河伯の資料

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『山海経』(紀元前4~2世紀頃成立)
極淵(きょくえん)という深さ三百仞の淵があり、冰夷は常にそこを住処としている。
冰夷は人の顔を持ち、二頭の龍に乗る。
郭璞注:
冰夷とは馮夷のことである。
『荘子』(紀元前4~3世紀頃)
馮夷は道を得て、大河を遊んだ。
『竹書紀年』(紀元前4~3世紀頃成立)
洛伯用(らくはくよう)が河伯の馮夷と戦った。
『晏子春秋』(紀元前4~3世紀頃成立)
斉の景公の時代、大旱魃が起こったため、景公は霊山を祭ろうとした。
晏子は言った。
「山は石を身体とし、草木を髪としている。もし天が雨を降らせなければ、髪は枯れ、身体は熱を持つ。山自身も雨を望んでいるはずである。祭って何の益があるでしょうか。」
景公は言った。
「では河伯を祭るのはどうだろうか。」
晏子は答えた。
「河伯は水を国とし、魚や鼈を民としている。長く旱魃が続けば国は滅び、民も死に絶える。河伯自身も雨を望んでいるはずです。君が宮殿を出て身をさらし、天に雨を求めるべきでしょう。」
景公が野に出て身をさらしたところ、果たして大雨が降った。
『楚辞』(紀元前3世紀頃)
九歌・河伯
あなた(河伯)とともに九河を巡り、激しい風が起こり、大波が横切る。水の車に乗り、蓮の傘を掲げ、二頭の龍に車を曳かせ、螭(みずち)を脇馬とする。崑崙山に登って四方を見渡せば、心は高く舞い上がり、果てしなく広がる。日が暮れようとしているのに、帰ることも忘れて物寂しく思う。ただ遠い水辺の果てを見つめながら、あなたを慕う気持ちに目覚める。
魚の鱗で覆われた館、龍の御殿。紫貝で飾られた門、真珠で造られた宮殿。霊なるあなたは、なぜ水の中にいるのだろうか。白い大鼈(おおすっぽん)に乗り、文魚を追いながら、あなたとともに河の中洲を巡る。流れる氷が入り乱れながら、今にも流れ下って来ようとしている。あなたは私の手を取って東へ行き、私は美しい人を南の水辺まで送り届ける。波は滔々として押し寄せ、魚たちは鱗を輝かせながら、付き従うように私を迎える。
天問
なぜ羿は河伯を射て、かの雒嬪(洛水の女神)を妻としたのか。
王逸注:
「胡」は何の意味である。「雒嬪」とは水神であり、宓妃(ふくひ)を指す。
『伝』には次のようにある。
河伯は白龍に化身し、水辺を遊んでいた。羿はそれを見て射抜き、左目を傷つけた。
河伯は天帝に訴え「私のために羿を殺してください」と言った。
天帝は言った。
「お前はなぜ射られることになったのか。」
河伯は答えた。
「私はその時、白龍に姿を変えて外へ出て遊んでいました。」
天帝は言った。
「もしお前が神霊としての姿を慎み深く守っていたなら、羿がどうしてお前を傷つけることができただろうか。今のお前は虫や獣の姿となっていたのだから、人に射られるのは当然である。羿に何の罪があるというのか。」
『淮南子』(紀元前2世紀)
昔、馮夷は道を得て、大河に潜んだ。
『楚辞章句』(2世紀頃)
湘霊(湘水の女神)に瑟(しつ)を奏でさせ、海若(海神)に馮夷(河伯)のために舞を舞わせる。
東漢・王逸の注:
馮夷とは河伯の字(あざな)である。水の仙人でもある。『淮南子』には『馮夷は道を得て大河に潜んだ』と記されている。
『史記』(紀元前1世紀頃)
魏の文侯の時代、西門豹は鄴の県令となった。西門豹は鄴へ赴くと、長老たちを集め、民が苦しんでいることについて尋ねた。
長老たちは言った。
「河伯のために妻を娶らせることに苦しんでおります。そのために貧しくなっています」
西門豹がその理由を尋ねると、長老は答えた。
「鄴の三老や廷掾(役人)は、毎年民から税を取り立て、その金は数百万にもなります。そのうち二、三十万を河伯の妻を娶るために使い、残りの金は祝巫(祈祷師)たちと分け取って持ち帰っています。
その時になると、巫(みこ)は小さな家々を見て回り、美しい娘がいると『これは河伯の妻になる者である』と言って、その娘を選び取ります。娘を沐浴させ、新しい絹や綾、薄絹の衣服を整え、別室に住まわせて斎戒させます。さらに河のほとりに斎宮を造り、赤黄色の幕を張り、娘をその中に住ませます。牛や酒、食事を用意し、十数日間その準備を行います。娘を花嫁の寝台や席のように飾り付け、娘をその上に座らせ、河の中へ流します。
