黄龍の資料

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『呂氏春秋』知分(紀元前3世紀頃)
原文
知分:禹南省、方済乎江、黃龍負舟。舟中之人、五色無主。禹仰視天而歎曰:「吾受命於天、竭力以養人。生、性也;死、命也。余何憂於龍焉?」龍俛耳低尾而逝。則禹達乎死生之分、利害之経也。凡人物者、陰陽之化也。陰陽者、造乎天而成者也。天固有衰嗛廃伏、有盛盈坌息;人亦有困窮屈匱、有充実達遂;此皆天之容、物理也、而不得不然之数也。古聖人不以感私傷神、俞然而以待耳。
現代語訳
(夏朝の)禹王が南方を巡視し、まさに長江を渡ろうとした時、黄龍が船を背負い上げた。船中の人々は恐怖のあまり顔色を失ってしまった。しかし禹は、天を仰ぎ見て嘆息してこう言った。
「私は天から命を受け、力を尽くして人々を養ってきた。生きることは(天から与えられた)本性であり、死ぬことは(天から定められた)運命だ。私がどうして龍ごときを憂い(恐れ)ることがあろうか。」
すると龍は耳を垂らし、尾を下げて去っていった。これは、禹が「死生の分(区別)」と「利害の筋道」を悟っていたからである。
およそ人間も万物も、すべては陰陽の変化によって生じる。その陰陽は天によって造られ、成るものである。天(の運行)に衰退や欠乏、盛衰や休息があるように、人間にもまた困窮や欠乏があれば、充実や立身もある。これらはすべて天のありようであり、物の理(ことわり)であり、そうならざるを得ない必然の運命(数)なのだ。古の聖人は、個人的な感情で精神をすり減らすことはせず、然るべきこととして淡々と運命を待つのである。
『春秋繁露』(紀元前2世紀頃)
王道
原文
王道:王者、人之始也。王正則元氣和順、風雨時、景星見、黃龍下。王不正則上變天、賊氣並見。……(中略)……民修德而美好、被髮銜哺而游、不慕富貴、恥惡不犯。父不哭子、兄不哭弟。毒蟲不螫、猛獸不搏、抵蟲不觸。故天為之下甘露、朱草生、醴泉出、風雨時、嘉禾興、鳳凰麒麟游於郊。
現代語訳
王とは、人の秩序の始まりとなる存在である。王が正しい政治を行えば、天地の気(元気)は調和し、風雨は順調に訪れ、めでたい星(景星)が現れ、黄龍が地上に降りてくる。反対に、王が正しくなければ、天に異変が生じ、災いの気が一斉に現れる。
……(理想的な治世では)民は徳を修めて心身ともに健やかになり、髪を解き、食べ物を口に含んで遊び歩き、富貴を羨まず、悪行を恥じて犯すこともない。父が子(の早死に)を嘆いて泣くことも、兄が弟を悼んで泣くこともない。毒虫は人を刺さず、猛獣は人を襲わず、角のある虫も人を突かない。ゆえに天は(それに応えて)甘露を降らせ、朱草が生え、甘い水の泉(醴泉)が湧き出し、風雨は時に適って、立派な穀物が育ち、鳳凰や麒麟が郊外を遊び歩くようになるのである。
求雨
原文
求雨:季夏禱山陵以助之。……為四通之壇於中央、植黃繒五。其神後稷、祭之以母五、玄酒、具清酒、膊脯。……以戊己日為大黃龍一、長五丈、居中央。又為小龍四、各長二丈五尺。丈夫五人、皆齊三日、服黃衣而舞之。……
秋暴巫至九日、無舉火事、家人祠門。為四通之壇於邑西門之外、方九尺、植白繒九。……以庚辛日為大白龍一、長九丈、居中央。為小龍八、各長四丈五尺、於西方。皆西鄉、其間相去九尺。鰥者九人、皆齊三日、服白衣而舞之。
現代語訳
(夏季の終わりの)季夏の雨乞いでは、山や丘に祈祷して助けを求める。……町の中心に四方に通じる祭壇を築き、五本の黄色の絹の旗を立てる。その神は(農耕の神である)後稷であり、五匹の雌の家畜、玄酒(水)、清酒、干し肉を供えて祭る。……(十干の)戊・己の日を選び、長さ五丈の「大黄龍」を一体作り、中央に配置する。さらに長さ二丈五尺の「小龍」を四体作る。五人の成人男性が三日間斎戒し、黄色の衣を着てこれを舞わせる。……
秋の雨乞いでは、巫女を九日間太陽にさらす。火を使うことを禁じ、家々では門の神を祀る。町の西門の外に、九尺四方の四方に通じる祭壇を築き、九本の白い絹の旗を立てる。……(十干の)庚・辛の日を選び、長さ九丈の「大白龍」を一体作り、中央に配置する。さらに長さ四丈五尺の「小龍」を八体作り、西方に配置する。これらはすべて西を向かせ、間隔を九尺とする。九人の独身男性が三日間斎戒し、白い衣を着てこれを舞わせる。
天地之行
原文
天地之行:一國之君、其猶一體之心也。……致黃龍鳳皇、若神明之致玉女芝英也。君明、臣蒙其功、若心之神、體得以全;臣賢、君蒙其恩、若形體之靜而心得以安。上亂下被其患、若耳目不聰明而手足為傷也;臣不忠而君滅亡、若形體妄動而心為之喪。是故君臣之禮、若心之與體、心不可以不堅、君不可以不賢;體不可以不順、臣不可以不忠。心所以全者、體之力也;君所以安者、臣之功也。
現代語訳
一国の君主とは、例えるなら一つの体の「心(しん:精神・心臓)」のようなものである。……(君主が徳政を行い)黄龍や鳳凰を招き寄せるのは、あたかも神霊が仙女や霊草(芝英)を招き寄せるようなものである。君主が明敏であれば、臣下はその恩恵を被る。これは心が冴えわたれば、体が健全に保たれるのと同じである。反対に臣下が賢明であれば、君主はその恩恵を被る。これは体が静穏であれば、心が安らぐのと同じである。上に立つ者が乱れれば下はその災厄を被るが、これは耳目が不自由であれば手足が傷つくのと同じである。臣下が不忠であれば君主は滅亡するが、これは体が勝手な動きをすれば心が失われるのと同じである。それゆえ君臣の礼とは、心と体の関係のようなものである。心は堅実でなければならず、君主は賢明でなければならない。体は従順でなければならず、臣下は忠実でなければならない。心が完全であるのは体の力によるものであり、君主が安泰であるのは臣下の功績によるものなのである。
封禪
原文
封禪:天下太平符瑞所以來至者、以為王者承統理、調和陰陽、陰陽和、萬物序、休氣充塞、故符瑞並臻、皆應德而至。……德至山陵則景雲出、芝実茂、陵出異丹、阜出蓮莆、山出器車、澤出神鼎;德至淵泉則黃龍見、醴泉通、河出龍圖、洛出龜書、江出大貝、海出明珠;德至八方則祥風至佳氣時喜、鐘律調、音度施、四夷化、越裳貢。
現代語訳
天下が太平となり、めでたい兆し(符瑞)が次々と現れるのは、王者が正統な統治を継承し、陰陽のバランスを調和させたからである。陰陽が調和すれば、万物は秩序正しく整い、素晴らしい気(休気)が満ち溢れる。ゆえに、めでたい兆しが一斉に現れるが、これらはすべて王者の「徳」に応えて至るものである。……その徳が山々にまで至れば、めでたい雲(景雲)が立ち上り、霊草(芝実)が豊かに実り、山から珍しい丹薬が現れ、丘からは蓮の形をした草(蓮莆)が生じ、山からは(宝物としての)車が現れ、沢からは神聖な鼎(神鼎)が出現する。徳が淵や泉にまで至れば、黄龍が姿を現し、甘い水の泉(醴泉)が湧き出し、黄河からは「龍図(河図)」が、洛水からは「亀書(洛書)」が現れ、長江からは大きな貝が、海からは光り輝く真珠が産出される。徳が八方の果てにまで至れば、吉祥の風が吹き、めでたい気が時に応じて訪れて人々を喜ばせ、楽器の音律は整い、音楽の調べが広まり、遠方の異民族(四夷)は教化され、越裳(ベトナム方面の古国)が朝貢してくるようになるのである。
『淮南子』(紀元前2世紀頃)
泰族訓
原文
精誠:老子曰:天設日月、列星辰、張四時、調陰陽。……其生物也、莫見其所養而萬物長;其殺物也、莫見其所喪而萬物亡。此謂神明。是故聖人象之、其起福也、不見其所以而福起;其除禍也、不見其所由而禍除。……故精誠內形、氣動於天、景星見、黃龍下、鳳皇至、醴泉出、嘉穀生、河不満溢、海不波涌。……故大人與天地合德、與日月合明、與鬼神合靈、與四時合信、懐天心、抱地氣、執沖含和、不下堂而行四海、変易習俗、民化遷善、若生諸己、能以神化者也。
現代語訳
老子は言う。天は日月を設け、星々を並べ、四時(四季)を広げ、陰陽を調和させている。……天が物を生み出す際には、いかに養っているか見えずとも万物は成長し、天が物を殺す(滅ぼす)際には、いかに失わせているか見えずとも万物は滅びる。これを「神明(不可思議な自然の働き)」と呼ぶ。ゆえに聖人はこの天のあり方に倣う。福が起きる際、なぜ福が起きたか見えずとも福は生じ、禍が除かれる際、なぜ禍が除かれたか見えずとも禍は消え去る。……
ゆえに、内なる「精誠(至純な誠の心)」が形づくられれば、その気は天を動かし、めでたい星(景星)が現れ、黄龍が地上に降り、鳳凰が至り、醴泉(甘い水の泉)が湧き、立派な穀物が育ち、河川は溢れず、海に荒波は立たなくなる。……こうして偉大なる人は天地と徳を合わせ、日月と明かりを合わせ、鬼神と霊妙さを合わせ、四季と信義を合わせる。天の心を抱き、地の気を保ち、虚心に和を保つことで、居室(堂)から出ずともその影響は四海に行き渡り、習俗を変え、民を善へと導く。それはあたかも自分の中から自然に湧き出すかのようであり、これこそが神妙な教化を成し遂げられる者なのである。
天文訓
原文
天文訓:何謂五星?東方、木也、其帝太皞、其佐句芒、執規而治春;其神為歲星、其獸蒼龍、其音角、其日甲乙。南方、火也、其帝炎帝、其佐朱明、執衡而治夏;其神為熒惑、其獸朱鳥、其音徵、其日丙丁。中央、土也、其帝黃帝、其佐後土、執繩而制四方;其神為鎮星、其獸黃龍、其音宮、其日戊己。西方、金也、其帝少昊、其佐蓐收、執矩而治秋;其神為太白、其獸白虎、其音商、其日庚辛。北方、水也、其帝顓頊、其佐玄冥、執權而治冬;其神為辰星、其獸玄武、其音羽、其日壬癸。……
現代語訳
五星(五つの惑星)とは何か。
東方は「木」に属し、その司る帝は太皞(たいこう)、補佐は句芒(こうぼう)であり、ぶんまわし(規)を手にして春を治める。その霊神は歳星(木星)、象徴する獣は蒼龍、音階は角、割り当てられた日は甲・乙である。
南方は「火」に属し、その帝は炎帝、補佐は朱明(しゅめい)、天秤(衡)を手にして夏を治める。その霊神は熒惑(けいこく:火星)、象徴する獣は朱鳥(しゅちょう)、音階は徴、日は丙・丁である。
中央は「土」に属し、その帝は黄帝、補佐は後土(こうど)、墨縄(縄)を手にして四方を統制する。その霊神は鎮星(ちんせい:土星)、象徴する獣は黄龍、音階は宮、日は戊・己である。
西方は「金」に属し、その帝は少昊(しょうこう)、補佐は蓐収(じょくしゅう)、指金(矩)を手にして秋を治める。その霊神は太白(たいはく:金星)、象徴する獣は白虎、音階は商、日は庚・辛である。
北方は「水」に属し、その帝は顓頊(せんぎょく)、補佐は玄冥(げんめい)、権(けん:分銅)を手にして冬を治める。その霊神は辰星(しんせい:水星)、象徴する獣は玄武、音階は羽、日は壬・癸である。……
墬形訓
原文
墬形訓:正土之氣也、御乎埃天、埃天五百歲生缺、缺五百歲生黃埃、黃埃五百歲生黃澒、黃澒五百歲生黃金、黃金千歲生黃龍、黃龍入藏生黃泉、黃泉之埃上為黃雲、陰陽相搏為雷、激揚為電、上者就下、流水就通、而合于黃海。
現代語訳
(中央を司る)正しき土の気は、埃天(かいてん:土の気が満ちた天)を統括している。
埃天は五百歳で缺(けつ:土の精)を生み、缺は五百歳で黄埃(こうあい:黄色い塵)を生み、黄埃は五百歳で黄澒(こうこう:黄色い水銀)を生み、黄澒は五百歳で黄金を生む。
黄金は千歳を経ると黄龍を生み、黄龍は地中深く(蔵)に隠れ住んで黄泉(こうせん)を生み出す。
黄泉の気が昇って黄雲となり、そこで陰陽がぶつかり合って雷となり、激しく飛び散って稲妻となる。上にあった雨は下へと降り注ぎ、流れる水は導かれて通り、やがて黄海へと合流するのである。
精神訓
原文
精神:人之所以楽為人主者、以其窮耳目之欲、而適躬体之便也。……禹南省方、済于江、黃龍負舟、舟中之人五色無主、禹乃熙笑而称曰:「我受命於天、竭力而労万民、生寄也、死帰也、何足以滑和?」視龍猶蝘蜓、顏色不変、龍乃弭耳掉尾而逃。禹之視物亦細矣。……故睹堯之道、乃知天下之軽也;観禹之志、乃知天下之細矣;原壺子之論、乃知死生之斉也;見子求之行、乃知変化之同也。
現代語訳
人が君主になりたがるのは、耳目の欲を尽くし、身体の安楽を求めるからである。……(しかし聖王たちは違った。)禹王が南方の巡視のために長江を渡った際、黄龍が船を背負い上げた。船中の人々は恐怖のあまり顔色を失ったが、禹はにこやかに笑ってこう言った。
「私は天から命を受け、力を尽くして万民のために働いている。生きることは仮住まいであり、死ぬことは(あるべき場所に)帰ることだ。どうして心が乱されることがあろうか。」
禹がその龍をまるでヤモリ(蝘蜓)のように見なして顔色ひとつ変えなかったため、龍は耳を垂らし、尾を振って逃げ去っていった。禹の目から見れば、龍のような巨大な怪物ですら、取るに足らない(細たる)ものだったのである。
