珍奇ノート:牛御前の資料



浄瑠璃『牛御前伝説』


平安時代に源満仲という武将がいた。この娘は異形の姿で、鬼の顔に牛のような角を持っていたので、満仲は娘を嫌って女官の須崎に殺すよう命じた。しかし、須崎は娘を哀れに思い、山中に連れ出して密かに育てることにした。

山で育った牛御前は凄まじい力を持つようになったが、ふとしたことで生存が露見したので、源満は怒って息子の頼光に始末するよう命じた。その一方で、実の父から命を狙われていることを知った牛御前は、怨みあまりに牛鬼に変じ、関東に下って鬼の国を作ろうとした。

そこで頼光は四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)と共に軍を起こして関東の牛御前を攻めた。この時、坂田金時だけは牛御前に同情して積極的に参戦しなかったという。この後、頼光の軍勢に追い詰められた牛御前は、自ら浅草川に身を投げて身の丈10丈もの化物へと姿を変え、周辺を水没させたという。

古浄瑠璃『丑御前の御本地』


第62代村上天皇の御世、清和天皇の5世孫の多田満仲(源満仲)という者がいた。その子の頼光は文武両道の者で、讒言によって流浪の身となっていたが、その疑いも晴れ、信濃国の土器山の鬼神を生け捕り、藤原仲光・渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武などの多くの兵が仕えるなど、日に日に勢いを増していた。

その頼光の御舎弟(実弟)に丑御前という者がいた。これは、その母が夢の中で北野天神が胎内に入る様を見た後、3年3ヶ月かけて天慶4年辛丑の3月25日の丑の日 丑の刻に産んだ子である。故に丑御前と名付けられた。丑御前は生まれた時から歯が生え揃い、髪は四方に黒く伸び、両目は朝日のように輝き、まさに鬼神のような有様だった。よって、父の満仲はすぐに殺そうと考えて、藤原仲光に殺すよう命じた。しかし、母は丑御前を愛する思いが強く、丑御前を大和国の金峯山に隠し、荒須崎という大力の女官に命じて密かに育てさせた。

丑御前が15歳になる頃には、背が高く、色は白く、力は限りなく強くなり、怒って睨めば空を飛ぶ物も地を這う物も皆揃ってすくみ上がるほどであり、韋駄天のように足も速かったので、とても我儘に暮らしていた。その後見は、育ての親である荒須崎カツマと夫の荒尾の庄司高正であり、この2人の嫡子は日の熊宗トラである。日の熊は18歳であり、親子3人揃って大力無二の曲者で、人を人とも思わず、丑御前によく仕えて敬っていた。

ある雨の日、丑御前は荒須崎に「私は どうしてお前たちの手によって育てられ、育ての親であるにもかかわらず、家臣として私を敬うのか?私の実の父母は何者だ?もしや武士として軍におり、殺されて家を失ったのではないか?それならば、私は父の仇の首を取り、それを以って弔いたいのだ」と言った。すると、荒須崎は「よくぞ問うて下さいました。あなたの父君は日本に肩を並べる者はないほどの武士ですが、あなたの誕生の時にお怒りになられたので、母君が この須崎に預けられたのです」と答えた。

その後、丑御前は日の熊を連れて金峯山に参詣に行った時、蘇我稲目の末孫のサカ原の大臣とその家来に遭遇した。丑御前は我儘な若者だったので、家来たちを足蹴にして「我こそは清和天皇の5世孫の多田満仲の次男の丑御前である。馬上の無礼者よ、我身をよく見よ」と言い、馬の手綱を引き千切った。そこで家来たちは総出で丑御前にかかってきたので、丑御前と日の熊は太刀を抜いて、これを散々に斬り散らした。さらに荒須崎が乱入して大臣の乗った馬を掴んで投げ、大手を広げて散々に打ち散らした。彼らの勢いに肝を潰した大臣一行は、館に向かって逃げ帰った。

大臣は恥辱を受けたことを悔いて、この出来事を内裏に奏聞した。これを知った帝は、満仲の子は頼光ただ一人だと思っていたので、驚いて怪しみ、急いで満仲を内裏に呼び寄せた。満仲が参内すると、帝は「このようなことがあったので、すぐに丑御前を東国の果てに流せ」と命じた。

この後、満仲は宿所に帰って すぐに家来を呼び集めて事情を尋ねた。すると、藤原仲光が丑御前についての全てを白状したので、満仲は激怒して「仲光は忠孝の者ではない。我が命令を聞かずに悪事を成し、我が家の危機を招いたので、7代までの勘当とする」と申し付けたので、仲光はすごすごと去っていった。

その時に仲光は「かつて美女御前※の命の我が子の命と代え、今度は丑御前の身を我が身と代えたが、これらは臣下の望む所」と言って、髪を切って行き先も告げずに出ていったので、皆は驚いて止めることもできなかった。この後、満仲は「丑御前を謀って東国の果ての下総に流してしまおう」と考えて、渡辺綱を遣わせて荒須崎を呼び出した。

