでいたことから"鬼ヶ島"と呼ばれていた。赤鬼はもともと"九鬼山"に棲んでいたのだが、色が赤かったために青鬼たちから嫌われて棲処を追われてしまった。仕方なく岩殿山に棲みついた赤鬼は自暴自棄になり、大酒を飲んでは麓の村から金銀財宝を盗んだり、女や子供をさらったり、牛馬を捕えて食べたりしていたので、村民から大変恐れられていた。

そのとき、桃林の茂る"百蔵山(桃倉山)"の麓にはお爺さんとお婆さんが住んでいた。二人には子どもがいなかったので、子宝を神に祈りながら日々暮らしていた。ある日、山から特別大きな桃が転がって"桂川"に落ち、川下の"鶴島"で洗濯をしていたお婆さんに拾われることになった。お婆さんがお爺さんと一緒に食べようと家に帰って切ってみたところ、中から元気な男児が現れた。二人は大喜びして男児に"桃太郎"と名付けて大切に育てることにした。

桃太郎はお婆さんの"おつけだんご"を食べてたくましく成長し、やがて"岩殿山"の"鬼の岩屋"という洞窟に悪い鬼が棲んでいて村人たちを困らせていると知り、鬼退治に向かうことを決意した。このことをお爺さんとお婆さんに話すと、お婆さんは"きびだんご"を作って桃太郎に持たせてやった。桃太郎はきびだんごを腰に下げて岩殿山へ向かう道すがら、"犬目"という土地でイヌと、"鳥沢"という土地でキジと、"猿橋"でサルとあい、きびだんごを一つずつやって家来にすることにした。

岩殿山に着くと桃太郎は大声で叫んで鬼に戦いを挑んだ。これに怒った鬼は桃太郎に向かって大きな石杖を投げ飛ばすと、その石は2つに折れ、一つは地面に突き刺さった。これが"鬼の石杖"であり、地面に突き刺さった時に大きな地響きがしたことから"石動"という地名がついた。もう一つは"白野"というところまで飛んでいって"鬼の立石"と呼ばれるようになった。

鬼の攻撃にひるむことなく桃太郎たちが果敢に攻め、とうとう鬼を岩殿山の山頂まで追い詰めた。逃げ出そうとした鬼が東の"徳巌山"まで足をかけたとき、鬼の股が裂けて血が流れ出し、その血が落ちた土地は赤く染まった。そのため、岩殿山の東麓にある子神神社の境内の土は赤いのだといわれている。かくして桃太郎は鬼を退治し、里には平穏が戻ってきたという。



宮城県石巻市の伝説


昔、お婆さんが"情川(定川)"で洗濯をしていたところ、大きな桃が流れてきた。この流れてきた場所を"来た村(北村)"といい、桃が赤かったのでこの地域を"赤井"という。また、拾い上げた場所を"広淵"という。

お婆さんはお爺さんと一緒に食べようと桃を持ち帰り、家で割ってみたところ、中から元気な男の子が出てきた。その子は桃太郎と名付けられ、すくすくと育っていった。大きくなった桃太郎は"鬼ヶ島(金華山)"に棲む鬼が人々を苦しめていることを知り、鬼退治することを決意した。

そこで、お婆さんにきびだんごを作ってもらい、これを腰に下げて鬼ヶ島に向かった。その道中、桃太郎は"犬吠坂"という場所でイヌを、"猿田"という場所でサルを、"鳥の巣"という場所でキジを従えて、"小友坂"を通って鬼ヶ島へとやってきた。鬼ヶ島では激しく鬼たちと争い、ついに鬼たちを倒した。桃太郎は鬼の宝物を持ち帰り、しばらくの間 お爺さんとお婆さんと平和な日々を過ごした。

しかし、敗れた鬼たちは宝物を持ち帰った桃太郎を恨み、虎皮の褌を引き締めて、捩り鉢巻きで一所懸命働いて桃太郎への復讐の時期を待った。そして、その準備が整うと、船を仕立てて桃太郎のもとに向かった。一方、桃太郎は鬼を倒してからというもの毎日酒ばかりくらっていたので、すっかり身体が鈍ってしまっていた。また、酒びたりだったのはイヌ、サル、キジも同じことで、鬼が復讐にやってくるとあっさり負けてしまった。

鬼たちは桃太郎から宝物を取り返すと意気揚々と帰っていき、後にはボロボロにやられた桃太郎たちだけが残った。さすがに反省した桃太郎は それから心を入れ替えて一生懸命働いたんだとさ。