……ゆえに、堯の道を見れば天下がいかに軽いものかを知り、禹の志を見れば天下(の怪物)がいかに些細なものかを知り、壺子の論を尋ねれば生と死が等しい(斉しい)ことを知り、子求の行いを見れば万物の変化がどれも同じであることを知るのである。
泰族訓
原文
泰族訓:故寒暑燥濕、以類相従;声響疾徐、以音応也。故『易』曰:「鳴鶴在陰、其子和之。」……故聖人者懐天心、声然能動化天下者也。故精誠感於内、形気動於天、則景星見、黃龍下、祥鳳至、醴泉出、嘉穀生、河不満溢、海不溶波。故『詩』云:「懐柔百神、及河嶠嶽。」逆天暴物、則日月薄蝕、五星失行、四時幹乖、昼冥宵光、山崩川涸、冬雷夏霜。……天之与人、有以相通也。
現代語訳
ゆえに、寒さと暑さ、乾燥と湿気はそれぞれ似た者同士で集まり、音の響きの速さや遅さは、同じ音階のもの同士で共鳴し合う。ゆえに『易経』には「親の鶴が陰(北向きの山陰)で鳴けば、その子もそれに唱和する」とある。……(このように)聖人とは天の心をその身に宿し、ひとたび声を発すれば天下を感化し動かすことができる者である。
ゆえに、内なる「精誠(至純な誠の心)」が内面に満ちて天を動かせば、めでたい星(景星)が現れ、黄龍が地上に降り、瑞祥の鳳凰が至り、醴泉(甘い水の泉)が湧き出し、立派な穀物が育ち、河川は氾濫せず、海には荒波が立たなくなるのである。ゆえに『詩経』には「(周の武王が)八百万の神々を安んじ、その徳は黄河や高い山々にまで及んだ」と記されている。
(反対に)天の理に逆らい、万物を損なうような暴政を行えば、日食や月食が起こり、五星(惑星)は軌道を外れ、四季の秩序は狂い、昼なのに暗く夜なのに光り、山は崩れ川は干上がり、冬に雷が鳴り夏に霜が降りるようになる。天と人とは、このように互いに通じ合っているのである。
要略
原文
要略:《泰族》者、横八極、致高乗、上明三光、下和水土、経古今之道、治倫理之序、総万方之指、而帰之一本……所以覧五帝三王、懐天気、抱天心、執中含和、徳形於内、以莙凝天地、発起陰陽、序四時、正流方……故景星見、祥風至、黃龍下、鳳巣列樹、麟止郊野。徳不内形、而行其法藉、専用制度、神祇弗応、福祥不帰、四海不賓、兆民弗化。故徳形於内、治之大本。此『鴻烈』之『泰族』也。
現代語訳
(『淮南子』の)「泰族(たいぞく)訓」が意図するところは、世界の果て(八極)まで横断し、最高峰の境地に達し、上は日月星辰を輝かせ、下は水土を調和させることにある。古今の道を貫き、倫理の秩序を整え、万般の方針を総括して、すべてを「一つの根本(道)」へと帰結させる。……五帝三王の治世を展望し、天の気を懐(いだ)き、天の心を抱き、中庸を保って調和を内に含めば、徳は内面に形づくられる。それによって天地の気を結集させ、陰陽を奮い立たせ、四季を秩序づけ、各方位の流れを正すのである。……
(そのような徳が極まれば)ゆえに、めでたい星(景星)が現れ、吉祥の風が吹き、黄龍が地上に降り、鳳凰は並び立つ樹々に巣を作り、麒麟は郊外の野に留まるようになる。もし徳が内面に形成されず、ただ法律や文書に頼り、制度のみを運用するならば、神霊はそれに応えず、幸福や祥瑞も訪れず、世界は服従せず、民衆も教化されることはない。ゆえに「徳が内面に形づくられること」こそが、統治の根本なのである。これが『鴻烈(淮南子)』における「泰族訓」の要旨である。
『史記』(紀元前1世紀頃)
孝文本紀
原文
孝文本紀:是時北平侯張蒼為丞相、方明律歴。魯人公孫臣上書陳終始傳五德事、言方今土德時、土德應黃龍見、當改正朔服色制度。天子下其事與丞相議。丞相推以為今水德、始明正十月上黑事、以為其言非是、請罷之。
孝文本紀:十五年、黃龍見成紀、天子乃復召魯公孫臣、以為博士、申明土德事。於是上乃下詔曰:「有異物之神見于成紀、無害於民、歳以有年。朕親郊祀上帝諸神。禮官議、毋諱以労朕。」……於是天子始幸雍、郊見五帝、以孟夏四月答禮焉。
現代語訳
(漢の文帝の時代、)その当時は北平侯の張蒼が丞相を務めており、ちょうど暦(律暦)を整備しているところであった。魯の人の公孫臣が上書し、「五行終始(五徳終始説)」の理を説いて次のように言った。「今はまさに『土徳』の時代です。土徳の兆しとして黄龍が現れるはずであり、正朔(暦)を改め、服の色や制度を一新すべきです」。天子(文帝)はこの件を丞相に諮ったが、丞相は「今はまだ水徳の時代であり、(水徳の象徴である)十月を年始とし、黒を尊ぶべきである。公孫臣の言は誤りだ」と主張し、その提案を却下するよう求めた。
(文帝)十五年、成紀の地に実際に黄龍が現れた。そこで天子は再び公孫臣を召し出して博士に任命し、土徳の理を詳しく説明させた。これを受けて天子は詔を下した。「異形の神(黄龍)が成紀に姿を現したが、民に害はなく、今年は豊作となった。私は自ら郊外に赴き、上帝や諸神を祀る(郊祀)ことにする。礼官たちは、私に苦労をかけまいと気遣って中止を提案したりせず、儀礼を検討せよ」。……こうして天子は初めて雍の地へ幸し、五帝を祀り、初夏の四月に感謝の礼を捧げたのである。
歴書
原文
歷書:至孝文時、魯人公孫臣以終始五德上書、言「漢得土德、宜更元、改正朔、易服色。當有瑞、瑞黃龍見」。事下丞相張蒼、張蒼亦学律歴、以為非是、罷之。其後黃龍見成紀、張蒼自黜、所欲論著不成。而新垣平以望気見、頗言正歴服色事、貴幸、後作乱、故孝文帝廃不復問。
歴書:十二大余四十、小余九百二十;大余四十八、小余二十四;祝犁作噩黃龍元年。
現代語訳
(前漢の)文帝の時代になると、魯の公孫臣が「五徳終始(五行の循環)」の説にもとづいて上書し、こう主張した。「漢は土徳(の運気)を得ております。ゆえに元号を改め、暦(正朔)を改正し、衣服の色を一新すべきです。その際には必ず瑞兆が現れるはずであり、具体的には黄龍が姿を現すでしょう」。この件は丞相の張蒼に預けられたが、張蒼もまた暦学を修めており、公孫臣の説を誤りであるとして却下した。ところが、その後実際に成紀の地に黄龍が現れた。張蒼は自ら(の説が間違っていたと認めて)身を引き、自ら執筆しようとしていた学説も完成させることはなかった。その後、新垣平が「気の流れを読む(望気)」術によって登用され、暦や服色の改正について盛んに説いて寵愛を受けたが、後に反乱を企てたため、文帝は暦の改正について一切問わなくなってしまった。
(暦の計算データとして:)十二(ヶ月の)大余は四十、小余は九百二十。大余は四十八、小余は二十四。祝犁作噩(しゅくりさくがく:干支の別名)にあたる黄龍元年のことである。
天官書
原文
天官書:南宮朱鳥、權、衡。衡、太微、三光之廷。……廷藩西有隋星五、曰少微、士大夫。權、軒轅。軒轅、黃龍體。前大星、女主象;旁小星、御者後宮屬。月、五星守犯者、如衡占。
現代語訳
南宮(南の空)は朱鳥(朱雀)であり、権(けん:はかり)と衡(こう:天秤)を司る。衡は「太微(たいび)垣」であり、日・月・五星の三光が政(まつりごと)を行う朝廷である。……その朝廷の囲い(藩)の西側には隋星(だ円状に並ぶ星)が五つあり、これを「少微(しょうび)」と呼び、士大夫(賢者や役人)を象徴する。
権は「軒轅(けんえん)」である。軒轅の星並びは、黄龍の体(をかたどったもの)である。その前方の大きな星は皇后(女主)の象徴であり、傍らの小さな星々は側室や後宮に属する者たちである。月や五星がこれらの星に留まったり侵したりした際の占断は、衡(太微)の場合と同様に行う。
封禅書
原文
封禪書:秦始皇既并天下而帝、或曰:「黃帝得土徳、黃龍地螾見。夏得木徳、青龍止於郊……。今秦変周、水徳之時。昔秦文公出猟、獲黒龍、此其水徳之瑞。」於是秦更命河曰「徳水」、以冬十月為年首、色上黒、度以六為名……。
封禪書:魯人公孫臣上書曰:「始秦得水徳、今漢受之、推終始伝、則漢当土徳、土徳之応黃龍見。宜改正朔、易服色、色上黃。」……罷之。後三歳、黃龍見成紀。文帝乃召公孫臣、拝為博士、与諸生草改歴服色事。其夏、下詔曰:「異物之神見于成紀、無害於民、歳以有年。朕祈郊上帝諸神……」於是夏四月、文帝始郊見雍五畤祠、衣皆上赤。
現代語訳
秦の始皇が天下を統一して帝位についた際、ある者がこう言った。「(古の)黄帝は土徳を得たため、黄龍や巨大なミミズ(地螾)が現れました。夏朝は木徳を得たため、青龍が郊外に留まりました。……今、秦が周に代わったのは水徳の時代だからです。かつて秦の文公が狩りに出て『黒龍』を捕らえたことこそ、水徳の瑞兆なのです」。そこで始皇は、黄河を「徳水」と改名し、冬の十月を年始とし、服の色は黒を最上とし、数は六を基準とし、法律を万事の根本とした。
(後に漢の時代、)魯の人の公孫臣が上書してこう述べた。「かつて秦は水徳を得ましたが、今それを継承した漢は、五行の循環から推せば『土徳』に当たるはずです。土徳の応え(兆し)としては黄龍が現れるでしょう。速やかに暦を改め、服の色を黄色に変えるべきです」。……(一度は却下されたが)その三歳(三年)後、実際に成紀の地に黄龍が現れた。文帝は公孫臣を召し出して博士に任命し、学者たちに暦や服色の改正案を起草させた。その夏、文帝は詔を下した。「異形の神(黄龍)が成紀に現れたが、民に害はなく、今年は豊作となった。私は自ら郊外で上帝や諸神を祀ることにする。……」こうして夏四月、文帝は初めて雍の五畤(祭壇)に幸して祭祀を行い、衣の色は(土徳の親にあたる火徳の)赤を尊んだ。
張丞相列伝
原文
張丞相列傳:蒼為丞相十餘年、魯人公孫臣上書言漢土德時、其符有黃龍當見。詔下其議張蒼、張蒼以為非是、罷之。其後黃龍見成紀、於是文帝召公孫臣以為博士、草土德之歷制度、更元年。張丞相由此自絀、謝病称老。……蒼為丞相十五歲而免。孝景前五年、蒼卒、謚為文侯。
現代語訳
張蒼が丞相となって十年余りが過ぎた頃、魯の公孫臣が「漢は土徳の時代にあります。その兆しとして、必ず黄龍が現れるはずです」と上書した。文帝は詔を下してこの件を張蒼に諮ったが、張蒼は(自らの学説と異なるため)誤りであるとして退けた。ところが、その後実際に成紀の地に黄龍が現れた。これを受けて文帝は公孫臣を召し出して博士に任命し、土徳にもとづく暦や制度を起草させ、元号を改めた。張丞相(張蒼)はこの一件で自らの非を悟って身を引き、病を理由に引退を願い出た。……張蒼は丞相を十五年務めて免職(引退)となった。景帝の(前)五年、張蒼は没し、文侯と諡(おくりな)された。
司馬相如列伝
原文
司馬相如列傳:宛宛黃龍、興德而升;采色炫燿、熿炳煇煌。正陽顯見、覺寤黎烝。於傳載之、云受命所乗。
現代語訳
(身をくねらせる)宛宛(えんえん)たる黄龍が、徳を盛んにして天へと昇っていく。その色彩はまばゆく輝き、光り輝くさまは実に鮮やかである。まさに陽の気が極まった「正陽」の象徴として姿を現し、多くの民(黎烝)を迷いから目覚めさせる。古くからの伝えにも記されている通り、これこそが「天命を受けた帝王が乗るべき龍」なのである。
『論衡』(1世紀頃)
異虚
原文
異虚:禹南濟於江、有黃龍負舟、舟中之人五色無主。禹乃嘻笑而稱曰:「我受命於天、竭力以勞萬民。生、寄也、死、帰也。死、帰也、何足以滑和?視龍猶蝘蜓也。」龍去而亡。案古今龍至皆為吉、而禹独謂黃龍凶者、見其負舟、舟中之人恐也。夫以桑穀比於龍、吉凶雖反、蓋相似。野草生於朝、尚為不吉、殆有若黃龍負舟之異、故為吉而殷朝不亡。
現代語訳
(夏朝の)禹王が南へ行き長江を渡った際、黄龍が船を背負い上げた。船中の人々は恐怖のあまり顔色を失ってしまった。しかし禹は、にこやかに笑ってこう言った。「私は天から命を受け、力を尽くして万民のために働いている。生きることは仮住まいであり、死ぬことは(あるべき場所に)帰ることだ。死んで帰ることに、どうして心の調和を乱す必要があるだろうか。私から見れば、龍などヤモリ(蝘蜓)のようなものだ。」すると龍は去っていった。
考えてみるに、古今を通じて龍が現れるのは吉兆とされるが、禹だけが黄龍を凶事と考えたのは、龍が船を背負い上げ、船中の人々が恐怖したからである。桑や穀物の異常成長(殷の時代の異変)を龍の出現に比べるなら、吉凶の結果こそ反対であるが、その性質は似ている。野草が朝廷に生えることは本来不吉だが、黄龍が船を背負った怪異(の結果として禹の徳が示されたこと)と同様に、むしろ吉兆となって殷朝は滅びなかったのである。
龍虚
原文
龍虚:且龍之所居、常在水澤之中、不在木中屋間。何以知之?叔向之母曰:「深山大澤、實生龍虵。」《傳》曰:「山致其高、雲雨起焉;水致其深、蛟龍生焉。」《傳》又言:「禹渡於江、黃龍負船。」「荊次非渡淮、兩龍繞舟。」「東海之上、有𦸜丘訢、勇而有力、出過神淵、使御者飲馬、馬飲因沒。訢怒拔劍、入淵追馬、見兩蛟方食其馬、手劍擊殺兩蛟。」由是言之、蛟與龍常在淵水之中、不在木中屋間、明矣。在淵水之中、則魚鱉之類、魚鱉之類、何為上天?天之取龍、何用為哉?
