珍奇ノート:蛟龍の資料



『管子』形式篇(紀元前4世紀〜前3世紀頃)


原文

蛟龍得水、而神可立也。虎豹得幽、而威可制也。

現代語訳

蛟龍は水を得ることで、その霊的な力を発揮できる。虎や豹が深山幽谷に身を置くことで、その威厳を示すことができるのと同様である。

『楚辞』九歌・河伯(紀元前4世紀〜前3世紀頃)


原文

駕兩龍兮參螭、縗縗兮蛟龍。

現代語訳

(水神である河伯が)二頭の龍と一頭の螭(みずち)を従えて、蛟龍たちを引き連れながら川を進む。

『韓非子』愛臣篇(紀元前3世紀)


原文

蛟龍失水、而蚯蚓制之。

現代語訳

どれほど強大な蛟龍でも、水を失えば、ミミズにさえ制圧されてしまうのである。

『荘子』秋水篇(紀元前3世紀頃)


原文

蛟龍水居、閑暇則與黿鼉遊。

現代語訳

蛟龍は水中に住み、暇なときには大亀(黿)やワニ(鼉)とともに遊ぶ。

『荀子』勧学篇(紀元前3世紀)


原文

積水成淵、蛟龍生焉。

現代語訳

水が積み重なって深い淵となれば、そこに蛟龍が生まれるのである。

『淮南子』主術訓(紀元前2世紀)


原文

夫蛟龍伏於深淵、而卵破於沙嶼者、避其所害也。

現代語訳

蛟龍は深い淵に潜伏するが、その卵を砂地の島で孵化させるのは、自分に害を及ぼすものを避けるためである。

『史記』高祖本紀(紀元前1世紀)


原文

武負、王媼見上其身有蛟龍。遂掉、而生高祖。

現代語訳

(劉邦の母が湖のほとりで眠っていた際)武負と王媼が、彼女の体の上に蛟龍が現れたのを見た。その後、まもなく身ごもり、高祖(劉邦)が生まれた。

『説文解字』(100年頃)


原文

蛟、龍屬也。池魚滿三千、蛟來爲之長、能率魚而飛。

現代語訳

蛟(こう)は龍の仲間である。池の魚が三千匹に満たされると、蛟が現れてその長となり、魚たちを率いて空を飛ぶことができる。

『大戴礼記』易本命(1世紀〜2世紀頃)


原文

鱗蟲三百六十、而蛟龍爲之長。

現代語訳

鱗を持つ生き物(魚など)は三百六十種類あるが、蛟龍がその長である。

『広雅』釈魚(3世紀)


原文

有鱗曰蛟龍、有翼曰應龍、有角曰虯龍、無角曰螭龍。

現代語訳

鱗のあるものを蛟龍といい、翼のあるものを応龍、角のあるものを虯龍、角のないものを螭龍という。

『抱朴子』(4世紀)


内篇・巻十


原文

夫淵竭池漉、則蛟龍不游;巢傾卵拾、則鳳凰不集。……彼有道者、安得不超然振翅乎風雲之表、而飜爾藏軌於玄漠之際乎?

現代語訳

淵が干上がり池が涸れてしまえば、蛟龍は泳ぎ遊ばない。鳥の巣が崩れて卵が奪われれば、鳳凰もそこに集まらない……道を得た高潔な者は、どうして風雲の彼方へ超然と羽ばたき、足跡を隠さずにいられようか。

内篇・巻十七


原文

或問涉江渡海辟蛟龍之道。抱朴子曰:道士不得已而當游涉大川者、皆先當於水次、破雞子一枚、以少許粉雜香末、合攪器水中、以自洗濯、則不畏風波蛟龍也。又佩東海小童符、及制水符、蓬萊札、皆却水中之百害也。……又法、臨川先祝曰:卷蓬卷蓬(或作弓逢弓逢)、河伯導前辟蛟龍、萬災消滅天清明。

現代語訳

江や海を渡る際に蛟龍を避ける方法を問われた。抱朴子は言う。「道士が大河を渡るときは、水辺で鶏の卵一つを割り、少量の粉と香末を混ぜ、水で洗い清めよ。そうすれば風波や蛟龍を恐れる必要はない。さらに『東海小童符』や『制水符』『蓬萊札』を身につければ、水中の害を退けられる。また川に臨むとき、次の呪文を唱える。『卷蓬、卷蓬(または弓逢、弓逢)、河伯よ、前を導き蛟龍を避けさせよ。万の災いを消し、天を清く明るくせよ』。」

