黒龍の資料

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『墨子』貴義(紀元前4世紀〜紀元前3世紀頃)
原文
子墨子北之齊、遇日者。日者曰:「帝以今日殺黑龍於北方、而先生之色黑、不可以北。」子墨子不聽、遂北、至淄水、不遂而反焉。日者曰:「我謂先生不可以北。」子墨子曰:「南之人不得北、北之人不得南、其色有黑者有白者、何故皆不遂也?且帝以甲乙殺青龍於東方、以丙丁殺赤龍於南方、以庚辛殺白龍於西方、以壬癸殺黑龍於北方、若用子之言、則是禁天下之行者也。是圍心而虛天下也、子之言不可用也。」
現代語訳
墨子が北の斉の国へ向かおうとした際、一人の占い師に出会った。占い師は言った。「天帝は今日、北方で黒龍を殺しました。あなたの顔色は黒いので、今日は北へ行ってはなりません。」墨子はこれを聞き入れず、そのまま北へ進んだが、淄水(しすい)に辿り着いたものの、渡ることができずに引き返した。
占い師は「だから北へ行ってはならないと言ったのです」と得意げに言ったが、墨子はこう反論した。「南の者が北へ行けず、北の者が南へ来られないというが、彼らの中には顔色が黒い者も白い者もいる。なぜ皆、渡ることができなかったのか。そもそも、天帝が甲乙の日(東)に青龍を殺し、丙丁の日(南)に赤龍を殺し、庚辛の日(西)に白龍を殺し、壬癸の日(北)に黒龍を殺すというお前の論法に従えば、天下の通行はすべて禁じられてしまう。それは人心を縛り、天下を無人の野とするに等しい。お前の言説は採用するに値しない。」
『春秋繁露』求雨(紀元前2世紀頃)
原文
求雨:冬舞龍六日、禱於名山以助之。家人祠井。無壅水。為四通之壇於邑北門之外、方六尺、植黑繒六。其神玄冥、祭之以黑狗子六、玄酒、具清酒、膊脯。祝齊三日、衣黑衣、祝禮如春。以壬癸日為大黑龍一、長六丈、居中同在。又為小龍五、各長三丈、於北方。皆北鄉、其間相去六尺。老者六人、皆齊三日、衣黑衣而舞之。尉亦齊三日、服黑衣而立之。蝦池皆如春。
現代語訳
冬の雨乞いの儀式では、六日間龍を舞わせ、名山に祈祷して助けを求める。家々では井戸の神を祀り、水を滞らせないようにする。町の北門の外に、四方に通じる六尺四方の祭壇を築き、六本の黒い絹の旗を立てる。その神は(北方の神である)玄冥であり、六匹の黒い子犬、玄酒(水)、清酒、干し肉を供えて祭る。祝官は三日間斎戒し、黒い衣を着て、春の儀礼に準じて執り行う。
(十干の)壬・癸の日を選び、長さ六丈の「大黒龍」を一体作り、中央に配置する。さらに長さ三丈の「小龍」を五体作り、北方に配置する。これらはすべて北を向かせ、間隔を六尺とする。六人の老人が三日間斎戒し、黒い衣を着てこれを舞わせる。役人もまた三日間斎戒し、黒い衣を着て儀式に立ち会う。蛙を放つ池のしきたりなどは、すべて春の儀礼と同様とする。
『淮南子』覧冥訓(紀元前2世紀頃)
原文
覽冥訓:往古之時、四極廢、九州裂、天不兼覆、地不周載、火爁炎而不滅、水浩洋而不息、猛獸食顓民、鷙鳥攫老弱、於是女媧煉五色石以補蒼天、斷鼇足以立四極。殺黑龍以濟冀州、積蘆灰以止淫水。蒼天補、四極正、淫水涸、冀州平、狡蟲死、顓民生。……(中略)……考其功烈、上際九天、下契黃壚、名聲被後世、光暉重萬物。乘雷車、服駕應龍、驂青虯、援絕瑞、席蘿圖、黃雲絡、前白螭、後奔蛇、浮游消搖、道鬼神、登九天、朝帝於靈門、宓穆休於太祖之下。
現代語訳
遠い古の時代、天を支える四方の柱が折れ、大地(九州)は裂け、天は地を覆い尽くせず、地は天を載せきれなくなった。猛火が燃え続けて消えず、洪水はどこまでも広がり、猛獣は善良な民を食らい、猛禽は老弱な者をさらった。
