珍奇ノート:大多鬼丸の伝説



田村麻呂の大多鬼丸退治(福島県田村市)


昔、陸奥国の霧島山(現・大滝根山)に蝦夷の首魁の大多鬼丸が住んでおり、手下と共に周辺を荒らし回って良民を苦しめていた。そこで朝廷は坂上田村麻呂に大多鬼丸討伐の勅命を与えて田村の地に派遣した。

官軍は当地にやって来ると駒ケ岳を目印にして道を進んだが、険しい山だったので迷いそうになった。その時、どこからともなく白鳥(しらとり)がやって来て官軍の頭上を旋回した。これを見た田村麻呂は、白鳥が神の使いだと思って鳥の飛ぶ方に進むことにした。すると、やがて霧島山に出ることができたという。このことから、田村麻呂たちが山に分け入った場所を「山口」、出ていった時に大声を上げたことから その場所を「大声(現・大越)」、鳥が現れた場所を「飛木」と呼ぶようになった。

それから、田村麻呂は早稲川の方に進軍し、大多鬼丸の軍勢と戦った。大多鬼丸が強かったが田村麻呂も奮戦し、ついに大多鬼丸を達谷窟に追い詰めた。そこで大多鬼丸が自害したため、首魁を失った軍勢は官軍に降伏し、戦いは終結を迎えた。この後、田村麻呂は大多鬼丸の武勇を偲んで、その首をあぶくまが見渡せる仙台平に丁重に葬ったという。また、田村麻呂を導いた白鳥は村人たちの手によって神として祀られることになり、その社を白鳥神社と名付けたとという。

里を守った大多鬼丸(福島県田村市)


昔、陸奥国の霧島山(現・大滝根山)にあった白銀城には蝦夷の首魁の大多鬼丸が住んでおり、七里ヶ沢(現・滝根町)の周辺を平和に治めていた。ある時、朝廷は領土と領民の譲渡を要求してきたが、大多鬼丸がこれを断ると、朝廷は坂上田村麻呂を派遣して武力を以って平定しようとした。

これに大多鬼丸も武力で対抗し、手下の鬼五郎らと共に奮戦したが、数に勝る官軍に次第に追い詰められていき、最期には達谷窟で妻の幸姫と共に自害してしまった。こうして官軍に敗れた大多鬼丸は後世に悪鬼として名を残すことになったという。この達谷窟は今の福島県田村市にあるもので、かつては鬼穴とも呼ばれていたという(岩手県の平泉にある達谷窟とは異なる)。

鬼五郎・幡五郎伝説(福島県田村市)


延暦20年(801年)の頃、霧島山(現・大滝根山)の麓にある早稲川の里に鬼五郎と幡五郎という仲の良い兄弟が住んでいた。兄の鬼五郎は屈強な大男で里長として里を平和に治めており、阿武隈一帯を支配していた大多鬼丸という豪族の部下頭として戦でも活躍していた。一方、弟の幡五郎も兄に負けないほどの大男で力持ちであったが、心の優しい者だったので、戦に出るよりは 山を開墾したり、農作物を作ることを好んでいた。そのため、鬼五郎が大多鬼丸に従って戦に出た時には、留守を守るのが幡五郎の役目であった。

その頃、大和朝廷は東北地方を管理下に置こうとして大多鬼丸に領土を譲り渡すよう要求した。しかし、大多鬼丸は先祖から受け継いだ土地を譲ることを良しとせず、これを拒んだ。すると、朝廷は武力を以って平定しようと考えて、武勇に優れた坂上田村麻呂を派遣した。これに大多鬼丸も武力で対抗することにし、霧島山の山中で争うことになった。

朝廷軍は大軍だったので数には勝っていたが、樹木の生い茂る霧島山での戦は困難を極めた。一方、大多鬼丸軍は普段から行き慣れている場所だったので、地の利に勝っていた。大多鬼丸軍は藪の中を自由自在に動き回って朝廷軍を翻弄し、敵を囲んで毒矢を浴びせたり、谷に誘い込んで谷底に突き落とすなどの戦法を用いて戦った。田村麻呂は一気に攻めかかっても勝てないと思って、長期戦に持ち込むことにした。

