茨木童子の伝説
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軽井沢の茨木童子伝説(新潟県)
大同元年(806年)に茨木童子は古志郡の軽井沢(新潟県長岡市軽井沢)で生まれた。生家は門名を「西」といい、村の中心部に広大な敷地を有した豪農であり、母の胎内に14ヶ月(1年2ヶ月)も留まっていたので、生まれた時には既に髪が長く、鋭い眼光を持ち、牙が生えていて、気の強さは成人並みだったという。
幼年期を迎えると、利発で絶世の美男子へと変貌し、成長するにつれて益々美しくなり、才気に溢れ、他に類をみないほどの怪力を持っていた。童子の美貌は多くの婦女を魅了したので恋文が絶えることがなかった。このような非凡な童子の将来を案じた両親は寺に相談した結果、越後一宮の弥彦神社に稚児として預けられることになった。
童子は弥彦神社で稚児として仕える傍ら、学問に励み、妖術も身につけるに至った。ある時、生家に帰省した童子は、母が隠していた恋文を見つけたので、それを一気に読みふけった。その中に「血塗りの恋文」があったが、それは童子に恋い焦がれた女の怨念が恋文の文字を血潮に変えたものだった。
童子が何気なく恋文の血を一舐めすると、たちまち身体に活力がみなぎり、抑えられない衝動に駆られて自ら自分の着物を引き裂いた。童子の容姿はみるみる醜い鬼の形相となり、屋敷を駆け登りながら天井まで行くと破風(煙を出す穴)を蹴破って飛んでいってしまったという。その頃、弥彦の国上には童子のように鬼と化してしまった外道丸という若者がいたが、童子とは既に親交があったので、童子と屋敷で落ち合って、屋敷の敷地内にあった窟を住居とした。
この後、二人は鬼倉山の洞窟に移り住んで、ここを本拠に村に繰り出しては、村中を荒らし回って悪行の限りをつくした。この時には、童子は茨木童子、外道丸は酒呑童子と呼ばれて恐れられたという。茨木童子の悪行を知った母親は心を痛め、童子の幼着を身にまとって刺し違える覚悟で童子の前に立った。すると、童子は無言で応え、二度と村に戻らないと約束して軽井沢から去っていった。
その後、茨木童子は酒呑童子と共に信州の戸隠などを経て京に向かい、大江山に行き着いたという。また、茨木童子が去ってからしばらく時が経った後、都から軽井沢にやってきた旅人が京で暴れまわっている鬼の話をしたので、村人たちはきっと茨木童子のことだと察したという。
茨木市の茨木童子伝説(大阪府)
茨木童子は摂津の水尾村(大阪府茨木市水尾)に生まれた。童子は母の胎内に16ヶ月(1年4ヶ月)も留まり、難産の末に産み落とされたが、生まれながらにして歯が生え揃い、すぐに歩き始めて、鋭い目つきで母の顔を見て笑ったので、母は恐怖のあまり死んでしまったという。
父は鬼のような赤子を持て余し、隣の茨木村の九頭神の森の近くにあった髪結床屋の前に捨てた。この後、童子はその床屋夫婦に拾われて養育されることになった。童子は幼いながらも成人を凌ぐほどの体格と腕力を持っており、床屋の手に余るようになったので、仕事を覚えさせて落ち着かせることにした。
ある時、童子が誤って剃刀で客の顔を傷つけてしまい、慌てて流れ出た血を舐めたところ、すっかり血の味に魅了されてしまった。それ以降、童子は客の顔をわざと切っては血をすするようになったので、店の評判が悪くなり、床屋に怒られて外に追い出されてしまった。
その夜、気を落とした童子が近くの小川の橋にもたれて俯いていると、水面に映る自分の顔が鬼のようになってしまっていることに気づいた。驚いた童子は床屋に合わせる顔がないと思って、そのまま北の丹波の山に逃げ、そこで出会った酒呑童子の家来となったという。童子がもたれかかった橋は「茨木童子貌見橋(すがたみばし)」と呼ばれていたが現存せず、既に川も埋め立てられてしまっており、今は民家の軒下に碑を残すのみである。
