百合若大臣の伝説
スポンサーリンク
資料の伝説
幸若舞『百合若大臣』
嵯峨天皇の御代、左大臣の公満(きんみつ)という者が居た。公満には跡継ぎが居なかったので、大和の泊瀬岡寺に子宝を祈願すると、やがて男児を儲けて百合若(ゆりわか)と名付けた。百合若は17歳で右大臣になり、大納言顕頼卿の娘・朝日姫を妻に迎えた。
その後、蒙古の大将・両蔵(りょうぞう)、火水、飛ぶ雲、走る雲が4万艘の軍船を率いて博多に来襲した。我が国は弓矢の上手を集めて防戦したが、敗れて山口へと逃げ帰った。朝廷は「百合若大臣を大将にせよ、そうすれば神の合力する」という伊勢神宮の託宣によって百合若を大将すると、百合若も神託に従って鉄弓に363本の矢を携え、30万の軍勢を率いて博多に向かった。
その時、神風が吹いて蒙古軍が一時的に唐土に引き上げたので、百合若は蒙古の再来に備えて博多に陣を敷いた。そこで朝廷は百合若を筑紫の国司に任じると、百合若は妻を伴って豊後国に移り、国府に館を構えた。数年後、朝廷は百合若に唐土侵攻を命じると、百合若は新造した大船100艘に加えて大小合わせて8万艘の軍船を率いて唐土に向かっていった。
百合若は日本と唐土の潮境にある ちくら沖 で蒙古軍と対峙すると、蒙古の大将・両蔵が船の舳先に立って「我らの戦の手立てには霧を降らすのが習いである」と言うと、麒麟国の大将が「承る」と言って青い息を吹き出すと、それが厚い霧になって日月も分からなくなるほどに視界を曇らせた。
その霧は100日100夜降り続いたので、百合若は潮をすくって「60余州の神々よ、この霧を晴らせ給え」と祈った。すると、霧は雪解けよりも早く消え失せたので、百合若は喜んで艀を下ろして蒙古軍に襲いかかった。そこで363筋の矢を討ち尽くすほどに攻め立てると両蔵を討ち取ることができた。また、火水には腹を斬らせ、飛ぶ雲と走る雲は生け捕りにした。そして将を失った蒙古軍の1万艘の船は唐土に返してやることにした。
こうして勝利を収めた百合若は、近くにあった玄海島に上陸して休憩しようと提案し、家来の別府兄弟に後見を命じた。百合若が島に上陸して岩角を枕にして3日間眠りこけると、悪賢い別府兄弟は百合若を置き去りにして本船に帰り、家来達に「主君は両蔵の矢を受けて命を落としてしまったので海底に葬った」と嘘を告げて船を出させた。本船が筑紫の博多に帰り着くと、別府兄弟はすぐに上洛して勝ち戦を奏聞したので、朝廷は百合若の後任を別府太郎に任せて筑紫の国司に任命した。
それから豊後国の国府に下った別府太郎は、百合若の妻・朝日姫に横恋慕して結婚を迫るようになった。だが、朝日姫は百合若の生存を信じていたので、"宇佐宮に詣でて千部の経を書き、それを読んで大願を掛ける"という名目で結婚の日にちを先延ばしにし、もしもの時には自害しようと思って、身の回り品々を人に与え、犬・馬・鷹などは全て解き放った。
すると、百合若の愛鷹であった緑丸は飯を咥えて3日3晩かけて飛び続け、やがて玄界島の百合若の元にやって来た。そこで百合若は柏の葉に指を切った血で文を書き、緑丸に国府に持ち帰らせた。この後、百合若の文は朝日姫の元に届けられ、百合若の生存を知った朝日姫は歓喜して、紙・筆・硯を鷹の脚に括り付けて運ばせたが、緑丸には荷が重すぎて玄界島の渚で事切れてしまった。
それから朝日姫は宇佐宮にて7日間参籠して「もし百合若に再び会うことができるならば、宇佐宮の造宮を成し、玉の宝殿を磨き立てて、金の扉をのべ開き…」との願掛けをした。一方、別府太郎は朝日姫の心がなびかないことに業を煮やし、とうとう萬能池に沈めてやることにした。この時、朝日姫は沈められたことになったが、実は門脇の翁の甥の忠太の娘・萬寿姫が身代わりとなって沈んだのであった。
その後、宇佐宮への願いが叶えられて、壱岐の釣人が南風によって玄界島へと流された。釣人は島で異様な生物に出会って逃げ惑ったが、それは百合若であり、やがて素性を尋ねられた百合若は「蒙古軍を討ちに行った時に船に乗り遅れて置き去りにされてしまい、今年で3年ほどになる。どうか日本に送り届けてくれまいか」と頼むと釣人は了承し、やがて風向きも変わって帰れるようになったので、百合若は無事に博多に着くことができた。
しかし、その時の百合若は、人のようで人ではなく、鬼のようで鬼でもない、まるで餓鬼のような風体であったので、豊後国の国府に帰ったときには苔丸(こけまる)と名付けられた。それから正月恒例の弓始の時が来ると、別府太郎は「変わり者を拾って養っていると聞くが、どのような者か連れてまいれ」と言ったので、苔丸は弓始の矢取りの役目を負うことになった。