そこで女媧(じょか)は、五色の石を練って欠けた天を補い、大亀の足を切り取って四方の柱として立て直した。そして、黒龍を殺して(洪水の被害が激しかった)冀州(きしゅう)を救い、芦の灰を積み上げて溢れ出す水を止めた。こうして天は補われ、四方の柱は正され、洪水は引き、冀州は平穏を取り戻した。凶悪な生き物は死に絶え、民は生き延びることができたのである。
……(女媧の)その功績を考えれば、上は九天に届き、下は黄土の底にまで及んでいる。雷の車に乗り、応龍を御者に、青虯を添え馬とし、前には白螭、後ろには奔蛇を従えて、九天に登り、天帝にまみえたのである。
『史記』(紀元前1世紀頃)
封禅書
原文
封禪書:秦始皇既并天下而帝、或曰:「黃帝得土德、黃龍地螾見。夏得木德、青龍止於郊、草木暢茂。殷得金德、銀自山溢。周得火德、有赤烏之符。今秦變周、水德之時。昔秦文公出獵、獲黑龍、此其水德之瑞。」於是秦更命河曰「德水」、以冬十月為年首、色上黑、度以六為名、音上大呂、事統上法。
現代語訳
秦の始皇帝が天下を統一して皇帝となった時、ある者がこう言った。「(かつて)黄帝が土徳(の力)を得た時には、黄龍や巨大なミミズが現れました。夏朝が木徳を得た時には、青龍が郊外に姿を見せ、草木が青々と茂りました。殷朝が金徳を得た時には、銀が山から溢れ出しました。周朝が火徳を得た時には、赤いカラスの瑞兆がありました。今、秦が周に代わったのは、水徳の時代(が来たこと)を意味します。かつて秦の文公が猟に出た際、黒龍を捕らえたことがありますが、これこそが水徳の瑞兆(ふさわしい証拠)です。」
これを受けて始皇帝は、黄河の名を「徳水」と改め、冬の十月を年始とし、衣服や旗の色は黒を最上位とした。また、数は「六」を基準とし、音律は大呂を尊び、政務はすべて法によって統制した。
趙世家
原文
趙世家:原過從、後、至於王澤、見三人、自帶以上可見、自帶以下不可見。與原過竹二節、莫通。曰:「為我以是遺趙毋卹。」原過既至、以告襄子。襄子齊三日、親自剖竹、有朱書曰:「趙毋卹、余霍泰山山陽侯天使也。三月丙戌、余將使女反滅知氏。女亦立我百邑、余將賜女林胡之地。至于後世、且有伉王、赤黑、龍面而鳥噣、鬢麋髭髯、大膺大胸、修下而馮、左袵界乘、奄有河宗、至于休溷諸貉、南伐晉別、北滅黑姑。」襄子再拜、受三神之令。
現代語訳
(趙襄子の従者である)原過が遅れて晋陽へ向かう途中、王澤(おうたく)という場所で三人の男に出会った。彼らの姿は腰から上は見えたが、腰から下は霞んで見えなかった。彼らは原過に、中が通じていない二節の竹を手渡し、「私のために、これを趙毋卹(むじゅつ/襄子の名)に届けよ」と言った。
原過が到着して襄子に報告すると、襄子は三日間斎戒し、自ら竹を割った。中には赤い文字でこう記されていた。「趙毋卹よ、私は霍太山(かくたいざん)の山陽侯の使いである。三月の丙戌の日、私はお前に知氏(智氏)を滅ぼさせよう。お前も私を祀るための百邑を立てよ。そうすれば、お前に林胡の地を授けよう。のちの世に至れば、強力な王が現れるだろう。その肌は赤黒く、龍の顔(龍面)と鳥の嘴(くちばし)のような鋭い面貌を持ち、立派な髭を蓄え、胸板は厚く、下半身はすらりとして上半身は力強い。左前の服をまとい、戦車を駆って黄河の神(河宗)の領地までをも支配下に置き、遠く北方の異民族(諸貉など)を平らげ、南は晋の地を攻略し、北は黒姑を滅ぼすであろう。」
襄子は再拝し、三神の命令を謹んで受けた。
『漢書』(1世紀頃)
郊祀志上
原文
郊祀志上:臘、獲黑龍、此其水德之瑞。」於是秦更名河曰「德水」、以冬十月為年首、色尚黑、度以六為名、音上大呂、事統上法。
現代語訳