すると、最初は優勢だった大多鬼丸軍だったが、戦の中で武器や食糧を消耗していき、兵にも戦の訓練を受けたような者は少なかったため、次々と朝廷軍の手にかかって命を落としていった。一方で、朝廷軍は武器・食糧・軍兵を消耗しても都に頼めばいくらでも補充できる状態だったので、常に軍備の整った状態で戦を続けることができたという。

こうして大多鬼丸軍は次第に追い詰められていき、ある程度の戦力が削れたところを朝廷軍に一気に攻めかかられたので、大多鬼丸は残り少ない兵を連れて仙台平の砦に立て籠もった。そこで、大多鬼丸は最期の覚悟を決め、主な部下を集めて「とうとう最期の時が来たようだ。明日の戦いは潔く戦って散ろうぞ。だが、ワシが討たれたら皆の者は降伏せよ。田村麻呂も降伏する者の命までは取るまい。無駄死にはするでないぞ」と言った。

これを聞いた鬼五郎は闇夜に身を隠して早稲川の里に帰り、幡五郎の元に行って「どうやら大多鬼丸様は最期の覚悟を決めたようだ。我は最後まで大多鬼丸様と共に戦うつもりだが、ワシが死んでも後を追って死ぬなど あってはならぬぞ。お前はこの里を守ってくれよ。ワシは死んでも鬼となって里を見守るだろう。さらばだ」と言って別れを告げると、砦に帰っていった。

その翌日、朝廷軍は大多鬼丸の籠る砦に攻め入って次々と兵を討ち取っていったので、大多鬼丸は生き残った者を連れて仙台平の達谷窟(鬼穴)に逃げ込み、その最深部にあった釣瓶落としの井戸という底なしの井戸に武器や財宝を投げ込んで、大多鬼丸は太刀を抜いて自らの首を斬って最期を迎えたという。また、鬼五郎も大多鬼丸の後を追って死に、戦は朝廷軍の勝利で終結を迎えた。その後、大多鬼丸ら敗戦の将は朝廷方に悪鬼として語られるようになったという。

その数年後の秋のこと、幡五郎は早稲川の小高い丘上にある家から里を見下ろすと、辺りには稲がたわわに実っており、それは黄金が波打っていtるような風景であった。このように幡五郎は里を栄えさせるという形で里を守るという役目を果たしたという。その後、この二人の兄弟の伝説は、鬼五郎・幡五郎太鼓として田村の地に伝えられることになったという。

悪路王大滝丸の伝説(福島県田村市)


昔、陸奥国の刈田岳に悪路王大滝丸という鬼が棲み、坂上田村麻呂が討伐に向かったが妖術で霧を呼んだり、火の雨を降らせたりして田村麻呂らを苦しめた。そこで田村麻呂は一旦都に退いて軍備を整え、それから再び大滝丸と戦うと、分が悪くなった大滝丸は大滝根山に飛んでいき、そこの鬼穴(達谷窟)を根城として暴れまわった。田村麻呂は大滝根山に向かい、そこで大滝丸と戦うと、やがて追い詰められた大滝丸は鬼穴で最期を迎えたという。また、田村麻呂は戦で加護を授けてくれた神仏に感謝して、白鳥神社や入水寺を建立したという。

100頭の鞍馬伝説(福島県田村郡三春町)


昔、大滝根山の石窟に大多鬼丸という蝦夷が棲んでいた。坂上田村麻呂が蝦夷征討にやって来た際、延鎮上人(清水寺の開祖)が仏像を刻んだ余材で100頭の鞍馬を刻んで贈った。田村麻呂はこれを鎧櫃に納めて戦に望んだが、大多鬼丸が強ったので次第に追い込まれていった。その時、どこからか100頭の鞍馬が陣営に走り込んできたので、軍兵たちはその鞍馬に跨って大滝根山に攻め込んで戦に勝利した。しかし、凱旋する時には鞍馬の姿は無くなっていたという。

