天邪鬼の伝説
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瓜子姫子
昔々、ある所にお爺さんとお婆さんが住んでいた。ある日、お爺さんは山に柴刈りに、お婆さんは川に洗濯に行った。すると、川の向こうから大きな瓜が流れてきたので、お婆さんはお爺さんと一緒に食べようと家に持ち帰ることにした。お爺さんが帰ってくると、お婆さんは拾ってきた大きな瓜を見せて、一緒に食べようと包丁で瓜を切ろうとすると、瓜がひとりでに割れて、中から可愛らしい女の子が飛び出してきた。
それを見た二人は驚いて腰を抜かしたが、二人には子が居なかったので、きっと神鎌からの賜物だろうと思い、女の子に瓜子姫子(うりこひめこ)と名付けて大切に育てることにした。瓜子姫子は小さな女の子だったが、機を織るのが大好きで、毎日 機を織って過ごしていた。二人は外に出かける時に、瓜子姫子に「この山にはアマンジャクという悪者が住んでいて、留守にお前を取りに来るかも知れないから決して戸を開けてはいけないよ」と言ってから、外に出かけていった。
ある日、瓜子姫子が一人でいる時に、機を織っていたところ、とうとうアマンジャクがやって来た。そして、優しい猫なで声で「もしもし、瓜子姫子よ、この戸を開けてはくれまいか。二人で仲良く遊ぼうよ」と話しかけると、瓜子姫子は「いいえ、開けることはできません」と言って断った。だが、アマンジャクは引かずに「少しでいいから開けておくれ、指の入るだけでいいから」と言うと、瓜子姫子は「それだけなら開けましょう」と言って戸を少しばかり開けてしまった。
すると、アマンジャクはするりと家の中に入ってきて「瓜子姫子よ、裏の山に柿を取りに行こうか」と誘ったが、瓜子姫子は「お爺さんに叱られるから行きません」と答えた。これにアマンジャクは怒って瓜子姫子を睨みつけて脅かしたので、瓜子姫子は恐れて仕方なく裏山に付いていくことにした。
裏山に着くと、アマンジャクは柿の木によじ登って真っ赤に熟した柿を取っては食べはじめ、下にいる瓜子姫子にはヘタやタネなんかを投げつけるばかりで、柿の実を一つも落としてくれなかった。そこで瓜子姫子は「私にも一つください」というと、アマンジャクは「お前も上がって取ればいい」と言って木を下りて、代わりに瓜子姫子を木の上に登らせた。その時に、アマンジャクは「そんな着物を着ていては汚れてしまうよ」と言って、代わりに自分の着物を着せてやり、瓜子姫子が木に登って柿の実に手を伸ばしたところで、アマンジャクは藤蔓を出して柿の木に縛り付けてしまった。それからアマンジャクは瓜子姫子に化けると、その着物を着てお爺さんの家に帰り、そこで機を織りながら二人の帰りを待っていた。
しばらくすると、お爺さんとお婆さんが帰ってきて、何も知らずに「瓜子姫子よ、よく留守番をしていたね。さぞ寂しかっただろう」と言って頭をさすってやったが、アマンジャクは「ああ、ああ」と言いながら舌を出していた。すると、外の方が急に騒がしくなり、やがて大勢の侍が立派な籠を持ってやって来た。これに二人が驚いていると、侍たちは「お前の娘は大変美しい織物を織ると評判になっている。そこで城の殿様の奥方が、お前の娘が機を織るところを見たいと仰せだから、この籠に乗ってもらいたい」と言った。
これを聞いた二人はとても喜んで、瓜子姫子に化けたアマンジャクを籠に乗せると、侍たちと一緒に城に出かけていった。その時に裏山に通りかかると、柿の木から「瓜子姫子が乗る籠にアマンジャクが乗っていく、瓜子姫子が乗る籠にアマンジャクが乗っていく」という声がするので、不思議に思った侍が柿の木を見てみると、そこには汚い着物を着せらせて縛り付けられた瓜子姫子の姿があった。そこでお爺さんは急いで木から下ろしてやり、これに侍たちも大変怒って籠の中からアマンジャクを引きずり出すと、代わりに瓜子姫子を乗せて城に連れて行った。そして、アマンジャクの首を斬り落として畑の隅に捨てた。すると、アマンジャクの血がキビ殻に染み込んだので、それからはキビが赤くなったという。
漢の武帝の伝説(男鹿の民話)
古代中国の漢の時代、武帝が不老不死の薬草を求めて男鹿に渡ってきた。その時 武帝は5匹のコウモリを連れてきたが、このコウモリは鬼に化けて武帝のために働いた。ある時、鬼が武帝に休みを乞うと正月15日だけは自由にしてもらった。これに喜んだ鬼たちは村里に降りて、作物や家畜を奪い取り、果ては村の娘をさらっていくといった悪事の限りを尽くした。