(秦の文公が)臘(ろう:年末の祭祀)の際に、黒龍を捕らえた。これこそが(秦が)水徳(の時代)であることの瑞兆(めでたい証拠)であるとされた。これを受けて(後の始皇帝は)黄河の名を「徳水」と改め、冬の十月を年始とし、衣服や旗の色は黒を最上位とした。また、数は「六」を基準とし、音律は大呂(だいりょ)を尊び、政務はすべて厳格な法によって統制した。
五行志下
原文
五行志下:惠帝二年正月癸酉旦、有兩龍見於蘭陵廷東里溫陵井中、至乙亥夜去。劉向以為龍貴象而困於庶人井中、象諸侯將有幽執之禍。其後呂太后幽殺三趙王、諸呂亦終誅滅。京房易傳曰:「有德遭害、厥妖龍見井中。」又曰:「行刑暴悪、黒龍従井出。」
現代語訳
(前漢の)恵帝二年正月癸酉の朝、二頭の龍が蘭陵廷の東里にある温陵の井戸の中に現れ、乙亥の夜に去った。劉向(りゅうきょう)はこれについて、「龍は尊貴な存在の象徴であるが、それが(卑近な)庶民の井戸に囚われるのは、諸侯が幽閉・拘束される災いの兆しである」と考えた。その後、実際に呂太后によって三人の趙王が幽殺され、呂氏一族も最終的に滅ぼされた。『京房易伝』には「徳のある者が害に遭う時、その災いの予兆として龍が井戸の中に現れる」とあり、また「刑罰が残暴で悪辣に行われると、黒龍が井戸から現れる」とも記されている。
傅常鄭甘陳段伝
原文
時成都侯商新為大司馬衛將軍輔政、素不善湯。……(中略)……後東萊郡黑龍冬出、人以問湯、湯曰:「是所謂玄門開。微行數出、出入不時、故龍以非時出也。」又言當復発徙、伝相語者十余人。丞相御史奏「湯惑衆不道、妄称詐帰異於上、非所宜言、大不敬。」廷尉増寿議、……(中略)……制曰:「廷尉増寿当是。湯前有討郅支単于功、其免湯為庶人、徙辺。」
現代語訳
(成帝の時代、かつての英雄・陳湯が汚職等で告発されていた頃)東萊郡(現在の山東省付近)にて、冬だというのに黒龍が現れた。人々がこれについて陳湯に問うと、彼はこう答えた。「これは、いわゆる『玄門(天の北門、あるいは奥深い理)』が開いたということだ。陛下(成帝)がしばしばお忍びで外出され、その出入りが不規則であるために、龍もまた時ならぬ時に現れたのだ。」さらに陳湯は「(都の昌陵の工事中止で引き揚げた人々を)また移住させることになるだろう」とも予言し、その言葉は十数人に伝わった。
これを受けた丞相や御史は、「陳湯は民衆を惑わし、不当に天災を皇帝の行動に結びつけて批判した(不敬である)」と上奏した。廷尉(法務官)の議論の結果、不敬罪に当たるとされ、陳湯はかつての功績(郅支単于の討伐)に免じて死罪は免れたものの、庶人に落とされ辺境へ流刑となった。
谷永杜鄴伝
原文
音薨、成都侯商代為大司馬衛將軍、永乃遷為涼州刺史。奏事京師訖、當之部、時有黑龍見東萊、上使尚書問永、受所欲言。永對曰:
輒上聞、則商周不易姓而迭興、三正不變改而更用。夏商之將亡也、行道之人皆知之、晏然自以若天有日莫能危、是故惡日廣而不自知、大命傾而不寤。《易》曰:「危者有其安者也、亡者保其存者也。」陛下誠垂寬明之聽、無忌諱之誅、使芻蕘之臣得盡所聞於前、不懼於後患、直言之路開、則四方眾賢不遠千里、輻湊陳忠、群臣之上願、社稷之長福也。
漢家行夏正、夏正色黑、黑龍、同姓之象也。龍陽德、由小之大、故為王者瑞應。未知同姓有見本朝無繼嗣之慶、多危殆之隙、欲因擾亂舉兵而起者邪?將動心冀為後者、殘賊不仁、若廣陵、昌邑之類?臣愚不能處也。元年九月黑龍見、其晦、日有食之。今年二月己未夜星隕、乙酉、日有食之。六月之間、大異四發、二而同月、三代之末、春秋之亂、未嘗有也。臣聞三代所以隕社稷喪宗廟者、皆由婦人與群惡沈湎於酒。書曰:「乃用婦人之言、自絕于天;」「四方之述逃多罪。是宗是長、是信是使。」《詩》云:「燎之方陽、寧或滅之?赫赫宗周、褒姒滅之!」《易》曰:「濡其首、有孚失是。」秦所以二世十六年而亡者、養生泰奢、奉終泰厚也。二者陛下兼而有之、臣請略陳其效。
