珍奇ノート:手長足長の伝説



資料の伝説


随筆『枕草子』


清涼殿の東北の隅の北を隔てている障子には、恐ろしい生物の手長足長が描かれた荒海の絵がある。上の御局の戸が押し開けてあると常に見えるので、憎たらしく思って笑う。

『日本伝説叢書(信濃の巻)』


上諏訪町の手長神社の祭神は、諏訪明神の家来の手長足長と呼ばれている大男(でいらぼちとも呼ばれている)で、この神領地に数箇所の水溜があるのは、手長足長の足跡の窪地に水が溜まったのだといわれている。

『伊具郡史』(福島県新地町)


鹿狼山の手長足長明神

(この山は)大内村の東方から相馬郡との境にあり、勝光山ならびに大山とも呼ばれている。旧説に曰く、往古に神仙がおり、常に老鹿を愛でて白狼と馴れ親しんだので、この鹿と狼は片時も側を離れなかった。

また、この神仙は量れないほど手が長く、貝類を好んでいたので、山の頂上に座って海浜に手を伸ばし、貝を捕って食べ終えると その殻を宇多郡新地の村落に棄てていた。そのため、貝殻は積み上がってやがて丘のようになったという(※今の新地町の小川貝塚であるとされている)。

郷里の人々は、この神仙を手長足長と称して、この貝殻の丘を貝塚と呼んだ。そこは今は農家となって貝塚宅と言う。また、この神仙が住んだ高山を鹿狼山と呼んでいる。

『常陸国風土記』


那賀郡

平津の駅家の西12里に岡あって名を大櫛という。上古に人がおり、その体は極めて長大で、丘壟の上に居ながら手で海浜の蜃(うむぎ)を掘り起こしてしまう。蜃とは大蛤(おおうむぎ=ハマグリ)のことである。

食べた貝は積もって岡のようになり、当時の人は(大量の貝殻が朽ちた様子から)「大朽(おおくち)」と呼んだが、今は「大櫛の岡」と呼んでいる。その(巨人の)足跡は、長さ40歩あまりで、尿の穴の径は20歩あまりであった。

※手長足長とは記載が無いが鹿狼山の話と酷似する(茨城県水戸市の大串貝塚が比定地)

地方の伝説


三崎山の手長足長(秋田県像潟町)


平安時代、三崎山には手長足長という怪物が住んでいた。この怪物は手を伸ばせば鳥海山の頂上まで届き、足を伸ばせばひと跨ぎで飛島まで届いたといわれ、道行く旅人を捕らえて喰っていたという。また、三崎山には三本足の烏がおり、手長足長が居る時には「有耶(うや)」、居ない時には「無耶(むや)」と鳴いたので、旅人たちは烏の鳴声で手長足長の有無を確かめた。このために「有耶無耶の関」の地名が付いたという。

ある時、この手長足長を退治しようと屈強な侍が戦いを挑んだが捕られてしまったという。また、都から東北行脚で三崎山に来ていた慈覚大師も退治に向かったが、手長足長に捕らえられてしまった。しかし、手長足長は慈覚大師から威厳と懐かしさを感じて言うことを聞くようになったので、人々は安心して往来できるようになったという。なお、慈覚大師は手長足長にタブの木の実を食べさせていた。だが、大師は当地を去ることになったので、先のことを考えて、たくさんのタブの木の実を蒔いていったという。それがタブの木に育ったので、今でも三崎山にはタブ林が繁ってるのだといわれている。

鳥海山の手長足長(秋田県像潟町)


昔、鳥海山に手長足長という人喰い鬼が住んでいた。この鬼は山から山に届くほど長い手を持っていたので、旅人をさらって食べたり、日本海を航行する船を襲うなどの悪事を働いていた。

鳥海山の神である大物忌神は、これに見かねて霊鳥の三本足の烏を遣わせて、手長足長が現れた時には「有や(うや)」、現れない時には「無や(むや)」と鳴いて人々に知らせるようにした。このため、三崎峠が有耶無耶の関と呼ばれるようになったという。

しかし、それでも手長足長は悪行を続けたので、後に当地にやって来た慈覚大師が吹浦(現・鳥海山大物忌神神社)で百日間の祈りを捧げると、鳥海山が噴火して手長足長は吹き飛んで消え去ったという。