そこで別府太郎は弓を射ると、それを見た苔丸は「弓の下手な殿である」などと言って嘲笑したので、別府太郎は「曲者め、ならばお前が射ってみよ」といって百合若が愛用していた弓を渡した。すると、苔丸は的ではなく別府太郎の方を狙って「我を誰だと思っている。島に捨てられた百合若大臣であるぞ」と大声で叫んだので、そこに居た一同は畏まって平伏した。また、別府太郎はそこで命乞いをしたが、百合若は別府太郎を松の木に縛り付けて舌を抜き、首を切って引き回した。その後、百合若は朝日姫を伴って上洛すると、日本の将軍に任じられたという。
『百合若説経』
百合若大臣は、桃から生まれてきた人で、幼名は桃太郎と言った。年を経て嫁を貰う年頃になると、親たちは様々な娘と見合いさせたが、桃太郎は「顔が長いのは馬面づら」「髪の長いのは蛇身髪」「鼻の低いのは杓子づら」などといって断り続けた。ところが王様の姫様が美しいという噂を聞くと、御殿の風呂焚きになって住み込み、そこで姫様を口説くようになったので、王様は「鬼ヶ島の鬼を退治できたならば嫁にやろう」と言った。
そこで、桃太郎は百合若と名を改め、70艘の船を引き連れて鬼が棲むという壱岐の島に上陸した。その時に船の錨を下ろしたのが今の黒崎の唐人神の下の辺りである。その頃、壱岐の島は芥満国(かいまんのくに)と呼ばれており、この国は鬼の太郎・鬼の次郎などと呼ばれる鬼の大将が支配していた。この鬼の大将は、百合若の軍勢に対してたくさんの礫を投げて攻撃した。その石は今も鬼の礫と呼ばれて残されているという。
その時、百合若は日の丸の扇を上げて風を払うと、礫を避けることができた。それから百合若は鬼を退治すると、日本への土産として一匹の小鬼を残しておいた。しかし、その時に周辺を見渡すと、家来の乗った船は鬼が起こした風によって吹き散らされており、帰る船も無くなっていた。そこで、百合若は小鬼に海で食糧となるものを集めさせて、それを食いながら命を繋いだ。この時の食材は小鬼のヘソで沸かして食ったという。
その後、風に吹かれて地方から鰯漁の船が壱岐の島に流れ着いた。そこで百合若は地方まで乗せて欲しいと頼んだが、漁師は百合若を鬼だと思って断った。それでも百合若は頼み続けるとやがて連れ帰られることになった。そこで百合若は小鬼に「炒豆に芽の出るまでは戻るな」と言い聞かせて、日の丸の扇で天竺へと吹き上げた。
それから、地方に還って王様の御殿に向かうと、誰も百合若だと気づかなかった。だが、王様の御殿には鹿毛の荒馬がおり、以前からその馬を乗りこなせる者が百合若しか居なかったので、百合若は王様の前で荒馬に跨り、碁盤の上に後脚で立たせるなどの見事な馬術を披露すると、皆は帰ってきた者が百合若だと知ることになった。こうして百合若は姫様を頂戴して、王様の跡目を相続したという。
『百合若説経』
都の六条に内裏を建てる時、朝廷の東西南北に長者の御殿を立てた。中でも東の朝日長者は最も位が高く、10人の子持ちであった。一方で西の二条の館に住む萬の長者は山のように財宝を持っていたが、跡継ぎの子が居なかった。ある時、この二人の長者が宝比べをすると、萬の長者は「百の倉より子が宝」ということで負けてしまった(ただし、この萬の長者(萬能長者)は九州臼杵の炭焼小五郎を養子にしたという説もある)。
その後、萬の長者は夫婦で清水の観世音菩薩に子宝の願掛けをすると、妻が"観音様が袂に百合の花を入れた夢"を見て、しばらく後にめでたく懐妊した。それから男児を出産すると、長者は若君に百合若の大臣と名付けた。百合若は大きくなると鞍馬山の天狗に預けられ、そこで兵法を授かって文武に優れた若者になった。
百合若が15歳の時、将軍の一人娘の輝日姫が美人だという評判を聞いて、館に忍び込んで契りを結び、館から抜け出すときに女装して短尺売りを装い、姫を葛籠に入れて外に連れ出した。これに喜んだ両親は祝言を上げようとしたが、将軍の許しは得られなかった。
その後、内裏の北西に妖しい光が射したので、博士が占うと「芥満国(けいまんのくに)の悪毒王(あくどこお)の目の光である」という結果が出た。悪毒王は身の丈1丈6尺(約4.85m)もある三面の鬼神であり、5万の小鬼を引き連れた鬼の大将であった。これを聞いた将軍は鬼退治をすることにしたが、恐れて誰も大将になろうとしなかった。そこで評議が行われ、その中で「百合若大臣はまだ15歳の若者であるが、観音菩薩の化身であることに間違いない。また天狗から秘密の兵法を授かった者でもある。この者の他に大将はありえない」という形で話がまとまり、百合若大臣が大将に任じられることになった。
そこで将軍も「芥満国の鬼を討伐して帰国すれば、輝日をお前の妻にすることを許し、日本の将軍として祝言を上げさせよう」と言ったので、百合若は「百人引きの大弓に鋼の弦を打ち込み、1尺8寸の大雁股を2本揃えて欲しい」と言って大弓を用意させ、副将に式部太夫兄弟を副えて芥満谷に攻め込んだ。