尼崎市の茨木童子伝説(兵庫県)
茨木童子は川辺郡東留松村(現・兵庫県尼崎市東留松)の百姓の子として生まれたが、生まれながらにして歯が生え揃い、長髪で、眼光鋭く、成人のように強盛であった。そのため、一族に恐れられて島下群茨木村(大阪府茨木市)に捨てられた。
童子は産着のままで捨てられていたが、酒呑童子に拾われて養育され、拾われた場所の地名を取って茨木童子と名付けられた。やがて大きくなった茨木童子は、酒呑童子の配下として大江山の巌窟を守ったという。
大江山の鬼伝説(京都府)
『御伽草子』の「酒呑童子」によれば、大江山に住む酒呑童子という鬼は、茨木童子や四天王の鬼(星熊童子、熊童子、虎熊童子、金童子)をはじめとする多くの鬼を従えており、しばしば都に出向いては人々を襲って喰ったり、貴族の姫君をさらって側に仕えさせたりといった悪行を重ねていた。
あまりの被害の大きさに、帝は源頼光に酒呑童子討伐の勅命を下すと、頼光は頼光四天王(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)ら総勢50名ほどの兵を従えて大江山に向かった。一行が修行僧と偽って山伏姿で酒呑童子の住処を訪れると、童子は一行を迎え入れて饗応し、自らの出自を語り始めた。そこで、童子は「越後で生まれて比叡山に修行に出たが、伝教大師に追い出されてしまったので、この大江山に来たが、今度は弘法大師に追い出されてしまった。その後、弘法大師が死んだので再び舞い戻ってきた」と話した。
頼光らは、話を聞きながら鬼とともに人肉や血の酒を飲食して安心させた後、神から授かった「神便鬼毒酒」という毒酒を酒呑童子に差し出し、童子がそれを飲んで身体が動かなくなったところを押さえつけて、ついに童子の首を刎ねた。しかし、首だけになった童子は死んでおらず、飛び上がって頼光の頭に噛み付いたが、頼光は兜のおかげで大事を免れた。
この時、配下の茨木童子は頼光四天王の一人である渡辺綱と戦っていたが、酒呑童子が討たれる様を見て敵わないと感じ、その場から逃げ出してしまった。この後、鬼どもは頼光らに尽く退治されたが、茨木童子は唯一逃げるのに成功したという。
一条戻橋の鬼伝説(京都府)
『平家物語』によれば、源頼光の使者として一条大宮という所に遣わされた渡辺綱が、そこで用事を済ませた帰りに一条戻橋を渡っていると、一人で歩いている20歳くらいの美しい女に呼び止められ、夜も更けて恐ろしいので家まで送って欲しいと頼まれた。
綱は女を馬に乗せてやり、女の言う方角に向かって馬を走らせていると、女はやがて恐ろしい鬼に姿を変えて「我の住処は愛宕山だ」と言い、綱の髻(もとどり)を掴んで乾の方角に飛んで行った。
ところが、綱は少しも騒がずに名刀・髭切りの太刀をさっと抜き、空中で鬼が腕を斬り落とした。そこで、綱は北野天満宮の廻廊の上に落ち、鬼は腕を斬られながら愛宕山へと飛んで行った。
綱は廻廊から跳り下りて、髻を握りしめたままの鬼の手を取り、これを持ち帰って頼光に見せた。すると、頼光はその腕の大きさに驚き、これを占ってもらうべく播磨守であった安倍晴明を呼び出した。
頼光は、晴明に「この鬼の手をどうするべきか」と尋ねてみると、晴明は「綱は七日の休暇を貰って行動を慎むべし。そして、鬼の手を封じておくように。また、祈祷には『仁王経』を講読するべし」と答えた。
そして、六日目の黄昏時に綱が宿所の門を叩く音がした。綱が「誰だ、何の用でここに来た」と尋ねると、相手は「私はお前の養母(伯母)だ。お前に会いに来たのだ」と答えた。