鳥海山の手長足長(山形県)


昔、坂上田村麻呂が蝦夷征討の折に出羽国にやって来て鳥海山に大物忌神を祀り、天下泰平を祈願した。その頃に、鳥海山には手長足長という化物が棲んでおり、海を通る船を捕らえたり、転覆させたりして暴れていたという。

これに怒った大物忌神は手長足長の棲む鳥海山の頂上を海の方に蹴飛ばすと、それが飛島になったのだという。手長足長は、それからも飛島に棲んで暴れまわっていたが、やがて朝廷によって遣わされた百合若大臣が退治したという。

手長足長の伝説(山形県庄内町)


昔、山形と秋田の国境の鳥海山に手長足長という鬼がおり、その手足の長さは人の2倍ほどで、麓の村に降りては子供をさらったり田畑を荒らすなどの悪さをしていた。そこで村人たちが鳥海山の神に救いを求めると、神は3本足の烏を遣わせて、手長が山頂に居る時は「無耶(むや)」、村に出ていった時は「有耶(うや)」と鳴かせたので、人々は烏の鳴き声で聞き分けて、手長足長が山にいる時に外で働き、村に出ている時は家の中に閉じこもった。

それでも手長足長は田畑を荒らし、家の中にまで入ってくるようになったので、村人は困り果てていた。その時、都から慈覚大師という偉い僧侶がやって来ていたので、村人が手長足長の話をすると、慈覚大師は吹浦(現・遊佐町吹浦)の不動明王の前で100日間の護摩焚きと読経を行った。すると、100日目に火の勢いが強くなり、不動明王の目が稲妻のように光り輝いて、鳥海山の頂上に飛んでいった。そして、弾けるような大音がしたと思うと、山の頂上が吹っ飛んで海に落ちていった。この時に手長足長は死に、海に落ちた頂上は飛島になったという。

手長足長の昔話


昔、松代の国に手長足長という大変大きな者がおり、作物を荒らしたり、財物を奪ったり、嵐や台風を起こしたり、大きな団扇を叩いて雲を集めて雨を降らせたり、また雲を払って旱魃にするなど、悪事の限りを尽くしていたので、民百姓はほとほと困り果てていた。そこで、なんとかして手長足長を退治しようとしても、手足が長く、身体の大きさも全く違うので勝負にならなかった。

そんな時、一人の旅の僧がやって来て人々から手長足長の話を聞いた。その話によれば、手長足長は磐梯山の方からやって来て、山陰から顔を出しては笑ったり怒ったりするという。その怒り顔ときたら凄まじく、また山陰から顔を出すだけで姿を見ることができるので、それはとても大きな者だということだった。そういった話を一通り聞いた僧は"命に変えても退治しよう"と言うと、皆が後の祟りを気にするので、僧は"責任は全て自分が背負う"と言って皆を安心させた。

そして、僧が呪文を唱えるとたちまち山の方から手長足長が走ってきた。そこで僧が手長足長に"大きくなれるか?"と問うと、手長足長は自慢げに大きくなり始めて、とうとう雲よりも高くなってしまった。すると僧は"大きくはなれても小さくはなれまい"と言うと、手長足長はみるみる小さくなり始めて、ついに豆粒ほどの大きさになった。その時に僧は呪文を唱えて法力で手長足長を捕えて、会津の磐梯山の麓に埋めてしまった。それから埋めた場所の上に立って何やらひとしきり拝むと、どこかに去ってしまったという。すると、手長足長は出なくなったので皆は喜び、後に僧は弘法大師だったのだろうと噂されるようになったという。

安島の手長足長(福井県坂井市)


大昔、安島には手長・足長という者が住んでいた。手長はとても長い手を持った者で、足長はとても長い足を持った者であり、安島に最初に住んだのは この者たちだった。手長と足長は協力して漁をしており、その方法は足長が手長を背負って海に入り、手長が貝の糞を手のひらに乗せて海に入れ、それを魚が食べに来たところを捕まえるというものだった。

この手長・足長の時代は約千年ほど続き、この後に蝦夷(エゾ)が安島に住み着いた。蝦夷の時代は約二千年ほど続いたが、若狭の方から四道将軍がやって来て蝦夷は追放された。それから居付いたのが、今の安島の人々の先祖といわれている。