内篇・巻十八


原文

(前略)守一存真、乃能通神。少欲約食、一乃留息。白刃臨頸、思一得生。知一不難、難在於終。守之不失、可以無窮。陸辟惡獸、水卻蛟龍。不畏魍魎、挾毒之蟲。鬼不敢近、刃不敢中。此眞一之大略也。

現代語訳

「一(宇宙の根源的な真理)」を保てば、神と通じることができる。欲を少なくし食を節制すれば、一は呼吸に留まる。刃が首に迫っても、一を思えば生き延びるだろう。一を知ることは難しくないが、最後まで守り通すことが難しい。それを守れば、陸上の悪獣を避け、水中では蛟龍を退け、魍魎や毒虫も恐れる必要がない。幽霊も近づかず、刃も当たらない。これが「真一」の大要である。

内篇・巻十九


原文

道士欲求長生、持此書入山、辟虎狼山精、五毒百邪、皆不敢近人。可以涉江海、卻蛟龍、止風波。得其法、可以變化起工。

現代語訳

道士が長生を求め、この書(三皇文)を持って山に入れば、虎や狼、山の精、五毒、百の邪も人に近づけない。江海を渡る際も蛟龍を退け、嵐を鎮めることができる。その法を得れば、物事を変化させ、大事を成し遂げることができる。

『拾遺記』巻六(4世紀後半)


原文

昭帝始元元年、帝游於淋池、池中有越女所供荷、花大如蓋、一莖四葉、自葉上有光。及至秋、花落實成、其子大如斗、其色如金、其皮堅而不可破。帝自引金輪之釣、以香象之肉爲餌。鉤至水深處、得一白蛟、長三丈、無鱗甲、頭有軟角、牙出唇外。帝曰:「非真龍也。」命大官爲鮓、肉紫而骨青、甚美。

現代語訳

前漢の昭帝(しょうてい)の始元元年、帝は淋池(りんち)で遊覧されていた。池の中には越の国の娘が献上した蓮があり、その花は車蓋(車の傘)ほども大きく、一本の茎に四枚の葉がつき、葉の上からは光が放たれていた。

秋になり、花が落ちて実が成ると、その種は一斗(約18リットル)升ほどの大きさで、色は金のようであり、皮は堅くて破ることができないほどであった。帝は自ら金輪の釣竿を手に取り、香象(こうぞう:伝説上の象)の肉を餌にして釣りをされた。針が水の深いところまで届くと、一頭の白蛟(はくこう)が掛かった。長さは三丈(約9メートル)もあり、鱗(うろこ)や甲(こうら)はなく、頭には柔らかい角があり、牙が唇の外まで突き出ていた。

帝は「これは本物の龍ではないな」とおっしゃり、料理番に命じてこれを鮓(なれずし、あるいは和え物)にさせた。その肉は紫色で骨は青色をしており、非常に美味であった。

『述異記』(5世紀〜6世紀頃)


原文

水虺五百年化為蛟、蛟千年化為龍、龍五百年為角龍、千年為應龍。

現代語訳

水のヘビ(水虺)は五百年で蛟(みずち)に変化し、蛟は千年にして龍となる。龍は五百年経つと角龍となり、さらに千年経つと(究極の姿である)応龍となる。

『本草綱目』(1596年)


原文

時珍曰︰按任昉《述異記》云、蛟乃龍屬、其眉交生、故謂之蛟、有鱗曰蛟龍、有翼曰應龍、有角曰虯龍、無角曰螭龍也。裴淵《廣州記》云︰蛟長丈餘、似蛇而四足、形廣如楯、小頭細頸、頸有白嬰。胸前赭色、背上靑斑、脇邊若錦、尾有肉環、大者數圍、其卵亦大。王子年《拾遺錄》云︰漢昭帝釣於渭水、得白蛟、若蛇無鱗甲、頭有軟角、牙出唇外。