現代語訳
そもそも龍の居場所は、常に川や湖(水澤)の中にあり、木の中や屋根裏にあるわけではない。なぜそれがわかるのか。(春秋時代の)叔向の母は「深山や広大な湖こそが、実際に龍や蛇を生み出す場所だ」と言っている。また『伝』には「山がその高さを極めれば雲雨がそこから湧き起こり、水がその深さを極めれば蛟龍(こうりゅう)がそこに生まれる」とある。
さらに『伝』にはこうも記されている。「禹が長江を渡った時、黄龍が船を背負った」「(勇者の)荊次非が淮水を渡った時、二頭の龍が舟に巻き付いた」「東海のほとりに𦸜丘訢(けいきゅうきん)という力自慢の勇者がいた。神聖な淵のそばを通りかかった際、御者に馬の水を飲ませたところ、馬が引きずり込まれた。訢は怒って剣を抜き、淵に入って馬を追ったところ、二頭の蛟がちょうど馬を食べているのを見つけ、剣でその二頭を斬り殺した」。
これらの話から言えるのは、蛟や龍は常に深い水の中にいるのであって、木の中や家の中にいるのではないということは明らかである。(龍が)深い水の中にいるのであれば、魚や亀の類と同じである。魚や亀の類が、どうして天に登ることがあろうか。天が龍を連れて行くとして、一体何の役に立つというのか。
講瑞
原文
講瑞:無鳥附從、或時是鳳皇;群鳥附從、或時非也。……龍與鳳皇為比類。宣帝之時、黃龍出于新豐、群蛇不隨。神雀、鸞鳥、皆眾鳥之長也、其仁聖雖不及鳳皇、然其從群鳥亦宜數十。信陵、孟嘗、食客三千、稱為賢君;漢將軍衛青及將軍霍去病、門無一客、亦稱名將。太史公曰:「盜跖橫行、聚黨數千人;伯夷、叔齊、隱處首陽山。」鳥獸之操、與人相似。人之得眾、不足以別賢、以鳥附從審鳳皇、如何?
現代語訳
(多くの鳥が付き従っているからといって鳳凰とは限らない。)他の鳥を従えていなくても鳳凰である場合もあれば、群れをなしていても鳳凰ではない場合もある。……龍と鳳凰は同じ類(瑞獣)である。前漢の宣帝の時代、黄龍が新豊に現れたが、群れをなす蛇たちがそれに付き従うことはなかった。神雀(しんじゃく)や鸞鳥(らんちょう)は鳥たちの長であり、その仁や聖なる力は鳳凰に及ばないものの、それでも数十羽の鳥を引き連れるものである。(人間でも)信陵君や孟嘗君は三千人の食客を抱えて賢君と呼ばれたが、漢の衛青将軍や霍去病将軍は門下に一人の客もいなかったが名将と称えられた。太史公(司馬遷)はこう言っている。「大泥棒の盗跖(とうせき)は横行して数千人の徒党を組んだが、伯夷・叔齊は首陽山に隠れ住んだ(独りであった)」と。鳥獣の節操も人間と似ている。人望がある(衆を得る)かどうかは、その者が賢者であるかを判別する基準にはならない。鳥が付き従っているかどうかで、それが鳳凰であるかを判断しようとするのは、いかがなものであろうか。
指瑞
原文
指瑞:且鳳、驎豈獨為聖王至哉?孝宣皇帝之時、鳳皇五至、騏驎一至、神雀、黃龍、甘露、醴泉莫不畢見、故有五鳳、神雀、甘露、黃龍之紀。……
且鳳、驎非生外國也、中國有聖王乃來至也。……孝宣皇帝之時、鳳皇、騏驎、黃龍、神雀皆至。其至同時、則其性行相似類、則其生出宜同處矣。……人見鳳驎希見、則曰在外國;見遇太平、則曰為聖王來。
現代語訳
そもそも鳳凰や麒麟は、どうして聖王のためだけに現れると言えようか(いや、そうではない)。前漢の宣帝の時代、鳳凰は五度も現れ、麒麟は一度現れた。神雀・黄龍・甘露・醴泉といった瑞兆もすべて現れたため、当時の元号には「五鳳」「神雀」「甘露」「黄龍」の名が付けられた。もし鳳凰や麒麟が本当に聖王のためだけに現れるものだとするなら、宣帝は聖人ということになる。もし宣帝が聖人ではない(凡庸な君主だ)とするなら、鳳凰や麒麟は単に「賢君」のために来たことになる。……
また、鳳凰や麒麟は外国に住んでいるわけではなく、中国に聖王がいれば現れるというだけのことである。これらは中国で生まれ、山林の間で育つが、その性質が潔癖で滅多に姿を見せず、人に害されないようにしているだけなのだ。……(人間が)鳥の巣を壊せば鳳凰は飛ばなくなり、林を焼いて狩りをしたり池の水を抜いて魚を捕ったりすれば、亀や龍は泳がなくなる。鳳凰も龍も同じ類であり、みな中国に生まれ、人と近い場所に住んでいる。……人々は鳳凰や麒麟を滅多に見ることがないので「外国にいる」と言い、太平の世に出会えば「聖王のために来たのだ」と言っているに過ぎない。
是應
原文
是應:儒者論太平瑞應、皆言氣物卓異、朱草、醴泉、翔鳳、甘露、景星、嘉禾、萐脯、蓂莢、屈軼之屬;又言山出車、澤出舟、……其盛茂者、致黃龍、騏驎、鳳皇。
現代語訳
儒学者たちが太平の世の瑞応(めでたい兆し)について論じる際、みな一様に、気象や事物がきわめて特異な状態になると言う。それは朱草、醴泉(甘い水の泉)、翔鳳(舞う鳳凰)、甘露、景星(めでたい星)、嘉禾(立派な穀物)、萐脯(料理を仰ぐ草)、蓂莢(暦を刻む草)、屈軼(悪人を指す草)といった類である。また、山からは車が現れ、沢からは舟が出現し、……(道徳が極まれば)男女は道を別にして歩き、市場の価格は一定となり、農民は田の境界を譲り合い、歩行者は道を譲り合い、老人は重い荷物を手に持つ必要がなくなり、関所や橋は閉ざされることがなく、道中で略奪に遭うこともなく、風は枝を鳴らさず、雨は土塊を壊さない(ほど穏やかになる)。五日に一度風が吹き、十日に一度雨が降るようになる。そして、その徳が最も盛んになった究極の段階で、ついに黄龍、騏驎、鳳皇を招き寄せるのである。
宣漢
原文
宣漢:問曰:「文帝有瑞、可名太平、光武無瑞、謂之太平、如何?」曰:夫帝王瑞應、前後不同、雖無物瑞、百姓寧集、風気調和、是亦瑞也。……孝宣皇帝元康二年、鳳皇集於太山、後又集于新平。……甘露元年、黃龍至、見于新豐、醴泉滂流。彼鳳皇雖五六至、或時一鳥而数来、或時異鳥而各至、麒麟、神雀、黃龍、鸞鳥、甘露、醴泉、祭后土天地之時、神光霊耀、可謂繁盛累積矣。孝明時雖無鳳皇、亦致麟、甘露、醴泉、神雀、白雉、紫芝、嘉禾、金出鼎見、離木復合。……如以瑞応效太平、宣、明之年、倍五帝、三王也。夫如是、孝宣、孝明可謂太平矣。
現代語訳
問いに答えて言う。「(前漢の)文帝には瑞兆があり太平と呼ぶにふさわしいが、(後漢の)光武帝には瑞兆がないのに太平と言われるのはなぜか。」
答え:帝王の瑞応(めでたい兆し)の現れ方は、時代によって異なる。具体的な「物(動物や植物)」としての瑞兆がなくても、民が安らかに集い、風土の気が調和しているなら、それもまた瑞兆である。……(瑞兆が多かった例を挙げれば)孝宣皇帝(宣帝)の元康二年には鳳凰が泰山に集まり、後に新平にも集まった。……甘露元年には黄龍が現れ、新豊の地に姿を見せると、甘い水の泉(醴泉)が激しく湧き出した。鳳凰は五、六度も飛来したが、それは一羽の鳥が何度も来たのかもしれないし、別の鳥がそれぞれ来たのかもしれない。麒麟、神雀、黄龍、鸞鳥、甘露、醴泉、そして天地を祀る際に現れた神聖な光などは、実に盛んに積み重なるように現れたと言える。
(後漢の)孝明皇帝(明帝)の時代には、鳳凰こそ現れなかったが、やはり麒麟、甘露、醴泉、神雀、白雉(白いキジ)、紫芝(紫の霊芝)、嘉禾(立派な穀物)が現れ、金が産出し、神聖な鼎が見つかり、一度離れた樹木が再び合体した。……もし瑞応の数で太平の世を証明しようとするなら、宣帝や明帝の時代は、五帝や三王(古代の聖王)の時代をも倍するほどである。このように見れば、宣帝と明帝の時代こそ太平であったと言えるのである。
恢国
原文
恢國:黃帝、堯、舜、鳳皇一至。凡諸眾瑞、重至者希。漢文帝、黃龍、玉棓。武帝、黃龍、麒麟、連木。宣帝、鳳皇五至、麒麟、神雀、甘露、醴泉、黃龍、神光。平帝、白雉、黑雉。孝明、麒麟、神雀、甘露、醴泉、白雉、黑雉、芝草、連木、嘉禾、與宣帝同、奇有神鼎、黃金之怪。一代之瑞、累仍不絕、此則漢德豐茂、故瑞祐多也。……六年、黃龍見、大小凡八。前世龍見不雙、芝生無二、甘露一降、而今八龍並出、十一芝累生、甘露流五縣、德惠盛熾、故瑞繁夥也。自古帝王、孰能致斯?