こうして百合若一行が芥満国に着くと、そこで悪毒王を倒し、小鬼どもの悉く退治して大勝利を収めた。しかし、百合若が芥満国の小島で昼寝して戦の疲れを癒やしていた時に、式部太夫兄弟が黙って出航して日本に帰ってしまった。こうして百合若は島に置き去りにされてしまったが、都で輝日が百合若の愛鷹のみどり丸を放ったので、やがてみどり丸が百合若の元にやって来た。そこで百合若はみどり丸に文を託したので、輝日は百合若の無事を知ることができたという。
ある夜、宮崎浦に住んでいる太郎、次郎、三郎という漁師の枕元に清水観音が立ち「芥満国で網を引くならば、宝の山を引かせてやろう」との御告げを下すと、漁師たちは観音の御告げに従って芥満国に向かった。その後、百合若は漁師たちと出会って日本に帰国することになった。
この後、百合若は式部太夫の元を訪ねると、式部太夫のババが「どこの者かは知りませんが、痩せ馬飼いと申す片目が潰れた者が奉公を望んで参っています」と言って式部太夫に伝えると、百合若は式部太夫と対面することになった。そこで百合若は「我は百合若である」と宣って弟の式部次郎に矢を射放ち、胴を中央から真っ二つにした。そこで兄の式部太郎が許しを乞うと、百合若は後ろ手に縛って戒めて7日7晩の間 晒し者にし、それから首を落として処刑した。
それから百合若は88歳まで生きてその生涯を終え、後に豊後国の由生原(柞原)に八幡大神として現れた。また、妻の輝日も宇佐八幡宮の姫神となって現れたという。
『聖籠山観世音略縁起』
昔、百合若大臣という者が勅命によって越後国に来て、この地の洞で名鷹を得たので緑丸と名付けて寵愛した。緑丸は百合若大臣に忠義を尽くして功を立てたが、やがて命が尽きたので、緑丸の菩提を弔うため十一面観音を本尊として二王門を建てた。後にどこの国からともなく聖者がやって来て堂舎を建て、この聖者が籠ったがために聖籠山と名付けた。
地方の伝説
宮城県の百合若大臣(宮城県岩沼市)
戦国時代、都に百合若大臣という若武者がいたが、無実の罪で奥州に流されてしまった。百合若には美しい妻がいたので、百合若は奥州に行ってからも妻を想って過ごしていた。すると、ある時に百合若の愛鷹・緑丸が妻の手紙と共に筆と硯を運んできた。百合若は大変喜んで、緑丸を使って妻とのやり取りを始めたが、やがて緑丸は力尽きて死んでしまった。
これを悲しんだ百合若は、緑丸の遺骸と硯を埋めて塚を築き、ねんごろに葬ってやった。そこが鷹硯寺であるという。その後、百合若は許されて都に帰れることになり、その時に妻の手紙を入れた箱を埋めた。その地が名取の箱塚であるという。
なお、妻が緑丸に硯を運ばせた時に力尽き、死んで石になったという伝説もあり、その石は緑丸石と呼ばれるとされる。また、この伝説では緑丸が運んだ硯は鷹硯寺が預かることになり、その硯は鷹硯として寺宝になったという。
鳥海山の手長足長(山形県)
昔、坂上田村麻呂が蝦夷征討の折に出羽国にやって来て鳥海山に大物忌神を祀り、天下泰平を祈願した。その頃に、鳥海山には手長足長という化物が棲んでおり、海を通る船を捕らえたり、転覆させたりして暴れていたという。これに怒った大物忌神は手長足長の棲む鳥海山の頂上を海の方に蹴飛ばすと、それが飛島になったのだという。手長足長は、それからも飛島に棲んで暴れまわっていたが、やがて朝廷によって遣わされた百合若大臣が退治したという。
上日寺の寺伝(石川県鳳珠郡能登町)
昔、由利弱大臣という勇傑がおり、勅命で悪党賊を征伐したが、奸邪の者の妨げに遭って都に帰ることができなくなり、孤島で独りで住んでいた。常に一羽の鷹を愛しており、その脚に書を結んで放つと、鷹は都の館に飛んで返信を得て帰って来るのであった。しかし、ある時に嵐に遭って波に飲まれて海中に沈んでしまった。その後、大臣は都に復帰したが、この鷹の菩提を弔うために寺院を創建して千手観音を安置した。これが当寺の始まりである。
群馬県の百合若大臣(群馬県甘楽郡下仁田町)
その昔、百合若大臣という怪力の大男がおり、大きな弓と長い矢を愛用していた。ある時、百合若は弓矢の腕を試そうと、川向うの山に狙いを定めて、満身の力で弓を引いて射放った。すると、山に一つの大穴(射抜き穴)が空いた。また、百合若が後足を踏ん張った石は大きく凹んだという。
これを見ていた家来の一人も、負けじと腰に下げたおむすびを力いっぱい放り投げると、山にもう一つの大穴(むすび穴)が空いた。すると、この2つの大穴が夜空の星に見えるようになったので「星穴岳」と呼ばれるようになったという。この時に百合若が使った弓矢は妙義神社に奉納されている。