※美女御前:満仲の息子。仲光は殺すよう命じられたが、我が子を身代わりに逃した(謡曲『仲光』を参照)

それから満仲と家臣たちは評定を開いて思案を巡らせたが、その中で坂田金時だけが沙汰を聞き入れずに「丑御前の成したことは、流石は清和天皇の6代目と言える。あのサカ原大臣は公家の中でも無礼者で、この金時が手を下して首をねじ切ってやろうと思っていた」と言うと、満仲は「金時よ、禁裏における出来事は お前とは関わりのない事、宣旨に背けば位や家も失い、身を果たすことになる。荒事も事と次第によるのである」と答えた。

すると、金時は「満仲様は仁義礼智信にとても深い方であるので、公家のサカ原大臣の讒言によって父子共に難を受けておられるのに、それでも神や仏のように帝を敬われる。この件で遺恨を残すのであれば、内裏も帝もどうでもよい。一条・二条・近衛・関白どもなど片っ端から踏み潰して東国に押し込め、満仲様が天下の主となられればよい」と言うと、綱は「天子をそのように成せば、世の中は闇のように暗くなり、満仲様は朝敵の名を受けて記録にも悪名が残ることになろう。今回はとにかく宣旨のままに丑御前をひとまず東国にお移しするのだ」と言って諌めた。しかし、金時は「このまま丑御前を謀って流人の身とすれば、その名は朝敵として記録に残ることになる。この金時は、そのような詮議は聞きたくもないし、見たくもない」と言って、耳を塞ぎ、口を閉じて黙ってしまった。

その時、障子を隔てて聞いていた荒須崎は「いかなる理由で私を此処に呼び出したのでしょうか」と問うと、満仲は「荒須崎とはお前のことか、あの丑御前は悪事を為したので詫びさせなければならない」と答えた。すると、荒須崎はカラカラと笑って「あの若君は一体 誰の御子だというのです?丑御前は貴方の御子でございましょう。金峯山の出来事は相手の無礼が始まりで、若君は尊い身分のお方でありながら、日陰者として編笠を深く被られていたのです。それ故に相手に礼儀を為させ、さもなくば即座に無礼討ちと為そうとしたのです。それを深く咎めて東国の果てに流すとは情けない。いつかは国の主になられると願っていましたが、このような難儀に遭うとは…この上は東国であろうと高麗・契丹であろうと、若君の住まわれる所こそ若君の都、この辛き父親の仕打ちは腹立たしく口惜しい…」と袂を顔に押し当てて、さめざめと泣いた。

そこで綱と貞光は言葉を添えて「荒須崎よ、若君は今はひとまず東国にお移しして、後に時節を待ってから帰洛させれば良いではないか。今回は満仲様の言う通りにして都を下りたまえ」と諌めたが、荒須崎は眼を怒らせて「この上は、例え赦免があろうとも、この国には戻るまい。知りもしない東国こそ、若君や荒須崎の果てる所である。やがて方々が我らを討ちに来られた時には、積もる恨みを申し上げよう」と言い、満仲を睨んで「思えば無念、腹立たしい」と歯噛みした。その様は荒ぶる夜叉のようであり、座敷を蹴り立って帰っていった。

その後、荒須崎は涙ながらに家に帰り、夫の庄司に事の次第を伝えた。すると、庄司は「是非もなし、この期に及んでは、我ら夫婦は命を懸けて東国の軍兵と手を結び、東国33ヵ国を味方に付け、東の御所とするしかない。まずは都を静かに下ることにしよう」と夫婦で内嘆しつつ、丑御前の前に出ていった。そこで丑御前が「荒須崎よ、急な呼び出しで何かあったか?」と問うと、荒須崎は「満仲様は若君のお住いを東にお移しせよとの事で、吉日を選んで此処を出ることとなりました」と答えた。丑御前は これを謀りとは思わずに「それはめでたい、吉相である。吉日を待たずともすぐに下るべきだ。さあ、早く早く」と言ったので、荒須崎は涙を堪えかねた。

それから丑御前と荒須崎の一家は、船に乗って東国へと向かった。そして、東国の地に到着して丑御前が振り返ると、都を出る時は多くの下人が居たにもかかわらず、東国にはわずか一艘の船を残して他は悉く帰っていた。そこで、丑御前は日の熊に「弓矢を渡せ」と命じたが、渡された矢筒の中には1本の矢も入っていなかった。丑御前はどうしたことかと歯噛みしたが、その甲斐もないので、これは無念と大変乱れて「公家も内裏も片っ端から踏み殺し、恨みの程を知らせてやる」と大いに悔やんだ。

