珍奇ノート:赤龍の資料



『墨子』貴義(紀元前4世紀〜紀元前3世紀頃)


原文

且帝以甲乙殺青龍於東方、以丙丁殺赤龍於南方、以庚辛殺白龍於西方、以壬癸殺黑龍於北方。

現代語訳

(墨子は言った)「そもそも、天帝は甲・乙の日には東方で青龍を殺し、丙・丁の日には南方で赤龍を殺し、庚・辛の日には西方で白龍を殺し、壬・癸の日には北方で黒龍を殺すという(占いがある)。」

『春秋繁露』求雨(紀元前2世紀頃)


原文

春求雨。……以甲乙日為大蒼龍一、長八丈、居中央。為小龍七、各長四丈。於東方。皆東鄉、其間相去八尺。小童八人、皆齊三日、服青衣而舞之。……夏求雨。……以丙丁日為大赤龍一、長七丈、居中央。又為小龍六、各長三丈五尺、於南方。皆南鄉、其間相去七尺。壯者七人、皆齊三日、服赤衣而舞之。

現代語訳

「春の雨乞いにおいては、甲乙の日を選び、長さ八丈(約18m)の大蒼龍を一体作り、中央に配置する。さらに長さ四丈の小龍七体を東方に配置する。龍はすべて東を向かせ、それぞれ八尺の間隔を置く。三日間の物忌みをした八人の少年が、青い衣を纏ってこれ(龍)を囲んで舞うのである。……(中略)……夏の雨乞いにおいては、丙丁の日を選び、長さ七丈(約16m)の大赤龍を一体作り、中央に配置する。さらに長さ三丈五尺の小龍六体を南方に配置する。龍はすべて南を向かせ、七尺の間隔を置く。三日間の物忌みをした七人の屈強な男たちが、赤い衣を纏ってこれを囲んで舞うのである」

『淮南子』墬形訓(紀元前2世紀頃)


原文

壯士之氣、御於赤天、赤天七百歲生赤丹、赤丹七百歲生赤澒、赤澒七百歲生赤金、赤金千歲生赤龍、赤龍入藏生赤泉、赤泉之埃上為赤雲、陰陽相薄為雷、激揚為電、上者就下、流水就通、而合於赤海。

現代語訳

(万物の生成と循環の過程について)「血気盛んな勇士の精気は、天の南方(赤天)を統べる。赤天は七百年経つと赤丹(しんしゃ)を生み、赤丹は七百年経つと赤澒(水銀)を生み、赤澒は七百年経つと赤金(銅、または赤金)を生む。その赤金が千年の時を経ることで、ついに赤龍へと変化するのである。赤龍が地中深く(蔵)に隠れると赤泉(赤い泉)が湧き出し、赤泉から立ち昇る塵は赤雲となる。そこで陰陽の気が激しくぶつかり合って雷となり、火花が散って稲妻となる。天にあるものは雨となって地上へ降り注ぎ、流れとなって四方に通じ、やがては赤海(南方の海)へと合流するのである」

『史記』高祖本紀(紀元前1世紀頃)


原文

高祖以亭長為縣送徒酈山、徒多道亡。自度比至皆亡之、到豐西澤中、止飲、夜乃解縱所送徒。曰:「公等皆去、吾亦從此逝矣!」徒中壯士願從者十餘人。高祖被酒、夜徑澤中、令一人行前。行前者還報曰:「前有大蛇當徑、願還。」高祖醉、曰:「壯士行、何畏!」乃前、拔劍擊斬蛇。蛇遂分為兩、徑開。行數里、醉、因臥。後人來至蛇所、有一老嫗夜哭。人問何哭、嫗曰:「人殺吾子、故哭之。」人曰:「嫗子何為見殺?」嫗曰:「吾子、白帝子也、化為蛇、當道、今為赤帝子斬之、故哭。」人乃以嫗為不誠、欲告之、嫗因忽不見。後人至、高祖覺。後人告高祖、高祖乃心獨喜、自負。諸從者日益畏之。