岐阜県川辺町の伝説


昔、上川辺の"天子の渡"には八畳敷位の"せんだく岩"があり、ここでお婆さんが洗濯をしていると、川上から大きな桃が流れてきた。お婆さんは桃を持ち帰り、お爺さんと一緒に食べようと桃を割ってみると中から元気な赤ん坊が出てきた。お爺さんとお婆さんは桃から生まれたということで桃太郎と名付けた。

やがて立派な青年に成長した桃太郎は"鬼飛山"に棲む鬼が付近の村を襲って人々を苦しめていることを知った。なんでも村から若い娘をさらい、"夜泣き坂(夜之木坂)"を越えて、鬼飛山の"鬼門・洞門"と呼ばれる棲処へ帰るのだという。鬼を退治することを決意した桃太郎は、下麻生の"木知洞"でキジを集め、上川辺の"犬塚"でイヌを集め、石神の"猿が鼻"でサルを集めて、川辺の粟・黍・稗で団子を作って皆に配った。

こうして仲間を得た桃太郎は鬼飛山にやってくると、キジの一隊を表門へ、サルの一隊を鬼門へ、イヌの一隊を別の山道に向かわせて三方から攻め立てた。桃太郎の奇襲に驚いた鬼たちは、絶壁から身を投げたり、大谷池に落ちて溺死して そのほとんどが死に絶えた。生き残った者は鹿塩を目指して落ちのびていったという。こうして桃太郎は鬼退治を成し、川辺の山里は平和になったとさ。



京都市伏見区の伝説


昔、桃山の御香宮神社からある夫婦に桃が授けられた。その桃からは頭と手足が生えて男の子になったので桃太郎と名付けられた。桃太郎は夫婦の一人娘と共に大切に育てられ、立派に成長していった。

ある年の節分の日、両親は桃太郎を連れて恵方の神に参詣に出かけた。そのとき、家には娘が残っていたのだが、そこに通りかかった"蓬莱島"の鬼たちに見初められ、そのまま連れ去られてしまった。

桃太郎たちが家に帰ってくると娘の姿が無かったので両親は大変悲しんだが、きっと鬼の仕業だろうと思った桃太郎は両親に自分が姉上を取り返してくると言い、さっそく蓬莱島に向けて出発した。

旅の途中で住吉に立ち寄った桃太郎は神に力添えを祈ると、どこからともなく男が現れて「我は柊の精」と名乗り、また海の方からもう一人の男が現れて「我は鰯の精」と名乗って桃太郎にお供することになった。

桃太郎たちは蓬莱島に着くと鬼の屋敷に攻め入り、そこで鰯の精が頭から光を放って鬼の目を眩まし、柊の精は鬼に尖った柊の葉を投げつけて攻撃した。すると、鬼はたちまち逃げ出したので、桃太郎は姉を取り返し、鬼の宝物を得て、無事に家路につくこととなった。この話が元になって節分に柊と鰯を門戸に祀る習慣が始まったという。



鹿児島県沖永良部島の伝説


桃太郎が"ニラ島(竜宮とも)"に行った時に一人の翁と会った。翁は自分以外の島民は皆鬼に喰われてしまったと話し、側にあった羽釜の裏に鬼の棲処が記してあると告げた。

桃太郎は羽釜の裏を見て鬼の棲処に向かうと、野原の真ん中に石が置いてある場所に到った。そこで、その石を退かすと、鬼ヶ島に通じる穴があり、木の根が下まで伸びていたので、それを伝って穴の中に降りていった。すると、中に鬼たちが居たので、桃太郎は老いた鬼以外を全て倒し、鬼の宝物持ち帰って親孝行をしたという。

なお、ニラ島の"ニラ"は、沖縄に伝わる"ニライカナイ"という"南東の方角にある海底" "地底の豊穣" "生命の源"とされる異界に通じているのだという。


全国のゆかりの地・神社仏閣・イベント


宮城県
・桃太郎神社(石巻市河南北村):旭山に鎮座。金華山を鬼ヶ島とする伝説がある

山梨県
・犬島神社(大月市上野原市犬目1281):イヌのゆかりの地
・猿橋(大月市猿橋町猿橋):桃太郎がサルを仲間にした場所
・鬼の杖(大月市賑岡町強瀬1808):鬼が投げたとされる石の破片で石動という地名の由来になった
・子神神社(大月市賑岡町岩殿139):鬼の血で赤く染まったという場所にある
・鬼の盃(大月市賑岡公民館岩殿分館前):鬼が酒盛りをするときに使ったといわれる石の盃
・鬼の岩屋(大月市賑岡町畑倉):新宮洞窟といい、鬼が住んでいた洞窟といわれる