現代語訳
(古代の聖王である)黄帝、堯、舜の時代でさえ、鳳凰は一度現れたきりであった。およそ多くの瑞兆というものは、重なって現れることは稀なのである。漢の文帝の時には黄龍と玉棓(ぎょくほう:玉の杖)が現れた。武帝の時には黄龍、麒麟、連木(れんり:連理の木)が現れた。宣帝の時には鳳凰が五度も現れ、麒麟、神雀、甘露、醴泉、黄龍、神聖な光が現れた。平帝の時には白雉と黒雉が現れた。孝明皇帝(明帝)の時には、麒麟、神雀、甘露、醴泉、白雉、黒雉、芝草、連木、嘉禾が現れ、宣帝の時代と同様であったが、さらに珍しいことに神聖な鼎や黄金の怪異(不思議な産出)もあった。一代の間にこれほど瑞兆が絶え間なく続くのは、漢の徳が豊かであるゆえに、瑞祥による助けが多いということだ。……(今上陛下の)元号の六年にも黄龍が現れたが、大小あわせて実に八体もの龍であった。前代までは、龍が現れてもつがい(二体)であることはなく、霊芝も一度に二つ生えることはなく、甘露も一度降るだけであった。しかし今は、八体の龍が同時に現れ、十一もの霊芝が重なり合って生え、甘露は五つの県に降り注いでいる。徳と恵みが極めて盛んであるからこそ、瑞兆もこれほどまでに夥しいのである。古の帝王の中で、誰がこれほどの奇跡を招き寄せることができただろうか。
験符
原文
験符:建初三年、零陵泉陵女子傅寧宅、土中忽生芝草五本。……五年、芝草復生泉陵男子周服宅上、六本、……并前凡十一本。湘水去泉陵城七里、水上聚石曰燕室丘、臨水有俠山、其下巖淦、水深不測。二黄龍見、長出十六丈、身大於馬、挙頭顧望、状如図中画龍。燕室丘民皆観見之。去龍可数十歩、又見状如駒馬、小大凡六、出水遨戯陵上、蓋二龍之子也。并二龍為八。出移一時乃入。
……
宣帝之時、與今無異。鳳皇之集、黄龍之出、鈞也。彭城、零陵、遠近同也。……
魯人公孫臣、孝文時言漢土德、其符黄龍当見。其後、黄龍見于成紀。……孝武、孝宣時、黄龍皆出。黄龍比出、於茲為四、漢竟土德也。賈誼創議於文帝之朝云:「漢色当尚黄、数以五為名。」賈誼、智囊之臣、云色黄数五、土徳審矣。
現代語訳
(後漢の)建初三年、零陵郡泉陵県の傅寧という女性の宅地にて、土の中から突如として五本の霊芝が生えだした。……五年には同じく泉陵県の周服という男の宅地にも六本の霊芝が生え、以前のものと合わせて合計十一本となった。泉陵の城から七里離れた湘水(長江の支流)に、燕室丘という岩の集まった場所があり、水辺には山がそびえ、その下の淵は測り知れないほど深かった。そこに二体の黄龍が現れた。長さは十六丈(約37m)余り、体は馬よりも大きく、頭を持ち上げてあたりを顧みる様子は、図の中に描かれる龍のようであった。燕室丘の民はみなこれを目撃した。龍から数十歩の距離には、さらに子馬のような姿をした大小六体のものが現れ、水から出て丘の上で遊び回っていた。これらはおそらく二体の龍の子であろう。二体の親龍と合わせて合計八体である。龍たちは一時(約二時間)ほど姿を見せていたが、やがて水の中へと入っていった。
……
(前漢の)宣帝の時代と現在は、何ら変わりはない。鳳凰の飛来も黄龍の出現も、その価値は等しいものである。瑞兆が現れた場所が(都に近い)彭城であろうと(遠い)零陵であろうと、遠近による差はない。……
(またかつて)魯の人の公孫臣は、文帝の時代に「漢は土徳(の力)を持つため、その兆しとして黄龍が現れるはずだ」と予言した。その後、実際に成紀の地に黄龍が現れた。……武帝や宣帝の時代にも黄龍はいずれも現れている。これまでの黄龍の出現を数えればこれで四度目(文・武・宣・今上)となり、漢が土徳であることは確定した。賈誼も文帝の朝廷で「漢の色は黄を尊び、数は五を基準とすべきだ」と提案したが、智略に優れた彼がそう述べた通り、漢が土徳であることは疑いようがない。
知実
原文
知実:楚霊王会諸侯。鄭子産曰:「魯、邾、宋、衛不来。」及諸侯会、四国果不至。趙堯為符璽御史、趙人方与公謂御史大夫周昌曰:「君之史趙堯且代君位。」其後堯果為御史大夫。然則四国不至、子産原其理也;趙堯之為御史大夫、方与公睹其状也。原理睹状、処著方来、有以審之也。魯人公孫臣、孝文皇帝時、上書言漢土徳、其符黄龍当見。後黄龍見成紀。然則公孫臣知黄龍将出、案律歴以処之也。
現代語訳
(春秋時代)楚の霊王が諸侯を招集した際、鄭の子産は「魯・邾・宋・衛の四国は来ないだろう」と言ったが、実際に会合が開かれるとその四国は現れなかった。また、趙堯(ちょうぎょう)が符璽御史であった時、趙の人である方与公が御史大夫の周昌に「あなたの部下である趙堯がいずれあなたの位に代わるだろう」と言ったが、後に趙堯は果たして御史大夫となった。
四国が来ないことを予見したのは、子産がその「道理(国際情勢)」を推察したからであり、趙堯が昇進することを見抜いたのは、方与公がその「様子(人物の器量)」を観察したからである。道理を推し量り、様子を観察することで、将来起こることを予測し、それを明らかにできる根拠があるのだ。
(前漢の)魯の人である公孫臣が、文帝の時に「漢は土徳であるから、その兆しとして黄龍が現れるはずだ」と上書したところ、後に果たして成紀の地に黄龍が現れた。これもまた、公孫臣が黄龍が現れることを(超能力ではなく)律暦(天文学や数理)を検証することによって予測していたのである。
『焦氏易林』(紀元前1世紀頃)
原文
需之萃:大口宣舌、神使仲言。黃龍景星、出応徳門。与福上天、天下安昌。
大有之蠱:大口宣唇、神使伸言;黃龍景星、出應侯門、與福上天、天下安昌。
大畜之大過:三羊上山、東至平原。黃龍服箱、南至魯陽。貌其佩囊、執綬車中。行人無功。
咸之同人:以鹿為馬、欺誤其主、聞言不信、三口為咎。黃龍三子、中樂不殆。
夬之睽:三羊上山、馳至大原。黃龍負舟、遂到夷傷、究其玉囊。
現代語訳
(「需」の卦から「萃」の卦に変わる、その占いの言:)
大きな口を広げ言葉を宣べ、神の使い(仲言)が告げる。
黄龍が舞い降り、めでたい星(景星)が輝き、徳のある家門(徳門)に応じて現れる。
それらは天に福を届け、天下は安らかに栄えるであろう。
(「大有」の卦から「蠱」の卦に変わる、その占いの言:)
大きな口を開き言葉を宣(の)べ、神の使いがその意志を伸(の)べ伝える。
黄龍が舞い降り、めでたい星(景星)が輝き、諸侯の家門(侯門)に応じて現れる。
それらは天に福を届け、天下は安らかに栄えるであろう。
(「大畜」の卦から「大過」の卦に変わる、その占いの言:)
三頭の羊が山を登り、東の平原へと至る。
黄龍が(馬のように)車を引き、南の魯陽へと至る。
その佩囊(腰に下げる袋)は立派であり、車中で(官職の印である)綬を手にしている。
しかし、その旅人は結局のところ、功績を挙げることはない。
(「咸」の卦から「同人」の卦に変わる、その占いの言:)
鹿を指して馬と言い、その主君を欺き誤らせる。忠言を聞いても信じず、口々に語られる嘘(三口)が災い(咎)となる。
(一方で)黄龍には三人の子がおり、その和の中で楽しめば危ういことはない。
(「夬」の卦から「睽」の卦に変わる、その占いの言:)
三頭の羊が山を登り、広大な原野へと駆け抜ける。
黄龍が舟を背負って進み、ついには(目的地である)夷傷へとたどり着き、その玉囊(宝石の入った袋)を極める(手に入れる)。
『吳越春秋』越王無余外傳(1世紀頃)
原文
越王無余外傳:禹濟江、南省水理、黃龍負舟、舟中人怖駭、禹乃啞然而笑曰:「我受命於天、竭力以勞萬民。生、性也;死、命也。爾何為者?」顏色不變。謂舟人曰:「此天所以為我用。」龍曳尾舍舟而去。
現代語訳
(夏朝の)禹王が長江を渡り、南方の治水状況(水理)を視察していた際、黄龍が船を背負い上げた。船中の人々は恐怖に震え上がったが、禹はあははと声を上げて笑い、こう言った。
「私は天から命を受け、力を尽くして万民のために働いている。生きることは(天から与えられた)本性であり、死ぬことは(天から定められた)運命だ。お前(龍)ごときが何をするというのか。」
禹は顔色一つ変えず、船人たちに向かってこう言った。「この龍も、天が私のために使い走らせているものに過ぎぬ。」
すると龍は尾を垂らし、船を離れて去っていった。
『漢書』(1世紀頃)
文帝紀
原文
文帝紀:十五年春、黃龍見於成紀。上乃下詔議郊祀。公孫臣明服色、新垣平設五廟。語在郊祀志。夏四月、上幸雍、始郊見五帝、赦天下、修名山大川嘗祀而絶者、有司以歳時致禮。
現代語訳
(文帝)十五年の春、成紀の地に黄龍が現れた。これを受けて主上(文帝)は詔を下し、郊祀(天を祀る儀式)の実施について議論させた。公孫臣は(土徳にふさわしい)衣服の色を明らかにし、新垣平は五帝の廟を設けた。その詳細については「郊祀志」に記されている。
夏の四月、主上は雍の地に幸し、初めて五帝を郊祀し、天下に大赦を行った。かつて祀られていたが途絶えていた名山大川の祭祀を再興させ、担当官に命じて季節ごとに礼を尽くさせ、祀りを行わせることとした。
宣帝紀
原文
宣帝紀:夏四月、黃龍見新豐。
宣帝紀:詔曰:「乃者鳳皇甘露降集、黃龍登興、醴泉滂流、枯槁栄茂、神光並見、咸受禎祥。其赦天下。減民算三十。……」
宣帝紀:黃龍元年春正月、行幸甘泉、郊泰畤。
現代語訳
(宣帝の甘露三年)夏の四月、黄龍が新豊(しんぽう)に現れた。
(宣帝は)詔を下してこう言った。「このところ、鳳凰や甘露が降り集まり、黄龍が昇り現れ、醴泉(甘い水の泉)が勢いよく流れ出し、枯れていた草木が青々と茂り、神々しい光が各所に現れるなど、皆が吉祥を授かっている。よって天下に大赦を行い、民の算賦(人頭税)を三十銭減額する。……」
黄龍元年春の一月、甘泉(宮)へ幸し、泰畤(だいじ:天を祀る祭壇)にて郊祀を行った。
元帝紀
原文
元帝紀:黃龍元年十二月、宣帝崩。癸巳、太子即皇帝位、謁高廟。尊皇太后曰太皇太后、皇后曰皇太后。
現代語訳
黄龍元年(紀元前49年)十二月、宣帝が崩御した。癸巳(きし)の日、皇太子(元帝)が皇帝の位に即き、高廟(始祖・劉邦の廟)に謁した。皇太后(上官氏)を尊んで太皇太后とし、皇后(王政君)を皇太后とした。
成帝紀
原文
成帝紀:冬、黃龍見真定。
現代語訳
(成帝の河平二年)冬、黄龍が真定(しんてい)に現れた。
郊祀志上
原文
郊祀志上:秦始皇帝既即位、或曰:「黃帝得土德、黃龍地螾見。夏得木徳、青龍止於郊、草木鬯茂。……今秦変周、水徳之時。
郊祀志上:魯人公孫臣上書曰:「始秦得水徳、及漢受之、推終始伝、則漢当土徳、土徳之応黃龍見。宜改正朔、服色上黄。」時丞相張蒼好律歴、以為漢乃水徳之時、河決金隄、其符也。……明年、黃龍見成紀。文帝召公孫臣、拝為博士、与諸生申明土徳、草改歴服色事。其夏、下詔曰:「有異物之神見於成紀、毋害於民、歳以有年。朕幾郊祀上帝諸神、礼官議、毋諱以朕労。」……於是夏四月、文帝始幸雍郊見五畤、祠衣皆上赤。
現代語訳
秦の始皇帝が即位した際、ある者がこう言った。「(古の)黄帝は土徳を得たため、黄龍や巨大なミミズ(地螾)が現れました。夏の時代は木徳を得たため、青龍が郊外に留まり、草木が盛んに茂りました。……今、秦が周に代わったのは、水徳の時代だからです。」