現代語訳

(劉邦がまだ亭長であった頃)彼は徒刑囚たちを酈山へ護送していたが、多くが途中で逃亡した。劉邦は自分も処罰を免れないと悟り、沼沢地で酒を飲んだ後、夜になって囚人たちを解放し、「お前たちは皆去れ。私もここから去る」と言った。十数人の勇士が彼に従うことを望んだ。

劉邦は酒に酔ったまま夜の沢地を進み、先行者を立てた。先行者は戻ってきて、「前方に大蛇が道を塞いでいます」と報告したが、劉邦は「勇士が進むのに何を恐れることがあるか」と言い、自ら進んで剣を抜き、大蛇を斬った。蛇は二つに分かれ、道は開けた。

しばらくして劉邦は酔って眠った。その後から来た者たちが蛇の場所に到着すると、一人の老婆が夜中に泣いていた。理由を尋ねると、老婆は「人が私の子を殺したので泣いている」と言った。さらに尋ねると、老婆は「私の子は白帝の子であり、蛇の姿となって道にいたが、今、赤帝の子に斬られてしまった。それゆえ泣いているのだ」と答えた。

人々が怪しんで問い詰めようとすると、老婆は忽然と姿を消した。後にこの話を聞いた劉邦は、密かに喜び、自らの運命に自信を抱いた。従者たちは日ごとに彼を畏敬するようになった。

『論衡』(1世紀頃)


奇怪


原文

奇怪:讖書又言:「堯母慶都野出、赤龍感己、遂生堯。」《高祖本紀》言:「劉媼嘗息大澤之陂、夢與神遇。是時雷電晦冥、太公往視、見蛟龍於上。已而有身、遂生高祖。」其言神驗、文又明著、世儒學者、莫謂不然。

現代語訳

「『讖書(預言書)』にはこう記されている。『堯の母である慶都が野外に出た際、赤龍の精気に感応し、そのまま堯を生んだ』と。また『高祖本紀』にはこうある。『(漢の始祖・劉邦の母である)劉媼がかつて大きな沼のほとりで休息していた際、夢の中で神(龍)に遭遇した。その時、雷鳴が轟き周囲は暗闇に包まれた。父の太公が見に行くと、彼女の上に蛟龍が乗っていた。その後、彼女は身ごもり、ついに高祖(劉邦)を生んだ』と。これらの話は神聖な証拠として語られ、文章も明白に残っているため、世の儒学者たちは誰もそれが間違いだとは言わないのである」

恢国


原文

恢國:……堯母感於赤龍、及起、不聞奇祐。禹母吞薏苡、將生、得玄圭。契母咽鷰子、湯起、白狼銜鉤。后稷母履大人之跡、文王起、得赤雀、武王得魚、烏。皆不及漢太平之瑞。

現代語訳

「堯の母は赤龍に感応して彼を産んだが、彼が即位する際には(漢のような)類まれな神助があったとは聞かない。禹の母はハトムギ(薏苡)を呑んで彼を産み、彼が即位する時には玄圭(黒い玉器)を授かった。契の母はツバメの卵を飲み込んで彼を産み、湯王が即位する時には白い狼が鉤を銜えて現れた。后稷の母は巨人の足跡を踏んで彼を産み、文王が即位する時には赤いスズメが現れ、武王は魚やカラスの瑞兆を得た。しかし、これらはいずれも、漢王朝が太平をもたらした際(劉邦や光武帝)に現れた数々の瑞祥には及ばないのである」

『列仙伝』陶安公(1世紀頃)


原文

陶安公者、六安鑄冶師也、數行火。火一旦散、上行、紫色沖天。安公伏冶下求哀。須臾、朱雀止冶上曰:「安公安公、治與天通。七月七日、迎汝以赤龍。」至期、赤龍到。大雨、而安公騎之東南、上一城邑、數萬人眾共送視之、皆與辭決云。