これに困り果てた村人たちは、武帝に「鬼たちに一晩で海辺から山頂の五社堂まで千段の石段を築かせるよう言ってくれ。これができれば毎年 村から一人ずつ娘を差し出すが、できなければ鬼を村に降ろすのを止めて欲しい」と頼むと、武帝は村人の言ったことを鬼たちに命じた。すると、鬼たちは日暮れを待って石段を築き始めた。
村人はきっと無理だろうと思っていたが、鬼たちは飛ぶような勢いで石段を積み上げていったので、焦った村人たちは天邪鬼に頼んで一番鶏の鳴き真似をさせることにした。鬼たちが石段を999段まで積んだ時に天邪鬼が「コケコッコー」と鳴くと、鬼たちは驚き怒りながらも山奥に去っていったという。
この後、鬼を騙したことで復讐を恐れた村人たちは、鬼を五社堂に祀り、正月15日に鬼の真似をして村を回り歩くようになった。これがナマハゲの始まりといわれている。
湯殿山の天邪鬼(山形県東田川郡)
昔、弘法大師が最上川のほとりを歩いていた時、川上から蕗(ふき)の葉が流れてきて その下から光が差していた。そこで杖で葉をかき分けると大日如来の梵字が現れた。
こうした葉がどんどん流れてくるので、弘法大師はきっと川上に大日如来がいるに違いないと思って川上に向かったところ、湯殿山の滝壷で天邪鬼が浮かんでくる梵字を隠そうとして蕗の葉を被せていたので、弘法大師は天邪鬼を仙人岳に封じたという。
猿倉山の石(山形県上山市)
昔、神々が一夜で山寺を建てようとしたが、天邪鬼が鶏の鳴き真似をして暁を報じると、神々は夜明けが来た思って寺造りを止めて去ってしまった。猿倉山の頂上に散乱する石は、この時のものだといわれている。
箱根山のアマノジャク(神奈川県足柄下郡箱根町)
大昔、箱根山に天からアマノジャクという者が降りてきた。この者は力持ちだったが、大変なヘソ曲がりだった。また、箱根山を大変気に入っていたので、西に聳える富士山の美しさに嫉妬しており、里の人々が箱根山に尻を向けて富士山に見惚れているのが気に入らなかった。
そこで、アマノジャクは富士山の頂上を削って低くしてやろうと思い、夜になると富士山に天秤棒を担いで行き、頂上の岩を運び出した。その時に、富士山からぶん投げた岩が海に浮かんで伊豆七島となり、投げそこなった岩が熱海の初島になったといわれている。
ところが、ある夜にアマノジャクは運ぶのに手こずるほどの大岩を二つ担いで箱根山を越そうとしたが、なかなか進めずに途中で一番鶏が鳴いて夜明けを迎えてしまった。アマノジャクは日が昇ると力を出せなくなるので、二つの大岩を落としてしまい、そこから山の暗がりに吹っ飛んでいった。これが箱根の二子山だといわれている。これに懲りたアマノジャクは富士山を削るのを止め、富士山に行くことも無くなったという。
羅石明神の架橋伝説(新潟県柏崎市)
昔、羅石明神が越後と佐渡の間に橋を掛けようとして、ある夜に多くの眷属に石運びを命じた。これは夜明けまでに完成するはずだったが、眷属の中に怠け者で仕事嫌いのアマンジャクがいて、まだ夜半過ぎにもならないのに鶏の鳴き真似をしたので、騙された羅石明神は忽ち姿を隠し、眷属ども去ったので橋は出来上がらなかったという。
双六の由来(岐阜県高山市上宝町双六)
昔、天邪鬼と天人が双六をしていたが、天邪鬼が不正をしたので天人は怒って盤を蹴り飛ばした。故に この地を双六という。そのサイコロは転がって渕に入り、盤は直立して盤石になった。この盤石に触ると天気が荒れるという。
弘法大師と天邪鬼(岐阜県高山市上宝町双六)
昔、双六に弘法大師がやって来た時に、人々に悪戯をして困らせていた天邪鬼の話を聞いたので、弘法大師は天邪鬼に「私が一晩で御堂を建てたら、もう人に悪戯をするな」という賭けを申し出た。
すると、天邪鬼はこれを受けたので、弘法大師はすぐに取り掛かった。弘法大師のあまりの勢いに、朝までに御堂が建ちそうだったので、天邪鬼は焦って鶏の鳴き真似をして騙そうとすると、弘法大師は怒って積んでいた材木を石に変えてしまった。それが今でも双六に残っている材木石だといわれている。
橋杭岩(和歌山県東牟婁郡串本町)
