珍奇ノート:あまんじゃこの伝説



播磨国のあまんじゃこ(兵庫県多可郡多可町)


昔、播磨国にアマンジャコという者がいた。このアマンジャコは、人の言われたことに逆らってワザと逆のことをするようなひねくれ者で、悪戯好きでもあり、アマンジャコの仲間も同じような性格をしていた。また、凄い力持ちで、その身体も巨大であったことから、歩けば天に頭をぶつけてしまうため、いつも屈んで這うように歩いていた。そこで、アマンジャコはいつも背伸びして歩ける場所を探しており、国中を巡り歩いていたのであった。

ある時、アマンジャコが多可郡にやって来ると、此処は天が随分高かったので、両手を上げて思い切り背伸びをした。屈まなくても良いことに喜んだアマンジャコは「本当に高いところだ」と何度も繰り返して言った。これにより、この土地は多可と名付けられたという。この土地を気に入ったアマンジャコは住処を移して此処に住み着くようになり、この土地で色々な悪戯をするようになったという。

ある日のこと、アマンジャコは「妙見山からだいぶ離れた笠形山に一夜にして橋を架ければ、村人たちは さぞ驚くだろう」と考えて、日が暮れると早速 作業に取り掛かることにした。的場の辺りまで歩いて行くと、右手で妙見山に石を積み、左手で笠形山に石を積み上げていって、あっという間に土台を完成させた。あとは丸太を渡せば橋を出来上がるという状態だったが、そんなに巨大な大木は何処を探しても見つからなかった。このままでは朝が来てしまうと焦ったアマンジャコは山々を巡って大木を探し回ったが、とうとう一番鶏が鳴いてしまったので、慌てて山中に逃げ込んでしまったという。

その後、アマンジャコは橋を完成させようと夜な夜な山に出かけていたが、ある時に村人たちが田んぼの中に立ち、頭を下げて祈っている姿を見た。不思議に思ったアマンジャコが様子を窺っていると、どうやら村人たちは神様に祈って雨乞いをしているらしい。そこで、悪戯心を出したアマンジャコは「何をバカなことを言っているんだ。そんなに雨がほしいなら火の雨を降らせてやろう」と山が響くほどの大声で怒鳴ると、村人たちは驚いて走り去ってしまった。その様子があまりに面白いので、アマンジャコはこれを何度も繰り返したという。

それからも村人たちは田んぼで雨乞いを続けたが、その人数はだんだんと減っていった。また、中には「天に祈ってなんになる、神などあるものか」と言う者も出てきたが、その者は喚いた後に突然倒れてしまった。そのように喚いては倒れてしまう者が日毎に増えていった。これを見たアマンジャコは悪戯しようと何かを思い付き、ある夜に笠形山の大岩を砕いて太い縄で縛り、それを村々に引きずって回った。その時には地響きのような音が響き渡ったので、村人たちは神の祟りだと思って家の外に出てこなくなった。しかし、アマンジャコが大岩を引きずった場所は、土が深くえぐれて川が出来上がっていたという。

さらにアマンジャコは山寄上から村々を巡って、どの田にも供物を供えて回った。それから夜が明け始める頃には川に水が流れてきていたので、アマンジャコはその水の流れを見ながら山に帰ろうとすると、付近の村々から人々の喜び合う声が聞こえてきた。その声は段々と広まって、やがては山鳴りのように響いたという。その後、水を得た村々では作物が良く育ち、毎年 豊かに暮らすことができた。しかし、いつしかアマンジャコは姿を消してしまい、架けようとした橋も未完成のままで投げ出してしまった。その跡が笠形山の登山道にある石柱だといわれている。

あまんじゃこの腰掛石


アマンジャコとは『播磨国風土記』に出てくる大男で、あまりに背が高くて頭が天につかえるので、常に腰を屈めて歩いていた。南の海から北国に向かう途中で多可町辺りに到った時、急に空が高くなって背伸びをすることができるようになったので、喜んだアマンジャコは「ここは空が高いぞ」と叫んだ。それが多可郡(たかのこおり)の語源になったといわれている。

ある夜、アマンジャコは田植えの終わった田んぼに豊作を祈願する祭りをしながら歩いていた。そこで加美区鳥羽から中区曽我井まで来た時に、石に腰掛けて一服したいたら夜が明けてしまった。よって「田祭り」という行事は曽我井よりも北でしか行われないと伝えられている。

『播磨国風土記』


託賀郡(たかのこほり)。

託賀と名付けられた所以は、昔 大人(おほひと=巨人)がおり、常にかがんで歩いていた。この大人が、南海から北海に到り、そこから東に巡行した時に この土地に到って「他の土地は低かったので常にかがんで歩かなければならなかったが、この土地は高いので背を伸ばして歩くことができるな」と言った。故に託賀郡という。その大人の足跡の多くは沼になったという。