群馬県の百合若大臣(群馬県甘楽郡下仁田町)
昔、大男の百合若大臣が旧松井田町小山沢から碓井川を跨いで妙義に向かって矢を放ったところ、その矢は山の腹を貫いて射抜かれた岩が下仁田町高立地区に突き刺さった。その穴は「射抜き穴」と名付けられ、突き刺さった岩は「一本岩」として残り、そこから流れる川には「矢川」と名付けられた。また、百合若大臣が使った弓矢は妙義神社に納められたという。
また、百合若大臣に対抗して周りの者が持っていたむすびを投げつけると、山に大きな穴が空いた。この穴は「むすび穴」と名付けられ、2つの大穴が空いた山は星が望めるということで「星穴岳」と呼ばれるようになったという。
百合若神社に伝わる伝説(岡山県井原市)
昔、百合若という強くて勇敢な武将がいた。この百合若は強靭な体力の持ち主で、弓の名手としても有名だった。百合若が使った弓は長さ8尺5寸(約2.6m)もある鉄の大弓で、とても重かったので百合若の他に扱える者は居なかった。また、百合若は豊後国の国守であり、春日姫という美しい妻を持っていたので、幸せな日々を送っていた。
ある日、朝鮮半島から何千隻もの軍船が九州にやって来たので、百合若は千人の部下を軍船に乗せて出航した。そして対馬沖で戦に臨むと、百合若は船の舳先に立って鉄の大弓から何百もの矢を放った。その矢は狙いを外すこと無く、部下も勇敢に戦ったが、兵の人数が圧倒的に劣っていたので敗色は濃いように思われた。しかし、百合若の矢が敵の首領の頭を射ち抜くと、敵船は向きを変えて国に帰っていた。
この様子を見た百合若は戦に勝ったと確信したが、多くの部下が負傷し、命を落とした者も多かった。また、百合若自身も疲れ切っていたので、最寄りの島に立ち寄ってしばらく休憩することにした。そこで、腹心の部下であった別府兄弟に休憩できる島を探させると、別府兄弟が玄界島を見つけたので、そこに停泊するように命じた。
百合若は、上陸するとすぐに鎧兜を脱ぎ捨てて深い眠りに就いた。百合若は3日3晩眠り続けると、目を覚ました時には周囲に誰も居らず、身に付けていた武具も無くなっていた。そこで別府兄弟の裏切りで置き去りにされたことに気付いたが、帰る術が無かったので、仕方なく孤島で暮らすことにした。それからは毎朝 浜辺に立ち、海に向かって妻の名を叫ぶのを日課とし、魚・海藻・木の実などで飢えを凌いで暮らしたという。
一方で、百合若を裏切った別府兄弟は、豊後国に帰ると春日姫に百合若は戦死したと嘘の報告をし、形見として鎧兜を差し出した。また、百合若の代わりに豊後国の国司に任じられた。この後、百合若の死を信じられなかった春日姫は、百合若の飼っていた32羽の鷹と12頭の犬の世話をして、夫の帰りを待ち続けた。しかし、夫の生存を伝えるものは何もなかったので、春日姫は悲しみで飯も喉を通らず、日に日に痩せ細っていったという。
それから2年が経ったが、何の音沙汰も無かったので春日姫は鷹と犬を放してやることにした。すると、犬はどこかに走り去り、鷹は空高く飛んでいった。しかし、百合若が特に可愛がっていた緑丸という鷹だけは檻から出る様子が無く、餌も食べようとしなかった。しかし、握り飯を与えるとクチバシに咥えてどこかに飛び去っていった。
一方で、孤島で独り暮らしていた百合若はすっかり痩せ細り、見かけも別人のように変わってしまっていた。また、着物もボロボロになり、髪や髭もボウボウに伸びてしまっていた。それから後、何かが百合若の肩に止まったので、それを見てみると愛鷹の緑丸であった。百合若は久しぶりの再会に喜んだが、同時に緑丸を使えば国と連絡が取れるかも知れないと思った。
そこで、何かに文字を書いて文にしようと考えた百合若は、一枚の葉を拾い上げ、小刀で自らの指を傷つけて血を出し、その血で「百合若」と書いて緑丸の脚に括り付けて放してやった。すると、緑丸は飛び立って3日後に自らの檻に帰り着いた。そこで春日姫が緑丸の持ち帰った文に気付き、百合若の生存を知って大喜びした。
だが、このことは他言せずに夫への返信の手紙を書くと、それを緑丸の脚に括って運ばせた。しかし、緑丸にとって豊後国から玄界島まで飛ぶのは大変負担がかかるものであったので、島の近くまで来た時にどんどん下降して、やがて波に飲まれて死んでしまった。そのため、春日姫の文は百合若の元には届くことはなかった。
その後、玄界島の沖合で魚を獲っていた漁師が、島でうごめく何かを見つけて興味を示した。漁師がそれをよく観察すると、どうやら人らしきものが手を降っている様子だったので、島に船を近づけることにした。しかし、漁師が見た者は人のようで人に見えない得体のしれないものだったので、漁師は鬼だと思って驚いて逃げ帰ろうとした。