現代語訳

(神仙となった陶安公という人物について)「陶安公は(現在の安徽省)六安の鋳物師であった。たびたび火を扱って仕事をしていたが、ある朝、炉の火が激しく飛び散り、紫色の火柱が天まで届いた。安公は炉の下に伏し、神に慈悲を乞うた。すると、朱雀が炉の上に降り立ちこう言った。『安公よ安公、お前の技術は天に通じた。七月七日、赤龍をもって迎えに来よう』。その期日になると、果たして赤龍がやってきた。大雨が降る中、安公はその赤龍に跨って東南の方角へ空高く昇っていった。町中の数万の人々がそれを見送り、安公は皆に別れを告げながら立ち去っていったという」

『抱朴子』内篇 巻十五(4世紀頃)


原文

……又赤龍血、青龍膏、作之用丹砂、曾青水、以石內其中、復須臾、石柔而可食也。若不即取、便消爛盡也。食此石以口取飽、令人丁壯。……但為須得白石、不如赤龍血、青龍膏、取得石便可用。……

現代語訳

(穀物を断つ「辟穀」の法と、石を食べる仙術について)「……また、『赤龍血(せきりゅうけつ)』や『青龍膏(せいりゅうこう)』という薬液がある。これは丹砂(水銀の原料)や曾青(銅の鉱物)を水に溶かして作るものである。この液の中に石を入れると、たちまちのうちに石は柔らかくなり、食べることができるようになる。もしすぐに取り出さなければ、石は跡形もなく溶け去ってしまう。この(柔らかくなった)石を食べて満腹になれば、身体を非常に頑健にすることができる。……ただし、これには特定の白い石(白石)が必要だが、『赤龍血』や『青龍膏』があれば、手近な石をすぐに(食料として)用いることができるようになる。……」

『後漢書』(5世紀頃)


光武帝紀


原文

……建平元年十二月甲子夜上生時、有赤光、室中盡明。皇考異之、使卜者王長卜之。長曰:「此善事不可言。」……高祖自感赤龍火德、承運而起、……案圖讖、推五運、漢為火德。周蒼漢赤、水生火、赤代蒼、故上都雒陽。……徽熾尚赤、四時隨色。……高祖自感赤龍火德、承運而起。

現代語訳

「建平元年十二月甲子の夜、光武帝が誕生した時、赤い光(赤光)が放たれ、部屋の中は隅々まで明るくなった。父の南頓君はこれを不思議に思い、占い師の王長に占わせたところ、王長は『これは滅多なことでは口にできないほど、素晴らしい吉兆です』と答えた。……(中略)……高祖(劉邦)は自ら赤龍の精気に感応して火徳(火の属性)を得て、天命を受けて決起した。……図讖(予言書)を調べ五行の巡り(五運)を推算した結果、漢は『火徳』であると結論づけられた。周王朝は『蒼(木徳)』であり、漢は『赤(火徳)』である。水(あるいは木)が火を生むという理屈に基づき、赤が蒼に取って代わったのである。それゆえ、光武帝は(火の色にふさわしい)陽の地である雒陽を都とした。……旗の色は赤を尊び、四季の祭祀もそれに準じた。……高祖(劉邦)が赤龍の火徳に感じて立ち上がったその運命を、光武帝もまた継承したのである」

馮岑賈列伝


原文

光武乃召異詣鄗、問四方動靜。異曰:「……天下無主、宗廟之憂、在於大王。宜從眾議、上為社稷、下為百姓。」光武曰:「我昨夜夢乘赤龍上天、覺悟、心中動悸。」異因下席再拜賀曰:「此天命發於精神。心中動悸、大王重慎之性也。」異遂與諸將定議上尊號。