(漢の時代、)魯の公孫臣が上書してこう述べた。「かつて秦は水徳を得ましたが、今それを継承した漢は、五行の循環から推せば土徳に当たるはずです。土徳の兆し(応え)としては、黄龍が現れるでしょう。速やかに暦を改正し、衣服の色は黄色を最上とすべきです。」
当時、丞相の張蒼は暦学を好んでおり、漢はまだ水徳の時代であって、(以前に)黄河の堤防が切れたことこそが水徳の証(符)であると考えていた。……しかし翌年、実際に成紀の地に黄龍が現れた。文帝は公孫臣を召し出して博士に任命し、学者たちと共に土徳の義を明らかにし、暦や服色の改正案を起草させた。その夏、文帝は詔を下した。「異形の神(黄龍)が成紀に現れたが、民に害はなく、今年は豊作となった。私は自ら郊外で上帝や諸神を祀るつもりである。礼官たちは私の労を慮って忌み憚ることなく、儀礼を議論せよ。」……こうして夏の四月、文帝は初めて雍の地に赴き、五畤(五帝の祭壇)にて郊祀を行い、祭祀の服はすべて(土を生む火の色である)赤を尊んだ。
郊祀志下
原文
郊祀志下:上自幸河東之明年正月、鳳皇集祋祤……其冬、鳳皇集上林、乃作鳳皇殿、以答嘉瑞。明年正月、復幸甘泉、郊泰畤、改元曰五鳳。……後間歳、改元為甘露。正月、上幸甘泉、郊泰畤。其夏、黃龍見新豊。建章、未央、長楽宮鍾虡銅人皆生毛、長一寸所、時以為美祥。後間歳正月、上郊泰畤、因朝単于於甘泉宮。後間歳、改元為黃龍。正月、復幸甘泉、郊泰畤、又朝単于於甘泉宮。至冬而崩。
現代語訳
(宣帝が)自ら河東へ幸した翌年の正月、鳳凰が祋祤(てつう)に集まった。……その冬、鳳凰が上林苑に集まったため、その瑞兆に応えるべく鳳凰殿を造営した。翌年正月、再び甘泉に幸して泰畤(だいじ)にて郊祀を行い、元号を「五鳳(ごほう)」と改めた。……数年後、元号を「甘露(かんろ)」と改めた。正月に主上(宣帝)は甘泉に幸し、泰畤にて郊祀を行った。その年の夏、黄龍が新豊に現れた。また、建章宮・未央宮・長楽宮の鐘の架台(鍾虡)や銅像から、一寸(約2.3cm)ほどの毛が生えてきたが、当時はこれもまた「美しき吉祥」であると考えられた。その二年後の正月、主上は泰畤にて郊祀を行い、それに続いて甘泉宮にて(匈奴の)単于の謁見を受けた。その二年後、元号を「黄龍」と改めた。正月、再び甘泉に幸して泰畤にて郊祀を行い、またも甘泉宮にて単于の朝貢を受けた。そして、その年の冬に(宣帝は)崩御した。
張周趙任伝
原文
張周趙任傳:蒼為丞相十餘年、魯人公孫臣上書、陳終始五德傳、言漢土徳時、其符黃龍見、當改正朔、易服色。事下蒼、蒼以為非是、罷之。其後黃龍見成紀、於是文帝召公孫臣以為博士、草立土德時曆制度、更元年。蒼由此自絀、謝病称老。……孝景五年薨、諡曰文侯。
現代語訳
(漢の)張蒼(ちょうそう)が丞相を務めて十年余りが過ぎた頃、魯の公孫臣が上書し、「五徳終始(五行の循環)」の説を陳述して次のように述べた。「今は漢が土徳を得ている時代です。その証(符)として黄龍が現れるはずであり、速やかに暦を改正し、衣服の色を一新すべきです」。この件は張蒼に諮られたが、張蒼は(自らの学説と異なるため)誤りであるとして退けた。ところが、その後実際に成紀の地に黄龍が現れた。これを受けて文帝は公孫臣を召し出して博士に任命し、土徳にもとづく暦や制度を起草させ、元号を改めた。張蒼はこの一件で自らの非を認めて身を引き、病を理由に引退を願い出た。……張蒼は景帝の五年(紀元前152年)に没し、文侯と諡(おくりな)された。
司馬相如伝
原文
司馬相如傳:宛宛黃龍、興德而升;采色玄耀、炳炳煇煌。正陽顯見、覺寤黎烝。於傳載之、云受命所乗。
現代語訳
(身をくねらせる)宛宛(えんえん)たる黄龍が、徳を盛んにして天へと昇っていく。その色彩は奥深く光り輝き(玄耀)、あざやかに照り映えている。まさに陽の気が極まった「正陽」の象徴として姿を現し、多くの民(黎烝)を迷いから目覚めさせる。古くからの伝えに記されている通り、これこそが「天命を受けた帝王が乗るべき龍」なのである。
眭両夏侯京翼伝
原文
眭兩夏侯京翼傳:……太白發越犯庫、兵寇之應也。貫黃龍、入帝庭、當門而出、隨熒惑入天門、至房而分、欲與熒惑為患、不敢當明堂之精。此陛下神靈、故禍乱不成也。……
現代語訳
(夏侯勝らの説によれば、)……太白(金星)がその軌道を逸脱して「庫(倉庫の星)」を犯すのは、兵乱や賊軍が起こる予兆です。さらに、太白が黄龍(軒轅の星座)を貫き、天帝の庭(帝庭)に侵入し、正門(端門)に当たって出ていきました。また、太白は熒惑(火星)に従って天門に入り、房宿にいたって分かれました。これは太白が熒惑と結託して災いをなそうとしたものですが、陛下(皇帝)の神聖な「明堂(中心)」の精気に当たることは恐れて避けたのです。これこそが陛下の神霊のなせる業であり、ゆえに禍乱は未遂に終わったのです。……
蓋諸葛劉鄭孫毋将何伝
原文
哀帝崩、王莽白王太后徴寶以為光祿大夫、與王舜等俱迎中山王。平帝立、寶為大司農。會越嶲郡上黃龍游江中、太師孔光、大司徒馬宮等咸称莽功徳比周公、宜告祠宗廟。寶曰:「周公上聖、召公大賢。尚猶有不相説、著於経典、両不相損。今風雨未時、百姓不足、毎有一事、群臣同声、得無非其美者。」時大臣皆失色、侍中奉車都尉甄邯即時承制罷議者。……
現代語訳
(前漢の)哀帝が崩御すると、王莽(おうもう)は王太后に申し出て何宝(かほう)を召し出し、光禄大夫に任命した。何宝は王舜らと共に中山王(後の平帝)を迎えた。平帝が即位すると、何宝は大司農(国の財務長官)となった。
その頃、越嶲(えつすい)郡から「黄龍が江の中に遊んでいる」との報告があった。太師の孔光や大司徒の馬宮ら大臣たちは皆、王莽の功徳を周公(古代の聖人)に比肩するものだと称え、この吉兆を宗廟に報告して祀るべきだと主張した。
しかし、何宝はこう反論した。「周公は最高の聖人であり、召公もまた大いなる賢者でした。それでも、両者の間に意見の不一致があったことは経典に記されており、それによって二人の名声が損なわれることはありませんでした。今、風雨は時を得ず、百姓の暮らしは困窮しております。それなのに、何か事があるたびに群臣が皆口を揃えて(王莽を)称えるのは、かえって美徳を損なうことになりはしませんか」。
この発言に大臣たちは皆顔色を失い、侍中の甄邯がすぐさま皇帝の命(承制)を奉じて、この議論を打ち切らせた。……その後、何宝は罷免され、家で生涯を終えた。
揚雄伝上
原文
揚雄傳上:……炎感黃龍兮、熛訛碩麟、選巫咸兮叫帝閽、開天庭兮延群神。儐暗藹兮降清壇、瑞穰穰兮委如山。
揚雄傳上:……國家殷富、上下交足、故甘露零其庭、醴泉流其唐、鳳皇巢其樹、黃龍游其沼、麒麟臻其囿、神爵棲其林。……
揚雄傳上:上猶謙譲而未俞也、方将上獵三霊之流、下決醴泉之滋、発黃龍之穴、窺鳳皇之巢、臨麒麟之囿、幸神雀之林……
現代語訳
(「甘泉賦」の一節:)……(祭祀の炎が)赤々と燃え上がり黄龍を感動させ、その火花は巨大な麒麟を呼び寄せる。名高い巫師を選んで天帝の門を呼び叩き、天の庭を開いて八百万の神々を招き入れる。神々は雲のごとく清らかな祭壇へと降り立ち、瑞兆の品々は山のように積み上げられる。
(「羽猟賦」序文:)……(古代の理想的な治世では)国家は豊かに潤い、身分の上下を問わず満ち足りていた。ゆえに、庭には甘露が降り、池には醴泉が流れ、樹木には鳳凰が巣を作り、黄龍は池に遊び、麒麟は庭園に現れ、神雀は林に住み着いたものである。……
(「羽猟賦」結び:)……主上(皇帝)はいまだ謙虚であられ、私の提案をすぐには受け入れられなかった。しかし、これから天の三霊(日月星)の導きを追い、地の醴泉を汲み上げ、黄龍の住処を訪ね、鳳凰の巣を覗き、麒麟の園に臨み、神雀の林を訪れようとされる。……(中略)……禁じられた猟場を民に開放し、公の蓄えを分け与え、道徳の庭園を創り上げる。これこそが真の豊かさを至らせる道であり、三皇五帝の勤勉さに勝る至高の業ではないか。
匈奴伝下
原文
匈奴傳下:……今郅支已伏誅、願入朝見。」竟寧元年、單于復入朝、礼賜如初、加衣服錦帛絮、皆倍於黃龍時。……
匈奴傳下:建平四年、單于上書願朝五年。時哀帝被疾、或言匈奴従上游来厭人、自黃龍、竟寧時、単于朝中国輒有大故。上由是難之、以問公卿、亦以為虛費府帑、可且勿許。……
現代語訳
(匈奴のライバルであった)郅支(しつし)単于が誅殺されると、呼韓邪(こかんや)単于は喜びと畏れを抱き、こう上書した。「常に天子にお目にかかりたいと願っておりましたが、郅支が西方にいたため、彼が烏孫と結託して私を襲うことを恐れ、漢へ参ることができませんでした。今、郅支が伏誅されたからには、入朝して謁見することを願います」。竟寧元年、単于は再び入朝した。その際の礼遇や賜り物は以前と同様であったが、衣服・錦・絹・綿などの加増分は、すべて黄龍(年間)の時の倍にのぼった。……
(後の)建平四年のこと、単于が「(翌年の)五年に入朝したい」と上書してきた。当時、哀帝は病に伏せっており、ある者がこう言った。「匈奴は(地勢の)上流からやって来るため、人を圧倒(厭)してしまいます。かつての黄龍や竟寧の時も、単于が入朝すると、決まって(皇帝の崩御という)国家の大きな災厄(大故)が起きました」。これを受けて主上(哀帝)は入朝を難色とし、公卿に諮ったところ、公卿らも「国費の無駄遣いである」として許可すべきでないと進言した。……
王莽伝中
原文
王莽傳中:……其德祥言文、宣之世黃龍見於成紀、新都、高祖考王伯墓門梓柱生枝葉之屬。……
王莽傳中:訛言黃龍墮死黃山宮中、百姓奔走往観者有万数。莽悪之、捕繋問語所従起、不能得。
現代語訳
(王莽が天下に発布した「符命」四十二篇の内容によれば、)……その「徳祥(徳の兆し)」を説く部分には、文帝や宣帝の時代に黄龍が成紀や新都(王莽の封地)に現れたことや、王莽の高祖父である王伯の墓門の梓の柱から枝葉が生えたことなどが記されていた。……
(王莽の始建国五年)「黄龍が黄山宮の中に落ちて死んだ」という流言が流れた。これを聞いた民衆で、一目見ようと駆けつけた者は数万人にのぼった。王莽はこの噂を忌み嫌い、噂の出所を突き止めようと人々を捕らえて尋問したが、結局(発信者を)特定することはできなかった。
『東観漢記』(2世紀頃)
紀二
原文
元和二年、鳳皇三十九、麒麟五十一、白虎二十九、黃龍四、青龍、黃鵠、鸞鳥、神馬、神雀、九尾狐、三足烏、赤烏、白兔、白鹿、白鷰、白鵲、甘露、嘉瓜、秬秠、明珠、芝英、華平、朱草、木連理實、日月不絶、載於史官、不可勝紀。
現代語訳
(後漢の)章帝の元和二年(85年)、鳳凰が三十九、麒麟が五十一、白虎が二十九、黄龍が四、さらには青龍、黄鵠(こう)、鸞鳥(らんちょう)、神馬、神雀、九尾の狐、三足烏、赤烏、白兎、白鹿、白燕、白鵲、甘露、嘉瓜、秬秠(黒キビ)、明珠、芝英、華平、朱草、連理の木といった瑞兆が、連日のように絶え間なく現れた。これらは史官によって記録されているが、あまりに多くて全てを記しきることはできないほどである。
紀三
原文