現代語訳
(大将軍王鳳が)亡くなり、成都侯の王商が代わって大司馬衛将軍となりました。谷永はそこで涼州刺史へと転任になりました。京師(長安)で事務報告を終え、任地へ向かおうとしていた時、東萊郡に黒龍が現れました。天子(成帝)は尚書を遣わして谷永に問い、言いたいことを述べさせました。谷永は次のように答えました。
(不吉な兆候を)その都度報告すれば、殷(商)や周のように王朝の姓が変わることもなく交互に興隆し、三正(暦法)を改めることもなく運用し続けられます。夏や殷が滅びようとする時、道を行く人々は皆それを知っていましたが、(君主は)安らかに構え「自分は天に太陽があるようなものだ(誰も私を危うくできない)」と思い込んでいました。それゆえ、悪行が広まっても自覚せず、天命が傾いても悟りませんでした。『易』には「危ういと思う者はその安泰を維持できる者であり、滅びると思う者はその生存を保てる者である」とあります。陛下が誠に寛大で明敏な耳を傾け、忌憚のない意見を罰することなく、身分の低い臣下にも見聞きしたことを御前で尽くさせ、後患を恐れさせずに直言の道を開くなら、四方の賢者たちは千里を遠しとせず集まり、忠義を尽くすでしょう。これこそ群臣の至上の願いであり、国家の長久の福であります。
漢家は夏の正朔(暦)を用いており、夏の正色は「黒」です。黒龍は同姓(皇族)の象徴です。龍は陽の徳であり、小から大へと成長するため、本来は王者の瑞祥(吉兆)です。しかし、同姓の者の中に、今の朝廷に世継ぎがいないことを幸いに、危うい隙を突いて動乱に乗じ兵を挙げようとする者がいるのでしょうか? あるいは、広陵王や昌邑王のような残虐不仁な者で、跡継ぎになることを心に期している者がいるのでしょうか? 私のような愚臣には判断しかねます。(永始)元年九月に黒龍が現れ、その月末に日食がありました。今年二月己未の夜には流星群が降り、乙酉にはまた日食がありました。わずか六ヶ月の間に重大な異変が四度も起こり、二度も同じ月に重なりました。三代(夏商周)の末期や春秋の乱世でさえ、これほどのことはありませんでした。私が聞き及ぶところでは、三代が国家を滅ぼし宗廟を失った原因は、すべて女性と悪人たちが酒に溺れたことにあります。『書経』には「女性の言葉を用い、自ら天とのつながりを絶った」「四方の逃亡者や犯罪者を尊び、信じて用いた」とあります。『詩経』には「燃え盛る火を誰が消せようか。輝かしい周の国を、褒姒(ほうじ)が滅ぼしたのだ」とあります。『易』には「(酒に溺れて)頭まで濡らせば、誠実さがあってもそれを失う」とあります。秦が二代十六年で滅びたのは、生者の養育が贅沢すぎ、死者の葬儀が厚すぎたからです。陛下はこの二つの弊害を兼ね備えておられます。その現れを、略儀ながら陳述いたしましょう。
『漢紀』孝成皇帝紀(2世紀頃)
原文
冬黑龍見東萊。谷永對曰:「漢家行夏正、夏正色黑、黑龍、同姓之象也。龍陽德、由小之大、故為王者瑞應。未知同姓有見本朝無繼嗣之慶、多危殆之隙、欲因擾亂舉兵而起者邪?將動心冀為後者、殘賊不仁、若廣陵、昌邑之類?臣愚不能處也。」
(中略)
陳湯素與解萬年相善、昌陵之計、湯與及之。又見黑龍、或私問湯、湯曰:「是謂玄門開。上數出入、不時微行、故龍非時出也。」是時丞相奏廢昌陵邑中屋、奏未下、湯以為上須順眾心、昌陵亦恐復發徙也。湯坐非所宜言、大不敬、故徙。
現代語訳
