珍奇ノート:長谷雄草紙 現代語訳



第一段


中納言の長谷雄卿は、九流にわたる学問を修め、百家におよぶ芸に通じ、世に重んじられた人であった。

ある日の夕暮れに参内しようとした時、目つきが恐ろしく只者ならぬ様子の見知らぬ男がやって来て「退屈しているので双六でも打ちたいと考えたところ、その相手は恐らく貴方以外に居ないだろう思ってやって来たのだ」と言った。

これに中納言は怪しく思いながらも"やってみたい"という気持ちが強まって「なかなか面白いではないか。さて、どこで打とうか」と言うと、男が「ここでは無く、我が家に行きましょう」と言うので、中納言は「そうしよう」と言って物にも乗らず、御伴も従えずに、ただ一人で男に付いて行って朱雀門の下に辿り着いた。

第二段


すると、男は「この門の上に登って下さい」と言った。これにどうやって登ろうかと思っていたが、男の助けによって容易く上ることができた。そして、半・丁と迎えて、男が「何を賭けましょうか?私が負けたならば貴方の御心に適う見た目も心も満足のいく女を差し出しましょう。ですが、貴方が負けたならばどうされます?」と言うので、中納言は「私は持っている財産をそのまま差し出しましょう」と言うと、男は「良いでしょう」と了承した。

それから双六を打っているうちに中納言が勝ち続けていると、男はしばらくは常人の姿であったものの、負ける毎に賽を掻き、心を砕かれるほどに元の姿を現して恐ろしい鬼の姿になったのであった。中納言は恐ろしいと思ったものの「そうはいっても、勝ちさえしなければ彼は鼠に過ぎないのだ」と心に念じつつ、双六を打っていると遂に中納言の勝ちで終わることになった。そこで、鬼は元の男の姿になって「今は貴方に及ばない。そうであっても、思いがけずに負けてしまったのだから約束の物を差し出さねばなりません。その日までしばらくお待ちを」と言って、元のように降ろしてくれた。

第三段


中納言はあさましく思っていたが、楽しみにしていた日がやって来ると、どんな女がやって来るのかと考えながら待ち続けていた。夜が更けた頃、例の男が輝くばかりの美女を連れてきて差し出したので、中納言も大変気に入って「この方をいただけるのかな?」と言うと、男は「左様でございます。負けて差し出したものですので、返してもらう必要もありません。ただし、今宵より100日過ごしてから打ち解けてください。もし、100日の内に犯してしまえば、必ず残念なことになりましょう」と言うので、中納言は「いかにも、おっしゃる通り」と言って、女を留めて男を帰した。夜が明けてから女を見ると見た目も心も美しかったので、中納言は「この世にこんな人がいるだろうか」と大いに怪しんだが、日々を経るにつれて一緒にいることも多くなり、やがて片時も離れようと思わなくなった。

第四段


こうして80日ばかり経ったところで、中納言は「今は日数も大分重ねた。必ず100日経たねばならないということもあるまい」と思うほど我慢に耐えられなくなり、犯そうとしたところ、女は水になって流れ失せてしまった。これに中納言はひどく悔やんで悲しんだが、何の甲斐も無かった。

第五段


それから3ヶ月ばかり過ぎた頃、夜更けに中納言が内裏から帰る途中で例の男と出くわすと、男は車の傍にやって来て「貴方は信義をお持ちで無かったようですね。素晴らしい心の持ち主だと思っていたのですが…」と言いながら気色を悪くして近づいて来たので、中納言は心を込めて「北野天神よ、助けたまえ」と念じると、空から「哀れな奴よ、さっさと去るが良い」という怒声が聞こえて来たので、男は掻き消すように失せてしまった。

この男は朱雀門の鬼であったのだ。また、例の女は諸々の死人の優れた部分を寄せ集めて人の形に作り成したもので、100日過ぎれば本物の人間になって魂が定まるはずであったが、残念なことに約束を忘れて犯そうとしたので、皆 溶け失せてしまったのである。これがどれほど悔しかっただろうか。