恭宗孝安皇帝:……延光二年、九真言嘉禾生、禾百五十六本、七百六十八穗。三年、鳳皇集濟南、……潁川上言白鹿見。潁川上言麟見。黃龍見歷城、又見諸縣。四年三月、帝崩于葉縣、在位十九年、時年三十二。……
現代語訳
(後漢の)安帝の延光二年、九真郡から「嘉禾(めでたい稲)」が生え、百五十六株から七百六十八もの穂がついたとの報告があった。
三年には、鳳凰が済南に集まった。……また、潁川郡からは白鹿が現れた、麒麟が現れたとの報告があった。さらに、黄龍が歴城(現在の山東省済南市付近)に現れ、他にも諸々の県で目撃された。
延光四年三月、皇帝は葉県にて崩御された。在位は十九年、行年三十二歳であった。
傳四
原文
馮異:黃龍見於河、諸将勧光武立、乃召馮異。馮異曰:「更始敗亡、天下無主。」上曰:「我夢乗龍上天、覚悟、心中動悸。」異因下席再拜賀曰:「此天命発於精神。心中動悸、大王重慎之性也。」異遂与諸将定議上尊号。
現代語訳
(後漢の創始者となる光武帝・劉秀の時代、)黄龍が河(黄河)に現れた。諸将はこれを見て、光武帝に即位を勧めた。光武帝は(側近の)馮異(ふうい)を召し出してこう言った。「私は龍に乗って天に昇る夢を見た。目が覚めた後も、心臓の動悸が止まらぬのだ」。
すると馮異は席を下り、再拝して祝辞を述べた。「それこそ天命が精神に現れた証拠です。動悸がするのは、大王(光武帝)の慎重なお人柄ゆえでございます」。馮異はついに諸将とともに協議をまとめ、光武帝に「皇帝」の尊号を奉ることを決定した。
荀悦『漢紀』(2世紀末〜3世紀初)
序
原文
序:凡漢紀十二世十一帝。通王莽二百四十二年。……凡祥瑞、黃龍見、鳳皇集、麒麟臻、神馬出、神鳥翔、神雀集、白虎仁獸獲、寶鼎昇……凡災異、大者日蝕五十六、地震十六……男子化為女子、嫁為人婦生子、枯木更生、大石自立。……其三年詔給事中祕書監荀悦鈔撰漢書。略挙其要。……斯皆明主賢臣命世立業。……可以興、可以治、可以動、可以静、可以言、可以行。懲悪而勧善、奨成而懼敗。……故君子可観之矣。
現代語訳
(『漢紀』の)序文:漢王朝の歴史は十二世十一帝におよび、王莽の時代を含めて通算二百四十二年である。……(その治世に現れた)祥瑞(めでたい兆し)を挙げれば、黄龍の出現、鳳凰の飛来、麒麟の到来、神馬の出現、神鳥の飛翔、神雀の集結、仁獣である白虎の捕獲、宝鼎の出現……などがある。
一方で災異(不吉な異変)を挙げれば、大きなものでは日食が五十六回、地震が十六回……(中略)……男子が女子に変化して嫁ぎ子を産む、枯れ木が蘇る、巨大な石が独りでに立つ、といったことがあった。
(後漢の献帝の)建安三年、詔によって給事中・秘書監の荀悦(じゅんえつ)に『漢書』を要約して編纂するよう命が下った。……これらはすべて、明君や賢臣が世に名を馳せ、偉業を打ち立てた記録である。……(これらを学ぶことで)国を興し、治め、動静を見極め、言行を正すことができる。悪を懲らしめ善を勧め、成功を奨励し失敗を戒める。……ゆえに、君子にとって観るに値する書物である。
孝文皇帝紀
原文
(前略)魯人公孫臣上書。言秦為水德。從所不勝。漢當為土德。其符當有黃龍見。丞相張蒼好律厤。以漢為水德。河水沒金隄其符也。公孫臣言非。是以罷之。……
十五年春。黃龍見於成紀。上召公孫臣為傅士。從土德也。夏四月。上幸雍。始郊。見五帝。修名山大川之祀。(後略)
現代語訳
(十四年、)魯の公孫臣が上書してこう述べた。「秦は水徳であり、(五行の相克により)水が勝てない相手(土)を漢は継ぐべきです。ゆえに漢は土徳であるはずで、その兆し(符)として黄龍が現れるでしょう」。
しかし、丞相の張蒼は暦学を好んでおり、漢は水徳であると考えていた。黄河の水が金堤(きんてい)を没したことこそが水徳の証拠であるとし、公孫臣の言葉を誤りであるとして退けた。これによって(一旦は)張蒼の意見が採用され、衣服の色などは(水徳を示す)外側が黒、内側が赤という定めになった。
十五年の春、成紀の地に黄龍が現れた。これを受けて主上(文帝)は公孫臣を召し出して博士に任命し、土徳の礼制に従うこととした。夏の四月、主上は雍の地に幸し、初めて郊祀(天を祀る儀式)を行い、五帝を拝見した。また、名山大川の祭祀を再興させた。
孝宣皇帝紀
原文
(甘露元年)夏四月、黃龍見新豐。建章未央長樂宮鐘、及筍虞銅人、皆生毛、長二寸許。……
(二年)詔曰:「乃者鳳皇甘露降集、黃龍登興、醴泉滂流、枯槁榮茂、神光並見、咸受禎祥。其赦天下。減民算三十。……」
(前略)……是歳、有献雄雞生角者。本志以為黃龍元初永光雞変三見、王氏僭位之萌也。黃龍元年而宣帝崩、上即位。皇后将立、応是正宮之中、雌雞為雄、不鳴不将無距者、貴始萌而未成也。……(後略)
現代語訳
(甘露元年)夏の四月、黄龍が新豊に現れた。また、建章宮・未央宮・長楽宮の鐘、およびその架台(筍虞:じゅんぐ)の銅像から、二寸(約4.6cm)ほどの毛が生えてきた。……
(二年)詔を下してこう言った。「このところ、鳳凰や甘露が降り集まり、黄龍が昇り現れ、醴泉(甘い水の泉)が勢いよく流れ出し、枯れていた草木が青々と茂り、神々しい光が各所に現れるなど、皆が吉祥を授かっている。よって天下に大赦を行い、民の人頭税(算賦)を三十銭減額する。……」
(元帝の時代、)この年、角の生えた雄鶏を献上した者がいた。『漢書』五行志によれば、黄龍(宣帝末)、初元、永光(いずれも元帝期)の年間に鶏の異変が三度見られたが、これは(将来の)王莽による帝位簒奪の兆しであったとされる。
黄龍元年に宣帝が崩御し、主上(元帝)が即位された。皇后が立てられようとする時、まさに後宮(正宮)の中で「雌鶏が雄に化ける」という変異が起きた。(その鶏が)鳴かず、従えず、蹴爪もなかったのは、王氏の権勢がまだ萌芽したばかりで、形を成していなかったことに応じている。……
孝成皇帝紀
原文
(鴻嘉元年)……冬。黃龍見真定。
孝平皇帝:……越嶲郡上言黃龍游江中。大臣称莽功徳比周公。宝曰:「周公上聖、召公大賢、尚尤不悦。今有一事、群臣同声、得非不美者乎。」時大臣皆失色、而宝不変。坐免官、終於家。
孝平皇帝:其七年春、日中星見。民訛言黃龍墜地、死黃山。宮中百姓奔走、観者万数。……
現代語訳
(成帝の鴻嘉元年)……冬。黄龍が真定(しんてい)の地に現れた。
(平帝の元始二年、)越嶲(えつすい)郡から「黄龍が江(川)の中に遊んでいる」との報告があった。大臣たちは皆、王莽の功徳を古代の聖人である周公に比肩するものだと称えたが、孫宝(そんほう)だけはこう言った。「周公は最高の聖人であり、召公も大いなる賢者でしたが、それでも(意見の不一致により)不快に思うことがありました。今、一つの事柄に対して群臣が皆口を揃えて称えるのは、かえって美徳ではないのではありませんか」。この時、大臣たちは皆顔色を失ったが、孫宝の態度は変わらなかった。彼はこの件で免官となり、家で生涯を終えた。
(元始七年=居摂二年)春、真昼に星が現れた。民衆の間で「黄龍が地に墜ち、黄山宮の中で死んだ」という流言が流れた。百姓たちは一目見ようと駆けつけ、見物人は数万人にのぼった。……(この頃、王莽は自ら政務を独占し、夜通し灯火を掲げて執務したが治まらず、役人は不正に走り、民は窮困して盗賊となった。)
『抱朴子』附録(4世紀)
原文
青雲芝生於名山之陰、大青石間。……令人壽千歲不老、能乘雲通天見鬼神。……
黃龍芝生於神山之中、狀如黃龍。味辛甘、以四時采、陰乾治。日食一合、壽萬年、令人光澤。
金蘭芝生於名山之陰、金石之間。……飲其中水、壽千歲、耳目聰明。
現代語訳
(青雲芝は名山の北側の大きな青石の間に生える。……これを食べれば千歳の寿命を得て老いず、雲に乗り天に通じ、鬼神を見ることができる。……)
黄龍芝(こうりゅうし)は神山の中に生え、その形状は黄龍のようである。味は辛くもあり甘くもある。四季を通じて採取し、陰干しにして粉末にする。日に一合(約180ml分)食べれば、寿命は万年に及び、肌には美しい光沢が生まれる。
(金蘭芝は名山の北側の金石の間に生える。……秋の十日間にこれを探し、その中の水を飲めば、寿命は千年に及び、耳目は聡明になる。)
『後漢書』(5世紀頃)
光武帝紀
原文
光武帝紀:……六月、黃龍見東阿。
光武帝紀:……是以化致升平、稱為中興。今天下清寧、靈物仍降。陛下情存損挹、推而不居、豈可使祥符顯慶、沒而無聞?宜令太史撰集、……神爵、五鳳、甘露、黃龍、列為年紀……帝不納。常自謙無德、每郡國所上、輒抑而不当、故史官罕得記焉。
現代語訳
(建武十七年)……六月、黄龍が東阿(とうあ)の地に現れた。
(建武中元の頃)……(群臣が奏上して言った、)「(前漢の)宣帝の御代には、素晴らしい瑞兆があるたびに元号を改められました。神爵、五鳳、甘露、黄龍といった元号が年紀として列なっているのは、ひとえに神霊を感動させ、皇帝の徳と信義を明らかにするためのものでした。それゆえに世は太平へと向かい、『中興』と称えられたのです。今、天下は清まり安んじられ、霊妙なる瑞兆が次々と降りております。陛下(光武帝)は謙遜され、それらを自分の功績とはなさいませんが、これほどめでたい兆しを歴史に埋もれさせたままにして良いものでしょうか。太史官に命じてこれらを編纂させ、後世に伝えるべきです。」
しかし、光武帝はこれを受け入れなかった。常に自ら「徳が足りない」と謙遜し、郡国から瑞兆の報告が上がるたびに、それを取り上げず、ふさわしくないと退けた。そのため、史官が瑞兆を記録に残せることは稀であった。
章帝紀
原文
(建初元年)是歲、零陵獻芝草。有八黃龍見於泉陵。……
(建初二年)五月戊申、詔曰:「乃者鳳皇、黃龍、鸞鳥比集七郡、或一郡再見、及白烏、神雀、甘露屢臻。祖宗舊事、或班恩施。其賜天下吏爵、人三級;……」
(建初二年)九月壬辰、詔:「鳳皇、黃龍所見亭部無出二年租賦。加賜男子爵、人二級;先見者帛二十匹、近者三匹、太守三十匹、令、長十五匹、丞、尉半之。……」
現代語訳
(建初元年=76年)この年、零陵郡から芝草(霊芝)が献上された。また、八頭もの黄龍が泉陵に現れた。……
(建初二年)五月戊申の日、詔を下してこう言った。「このところ、鳳凰・黄龍・鸞鳥が七つの郡に次々と集まり、ある郡では二度も現れた。また、白烏(白いカラス)や神雀、甘露もしばしば至っている。祖宗(先代の皇帝たち)の例に倣い、恩賞を施すこととする。天下の役人に爵位を三階級授け、……(中略)……民には大宴会(大酺)を五日間許すものとする。」
(建初二年)九月壬辰の日、詔を下した。「鳳凰や黄龍が現れた地区(亭部)については、二年の間、租税と賦役を免除する。また、男子に爵位を二階級授ける。最初に見つけた者には布二十匹を、その近くにいた者には三匹を、太守には三十匹、県令・県長には十五匹、丞・尉にはその半分を授ける。……(後略)」
安帝紀
原文
(延光元年)八月戊子、陽陵園寑火。辛卯、九真言黃龍見無功。
(延光三年)辛亥、濟南上言黃龍見歷城。庚申晦、日有食之。
(延光三年)十二月乙未、琅邪言黃龍見諸縣。
(延光四年)春正月壬午、東郡言黃龍二、麒麟一見濮陽。
現代語訳
(延光元年=122年)八月戊子の日に陽陵の寝殿で火災があった。辛卯の日、九真郡から「黄龍が無功(むこう)の地に現れた」との報告があった。