現代語訳

時珍によれば、任昉『述異記』では「蛟は龍の一種であり、眉が交差して生えるため蛟と呼ぶ。鱗のあるものを蛟龍、翼のあるものを応龍、角のあるものを虯龍、角のないものを螭龍という。梵書では宮毗羅と名づける」とある。
裴淵『広州記』では、蛟は長さ一丈余りで、蛇に似て四足があり、形は盾のように広く、小頭に細い首があり、首に白い瘤(白嬰)がある。胸は赤褐色、背に青斑、脇は錦のよう、尾には肉の輪があり、大きなものは数囲に及び、その卵も大きい。
王子年『拾遺録』では、漢昭帝が渭水で釣り上げた白蛟は、鱗甲がなく蛇に似て、頭に柔らかい角、牙が唇の外に出ていた。

『和漢三才図会』巻第四十五 龍蛇部(1712年)


原文

本綱、蛟乃龍屬。其眉交生、故謂之蛟。長丈餘、似蛇而有鱗、四足。形廣如楯、小頭細頸、有白嬰、胸前赭色、背上青斑、脇邊若錦、尾有肉環、大者數圍。其卵亦大。能率魚飛、魚得鼈可免。『山海經』云、池魚滿二千六百、則蛟來爲之長。『五雜組』云、閩中不時暴雨、山水驟發、漂没室廬、土人謂之出蛟。理或有之。大凡蛟蜃藏山穴中、歳久變化、必挾風雨以出、或成龍、或入海。

白蛟 漢昭帝釣得白蛟。若蛇、無鱗甲、頭有軟角、牙出唇外。作鮓食甚美、骨青而肉紫。

現代語訳

『本草綱目』によれば、蛟(みずち)は龍の仲間で、その眉が交差して生えるため「蛟」と呼ばれる。体長は一丈余り、蛇に似て鱗があり、四足を持つ。体形は盾のように広く、頭は小さく首は細い。首に白嬰(白い輪模様)、胸は赤褐色、背に青斑、脇は錦のよう、尾には肉の輪があり、大きなものは数囲に及ぶ。その卵も大きい。魚を率いて空を飛ぶが、魚は鼈がいれば逃れることができる。『山海経』には池の魚が二千六百匹に達すると蛟が長となるとある。『五雑組』では福建で豪雨や洪水が起こると土人は「出蛟」と呼んだ。蛟や蜃は山穴に隠れ、年月を経ると変化して風雨を伴い現れ、龍になったり海に入ったりする。

白蛟:漢昭帝が釣り上げた白蛟は鱗甲がなく蛇に似て、頭に柔らかい角、牙が唇の外に出ていた。鮓(なれずし)にして食べると非常に美味で、骨は青く肉は紫色であった。

『古今図書集成』(1726年)


礼記


《月令》
季夏の月、漁師に蛟を伐たせるよう命じる。

〈注〉《蛟》は伐たれるものを指し、兵衛があることによる。
〈陳注〉「蛟は伐を言う」とは、その暴悪で容易に攻め取れないことによる。

山海経


《南山経》
禱過の山、泿水がここから出て、南に流れ海に注ぐ。その中に虎蛟がいる。その形は魚の体で蛇の尾を持ち、音は鴛鴦のようで、食べると腫れず、痔を治すことができる。

郭曰:「蛟は蛇に似て、四足があり、龍の属である。」 任臣によれば:景純『江賦』に「水物の怪錯には、虎蛟、鉤蛇がある」とあり、これを指す。《図賛》曰:「魚の身に蛇の尾を持つものを虎蛟という。」

《中山経》
〈翼望〉の山、貺水がここから出て、東南に流れ漢に注ぐ。その中には多く蛟がいる。畢山、帝苑の水がここから出て、東北に流れ視に注ぐ。その中には多く蛟がいる。葴山、視水がここから出て、東南に流れ汝水に注ぐ。その中には多く蛟がいる。

宣山、淪水がここから出て、東南に流れ視水に注ぐ。その中には多く蛟がいる。

《養魚経》
蛟:魚が三百六十匹に満ちると、蛟龍がそれらの長となり、魚を飛ばそうとする。

述異記


《蛟化》
〈水虺〉。「五百年で蛟となり、蛟は千年で龍となる。」

埤雅


《蛟》
蛟は龍の属である。その形は蛇に似て、四足があり細い首を持ち、首には白い乳房がある。大きなものは数囲、卵生で眉が交わるので蛟という。また蛟は首尾を交えて物を束ねることができるので蛟と呼ぶ。俗に馬絆と呼ぶのはそのため。