昔、弘法大師と天邪鬼が熊野地方を旅していた時に、串本までやって来た。そこで、大島の人々が不便ととても困っていると聞いて、弘法大師は密かに一晩で海に橋を架けてやろうと思って、天邪鬼にも橋造りを手伝わせた。しかし、天邪鬼はいつも言われたことと逆の事ばかりする上に、高名な弘法大師に引け目を感じていたので、何とかして弘法大師を困らせてやろうと企んでいた。
夜になると二人は橋を架け始めたが、天邪鬼はすぐに疲れてしまってあまり手伝おうとしなかった。その一方で、弘法大師は山から何万貫もある大岩を担いできて、それを海中に積んで橋杭を立てていった。これを見た天邪鬼は、このままでは朝までに完成してしまうと思って、何とかして邪魔立てしようと、鶏の鳴き真似をして朝が来たと騙そうとした。しかし、弘法大師は こんなに早く夜が明けるはずがないと思ったが、天邪鬼がまた鳴き真似をしたので、朝が来たと思って作業を止めてしまい、橋は未完成に終わった。それが今の橋杭岩であるという。
播磨国のアマンジャコ(兵庫県多可郡多可町)
昔、播磨国にアマンジャコという者がいた。このアマンジャコは、人の言われたことに逆らってワザと逆のことをするようなひねくれ者で、悪戯好きでもあり、アマンジャコの仲間も同じような性格をしていた。また、凄い力持ちで、その身体も巨大であったことから、歩けば天に頭をぶつけてしまうため、いつも屈んで這うように歩いていた。そこで、アマンジャコはいつも背伸びして歩ける場所を探しており、国中を巡り歩いていたのであった。
ある時、アマンジャコが多可郡にやって来ると、此処は天が随分高かったので、両手を上げて思い切り背伸びをした。屈まなくても良いことに喜んだアマンジャコは「本当に高いところだ」と何度も繰り返して言った。これにより、この土地は多可と名付けられたという。この土地を気に入ったアマンジャコは住処を移して此処に住み着くようになり、この土地で色々な悪戯をするようになったという。
ある日のこと、アマンジャコは「妙見山からだいぶ離れた笠形山に一夜にして橋を架ければ、村人たちは さぞ驚くだろう」と考えて、日が暮れると早速 作業に取り掛かることにした。的場の辺りまで歩いて行くと、右手で妙見山に石を積み、左手で笠形山に石を積み上げていって、あっという間に土台を完成させた。あとは丸太を渡せば橋を出来上がるという状態だったが、そんなに巨大な大木は何処を探しても見つからなかった。このままでは朝が来てしまうと焦ったアマンジャコは山々を巡って大木を探し回ったが、とうとう一番鶏が鳴いてしまったので、慌てて山中に逃げ込んでしまったという。
その後、アマンジャコは橋を完成させようと夜な夜な山に出かけていたが、ある時に村人たちが田んぼの中に立ち、頭を下げて祈っている姿を見た。不思議に思ったアマンジャコが様子を窺っていると、どうやら村人たちは神様に祈って雨乞いをしているらしい。そこで、悪戯心を出したアマンジャコは「何をバカなことを言っているんだ。そんなに雨がほしいなら火の雨を降らせてやろう」と山が響くほどの大声で怒鳴ると、村人たちは驚いて走り去ってしまった。その様子があまりに面白いので、アマンジャコはこれを何度も繰り返したという。
それからも村人たちは田んぼで雨乞いを続けたが、その人数はだんだんと減っていった。また、中には「天に祈ってなんになる、神などあるものか」と言う者も出てきたが、その者は喚いた後に突然倒れてしまった。そのように喚いては倒れてしまう者が日毎に増えていった。これを見たアマンジャコは悪戯しようと何かを思い付き、ある夜に笠形山の大岩を砕いて太い縄で縛り、それを村々に引きずって回った。その時には地響きのような音が響き渡ったので、村人たちは神の祟りだと思って家の外に出てこなくなった。しかし、アマンジャコが大岩を引きずった場所は、土が深くえぐれて川が出来上がっていたという。
さらにアマンジャコは山寄上から村々を巡って、どの田にも供物を供えて回った。それから夜が明け始める頃には川に水が流れてきていたので、アマンジャコはその水の流れを見ながら山に帰ろうとすると、付近の村々から人々の喜び合う声が聞こえてきた。その声は段々と広まって、やがては山鳴りのように響いたという。その後、水を得た村々では作物が良く育ち、毎年 豊かに暮らすことができた。しかし、いつしかアマンジャコは姿を消してしまい、架けようとした橋も未完成のままで投げ出してしまった。その跡が笠形山の登山道にある石柱だといわれている。