(延光三年)辛亥の日、済南郡から「黄龍が歴城に現れた」との報告があった。庚申の日(月の末日)、日食が起きた。
(延光三年)十二月乙未の日、琅邪郡から「黄龍が諸々の県に現れた」との報告があった。
(延光四年)春正月壬午の日、東郡から「二頭の黄龍と一頭の麒麟が濮陽(ぼくよう)に現れた」との報告があった。
桓帝紀
原文
(延熹元年)沛國言黃龍見譙。
(延熹四年)秋八月、魏郡言嘉禾生、甘露降。巴郡言黃龍見。
(延熹七年)秋七月庚辰、日有食之。八月、濟陰言黃龍見句陽、金城言黃龍見允街。冬十月乙亥、京師地震。
(延熹九年)己酉、南宮嘉德署黃龍見。千秋萬歲殿火。
現代語訳
(延熹元年=158年)沛国(はいこく)から「黄龍が譙(しょう)の地に現れた」との報告があった。
(延熹四年=161年)秋八月、魏郡から「嘉禾(めでたい稲)が生じ、甘露が降りた」との報告があった。また、巴郡(現在の重慶市付近)から「黄龍が現れた」との報告があった。
(延熹七年)秋七月庚辰の日、日食が起きた。八月、済陰(さいいん)郡から「黄龍が句陽(こうよう)に現れた」との報告があり、金城郡からも「黄龍が允街(いんがい)に現れた」との報告があった。冬十月乙亥の日、京師(都)で地震が起きた。
(延熹九年)己酉の日、南宮の嘉徳署(か徳殿の役所)に黄龍が現れた。この日、千秋万歳殿で火災があった。
霊帝紀
原文
(建寧三年)是歲、鮮卑寇幽州。沛國言黃龍見譙。
現代語訳
(建寧三年=170年)この年、鮮卑(せんぴ)が幽州に侵攻した。また、沛国(はいこく)から「黄龍が譙(しょう)の地に現れた」との報告があった。
朱穆伝
原文
朱樂何列傳:……而明年嚴鮪謀立清河王蒜、又黃龍二見沛國。冀無術学、遂以穆「龍戰」之言為応、……
現代語訳
(後漢の桓帝の即位直後、朱穆が権臣の梁冀に戒めの言葉を贈った)翌年のこと、厳鮪(げんい)が清河王の劉蒜を皇帝に立てようと謀り、また黄龍が二頭、沛国に現れた。梁冀には学問の素養がなかったため、朱穆が(予言として)語った「龍戦(龍が野に戦う=破滅や変革の予兆)」という言葉が、まさにこの黄龍の出現という現象となって応じたのだと考えた。……
楊李翟應曾中離列傳
原文
楊李翟應中離列傳:……帝東巡狩、鳳皇黃龍並集、終贊頌嘉瑞、上述祖宗鴻業、凡十五章、奏上、詔貰還故郡。……
現代語訳
(翟鳳の弟である翟終が、)皇帝(和帝)の東方への巡狩に随行した際、鳳凰と黄龍が共に現れた。翟終はその瑞兆(嘉瑞)を讃える頌(たたえ歌)を作り、あわせて祖先(歴代皇帝)の偉大なる業績を述べた、全十五章からなる文章を奏上した。これを受けた皇帝は、詔を下して(以前の罪により移住させられていた)翟終を故郷の郡へと帰してやった。……
竇何列傳
原文
竇何列傳:……閑者有嘉禾、芝草、黃龍之見。夫瑞生必於嘉士、福至実由善人、在徳為瑞、無徳為災。陛下所行、不合天意、不宜称慶。……
現代語訳
(桓帝の時代、党錮の禁により賢臣が投獄される中、竇武が上疏して諫めて言った、)「……近頃、嘉禾(めでたい稲)が生じ、芝草(霊芝)や黄龍が現れたとの報告がございます。そもそも瑞兆というものは、優れた人物がいるからこそ生まれるものであり、幸福は善人によってもたらされるものです。徳があればそれは『瑞兆』となりますが、徳がなければそれはかえって『災い』となります。現在の陛下の行いは天意にかなっておらず、(これらの現象を)祝い事とするのは不適切でございます。」……
方術列傳
原文
方術列傳:……初、熹平末、黃龍見譙、光禄大夫橋玄問颺:「此何祥也?」颺曰:「其國当有王者興。不及五十年、龍当復見、此其応也。」魏郡人殷登密記之。至建安二十五年春、黃龍復見譙、其冬、魏受禪。
現代語訳
(後漢の)熹平(きへい)年間の末期、黄龍が譙(しょう)に現れた。光禄大夫の橋玄(きょうげん)が、方士の単颺(ぜんよう)に「これは何の兆し(吉祥)か」と問うた。
単颺はこう答えた。「この地から、王となる者が興るでしょう。今から五十年も経たぬうちに、龍が再び現れるはずです。それがその予兆です」。魏郡の殷登(いんとう)という者が、この言葉を密かに記録しておいた。
はたして建安二十五年(220年)の春、黄龍が再び譙に現れた。その年の冬、魏(曹丕)が漢から禅譲を受け、皇帝に即位した。
律曆志中
原文
(延光二年)……太宗遵修、三階以平、黃龍以至、刑犴以錯、五是以備。……元和鳳鳥不当応曆而翔集。……
現代語訳
(安帝の延光二年、暦の改正議論において尚書令の忠が奏上した、)「(前漢の)太宗(文帝)が(古の道を)守り修められた際、三階(三公の位、あるいは星)は平らかになり、黄龍が現れ、刑獄は空になり、五つの福(五福)が備わりました。……(一方、後漢の)元和年間の改暦の際には、鳳凰が(本来なら暦の正しさに応じて現れるはずのないタイミングで)飛来し集まってしまいました。……(このように、暦の善し悪しと瑞兆の出現を安易に結びつけて論じるべきではありません)。」
五行志
原文
(延光三年)濟南言黃龍見歷城、琅邪言黃龍見諸。是時安帝聴讒、免太尉楊震、震自殺。又帝独有一子、以為太子、信讒廃之。是皇不中、故有龍孽、是時多用佞媚、故以為瑞応。明年正月、東郡又言黃龍二見濮陽。
(永康元年)八月、巴郡言黃龍見。時吏傅堅以郡欲上言、内白事以為走卒戲語、不可。太守不聽。……桓帝時政治衰缺、而在所多言瑞応、皆此類也。又先儒言:瑞興非時、則為妖孽、而民訛言生龍語、皆龍孽也。
現代語訳
(安帝の延光三年、)済南郡から「黄龍が歴城に現れた」、琅邪郡から「黄龍が諸県に現れた」との報告があった。この時、安帝は讒言を信じて太尉の楊震を罷免し、楊震は自殺に追い込まれた。また、皇帝の唯一の息子を皇太子としていたが、これも讒言を信じて廃嫡した。このように皇帝が中道(正道)を失ったため、「龍の怪(龍孽)」が現れたのである。当時はおもねる者が多かったため、これを瑞兆(瑞応)と見なしてしまったのだ。翌年正月、東郡からは再び「二頭の黄龍が濮陽に現れた」との報告があった。
(桓帝の永康元年八月、)巴郡から「黄龍が現れた」との報告があった。その時、役人の傅堅は、郡が(瑞兆として)上奏しようとするのを止め、「これは下っ端の者たちの冗談であり、上奏すべきではありません」と進言した。しかし太守は聞き入れなかった。……桓帝の時代、政治は衰え欠けていたが、各地で瑞兆を言い立てる者が多かったのは、皆この類である。また先儒はこう言っている。「瑞兆が時宜を得ずに出現するのは『妖孽(災い)』であり、民がデマで龍の噂を流すのは、皆『龍の怪(龍孽)』である」と。
『五行大義』(6世紀)
第二十一論五帝
原文
……黃帝軒轅氏。……以土承火。位在中央。故曰黃帝。……禮含文嘉云。「黃帝脩兵革、以徳行、則黃龍至、鳳凰来儀。」……
……中央黃帝。体爲軒轅。其人面方。広顙。兌頤。緩唇。背豊厚。順木授金。……
現代語訳
(中央を司る黄帝軒轅氏について、)……彼は土の徳をもって火の徳(神農氏)を継ぎ、位置は中央にある。ゆえに黄帝と呼ぶ。……『礼含文嘉』によれば、「黄帝が兵器や武備を整えつつ、徳行を修めたところ、黄龍が至り、鳳凰が舞い降りた」という。……
……中央の黄帝は、その天体(精)を軒轅(けんえん)という。その相貌は、顔が四角く、額が広く、顎が引き締まり、唇はゆったりとして、背は肉厚で豊かである。(五行の巡りでは)木の徳から順じて受け、金の徳へと授けるのである。……
第二十四論禽蟲
原文
第二十四論禽蟲……家語云、鱗虫三百六十、龍爲之長。……鱗虫之精曰龍。……鱗虫東方。……
尚書。刑德放言。東方。春。蒼龍。其智仁。……
鉤命訣云。……失智則黃龍不見。……
案蔡邕月令章句言。……智聴故事、則黃龍見。……
天官有軒轅黃龍、麒麟之信。信主於土。……
現代語訳
(あらゆる生物の分類について、)……『家語』によれば、鱗を持つ生物(鱗虫)は三百六十種あり、龍はその長である。……鱗虫の精を龍と呼び、これらは東方を司る。……
『尚書刑徳放言』によれば、東方の春を司るのは蒼龍であり、その徳は「智」と「仁」である。……
(しかし一方で、)『鉤命訣』によれば、「もし(統治者が)智を失えば、黄龍はその姿を消す」という。……
蔡邕(さいよう)の『月令章句』によれば、「智をもって古の故事を聴き(学び)とるならば、黄龍が現れる」とされる。……
天官(天文)においては、軒轅(けんえん)星に黄龍がおり、麒麟とともに「信(誠実さ)」を司る。信は土の徳に主導されるものである。……
『太上洞淵召諸天龍王微妙上品』(6~7世紀)
原文
東方青帝青龍王、南方赤帝赤龍王、西方白帝白龍王、北方黑帝黑龍王、中央黃帝黃龍王。
(中略)
復有大水龍王、主鎮中央、随方守鎮、掃除不祥。
(中略)
八萬四千龍王、一時踊躍、天地振動、神龍俱會。
現代語訳
(五行の序列)
「東方の青龍王、南方の赤龍王、西方の白龍王、北方の黒龍王、そして中央の黄帝黄龍王。」
(中略)
(中央の権威)
「さらに大水龍王という者がおり、中央を統括して鎮座し、あらゆる方角を見守り、不祥を払い去る。」
(中略)
(全龍の統率)
「八万四千の龍王たちが一斉に躍動し、天地を震わせ、神龍が集結した。」
『藝文類聚』(624年成立)
卷十
原文
嘉、旼旼穆穆、君子之態。蓋聞其聲、今親其来。厥途靡従、天瑞之徵。茲爾於舜、虞氏以興。濯濯之麟、遊彼霊畤。孟冬十月、君徂郊祀。馳我君輿、帝以享祉。宛宛黃龍、興徳而升。正陽顕見、覚悟黎蒸。於伝載之、云受命所乗。依類託宇、喩以封巒。披芸観之、天人之際已交、上下相発、允答聖王之徳、兢兢翼翼。故曰、於興必慮衰……
現代語訳
(その姿は)美しく、和やかで慎み深く、まさに君子の佇まいである。かつてはその声を聞くのみであったが、今、親しくその到来を目にする。どこから来たのか道筋は分からぬが、これこそ天が瑞兆(めでたいしるし)を示した証である。古(いにしえ)には舜(しゅん)の元に現れ、虞(ぐ)の氏族はそれによって興隆した。輝くばかりの麒麟が、あの神聖な祭場に遊んでいる。初冬の十月、主君が郊外へ祭祀に赴くと、主君の乗る車を走らせ、天帝はその福を享受された。
しなやかに身をくねらせる黄龍が、徳の興隆に応じて昇りゆく。真昼の光の中にその姿をはっきりと現し、多くの民(黎蒸)を悟らせ、感化する。伝承にこれを記して言わく、黄龍は天命を受けた者が乗るものである。類(たぐい)に従ってこの空間に身を寄せ、封禅の山(泰山)にも例えられる。学問を紐解きこれを見れば、天と人の境界は既に交わり、上なる天と下なる人が響き合って、誠に聖王の徳に応えているのである。慎み、敬い、恐れよ。ゆえに言う、「興隆する時には、必ず衰退することを思慮せよ」と……。
巻十一
原文
『雒書霊准聴』曰、有人方面、日衡重華。〈日衡、衡有骨表如日者也。〉握石推、懐神珠。〈推読曰錘。錘、平軽重者也。握石錘、謂知琁璣玉衡之道也。懐神珠、喩有聖智也。〉舜受終、鳳皇儀、黃龍感、朱草生、蓂莢孳。西王母授益地図。〈西王母得益地之図来献。〉
『孟子』曰、鶏初鳴而起、孳孳為善者、舜之徒也。鶏初鳴而起、孳孳為利者、蹠之徒也。〈蹠、盗蹠。〉……