だが、百合若は必死に呼び止めて「自分は百合若殿の家臣で、以前の朝鮮軍との戦の後に置き去りにされてしまった。そこで私を九州まで送り届けてくれまいか」と頼んだ。この時に自分の素性を偽ったのは、この漁師たちが別府兄弟の配下だと疑っていたからである。これを聞いた漁師は不憫に思って百合若を船に乗せてやり、苔丸と名付けて仕事の手伝いをさせることにした。そこで百合若は懸命に働くと、漁師は只者ではないと思って一目を置き、国の様子を語って聞かせるようなった。
漁師が言うには、別府兄弟は百合若の地位を奪い、宮殿のような立派な邸宅に住んで、我が物顔で国を治めているという。また、庶民には重税を課したり、労働を強要しているので、庶民は大変な苦労に耐えており、さらに事もあろうに春日姫まで自分のものにしようとしたので、春日姫はまこもが池に身を投げて死んでしまったとのことだった。妻の死を聞いて百合若は大変驚いたが、身分を偽っていることもあって その場は平静を装った。
国に帰ると、百合若は自分の屋敷を訪ねてみることにした。すると、中には誰も居なかったので、百合若は春日姫の死が本当のことだと思って大変落ち込んでしまった。その数日後、別府兄弟の屋敷で元旦の催事で流鏑馬が行われるということで、漁師の主から一緒に行かないかと誘われた。そこで百合若は別府兄弟の屋敷に入れると思って、この誘いを受けた。
催事の当日、馬場には人だかりが出来ていたが、その人混みをかき分けて流鏑馬の様子を見てみると、射手は悉く的を外していた。すると、これを見ていた百合若(苔丸)が高笑いを響かせたので、別府兄弟が捕らえるように命じると、苔丸は捕えられて別府兄弟の前に引き出されることになった。そこで別府兄弟の兄が「家臣の弓の腕を笑うとは何事か、ならばお前が射ってみるがよい。ただし、失敗すれば命は無いと思え」と言うと、弟が弓矢と馬を苔丸に与えた。
だが、苔丸は「こんな弓矢でできるか」と言って与えられた弓矢をへし折ると、別府兄弟は激怒して百合若が愛用していた鉄の大弓を数人がかりで持ってきて「ならばこれを使って射るがよい」と言って差し出した。別府兄弟は「このような大弓を扱える者は居るまい」と思いながら差し出したが、苔丸がいとも簡単に弓を持ち上げたので観衆から驚きの声が上がった。
そこで苔丸は「皆の者よ。この中に私が何者か気付くものはおらぬのか、私こそが真の主の百合若であるぞ。この別府兄弟によって数年前に島に置き去りにされたのだ…」などと大声で言って名乗りを挙げると、別府兄弟は即座に馬の向きを変えて逃げ去ろうとしたので、百合若はすかさず兄弟に狙いを定めて矢を放ち、二人を射ち殺した。
すると、遠くから小走りでやって来る女が居たので、百合若はそれが春日姫だと分かり、死んでなかったのだと驚いて野獣のような雄叫びを挙げた。そして、手を取り合って再会を喜ぶと、春日姫は今までの艱難辛苦を語って聞かせた。
春日姫が言うには、別府兄弟の兄が春日姫を妻にしようと言い寄ったが、春日姫が断ったので、これに怒って家臣に殺させようとしたという。そこで春日姫は捕えられたが、姫を捕らえた以前の忠臣は百合若への忠義を失っていなかったので春日姫を殺さなかったという。しかし、殺さなければ罰せられ、別の家臣に殺されると思い、春日姫の身代わりに自らの娘を差し出して、この娘をまこもが池に沈めてしまったのだという。
百合若はこのような話を聞いて、身代わりになった娘に感謝するとともに、大変不憫に思った。そこで身代わりになった娘のために寺院を建立し、丁重に菩提を弔うことにしたという。
福岡県の百合若大臣(福岡県福岡市)
嵯峨天皇の御代、九州を治めていた四条左大臣の子に百合若という若者がいた。百合若は幼い頃から頭が良く、勇敢な性格であり、さらに弓を取れば右に出る者がいないほどの弓の名手であった。そのため、九州では百合若の名を知らぬ者は居なかった。また、百合若は春日姫という若く美しい妻がいたので、幸せな日々を送っていた。
その頃、九州には蒙古や新羅がたびたび襲来していた。ある時、新羅が襲撃してきたので、帝は百合若に征伐の勅命を下した。そこで百合若は大軍を率いて新羅に攻め入り、3年という長い戦いを経て勝利を収めることができた。凱旋の折、百合若は玄海の小島に2,3日停泊して戦の疲れを癒やすことにした。その夜に酒宴を開くと、百合若は久々の酒にすっかり酔い潰れてしまい、そのまま深い眠りに就いた。
その時、日頃から百合若を憎んでいた家臣の別府刑部貞澄と貞貫の兄弟は、他の家来達を騙して、眠った百合若を置き去りにしたまま船を出航し、豊後国へと帰っていってしまった。目覚めた百合若は、自分が置き去りにされたことに気付いたが、帰る術も無かったので、岩場に立って海の彼方を眺めて日々を過ごしていた。