《述異記》曰:「蟒蛇は目が丸く、蛟は眉が連なる。連なると交わる。」《相書》で言う交眉とは、蛟や蜃の眉である。一説には蛟の尾に肉の輪があり、物を束ねるときは首を通す。旧書に曰く:鳳の骨は黒、蛟の骨は青。《記》曰:「蛟を伐って鼉を取り、亀に登って黿を取る。」鄭氏曰:「蛟は伐を言うのは兵衛があるため;亀は登と言い尊ぶ。」

古には蛟鮓もあり、龍醢もある。龍は神物であるが、養えるのは豚の類に過ぎず、真の龍ではない。犬豚は養える。養えるものは醢にして食べられる。字は肉から作られている。だから君子は人に養わせたくない。俗説:「虎中に真の虎あり、龍中に真の龍あり。」

《星禽衍法》曰:「角木蛟、亢金龍、氐土貉、房日兔、心月狐、尾火虎、箕水豹、斗木獬、牛金牛、女土蝠、虛日鼠、危月燕、室火豬、壁水羭、奎木狼、婁金狗、胃土雉、昴日雞、畢月烏、觜火猴、參水猿、井木犴、鬼金羊、柳土獐、星日馬、張月鹿、翼火蛇、軫水蚓。」

「獬」は蟹とも作り、「犴」は鴈とも作るが、これではない。注:角木は蛟、亢金は龍、奎木は狼、婁金は狗、觜火は猴、參水は猿、翼火は蛇、軫水は蚓など、皆類によって従う。特にその気数に深浅がある。

本草綱目


《釋名》
李時珍曰:鱗があるものを蛟龍、翼があるものを「應龍」、角があるものを虯龍、角がないものを螭龍と呼ぶ。梵書では宮毗羅と名付ける。

《集解》
李時珍曰:裴淵『広州記』に曰く:「蛟は長さ一丈余、蛇に似て四足があり、形は楯のように広く、頭は小さく首は細く、首に白い乳房があり、胸前は赭色、背に青斑、脇に錦のような模様。尾に肉の輪があり、大きなものは数囲。卵も大きく、魚を率いて飛ばすことができ、鱉を得れば逃れる。」

王子年『拾遺記』曰:「漢の昭帝が渭水で釣り、白蛟を得た。蛇に似て鱗甲はなく、頭に軟角があり、牙は唇の外に出る。大官に鮓を作らせ、非常に美味で、角は青く肉は紫。」これによれば蛟も食べられる。

《精気味》
毒がある。

李時珍曰:張仲景『金匱要略』に曰く:「春夏二時、蛟龍の精を芹菜に帯びる。人が食べれば蛟龍症となり、耐えがたい痛みがある。硬糖で治療し、1日二三升服すれば、蜥蜴状のものを吐く。」唐の医師周顧は雄黄、朴硝を煮て服させた。

《髄主治》
李時珍曰:「顔色を良くする。さらに出産を容易にする。」 出典『東方朔別伝』。

蛟部芸文一


《蛟賛》晋・郭璞
これは蛇でも龍でもないが、体の鱗はきらきらと光り輝いている。大波の上を跳ね回りながら、江や漢の川をくねくねと進む。まるで漢の武帝が羽を使って飛ぶように、勢いよく力強く動く。

《漢武帝射蛟賦》唐・独孤授
漢武帝は、時機を見極めて行動した。楚の地を見渡し、長江の流れを制御する。船の隊列で川を封じ、旗や甲冑の景観を圧倒した。荒れ狂う波の上で、龍や蛟(みずち)が暴れまわる。皇帝の威光が差せば、洪水も抑えられ、怪物たちも恐れて潜む。

蛟は空広に跳ね回るが、皇帝の弓と剣の前には立ち向かえない。天子は護衛に無駄な騒ぎをさせず、弓の準備に力を入れる。船長を指揮させ、旗を巡らせて進軍を制御し、弓兵に号令を与えて攻撃させた。天文や地形を慎重に見定め、敵の様子を警戒した。勇敢さに頼りすぎず、仲間同士の技量も均等に活かす。

皇帝の矢は正確で、狙った獲物は必ず射止められる。矢が放たれると、雷鳴のような轟音が響き、怪物たちは頭をもぎ取られ胸を裂かれる。天雷のような衝撃に、観衆も熊の群れのように驚き跳ねる。戦いの始まりはまるで神兵の襲来であり、荒波が白く渦巻き、巨大な船が揺れ、血が東の海に流れた。どんな怪物も人間の力には抗えず、自然の力や神の加護も守り切れない。