現代語訳

「光武帝は(即位の地となる)鄗(こう)に馮異を召し出し、各地の情勢を尋ねた。馮異はこう答えた。『(更始帝も敗れ)天下には主がおらず、国家の行く末は大王(光武帝)の双肩にかかっております。どうか諸将の意見に従い、上は国家のため、下は民のために帝位におつきください』。すると光武帝は言った。『私は昨夜、赤龍に乗って天に昇る夢を見た。目が覚めてからも、その衝撃で心臓の鼓動が止まらないのだ』。これを聞いた馮異は、即座に席を外して平伏し、祝辞を述べた。『それこそ天命があなたの精神に現れた証です。鼓動が激しいのは、大王が慎重な御性格だからに他なりません』。こうして馮異は諸将とともに、帝位(尊号)に就くための具体的な手続きを定めたのである」

『身延鑑』(18世紀〜19世紀初頭)


この神は、その本地を弁才天・功徳天女とする存在であり、鬼子母天の御子である。右手には施無畏の鍵を持ち、左手には如意珠の玉を持っている。北方の毘沙門天王の城である阿毘曼陀城妙華福光吉祥園に住んでいるため、吉祥天女とも呼ばれている。

この山を「七面」と呼ぶのは、この山には八方に門があり、鬼門を閉じ、聞・信・戒・定・進・捨・懺の七つを示し、七つの面を開いて、七難を払い、七福を授ける七不思議の神が住んでいることによるのである。

この神が末法における護法の神となった由来は、建治年間の頃のことであるという。聖人が読経していた庵室に、二十歳ほどの背の高い女性が、柳色の衣に紅梅色の袴を着て現れ、御前近くに座っていた。その様子を、大旦那の波木井実長や郎党たちが見て不審に思ったが、聖人は以前からその正体を知っており、その女性に「あなたはこの山中では見かけない人であるが、どこから日々参詣しているのか」と尋ねた。

すると女性は、「私は七面山の池に住んでいる者です。聖人のお経のおかげで三つの苦しみから逃れることができました。どうか結縁させてください」と答えた。そこで聖人は、輪円具足の大曼荼羅を授けた。

聖人が名を尋ねると、女性は「厳島女です」と答えた。聖人はそれを聞き、「それでは安芸国厳島の神女であるのだな」と言った。すると女性は、「私は厳島の弁才天です。霊山において約束した通り、末法の護法の神となるために現れました」と答えた。

聖人が「それでは、あなたの本来の姿を現しなさい」と言って、阿伽の花瓶を差し出すと、水にその影が映った瞬間、女性は一丈あまりの赤竜の姿となり、花瓶に巻き付いた。その光景を見て、実長や郎党たちは疑いの心を完全に晴らした。

やがて元の姿に戻ると、「私は霊山会上において仏から摩頂の授記を受けた。末法の世において法華経を受持する者には七難を払い、七福を与える。誹謗する者には七厄九難を与える。九万八千の夜叉神は私の眷属である。身延山において水・火・兵乱などの七難を払い、七堂を守護する」と固く誓い、再びこの池へと帰り住んだのである。

『五行大義』巻五 第二十一論五帝(6世紀末)


原文

故錄圖云。東方蒼帝。體爲蒼龍。其人長頭面。大角。……南方赤帝。体为朱鸟。……(中略)……春秋元命苞云。堯火精。故慶都感赤龍而生。……漢……高祖斬白蛇。而神母哭云。赤帝子殺我白帝子。

現代語訳

「『録図』によれば、東方の蒼帝(伏羲)はその本体が蒼龍である。ゆえにその人の姿は頭が長く、大きな角(または額の骨)が突き出している。……(中略)……『春秋元命苞』によれば、帝堯は火の精である。ゆえに母の慶都は赤龍に感じて堯を産んだ。……漢の時代……高祖(劉邦)が白い蛇を斬った際、神の母が泣いて『赤帝の子(赤龍の化身である劉邦)が、わが白帝の子を殺した』と言った。これらはすべて漢が火徳(赤龍の徳)であることの象徴である。」