一方で、国に帰った別府兄弟は、春日姫に百合若は戦死したと嘘の報告をしたので、春日姫は日々涙にくれるばかりであった。また、兄の貞澄は春日姫に妻になることを強要したが、春日姫がどうしても従わないので山中の牢に閉じ込めてしまった。その後、百合若がいつも連れていた愛鷹の緑丸が豊後国に帰り、春日姫に百合若の生存を知らせた。すると、春日姫は喜んで筆・墨・硯を緑丸に託して百合若の元に運ばせると、緑丸は島の近くまで来たものの、やがて力尽きて海に落ちてしまった。
それから数年が過ぎた時、豊後国の漁師が嵐に遭って百合若のいる島に漂着した。そこで百合若が漁師に事情を話すと、やがて豊後国に帰ることができた。その時、ちょうど正月7日の鏡射の式が行われており、百合若は弓を携えて進み出たが、その時の百合若は、潮風でボロボロになった衣装を纏った変わり果てた有様だったので、誰も気付く者は居なかった。そこで百合若は的を射抜いたが、次に別府兄弟の胸を狙って矢を放ち、兄弟に復讐を果たした。この後、春日姫も救い出し、九州を治める大臣となって幸せに暮らしたという。
大分県の百合若大臣(大分県大分市)
嵯峨天皇の御代、豊後国の上野丘の地に百合若大臣という国主が住んでいた。百合若は鉄の大弓を使う、とても強い剛の者であり、父は左大臣の公光というとても位の高い人であった。
その当時、筑紫国に蒙古軍が攻めて来たので百合若に蒙古討伐の勅命が下った。百合若は軍勢を率いて筑紫国に向かい、対馬の沖で蒙古軍と戦って大勝をおさめた。その帰りに玄海島に上陸し、そこで戦の疲れを癒やして横になると、やがて百合若は深い眠りに就いてしまった。すると、家臣の別府兄弟は百合若を見捨てて軍勢と共に豊後国に帰ってしまった。
それから別府兄弟は都に上り、戦には勝ったが百合若は海上で戦死したと嘘の報告をした。すると、別府兄弟の兄である別府太郎は百合若の代わりに国主に任じられ、国に帰ってからは栄華な生活をおくるようになった。また、別府太郎は百合若の妻に想いを寄せて自分の妻にしようとし、無理矢理な手段で従わせようとした。
しかし、百合若の妻は 百合若の死を疑って頑として従わなかったので、別府太郎は怒って屋敷の側の菰(まこも)の池に百合若の妻を簀巻きにして沈めてしまおうと考えた。これを知った屋敷の門番の翁は、密かに自分の娘の萬寿姫を身代わりにして池に入水させ、百合若の妻の命を救った。
一方で百合若の妻は、百合若の飼っていた鷹の脚に文を着けて空に放すと、鷹は百合若を探して遠路はるばる飛んでいき、やがて島に取り残された百合若の元に辿り着いた。そこで国の内情を知った百合若は苦労して豊後国まで帰っていき、鉄の弓をもって別府兄弟を討ち取った。
その後、再び国主になり、百合若の妻の身代わりになった萬寿姫の菩提を弔うために菰池の近くに寺を建立した。この寺は池の名と身代わりになった姫の名を取って蒋山萬寿寺(まこもさんまんじゅじ)という寺号を名付けた。また、百合若が亡くなると、その亡骸は菰池の南の丘に葬られて大臣塚と呼ばれるようになったという。
百合若大臣の鬼退治伝説(長崎県壱岐市)
平安時代、豊後国に"万の長者(まんのちょうじゃ)"が住んでいたが子供がいなかった。そこで長者夫婦は神に百合の花を備えて子宝を祈願していると、やがて1人の男児を儲けた。両親は男児を百合若(ゆりわか)と名付けて大切に育て、将来は立派な武士にしようと思って、後に鞍馬山の天狗の元で修行させることにした。
修行を終えた百合若が鞍馬山を下りる時、天狗は「これを使えばどんな強敵にも勝てるだろう」と言って日の丸のついた鉄扇を与えた。その後、百合若は嫁を取ろうとして48度にわたって見合いをしたが気に入る女が見つからず、結局 六条内裏から春日姫という姫君を強奪して嫁にした。
この後、百合若は大臣になった時、壱岐には5万を超える鬼が棲み着き、人里の農作物を荒らすなどの害を為していた。この鬼たちの頭目を悪毒王(あくどくおう)といい、勇力な手下として 風よりも足の速い疾風太郎(はやてのたろう)、遠くのものを見通せる遠見次郎(とおみのじろう)、大石を遠くに投げられる飛礫三郎(つぶてのさぶろう) の3人がいた。百合若大臣はこの鬼たちが悪事の限りを尽くしていると聞き、壱岐の島に鬼退治に向かうことにした。
百合若大臣の船が壱岐の島に近づくと、見張り役の遠見次郎が見つけて、それを疾風太郎が走って黒崎半島の悪毒王に伝えると、悪毒王は鬼どもを黒崎半島に集めて戦に備えた。百合若大臣の船が島に近づくと、鬼どもは大きな風袋で大風を吹かせて船を転覆させようとしたが上手くいかなかったので、今度は船を目掛けて石を投げつけると当たった船は沈んだが、先頭を行く百合若の船は沈めることができなかった。