その翌日、1頭の木馬が三春付近の高柴村で汗まみれになっているところを杵阿弥が見つけ、これは延鎮上人の鞍馬に違いないと思って99頭の自ら刻んで数を補った。その3年後、汗まみれになっていた1頭は姿を消してしまったので、残りの99頭を子孫に伝えた。その後、杵阿弥の子孫が木馬を模造して村人に与えると、それで遊ぶ子供たちは強健に育ち、病気もしても軽症で済んでいたので「子育駒」という名で呼ばれたという。

鬼生田の大多鬼丸伝説(福島県郡山市)


桓武天皇の御代、陸奥国安積郡の辺りに地獄田(じごくだ)と呼ばれる田んぼがあり、そこで腹の大きな妊婦が田植えをしていたところ、急に産気づいて田んぼで出産してしまった。驚くことに産まれた赤子には角が生えており、このことから赤子は鬼子と呼ばれ、鬼子が産まれた田んぼを鬼生田(おにうだ)と呼ぶようになった。

鬼子は7歳になると身の丈5尺(150cm)ほどになり、角も立派に伸びていった。また、性格も荒々しくなって、村人に粗暴な振舞いをするようになったことから、村人たちは集って鬼子を殺してしまおうと相談した。その噂は鬼子の耳にも入ったので、鬼子は夜中に村を抜け出して姿を晦ましてしまったという。

それから数年後、鬼子は大多鬼丸と名乗って暴れるようになり、その噂は鬼生田の村にも聞こえるようになった。その噂によれば、大多鬼丸は大滝根山に住み、大勢の手下を率いて南奥州の大将になったという。そのため、近隣の人々は大多鬼丸を鬼と呼んで恐れるようになり、その話はやがて京の都にまで届くようになった。

この話を聞いた桓武天皇は、時の将軍である坂上田村麻呂に大多鬼丸の討伐を命じた。これにより、田村麻呂は大軍を率いて都から出立し、大滝根山で大多鬼丸の軍勢と争うと、激戦の末に田村麻呂の勝利に終わった。しかし、大多鬼丸方の戦死者を検めても大多鬼丸の姿は無かったという。

それから鬼生田で大多鬼丸は紀州の熊野に逃げたとの噂が立った。また、鬼生田の人々が熊野権現に参拝すると帰って来ない者が多かったので、これは大多鬼丸の魂が故郷を懐かしむあまりに鬼生田の人を帰さないようにしているといわれるようになり、そのようにいわれるようになってからは鬼生田の人々は熊野権現に参拝しなくなったという。

鬼生明神の由来(福島県郡山市)


昔、大多鬼丸(大滝丸)という蝦夷の首長がいた。この大多鬼丸は、陸奥国安積郡の辺りにあった地獄田で母が田植えをしている最中に生まれ、急なお産に困った村人たちは近くの沢に産屋を設けてそこで産後を過ごさせた。大多鬼丸は成長するにつれて武勇に優れた男子になったので、人々は鬼と呼んで畏れ敬うようになった。こうした田んぼで鬼を生んだといういわれによって、当地は鬼生田(おにうだ)と呼ばれるようになったという。

延暦20年(801年)、朝廷は東北地方の蝦夷を平定するために時の将軍・坂上田村麻呂を派遣した。これにより、大多鬼丸も朝廷軍と戦うことになったので、手下の者を引き連れて大越(現・田村市)の鬼穴に籠って戦った。しかし、朝廷軍の猛攻に次第に追い詰められていき、紀州の熊野に落ち延びていったという。

この後、田村麻呂は大多鬼丸の武勇を讃える一方で、人々を安堵させるために廣渡寺を建立した。また、里人たちは大多鬼丸を偲んで鬼生明神堂を建立して、大多鬼丸の武勇を讃えた。このような故事により、廣渡寺では創建以来 大多鬼丸を鬼生明神として祀り、諸願成就や除災招福の明神として信仰を集めるようになったという。