その後、丑御前の一行はやがて武蔵に差し掛かり、三田の城、霞が関、江戸などを過ぎて行くと、鳥森に小さな宮(鳥森神社)があった。そこで丑御前は里人に社のことを尋ねると、里人は「この稲荷大明神は、俵藤太(藤原秀衡)が建立されたものです。彼が平将門を討とうと祈請して、本望を遂げたという霊験あらたかな大明神ですので、どうぞ祈ってください」と答えた。これを聞いた丑御前は「あの将門を討たれたもうた大明神とは、その神慮はあらたかである。私は東国に下り、平将門ではないが、豊嶋の内裏としてかしづくことにしよう。どうか必ず私を守り給え、もし神慮を違えば、宮も社壇も微塵に打ち砕き、元の野原へと変えてやろう。神力があるならば、ここで見せ給え」と言って、大木に手をかけると、不思議なことに宮の中から2匹の白狐が現れて、尾を振って戯れ始めた。これを見た丑御前は笑って「私の住むべきところまで付き添いたまえ」と言って、豊嶋の郡から渡しの船に乗って、入間川の向かいにある森にやって来た。なお、鳥森の社は下総の住人によって厳しく守られた。

その後、下総に住む大田原判官が早打ちで内裏に奏する事によれば「満仲の次男の丑御前が自らを豊嶋の帝と称し、関八州を味方につけて謀反を企てている」ということだった。これに帝は大変驚き、満仲を呼び出して「5万の兵を与えるので、すぐに丑御前を誅伐せよ」と命じた。これに満仲は「早速、奴の首を刎ねて、御心慮を安らかにしまよう」と承って、子の頼光を大将に任じ、四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)に総勢7万の兵を副えて東国に向けて出陣させた。その一方で、丑御前もまた兵を各所からかき集め、都に向けて攻め上った。そして、頼光の軍勢は武蔵国の三田の城に陣を敷き、丑御前の軍勢は鈴ヶ森に陣を敷いて戦が始められた。

霞ヶ関の戦では、貞光が荒尾の庄司を討ち取ったので、これを見ていた日の熊は父の仇の貞光を血眼になって追いかけた。そこで綱が貞光を助けようとしたが、夫を討たれた荒須崎もやって来て、大木をねじ切り、母子で協力して敵兵を散々に打ち散らした。これに流石の綱・季武・貞光も敵わずに退却を余儀なくされ、頼光の御供をして武蔵から引き上げた。これに関東の兵は勝鬨を上げて、豊嶋の都に引き上げていった。

その頃、金時は戦に参加せず、山伏の姿になって江戸の城に忍んでいたが、霞ヶ関で綱らが敗走したと聞き、このまま戦で丑御前が死ぬのは残念だと思って「私は丑御前とは酒宴の相手をするほど仲が良いので、これより相手の陣へと入り込み、家臣2人の首を取り、丑御前を生け捕りましょう」と言って、葛西にある丑御前の御所へと向かった。

金時は軍勢を率いて丑御前に近づき、軍勢を隠して山伏姿で丑御前の元に向かうと、その時には既に酒宴が始まっており、丑御前の軍兵は鎧を脱いで歌を奏でていた。そこに金時は堂々と入っていき、丑御前と対面して事の次第を伝えると、丑御前は「お前の気持ちは嬉しいが、事ここに至っては、戦にて決着をつけるのが筋であろう。それはともあれ、都より来た酒の絶えたる金時に酒を盛り給え」と日の熊に命じた。

日の熊が大きな器に酒を注いで持ってくると、金時は使命を忘れて大喜びし、これを一息で飲み干した。すると、丑御前は笑って「酒を好む金時は、まさに東なる荒きえびすである。さあ、肴を用意せよ」と命じると、美しい女房たちが現れて東踊りを始めた。女房たちが歌いながら2,3度踊ったかと見れば、その姿は野干(狐)の姿へと変わり、忽ち消え失せた。すると、流石の金時も興が冷め、使命を思い出して去ろうとしたが、丑御前は日の熊に「金時を討ち取れ」と命じたので、その場で戦が始まった。

すると、金時が隠していた四天王を始めとする軍勢が鬨の声を上げながら攻め込んできたので、丑御前の軍勢は散り散りになり、日の熊も金時によって討たれてしまった。こうして丑御前は遂に荒須崎と2人だけになってしまったので、丑御前は水に分け入って身の丈10丈(30.3m)の巨大な牛となり、都の軍勢に向けて入間川の水を吹きかけて溺れさせた。また、荒須崎は屈強な敵兵を7,8人ほど引っ掴んで浅草川(隅田川)に沈み、その一念は雷となって都に向かって飛び去った。頼光らはこれを見て、前代未聞の有様だと思い、都に向かって逃げ帰っていった。また、丑御前の一念は天に通じて長雨となって民の憂いとなった。

その後、荒須崎夫妻は須崎明神として祀られて、今でも8月8日に神事を為すようになった。また、入間川には牛の姿の丑御前が時々現れるようになったという。