アマンジャクの星取り石(岡山県)
昔、二上山にアマンジャクという鬼が住んでいた。このアマンジャクは悪戯が大好きで、麓の村に下りては悪さばかりして、村人たちを困らせていた。
ある夜、アマンジャクが村を歩いていると、1人の娘が外に出て空を見上げていた。そこでアマンジャクは娘に「何をしてるのだ?」と尋ねると、娘は「流れ星に願い事をしているのです」と答えた。これを聞いたアマンジャクは、夜空に消える流れ星に願い事をするよりも、星を全部落として自分の物にすれば いくらでも願い事が叶うと考えた。
そして、すぐにホウキを持って山頂に登り、空に向かってホウキを振り回したが、星は手が届きそうなほど近くに見えるのに、ホウキは全く届く様子がない。そこで、近くにあった石を積み上げて、その上に乗ってホウキを振り回したが、それでも全然届かないので、もっと石を高く積み上げようと、山中や川原の石から石灯籠に至るまで、石という石をかき集めて、それを全て山の上に積み上げて、とうとう見上げるような石の塔を作り上げた。
アマンジャクは石の塔に登ると「今度こそは」とホウキを空に振り回したが、やはり星に届くことはなかった。そのうちに東の空が明るくなり、だんだんと夜が明けてきた。そこで、悔しく思ったアマンジャクが石の塔の上で地団駄を踏むと、石の塔はぐらぐらと揺れて遂には崩れてしまった。崩れた石は山から転げ落ち、山頂から麓の村までずっと続いたという。そして、アマンジャクは石の下敷きになったのか、村に二度と姿を現さなくなったという。
健御熊命の架橋伝説(鳥取県鳥取市大字御熊)
昔、健御熊命(タケミクマ)は、今の阿太賀都健御熊命神社の近くの崎から隠岐島まで一夜で橋を架けようとしようとして、多くの石柱を切り出したが、天邪鬼が邪魔して夜明けの鶏鳴を真似たため、夜明けだと思って放棄した。
そのため、この社地付近の山地から白兎(はくと)の海中までは その石柱が散乱して今に至るまで残っており、社地への80段の自然石階段は全てその名残りといわれている。このため、健御熊命神社は柱大明神とも称されている。
枇榔島の乙姫伝説(鹿児島県志布志市志布志町志布志)
昔、天智天皇が乙姫という皇女を連れて志布志にやって来た。この乙姫は気性が荒く、男のような性格だったので、荒れた野を立派な田に作りかえるような良い事もしたが、小島を海の中に沈めたり、村の中に要らない池を掘ったり、逆に必要な池を埋めるといった悪い事もしたので、村人たちはとても困っていた。これを知った天皇は、怒って乙姫を小船に乗せて「人々に迷惑をかけないよう、一人で海で暮らせ」と命じて有明湾(志布志湾)に流してしまった。
小船で海を漂った乙姫は、月明かりに照らされた海の風景を眺めながら、これからどうやって陸に上がろうかと考えて、やがて有明湾の真中に島を作る事を思いついた。そこで夜が明けないうちに作った島が枇榔島である。朝になると、昨日までは海上に無かった周囲10キロに及ぶ大きな島ができていたので、村人たちはとても驚いて「あれは乙姫様が作られた島に違いない。乙姫様の事だから何か仕出かすだろう」と話し合った。
この島と志布志までの距離はわずか40キロほどだったので、島からは村の灯りを見ることができた。そのため、乙姫は寂しいと思うことは無かったが、島に一人でいるのに物足りなさを感じるようになった。その頃、志布志の浜から見える権現山には乙姫が想いを寄せる神が住んでおり、乙姫はどうにかして神に会いに行こうと考えた。そこで、これを海の神に祈願すると、海の神は「一番鶏が鳴くまでに、権現山まで続く岩の道を作ることができるならば、山の神に会わせてやろう」と言った。
そこで、乙姫は夜になると早速 作業に取り掛かり、権現山に向けて岩の道を作っていった。しかし、あと少しで完成するところで天邪鬼という悪神に知られてしまい、天邪鬼は これを邪魔しようと鶏に夜明けの前に鳴くように命じた。すると、鶏は天邪鬼に従って夜明けの前に鳴いたので、乙姫は夜明けが来たと思って作業を止めてしまった。よって、乙姫の願いは叶えられず、島で一人で過ごさなければならなくなった。その後、乙姫の人生を不憫に思った村人は、乙姫のために枇榔島神社を建てて祀ったと伝えられている。
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