兵主部【ヒョウスベ】
珍奇ノート:ひょうすべ ― 九州地方の河童の一種 ―

ヒョウスベは、九州地方を中心に伝承される河童の一種のこと。

一般的な河童像とは異なり、毛深い身体と大きな禿げ頭が特徴とされる。


基本情報


概要


ヒョウスベは、九州地方を中心に伝承される河童の一種、または河童と同一視されるようになった水辺の妖怪である。毛深い身体に、大きな禿げ頭という姿で描かれることが多く、江戸時代の『百怪図巻』や『画図百鬼夜行』などではそのような特徴で描かれている。

民間伝承では、ヒョウスベは彼岸の時期に川から山へ移動し、その際に「ヒョーヒョー」と鳥のような声で鳴くことから、この名で呼ばれるようになったともいわれる。また、初物のナスを好むとされ、供え物としてナスを捧げる風習が残る地域もある。その他にも、姿を見た者は熱病にかかる、人家に忍び込んで勝手に風呂を使うので湯船に大量の体毛が浮いているなど、一般的な河童像とは異なる特徴を持つ存在として伝承されている。

ヒョウスベの起源については、1720年頃成立の『北肥戦誌』が参考文献とされることが多い。同書の「渋江家由来の事」によれば、神護景雲年間(767~770年)に春日社が常陸国鹿島から大和国三笠山へ遷座された際、造営奉行を務めた橘島田丸のもとで、九十九体の人形が作られたという。これらの人形には秘術による加持が施され、やがて童子の姿となって動き出し、水中や山中で不思議な力を発揮して造営を助けたとされる。

しかし、春日社の造営が完了すると人形たちは川に捨てられたが、その後も人形は動き続け、人や馬などの家畜に害を及ぼす怪異となったという。なお、原文中では、この怪異については「これが現在の河童である」と記されている。

このことが称徳天皇の耳に入ると、当時の造営責任者であった島田丸に対して怪異を鎮めるよう勅命が下された。島田丸が河川や水辺に触れを出したところ、その後は災いが収まったという。そして、この怪異は「河伯」と呼ばれ、さらに島田丸の官職である「兵部」にちなんで「兵主部(ひょうすべ)」とも呼ばれるようになったと伝えられている。

この伝承は、肥前国杵島郡長島庄(佐賀県武雄市)の渋江家の由緒であり、ヒョウスベの起源伝承の一つとして知られている。しかし、九州地方のヒョウスベ伝承には地域ごとに異なる内容が存在しており、すべてのヒョウスベ像がこの由来譚に基づくものとは限らない。

ヒョウスベと共通する特徴を持つ伝承は九州各地に存在しており、特に宮崎県ではヒョースボ、ヒョースンボ、ヒョウズンボなどと呼ばれる河童伝承が広く分布している。また、福岡県でもヒョウス、ヒョウスヘなどの呼称が見られる。

これらの伝承では、夜行性で集団行動をとり、頭領を中心とした社会を持つことや、彼岸の時期に山と川を往来することなどが語られている。また、人々に水源を教える、人間の生活を助ける、空を飛ぶといった話も伝えられており、水辺の妖怪にとどまらない存在として認識されていたことがうかがえる。

一方で、九州地方にはガラッパ、ガワッパ、ガタロ、水虎などの名称で呼ばれる河童伝承も広く分布している。これらは手足に水かきがあり、頭上に皿を持ち、相撲を好み、人や馬を水中へ引き込むなど、一般的な河童像に近い特徴を持つ場合が多い。そのため、ヒョウスベの異称として紹介されることもあるが、同一の存在を指すのか、あるいは別系統の伝承が後世に混同されたものなのかについては明確ではない。

佐賀市のひょうすべ
珍奇ノート:ひょうすべ ― 九州地方の河童の一種 ―

佐賀県佐賀市の佐嘉神社・松原神社には「兵主部(ひょうすべ)」と呼ばれる木像が安置されている。この兵主部は、松原川に棲んでいた河童の頭目であったが、佐賀藩祖・鍋島直茂によって改心させられ、その後は地域の水辺を守る存在になったと伝えられている。

木像は、筋骨隆々とした体格で、鉢巻きを締め、大きな目と鼻、ひげを備え、手足に鋭い爪を持つといった姿で表現されており、一般的な河童像とは異なる独特な特徴を持っている。松原神社では、古くから神門に兵主部像が掲げられており、この門をくぐると水難に遭わないという信仰があるとされている。

データ


種 別 妖怪、UMA、伝説の生物
資 料 『北肥戦誌』『画図百鬼夜行』ほか
伝承地 九州地方
年 代 不明
備 考 河童の別名とされることがある

ヒョウスベの資料


『北肥戦誌』巻十六 渋江家由来の事(1720年)


そもそも塩見城主であった渋江家の祖先をたどると、第31代・敏達天皇の五代後の子孫であり、左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)の末裔であるという。橘諸兄は優れた才能と知恵によって名声が高く、聖武天皇の時代には朝政を補佐する重臣として活躍した。その後、その子孫である従四位下・兵部大輔の島田丸もまた朝廷に仕えた。

神護景雲年間(767~770年)のこと、春日社が常陸国鹿島から現在の奈良の三笠山へ遷座する際、島田丸は造営工事の責任者を務めていた。その時、内匠頭(たくみのかみ)某という人物が九十九体の人形を作り、秘術によって呪法を施した。すると、その人形はたちまち霊力を宿し、童子の姿へと変化した。彼らはある時は水中に入り、またある時は山へ登り、不思議な力を発揮して働いた。そのため、予想以上に工事は順調に進み、社殿の造営は短期間で完成した。

しかし、造営が終わった後、その人形たちは不要となり、すべて川へ捨てられてしまった。ところが、人形たちはなお生きているかのように動き続け、人や馬、家畜に害を加えるようになり、世の中に大きな災いをもたらした。これが現在でいう河童である。

このことが称徳天皇の耳に入り、当時の工事責任者であった島田丸に対して「速やかにこの怪異の害を鎮めよ」との勅命が下された。そこで島田丸は河川や水辺の各地に触れを出したところ、それ以後は河童による災いが起こらなくなった。このことから、その怪異は「河伯」と呼ばれ、さらに「兵主部(ひょうすべ)」とも呼ばれるようになった。

「兵主部」という名は、島田丸の官職であった「兵部」に由来するのであろう。そのため、兵主部は橘氏の眷属であるとも伝えられている。その後、島田丸から六代後の子孫に大納言・橘好古が現れた。

天慶4年(941年)、好古は朱雀天皇から征西将軍の号を授かり、反乱を起こした藤原純友討伐の功績によって伊予国を与えられた。以後、その子孫は九代にわたって伊予国に住んだ。その九代目の嫡流の子孫が橘次公業である。公業は鎌倉将軍・藤原頼経に近侍し、薩摩守に任じられた。

公業の時代、祖先代々の領地であった伊予国宇和郡が朝廷から近衛関白家へ与えられたため、その代替地として、豊前国副田庄、肥後国久米郷、大隅国種子島
肥前国長島庄を与えられた。

そして嘉禎3年(1237年)、公業は初めて伊予国から肥前国へ移住し、長島庄に入って塩見山に城を築き居住した。その後、公業から六代後の子孫である橘薩摩弥次郎公継、その子の公経、さらに弥五郎らは、建武・暦応年間の戦乱で足利方として功績を挙げ、恩賞を受けた。現在の豊後守公師は、公業から数えて十六代目の子孫であるという。