冬、東萊郡に黒龍が現れた。これに対し谷永は次のように答えた。「漢王朝は夏の正朔(暦)を用いており、夏の正色は黒です。ゆえに黒龍は(皇室の)同姓の象徴であります。龍は陽の徳であり、小から大へと成長するため、本来は王者の瑞兆(ふさわしい証拠)です。しかし、(今のこの現れは)同姓の者の中に、本朝に世継ぎの慶事がないことや、危うい隙が多いことを見て、動乱に乗じて兵を挙げようとする者がいる予兆でしょうか。あるいは、広陵王や昌邑王のような残虐不仁な者で、後継者になることを目論んでいる者がいるのでしょうか。私のような愚臣には判断いたしかねます。」
(中略)
陳湯はもともと解万年と親しく、昌陵の造営計画にも関わっていた。また(東萊に)黒龍が現れた際、ある者が密かに陳湯に尋ねると、陳湯はこう言った。「これは『玄門(天の門)』が開いたということだ。天子(成帝)がしばしば夜中に出歩き、時ならぬ忍び歩き(微行)をされるから、龍も時ならぬ時に現れたのだ。」この時、丞相は昌陵の建物を撤去するよう奏上していたが、裁可はまだ下りていなかった。陳湯は、天子は民心に従うべきであり、昌陵の造営や移住が再開されることを恐れて(中止を確実にするために)発言したのだが、「分を越えた不適切な発言であり、大不敬である」との罪に問われ、流刑に処された。
『太平記』巻第二十 黒丸城初度軍事付足羽度々軍事」(14世紀後半成立)
暦応元年(1338年)5月2日、新田義貞は自ら六千余騎を率いて国府へ出向き、五箇所へ五千余騎の兵を差し向けて足羽城を攻めさせた。
(中略)
まず一番手として、義貞の義弟である一条少将行実が、五百余騎を率いて江守から押し寄せ、黒龍(くづれの)明神の前で合戦を繰り広げた。 しかし、行実の軍は形勢が悪く、一度本陣へと引き返した。
(中略)
この新田義貞と斯波高経による一連の戦火によって、黒龍神社は焼失した。この時、神霊は白龍となって山上に飛び去り、木の上にとまったと伝えられている。これにより、このあたりを「竜ヶ岡」と呼ぶようになった。
社寺縁起
舟橋黒龍神社(477年)
御祭神:高龗大神(黒龍大明神)、闇龗大神(白龍大明神)、男大迹天皇(継体天皇)
鎮座地:福井県福井市舟橋町9-29
雄略天皇21年(477年)、男大迹天皇(後の継体天皇)が、越前国の日野・足羽・黒龍の三大河川の治水大工事を行われ、越前平野を拓かれた際に、北陸随一の大河である黒龍川(後の九頭竜川)の守護と国家鎮護産業興隆を祈願され、高龗大神と闇龗大神の御二柱の御霊を高尾村黒龍村毛矢の社に創祀された。この儀により、黒龍大明神の信仰が連綿と現在まで受け継がれている。
また、高龗大神(黒龍大明神)は、天地の初めから国土を守護してきた四方位を象徴する四柱の神々「四大明神」の一柱を祀るものとされた。四大明神とは、東の常陸国に鹿島大明神、南の紀伊国に熊野大権現、西の安芸国に厳島大明神、そして、北の越前国に黒龍大明神として祭祀されてきた。
毛谷黒龍神社(477年)
御祭神 :高龗大神、闇龗大神、男大迹天皇
鎮座地:福井県福井市毛矢3丁目8−1
毛谷黒龍神社の創建は「毛谷神社」と称し、二十一代雄略天皇の御代(477年)、男大迹王(後の継体天皇)が越前国の日野、足羽、黒龍の三大河の治水の大工事を行われ、北国無双の大河であった黒龍川(九頭龍)の守護と国家鎮護産業興隆を祈願され、高龗大神、闇龗大神の御二柱の御霊を高尾郷黒龍村毛谷の杜に創祀された。この後、毛谷の杜より舟橋に社殿が移築された。
竹生島宝厳寺 黒龍堂(1970年)
黒龍は、八大龍王の一尊。龍王は、大海に住み雨を降らす神である。また、釈尊の誕生時には歓喜の清浄水(清めの雨)を降らせたと伝えられ、修行者の修道無難、道念増進の守護神でもある。隣に立つ大木は、黒龍が湖より登ってくると伝えられる神木である。黒龍堂は、昭和45年(1970)大阪・岡橋氏により建立された。
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