現代語訳
『雒書(らくしょ)霊准聴』に言う。ある人(舜)は顔が四角く、額(衡)には日の形のような骨が突き出ており、目は重瞳(ひとみに二つの瞳がある:重華)であった。〈「日衡」とは、額に日のような骨の表れがある者のことである。〉手には「石の重り(石錘)」を握り、懐には「神聖な珠(神珠)」を抱いていた。〈「推」は「錘」と読み、物の軽重を量り平らげる道具のことである。「石錘を握る」とは、天体の運行を測る琁璣(せんき)玉衡の道を知り尽くしていることを言い、「神珠を懐く」とは、聖なる知恵を具備していることの例えである。〉
舜が(堯から天子の位を)譲り受けると、鳳凰が舞い降りて儀式に寄り添い、その徳に感じ入って黄龍が姿を現し、朱草(めでたい赤い草)が生え、蓂莢(めいきょう:暦を刻む伝説の草)が次々と芽吹いた。さらに西王母が、領土を広げるための地図(益地之図)を授けにやって来た。〈西王母が領土拡大の図を得て、これを献じに来たのである。〉
『孟子』に言う。鶏が初めて鳴く頃に起き出し、励んで善を行う者は、舜の仲間である。鶏が初めて鳴く頃に起き出し、励んで利を求める者は、盗蹠(とうせき:伝説の大泥棒)の仲間である。……
卷六十
原文
抱朴子曰、軍所始舉牙立旗、風氣和調、幡校飄飄、終日不息者、其軍有功。
【賦】吳胡綜大牙賦曰、黃初八年、黃龍見夏口、孫權稱號、因瑞改元、作黃龍大牙、常在軍中、進退視其所向、命綜為賦曰、狼狐垂蒙、實惟兵精……
現代語訳
『抱朴子』に言う。軍が初めて牙旗(軍旗)を掲げた際、風が和らぎ、旗がひらひらと一日中揺れ動いて止まないようであれば、その軍は功績を立てる。
【賦】呉の胡綜(こそう)の『大牙(たいが)の賦』に言う。
「(魏の)黄初八年(西暦227年)、黄龍が夏口(かこう)に現れた。孫権はこれを受けて皇帝を称し、この瑞兆によって元号を改めた。そして、黄龍を描いた大牙(巨大な軍旗)を作らせ、常に軍中に置いた。軍の進退はすべて、その旗の向くところに従ったのである。孫権は胡綜に命じて賦を作らせて言った。狼星や弧星(武勇を司る星)が輝きを垂れるのは、誠に軍勢が精強であることの象徴である。聖なる……」
卷六十二
原文
背共工之幽都、向炎帝之祝融、封巒為之東序、緣石闕之天梯、桂木雜而成行、芳盻嚮之依依、翡翠孔雀、飛而翱翔、鳳皇止而集栖、甘醴涌於中庭兮、激清流之濔濔、黃龍遊而蜿蟺兮、神龜沉於玉泥、離宮特觀、樓比相連、雲起波駭、星布彌山、高巒峻阻、臨眺曠衍、深林蒲葦、涌水清泉、芙蓉菡萏、菱荇蘋蘩、豫章雜木、梗松柞棫、女貞烏勃、桃李棗檍。
現代語訳
(北方の)共工が治める幽都を背にし、(南方の)炎帝の祝融の方角へと向かう。封禅(ほうぜん)の山を東の区切りとし、石闕(せきけつ)の天梯(天へと続く階段)をよじ登る。桂の木が混じり合って列をなし、芳しい香りが漂い、離れがたく漂っている。翡翠や孔雀が空を翔け、鳳凰は止まって木々に宿る。中庭には甘い酒のような泉(甘醴)が湧き出し、清らかな流れが勢いよく満ちあふれている。黄龍は身をくねらせて遊び、神亀は玉のような泥の中に沈んでいる。離宮の景観はひときわ優れ、高楼は軒を連ねている。雲が湧き上がる様子は波の驚くがごとく、建物は星のごとく山一面に散らばっている。高い山々は険しくそびえ立ち、見渡せば広大な景色が広がる。深い森には蒲や葦が茂り、清らかな泉が湧き出している。芙蓉や蓮の花が咲き、菱、荇(あさざ)、蘋(浮き草)、蘩(よもぎ)が水面に浮かぶ。豫章(クスノキ)などの雑木、梗(ニレ)、松、柞(ハハソ)、棫(シラカシ)、女貞(ネズミモチ)、烏勃、桃、李、棗(ナツメ)、檍(あずさ)が茂っている。
卷九十四
原文
棄之水濱。有狗名后倉。銜而歸。而成人。遂為徐之嗣君。純䈥無骨。曰偃王。偃王躬行仁義。衆附之。得朱弓朱矢之瑞。周穆王命楚滅之。后倉将死。生角尾。實黃龍也。
『述異記』曰:陸機少時。頗好獵。在呉。豪客献快犬。名曰黄耳。機後仕洛。常将自随。此犬黠慧。能解人語。又嘗借人三百里外。犬識路自還。一日至家。
現代語訳
(生まれた卵が不吉として)水辺に捨てられた。そこに后倉(こうそう)という名の犬がおり、それをくわえて帰り、温めたところ子供が生まれた。それが後の徐(じょ)の国の後継ぎとなった。その子は筋(すじ)ばかりで骨がなかったため、偃王(えんおう)と呼ばれた。偃王が自ら仁義を行ったところ、多くの民が彼に付き従い、赤い弓と赤い矢の瑞兆を授かった。周の穆王(ぼくおう)は楚(そ)に命じてこれを滅ぼさせた。その際、犬の后倉は死ぬ間際に、角と尾が生えた。その正体は、実は黄龍であった。
『述異記』に言う。陸機(りくき)は若い頃、狩猟をたいそう好んでいた。呉にいた時、ある豪客が「黄耳(こうじ)」という名の足の速い名犬を献上した。陸機が後に洛陽で仕官した際も、常にこの犬を連れて歩いた。この犬は非常に賢く、人の言葉を理解した。また、かつて三百里外の人に貸し出した際も、犬は自ら道を覚えて帰ってきた。ある日のこと、家に着くと…
巻九十六
原文
又曰、鄭大水、龍鬥于時門之外洧淵、國人請禜焉、子產弗許、曰、我鬥、龍不我覿也、龍鬥、我獨何覿焉、攘之則彼其室也、吾無求於龍、龍亦無求於我、乃止。
河圖曰、黃金千歳生黃龍、青金千歳生青龍、赤白龍、〈○句有脫文、〉玄金千歳生玄龍。
莊子曰、朱伻漫學屠龍於支離益、殫千金、技成而無所用其巧。
現代語訳
(『左伝』に)また言う。鄭の国で大洪水が起きた際、時門の外にある洧(い)の淵で龍が戦った。国人はこれに対し、災いを払うための祭祀(禜:えい)を行いたいと願い出たが、賢臣の子産はこれを許さず、こう言った。「我々が戦っても、龍が我々を見に来ることはない。ならば龍が戦っているのを、どうして我々が見に行く必要があろうか。彼らを追い払おうとしても、そこ(淵)は彼らの住処である。我々が龍に求めるものは何もなく、龍もまた我々に求めるものはないのだ」。こうして祭祀は中止された。
『河図』に言う。黄金が千歳を経ると黄龍が生まれ、青金が千歳を経ると青龍が生まれる。赤金(からは赤龍)、白金(からは白龍)が生まれ、玄金が千歳を経ると玄龍が生まれる。
『荘子』に言う。朱伻漫(しゅほうまん)は、龍を屠る術を支離益(しりえき)に学んだ。千金もの家財を使い果たし、技を成し遂げたが、その巧妙な技を振るう場所(龍そのもの)はどこにもなかった。
巻九十八
原文
白虎通曰、天下太平、符瑞所以來至者、以為王者承天順理、調和陰陽、……徳至淵泉、即黃龍見、醴泉涌、河出龍圖、雒出龜書、江出大貝、海出名珠、……
論衡曰、儒者論太平瑞應、……其盛茂者、致黃龍麒麟鳳皇、夫儒者之言、溢於過實、……
瑞應圖曰、黃龍者、四龍之長、四方之正色、神靈之精也、能巨細、能幽明、能短能長、乍存乍亡、王者不漉池而漁、則應和氣而遊於池沼。
又曰、舜東巡狩、黃龍負圖、置舜前。
孝經援神契曰、徳至水泉、則黃龍見者、君之象也。
呂氏春秋曰、禹南省方、過江、黃龍負舟、舟中之人、五色無主、禹曰、吾受命於天、……何憂龍哉、龍俛而去。
古今注曰、章帝建初三年、黃龍見汝南項氏田廬中、長五丈餘、高二丈、光耀廬舍、及樹皆黃。
現代語訳
『白虎通』に言う。天下が太平になり瑞兆が訪れるのは、王が天の意思を継ぎ、陰陽を調和させたからである。(王の)徳が淵泉(水の底深く)にまで至れば、黄龍が現れ、醴泉が湧き出し、河から龍図、洛水から亀書、大河から大貝、海から名珠が出る。
『論衡』に言う。儒学者は太平の瑞兆を論じる際、その最上のものとして黄龍、麒麟、鳳凰を挙げる。しかし儒学者の言には誇張が多い。瑞兆そのものは嘘ではないかもしれないが、麒麟や鳳凰のような大瑞はともかく、小瑞については疑わしいものも多い。
『瑞応図』に言う。黄龍は四色の龍の長であり、四方の中心の色(黄)を司る神霊の精髄である。大きさも明暗も長さも自在に変幻し、現れたかと思えば消える。王が池の水を出し切って魚を獲るような強欲なことをしなければ、王の和気に感じて池や沼に遊びに来る。
また言う。舜が東方に巡幸した際、黄龍が図(河図)を背負って現れ、舜の前に置いた。
『孝経援神契』に言う。徳が水泉に至れば黄龍が現れる。これは君主の象徴である。
『呂氏春秋』に言う。大禹が南方を視察し長江を渡った際、黄龍が船を背負い上げた。船中の人々は恐怖で顔色を失ったが、禹は「私は天命を受けている、龍ごときを何で憂えようか」と言った。すると龍はうつむいて去っていった。
『古今注』に言う。後漢の章帝の建初三年、黄龍が汝南の農家の庭に現れた。長さは五丈(約11.5m)余り、高さは二丈(約4.6m)あり、放つ光で家も木々もすべて黄金色に輝いた。
巻九十九
原文
石勒傳曰、莊〈○太平御覽九百零七引晉書作茬、〉平民師懽、上黑兔、令曰、按記應白兎為瑞、此黑兔曰祥、外撿典舊、議者以為黑兔見、水徳之祥、往公孫臣以為漢家土行、當有黃龍為瑞、後黃龍見於成紀、遂從土徳、今大趙革命、以水受金、夫兔陰獸、玄水色、黑色見、以表應行、以推之、黑兔上應。
現代語訳
『石勒(せきろく)伝』に言う。
茬平(しへい)の民である師懽(しぼう)が、黒い兎を献上した。(後趙の王である石勒は)命令を下してこう言った。
「記録によれば本来は白兎が瑞兆とされるべきだが、この黒兎もまた『祥(さいわい)』である。古の典籍を調べさせたところ、議官たちは『黒兎が現れるのは、水徳の瑞兆である』と考えた。かつて(前漢の)公孫臣は、漢の王朝は『土徳(土の性質)』であるから、必ず黄龍が瑞兆として現れるはずだと主張した。その後、実際に成紀に黄龍が現れたため、漢は正式に土徳に従うこととなった。今、我が大趙(後趙)は革命を起こし、(前代の)金の徳を受けて『水徳』を継承している。そもそも兎は陰の獣であり、玄(黒)は水の色である。黒色の兎が現れたことは、我が王朝の五行(水徳)に応じる表れである。推察するに、黒兎の出現は天の応えである」
巻一百
原文
物理論曰、陽盈而過、故致旱。
神農求雨書曰、春夏雨日而不雨、甲乙命為青龍、又為火龍東方、小童舞之、丙丁不雨、命為赤龍南方、壯者舞之、戊己不雨、命為黃龍、壯者舞之、庚辛不雨、命為白龍、又為火龍西方、老人舞之、壬癸不雨、命為黑龍北方、老人舞之、如此不雨、潛處、闔南門、置水其外、開北門、取人骨埋之。
現代語訳
『物理論』に言う。陽の気が満ち溢れて度を越したために、ひでりが起こるのである。
『神農求雨書』に言う。
春や夏、雨が降るべき日に降らない場合、(日の干支が)甲・乙の日であれば青龍を作らせ、また東方に火龍を作って、小童(こども)にこれを舞わせる。
丙・丁の日であれば赤龍を南方に作らせ、壮者(わかもの)にこれを舞わせる。
戊・己の日であれば黄龍を作らせ、壮者にこれを舞わせる。
庚・辛の日であれば白龍を作らせ、また西方に火龍を作って、老人(おきな)にこれを舞わせる。
壬・癸の日であれば黒龍を北方に作らせ、老人にこれを舞わせる。
これでも雨が降らなければ、静かな場所に籠もり、南門を閉ざしてその外に水を置き、北門を開いて人骨を取って埋めるのである。
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