戦場では万物が震え、徐々に秩序が戻る。海では水鳥が従い、兵は洗われる。山や川も静まり、雲霧も晴れる。川を渡る者は安全に進め、漁をする者も安心できた。左史が進み記録を残す。「天子は尋陽に赴き、蛟を自ら射て捕らえた」と書かれている。

最終的に、皇帝は龍の旗を翻し、象の軍勢を鎮める。船員たちは櫂を動かし歌を歌い、白蛇を討ち、青兕(珍獣)の力も制した。秦王や夏王朝の伝説的な業績にも匹敵する行いである。皇帝は戦いでの勝利をもって国を治め、臣下は反乱を防ぎ、戦いを通して秩序と平和を保った。この戦いは、ただの勇敢な射手や漁夫の技量を比べるだけではなく、統治者としての戦略と判断力の勝利を示している。

蛟部芸文二〈詩〉


《蛟》宋・梅堯臣
橋辺三尺の剣、江上六鈞の弧。漢武帝何処に?周将軍は已に無し。
織綃深く室に有り、泣涙自ら珠と為す。誰が九淵の害を謂う、人猶能く爾の図を為す。

《題老蛟化江叟吹笛図》明・袁凱
呉頭楚尾老髯翁、千里煙波に故宮有り。日暮《江亭》に帰らず、猶玉笛を秋風に倚す。

蛟部紀事


《竹書紀年》
帝舜の時代、虞氏の淵に蛟(みずち)が跳ね回っていた。

《呂氏春秋・知分篇》
荊の次非は宝剣を手に入れ、江を渡ろうとした。中流に差し掛かると、二匹の蛟が船を取り囲んだ。次非は舟人に尋ねた。「これまで二匹の蛟が船を囲むのを見たことがあるか?生きたまま倒せると思うか?」舟人は「見たことがない」と答えた。
次非は袖をまくり、宝剣を抜いて言った。「この川の蛟は腐った骨のようなものだ。剣を捨てず、自らを守ろう。その他のものに何を惜しむ必要がある?」
そして蛟を刺し殺し、船に戻った。舟中の者は全員無事であった。荊王はこれを聞き、圭を授けて褒めた。孔子も「素晴らしい!腐った骨のような蛟に臆せず剣を捨てなかったのは、まさに次非の勇気だ」と称賛した。

《韓詩外伝》
東海に勇士の甾丘訢がおり、神泉で馬を水に飲ませた。僕が「この水で馬を飲ませれば、馬は死ぬでしょう」と言うと、案の定馬は沈んだ。訢は剣を抜いて三日三夜戦い、二匹の蛟を討ち、雷神のような力を伴い、左目を傷つけながらも勝利した。

《神仙伝》
劉憑という人物が沛に住んでいた。妻が病気にかかり、長年治らなかった。憑は家のそばの泉の水を命じて使うと、水が干上がり、その中で蛟が枯れて死んだ。

《漢書武帝本紀》
元封五年の冬、漢武帝は南巡の狩りを行い、潯陽で江に出て、蛟を射て捕らえた。

《拾遺記》
宣帝は季秋の月に、舟で江に出て夜まで釣りを行った。香金を釣り針にして、絹の糸で丹鯉を餌にしたところ、白蛟を釣り上げた。長さ三丈、蛇のようで鱗や甲はなかった。帝は「これは吉兆ではない」と言い、太官に命じて調理させたところ、肉は紫色、骨は青く、非常に美味で、群臣に分け与えた。帝は美味を楽しんだが、漁師は再び捕れず、神秘的な存在であることを知った。

《潯陽記》
潯陽城の東門近くの大橋は、常に蛟が人々を害していた。董奉は符を水中に沈め、数日後、蛟が死んで浮かび上がった。

《晋書周処伝》
周処(字は子隠)は義興陽羨の出身。父は魴、吳鄱陽の太守であった。処は幼くして孤児になり、若いころは力が強く、狩りや田畑を好んだが、礼節を守らず自由気ままに生きていた。州の人々はこれを心配していた。