最初は浮かんでいますが、数十里ほど流れると沈んでしまいます。そのため、家に美しい娘がいる者は、大巫や祝巫が河伯のために娘を奪っていくことを恐れ、娘を連れて遠くへ逃げます。そのため、城内はますます人が少なくなり、貧困に苦しむようになりました。この風習は昔から長く続いています。民間では『もし河伯のために妻を娶らせなければ、洪水が起こり、人々を押し流して溺れさせる』という言葉があります」
西門豹は言った。
「では、河伯に妻を娶らせる時には、三老、巫祝、父老たちが娘を河へ送るのだな。その時には、ぜひ私にも知らせてほしい。私も娘を送りに行こう」
皆は言った。
「承知しました」
『博物志』(3世紀初頭)
昔、夏の禹が黄河を視察した時、長身で魚の身体を持つ者が現れて言った。
「私は河の精である。」
これは河伯であろうか。
馮夷は華陰県潼郷の人であった。仙道を得て河伯となった。これもまた同じ道理ではないだろうか。
仙人となった馮夷は龍や虎に乗り、水神となった河伯は魚や龍に乗る。その行動は神秘に満ち、万里の彼方も一室のように近い。
『捜神記』(4世紀頃)
宋の時代、弘農の馮夷は華陰県潼郷堤首の人であった。八月の上庚の日に黄河を渡ろうとして溺死したため、天帝は彼を河伯に任じた。
また『五行書』には、「河伯は庚辰の日に死んだ。この日は船を造ったり遠出したりしてはならない。溺れて帰れなくなる」とある。
『日本書紀』(720年)
冬十月。宮の北の郊原を掘り、南の水を引いて西の海へ通じさせた。これによって、その水を「堀江」と名付けた。また、北河の氾濫を防ぐため、茨田堤(まんだのつつみ)を築こうとした。この時、二か所の堤の工事がどうしても崩れてしまい、塞ぐことが困難であった。
その時、天皇は夢を見た。その夢の中で神が告げた。
「武蔵の人である強頚(こわくび)と、河内の人である茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)の二人を河伯への供物として祭れば、必ず堤を完成させることができる」
そこで二人を探し求め、見つけ出した。そして河の神に祈りを捧げた。この時、強頚は泣き悲しみ、水中に身を沈めて死んだ。そのため、堤は完成した。ただし、衫子は二つの瓢(ひさご)を用意し、堤を塞ぐことができなかった水の場所へ向かった。そして二つの瓢を水中へ投げ入れ、こう言った。
「河伯(河の神)が祟りをなし、私を供物として求めたため、私はここへ来たのである。本当に私を得ようと思うなら、この瓢を沈め、浮かばせないようにせよ。そうすれば私は真の神であると認めよう。私は自ら水中に入るであろう。しかし、もし瓢を沈めることができないならば、自ら偽りの神であると知るべきである。どうして無意味に私の命を失わせることがあろうか」
すると、突然激しい風が起こり、瓢を水中へ引き込んだ。しかし瓢は波の上を転がるだけで沈まず、そのまま大きく漂い遠くへ流れていった。そのため、衫子は死ぬことなく、それでも堤は完成した。これは衫子の知略によるものであり、その身を失うことはなかったのである。
このことから、当時の人々はその二か所をそれぞれ、「強頚断間(こわくびのたえま)」「衫子断間(ころものこのたえま)」と呼んだ。
『文選』洛神賦(6世紀初頭編纂)
屏翳(風神)は風を収め、川后(河神)は波を静める。
馮夷は太鼓を鳴らし、女媧は清らかな歌を歌う。
『経典釈文』(7世紀)
馮夷とは、弘農郡華陰県潼郷堤首里の人である。八石を服して水仙となり、河伯となった。
『酉陽雑俎』(9世紀)
河伯は人の顔を持ち、二頭の龍に乗る(一説には冰夷、また一説には馮夷という)。また、人の顔に魚の身体を持つともいう。
『金匱』では名を馮循(ある本では馮脩)とする。
『河図』では呂姓で名を夷とする。
『穆天子伝』では無夷という。
『淮南子』では馮遅という。
『聖賢記』には「八石を服して水仙となった」とある。
『抱朴子』には「八月上庚の日に河で溺れた」とある。
太原郡の東に崖山という山がある。旱魃の時には土地の人々はこの山を焼いて雨乞いをする。民間では、崖山の神が河伯の娘を妻にしたと伝えられているため、河伯は火を見ると必ず雨を降らせてこれを救うという。現在も山上には水草が多く生えている。
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