そこで、疾風太郎が百合若の船を狙って大石を投げつけると、百合若は天狗の鉄扇で鬼どものいる島まで跳ね飛ばし、次に遠見次郎が大石を投げたが、百合若はこれも跳ね飛ばした(この2つの石は太郎礫と次郎礫と呼ばれて今も残っている)。すると、飛礫三郎が角のたくさんついた巨石を持って思い切り投げると、それは天地に7回ずつ舞い上がって雷のように落ちた。だが、百合若大臣はそれを軽々しく受け取ると、記念に持ってかえることにして船の先に置いた。
こうして百合若大臣は島に上陸すると、鬼どもを次々と斬り殺していき、最後に悪毒王と戦った。悪毒王は大きな金棒を振り回して襲いかかったが、百合若大臣はそれを物ともせずに悪毒王の首を打ち落とした。すると、悪毒王の首は「無念無念」と言いながら転げ回り、やがて空高く舞い上がって見えなくなってしまった。この時、悪毒王は天上の国に頭と首を繋ぐ薬を取りに行ったのであった。これを知った百合若大臣は悪毒王の身体を岩陰に隠すと、そこに薬を咥えた悪毒王が帰ってきた。
そこで悪毒王は身体を探し回ったが見つからないので、百合若大臣の兜に噛み付いて噛み破ろうとした。この兜が7重まで噛み破られた時に百合若大臣が「この兜は14重ある。まだ7重もあるぞ」と叫ぶと、悪毒王の首は力尽きて死に絶えた。これを天上の鬼たちが見ていたので、百合若大臣が「壱岐の島の枯木に花が咲いた時と、炒豆に目が出た時に限り降りて来い」と叫んだ。これにより、毎年草木が芽吹く桃の節句の頃になると、鬼が天上から降りようと身構えるようになったので、壱岐の人々は鬼が降りてこないように鬼凧揚げをするようになったという。
この後、百合若大臣は鬼退治に疲れて寝島で寝込んでしまった。これを見た味方の別府兄弟は百合若大臣を残して豊後国に帰り、百合若大臣は戦死したと嘘の報告して、たくさんの褒美を貰い、百合若大臣の国主の座を奪ったという。一方、島で一人で目覚めた百合若大臣は驚いて、辺りで船を探したが見つからないので そのまま島で過ごすことにした。すると、そこに木の葉隠れという片目の小鬼が現れて大臣の世話をするようになった。
そこで二人は串山半島の洞窟に住むことにし、食事は魚介類や海藻または木の実などを材料にして、小鬼が口から火を吹いて調理して出したという。このような生活が1年ほど続いた時、沖合に1隻の船が通ったので百合若大臣はこれに乗せてもらって国に帰った。そして、裏切った別府兄弟を処刑して国主の座に戻ったという。なお、小鬼は島に残ったとされ、天手長男神社には今でも小鬼の墓とされる塚を見ることができる。
鹿児島県の百合若大臣(鹿児島県)
昔、ある所に百合若大臣という武将がいた。百合若は豪胆な人で、ひとたび眠れば7日間も眠り続け、起きれば7日間も続けて起きていられたという。ある時、百合若は江戸に上ることになったので、船を仕立てて大勢の家来を連れで出ていった。その途中で水が無くなりそうだったので、無人島に上陸して水を補給することにし、まずは百合若の側近の家来が島に上陸し、島を調べてから他の家来たちに上陸するように伝えた。
また、側近は百合若と自分は島で一眠りするから、皆も休むように言うと、家来たちは久々の陸に喜んで騒がしく遊び回った。そこで側近はうるさくて寝られないから船に戻るように言って家来たちを船に戻した。しかし、百合若はぐっすりと眠っていて起きる気配が全く無かった。そこで側近は百合若の腹帯と刀を奪って何食わぬ顔で船に戻り、船を出向させて江戸には行かず、自分の国へと帰っていった。
国に戻った側近は、百合若の妃に"百合若は無人島で死んだが、死ぬ時に妻はお前にやるから後のことを頼むと遺言を残した"と嘘を告げると、妃は百合若の死を疑って側近の妻になることを拒んだ。これに他の家来も三年の忌晴まで待ってはどうかと進言したが、側近は聞かずに強引に百合若の妃を自分の妻にしてしまった。その後、側近が百合若の立派な愛馬に乗ろうとした時に、馬が荒ぶって手に負えないほど暴れたので、側近は黒鉄の厩を造ってその中に閉じ込めてしまったという。
一方で、無人島で7日間も眠り続けた百合若は、目覚めた時に辺りに人の気配が無かったので側近に謀られたと思ったが、国に帰る手立てがなかったので、海に入って貝を拾って飢えを凌ぎ、長らく無人島で暮らしていた。その後、島の沖に大きな船が通ったので、百合若は出せる限りの大声で助けを求めた。しかし、百合若の姿は人に見えないほど酷い有様だったので、船の者たちは鬼と疑って乗せるのを躊躇した。