処は自分が悪く言われることを知り、心を改める決意をした。父老に相談すると「三つの害がある。それを取り除けば、村に大きな喜びがある」と言われた。その三つとは南山の猛獣、長橋下の蛟、そして処自身であった。

処は山に入り、猛獣を射殺し、蛟を討った。蛟は沈んだり浮かんだりしながら数十里進んだが、処と共にいた。三日三夜の戦いの後、死者はなく、村人は喜んだ。処はその功績を通じ、学問に励み、志を立て、忠信を守る生き方を身につけた。

『箋注倭名類聚抄』(1844年)


『和名抄』(本文)
蛟:『説文解字』によれば「蛟 音は交(こう)、和名は美都知(みづち)、『日本書紀私記』では 大虯 の二字を用いる」とある。

龍の属に属する。『山海経』によれば、「蛟は虵に似て四脚を持ち、池の魚が二千六百匹に達すると、蛟が現れてその長となる」とされる。

狩谷棭斎による箋注(解説)
龍龕手鑑: 他の辞書(類聚名義抄など)の引用によれば、蛟は「ミツチ」であり、虬・虯(きゅう)と同じく龍の類とされる。

淮南子(原道訓): 「蛟龍は水に居し、虎豹は山に処す」とあり、蛟龍が水域の主であることが天地の自然な性質(性)として述べられている。また高誘の注によれば、その皮には珠(たま)があり、刀剣の装飾に用いられたという。

楚辞・中庸: 『中庸』には「黿鼉蛟龍(げんだこうりゅう)」として、ワニや大亀と並ぶ水棲生物の代表として登場する。ここでの「蛟」は「鮫」とも書かれるが、現代のサメではなく、龍の類を指している。

説文解字: 「龍の属なり」とし、池の魚が満ちるとそれらを率いて飛び去るという生態を記す。また、水中に「笱(うえ:魚を獲る籠)」を置くと、蛟は去ってしまうという弱点についても触れている。

山海経: 郭璞(かくはく)の注によれば、「蛟は蛇に似て四足、龍の属なり」とされる。さらに「虎蛟(ここう)」という怪物は、魚の体で蛇の尾を持ち、鴛鴦(おしどり)のような声で鳴き、食べれば痔が治るといった具体的な記述がある。

狩谷棭斎による結論
下総本には「和名」の二字がある。広本では「虯」を「虬」と書き、「私記」の二字はない。これと似た「大虬」という表記は、『日本書紀』仁徳天皇六十七年紀に見える。

『説文解字』虫部には「蛟は龍の属である。池の魚が三千六百に満つれば、蛟が来てその長となる」とある。また『山海経』南山経には「祷過(とうか)の山より泿水(ぎんすい)が出て、水中に虎蛟(ここう)が多い」とある。郭璞の注では「蛟は蛇に似て四足、龍の属である」とされる。この和名抄の文章は、これら『説文』と『山海経』の二書の内容が混ざり合って記述されている。

しかし、『太平御覧』を確認すると、この和名抄の引用と全く同じ記述になっている。思うに、かつての『修文殿御覧』が二つの書物から引用した際に書き間違えたものを、源順(和名抄の著者)も李昉(太平御覧の著者)も、どちらもそのまま引用してしまったのであろう。広本では『山海経』の下に注釈があり、「二千」とあるのは『説文』に従って「三千」と直すべきである。天文本には「池魚」以下十三字がなく、伊勢広本も同様である。

私はこう考える。蛟を「みづち」とし、大虯を「みづち」とする説があるが、両者の説は一致しておらず、蛟の別名が大虯であるというわけではない。

私はさらにこう考える。『万葉集』に「虎に乗って古い家を越え、青い淵で鮫龍(みづち)を捕らえてこよう…」という歌があるが、この「鮫龍」は即ち「虯龍」の書き間違いである。『中庸』にある「黿鼉鮫龍」も、『釈文』ではもともと「蛟」に作っており、これが正しい。よって「みづち」あるいは「わたつ」と訓むべきである。

現在、これを「さめ」と訓むのは「鮫」という字面によるものであるが、誤りである。『淮南子』道応訓の「蛟龍は水に居る」という注釈において、高誘は「蛟は水蛟(みずち)であり、その皮には珠があるため、世人は刀剣の柄の材料にする」とし、蛟龍を鮫(サメ)のことだとしている。しかしこの間違いは、『万葉集』の古い訓みが犯している間違いと同一である。