しかし、どうも様子がおかしいので、綱は「今は七日の物忌の最中で今日は六日です。そのため、明日が過ぎるまでは如何なる願いも聞くことはできません。明後日になれば入れられますので、それまでは宿を取って出直してください」と言うと、養母は突然 泣き出し、綱に対して親子の道理を延々と説きはじめた。
綱はとうとう心が挫けてしまい、仕方なく門を開けることにした。すると養母は喜んで中に入り、綱に物忌をしている理由を尋ねた。綱が理由を説明すると、養母は鬼の手を見てみたいと言いだした。
綱は「固く禁じられているため、今は易々と見せることはできません。七日経つまで待ってください」と拒んだが、養母がどうしてもみたいとせがむため、綱は封じた鬼の手を取り出し、養母の前に置いた。
すると、養母はじっくりとそれを見て「ああ恐ろしい、鬼の手というのはこういうものなのか」と言ったと思うと、立ち様にその手を取って「これは我の手であるぞ」と叫び、恐しい鬼の姿に変わってしまった。
そして、空に昇って破風の下を蹴破り、光ったと思うと虚空の中に消えて行った。綱は七日の禁を破ってしまったが、『仁王経』の力によって特に支障はなかった。
また、綱の愛刀の髭切りの太刀は鬼斬った後は「鬼丸」と改名し、この事件があったことで、渡辺党(綱の子孫)の家には破風を立てなくなったという。
※原文に鬼の名は出ていないが『御伽草子』にこの話が引用されており、そこでは この鬼が茨木童子となっているため、この話は茨木童子の事として紹介されることが多い
羅城門の鬼伝説(京都府)
源頼光が大江山の鬼・酒呑童子を討伐した後、自分の屋敷で頼光四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)と共に宴を催していたところ、羅城門には鬼が棲み付いているという話題になった。
そこで度胸試しをしようと、それぞれが一人ずつ羅城門へ行って金札を立てて帰ってくることとなり、四天王の一人である渡辺綱(わたなべのつな)が武装して羅城門へ向うと、途中にある一条戻橋で背後から現れた鬼に兜を掴まれた。
綱はとっさに名刀・髭切りの太刀で兜を掴んだ腕を斬り落とすと、その鬼は「七日後に必ず取り返しに来る」と言い、兜を掴んだまま腕を残して去ってしまった。
綱はその腕を箱に入れて封印していたが、七日後に突然 綱の乳母がやってきて「斬り落とした鬼の腕を見せて欲しい」と言ってきたので、綱はそれを乳母に見せると、乳母は茨木童子という鬼の正体を表して、自分の腕を取って帰って行ったという。
龍神山の茨城童子伝説(茨城県)
龍神山(茨城県石岡市)には大昔から龍神が夫婦で住んでおり、地元民から水の神として信仰され、日照りが続くと雨乞いの祈りが捧げられたという。
この山には龍神の他にも茨城童子という鬼が住んでいた。この鬼は丹波の大江山の兄弟分といわれ、夜中に里人をさらっては腰に下げた大きな巾着袋に入れ、袋の口を石の根締でくくり、山に持ち帰って食っていたという。このため、人々は童子をとても恐れており、子供などは「茨城童子」の名を聞いただけで恐怖で黙るほどであった。
ある時、茨城童子は石の根締めが邪魔になったので、遠くに放り投げてしまった。その石は遥か遠くの茨城の万福寺(茨城県石岡市茨城)の西の畑に落ち、土中深くにめり込んだという。これが茨城に残る巾着石であり、今でもその場所に残されている。
また、根締め石を投げ飛ばしたいわれとして、童子が西国から豪傑が討伐しにやって来るという噂を聞き、慌てて三角山を越えて逃げ出す途中で巾着袋ごと投げ出してしまったという話もあり、この話から三角山は鬼越山と呼ばれるようになったと言われている。
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