しかし、もし人だったらと哀れに思って"まずは近づいてみて櫂の上に米粒を3つほど置いて差し出す。もし人ならば米をいつまでも噛んでいるが、鬼ならば丸飲みにしてしまう。これで見分けようではないか"と相談して、船を島に近づけてそのようにした。この時に百合若は髪や髭が伸び放題になった人と呼べる代物ではなかったが、米粒を取って味わうように噛みしだいていたので、船の者たちは人だと判断して船に乗せてやることにした。
そこで百合若が素性を明かして事情を話すと、船の者たちは驚いて側近に乗っ取られた後の国の事情を教えた。これを聞いた百合若は国を取り返すことを固く決意し、船の者たちの手厚いもてなしもあって徐々に威勢を取り戻していった。ただ、髪や髭は伸び放題のままにしておき、身分を偽って国に戻ることにした。
それから国に戻った百合若は、自分の館の隣の家を訪ねて馬の草刈りか庭掃きの役目が欲しいと頼むと、その家に下人として雇われることになった。その家のものは百合若の身なりを見て馬鹿にしていたが、その仕事ぶりが凄まじいものだったので、一目も、二目も置いたという。
その翌日、百合若は近隣の草刈りの者と一緒に仕事に向かい、そこで大鎌で草を刈る役を買って出た。その仕事は草刈りの中でも辛いものだったので、皆は喜んで刈られた草を集める役目を負った。すると、百合若は並の人の三倍もの仕事量をこなしたので、近隣で評判になった。この評判がかつての側近の耳に入ると、側近は隣家に百合若のことを譲ってくれと頼んだので、これを百合若に話すと、百合若はこれを了承した。
こうして百合若がかつての自分の館に帰ると、刈った草を馬にやりたいと申し出た。そこで黒鉄の厩に向かうと、馬番が"ここの馬は近づけば噛み付くから草を投げて与えよ"と教えたが、百合若は構わずに厩の中に入っていき、馬の耳元で"お前は主人を忘れたのか"と囁くと、たちまち馬は鼻をこすりつけてきたので、百合若は馬を引いて庭に出た。これに馬番は驚いたが、百合若は鞍と鞭を貸してくれるように言うと、家の者がそれを持って来たので、百合若は馬に跨って庭を三度乗りまわって見せた。そして、馬を降りて優しく撫でてやると、馬は嬉しそうに嘶いたという。
それから、百合若は馬番に弓を貸してくれるように頼むと、馬番は武器番に馬を乗り回した話をした。これを聞いた武器番は、そのような者ならばこれを貸してやれと言って、鋼鉄で作られた弓矢を持ってきた。そこで百合若が弦を引き絞って調子を確かめると"この館の主人の皿に兆度良い鳥がいるので射ち取って見せよう"と言って、鋼鉄の弓矢を構えて館の方を狙った。
これを見た武器番は、それが百合若だと気付くと、百合若は"雌の鳥はどけ、雄の鳥は出よ"と大声で言った。この大声によって側近が鳥を探しに庭に出て来たので、百合若は"雄の鳥とはお前のことだ"と言って側近に向けて矢を射放つと、一矢で側近を射殺してしまった。こうして百合若は自分の館を取り戻し、妃と共に睦まじく暮らしたという。
沖縄の百合若大臣(沖縄県)
昔、都に百合若大臣という若者がおり、美しい妻と共に暮らしていた。百合若は武芸に優れた者であったが、眠り始めると7日間眠り続けるという妙な癖があった。また、百合若の家来には美しい妻を自分のものにしようと考えて、百合若の命を狙っている者がいた。
ある時、百合若が家来を連れて船旅に出ていた時のこと、百合若はいつものように長い眠りに就いてしまった。すると、百合若の命を狙っている家来が、密かに百合若をイカダに乗せかえて海に流してしまった。やがてイカダは宮古の水納島に流れ着いたが、当時は無人島だった。そこで百合若は刀で貝を掘って、それを食べて飢えを凌ぎ、貝殻に溜めた雨水を飲んで喉を潤した。すると、最初は6尺(約182cm)あった刀も5寸(15cm)にまで削れてしまったという。
それから、百合若は島の近くに船が通るのを待って暮らしていると、ある時に大きな船が通ったので岩に上がって出せる限りの大声で助けを呼んだ。すると、船員は百合若の姿に気付いたが、髪や髭はボウボウに伸び、着物も着物と呼べないほどにボロボロだったので、船員は化け物だと思って乗せるのを嫌がった。それでも百合若が必死に頼むと、船員は船に乗せることを許したので、百合若は都の屋敷に帰ることができた。
百合若が屋敷に入ろうとすると、門番は変わり果てた百合若の姿に本人だと気づかず、曲者として追い返すので、百合若はどうにかして自分の屋敷に忍び込んだ。すると、自分の屋敷の主人となっていたのは自分を島に流したかつての家来であった。そこで、百合若は屋敷に置いた自分の鎧兜を身に付け、この姿を忘れたか、と家来に言い放って その場で斬り伏せると、屋敷に閉じ込められていた妻を助け出して幸せに暮らしたという。
スポンサーリンク