岐阜県
・桃太郎神社(中津川市加子母):祭神の大鹿童子神は桃太郎の由来とされる
・取組(加茂郡坂祝町取組):桃太郎が鬼と取っ組み合いをした場所
・猿啄城跡(加茂郡坂祝町勝山):サルが鬼に噛み付いて戦ったという伝説を城主が城名としたとされる
・鬼ヶ島(可児市塩):鬼ヶ島は可児川の中州にあったとされる
・勝山(加茂郡坂祝町勝山):桃太郎が勝鬨をあげたとされる場所
・酒倉(加茂郡坂祝町酒倉):桃太郎が鬼退治の凱旋をしたときに村人が酒倉を開いたとされる場所
・坂祝(加茂郡坂祝町):桃太郎の鬼退治の凱旋を祝ったとされる場所
・宝積寺(岐阜県加茂郡坂祝町):桃太郎の宝物を積んだ場所に寺を建てたと伝わる

愛知県
・桃太郎神社(犬山市栗栖字古屋敷):祭神の大神実命が桃太郎に化身して鬼と戦ったという伝説がある(資料館あり)
・桃山(犬山市栗栖):お爺さんとお婆さんの死後、桃太郎が隠れたとされる山

大阪府
・桃太郎神社(南河内郡河南町)

岡山県
・おかやま桃太郎まつり(岡山市):毎年8月の第1土曜日と日曜日にかけて行われる桃太郎にまつわる夏祭り
・吉備津神社(岡山市北区吉備津931):桃太郎のモデル「吉備津彦命」を祀る。伝説に登場する鳴釜神事を継承する
・吉備津彦神社(岡山市北区一宮1043):桃太郎のモデル「吉備津彦命」を祀る
・温羅神社(岡山市北区一宮):吉備津彦命と戦った鬼神「温羅」を祀った神社(吉備津彦神社境内に鎮座)
・中山茶臼山古墳(岡山市北区一宮):吉備の中山にある吉備津彦命の墓
・矢喰宮(岡山市高塚108):吉備津彦命の射た矢と温羅が投げた岩がぶつかり合って落ちたといわれる伝説がある
・笹ヶ瀬川(岡山市北区):岡山の桃太郎伝説において、桃が流れてきたされる川
・洗濯岩(岡山市北区菅野):岡山の桃太郎伝説において、お婆さんが洗濯したとされる岩
・鬼ノ城(総社市):吉備津彦命と戦った鬼神「温羅」が根城としていた場所。温羅にまつわる岩窟や奇岩がある
・血吸川(岡山県総社市):吉備津彦命と戦った温羅の血で真っ赤に染まったという伝説がある
・鯉喰神社(倉敷市矢部109):鯉に化けて逃げた温羅を鵜に化けた吉備津彦命が食ったという伝説にまつわる神社
・楯築遺跡(倉敷市矢部):温羅と戦った吉備津彦命が盾として築いたという巨石がある
・桃太郎神社(高梁市備中町東油野):桃太郎資料館に隣接する桃太郎にまつわる神社

香川県
・田村神社 (高松市一宮町286):香川の桃太郎伝説にまつわる神社で、桃太郎と倭迹迹日百襲姫命の像がある
・熊野権現桃太郎神社(高松市鬼無町鬼無848):桃太郎、イヌ、サル、キジ、お爺さんとお婆さんの墓がある
・女木島(高松市女木町):香川の桃太郎伝説において鬼が根城としていたとされる
・鬼無(高松市鬼無町):桃太郎(稚武彦命)が鬼を全滅させたことで名づいたとされる地名
・鬼ヶ塚(高松市鬼無町鬼無228):鬼の屍を埋めたとされる場所

奈良県
・孝霊神社(磯城郡田原本町大字黒田262):祭神に桃太郎のモデル「吉備津彦命」を祀る。桃太郎発祥の地とされる
・法楽寺(磯城郡田原本町大字黒田360-2)
・黒田廬戸宮(磯城郡田原本町大字黒田)