蘇民将来 ― 疫病除けの民間信仰の神 ―
蘇民将来(そみんしょうらい)は、スサノオ(牛頭天王)を助けたことで その加護を受けたという伝説に基づく民間信仰の神のこと。
伝説で蘇民将来の子孫とする"しるし"があれば加護を受けられるということで、疫病除けや除災招福の神として信仰されている。
基本情報
概要
蘇民将来とは、日本各地に伝わる説話に基づく民間信仰の神で、疫病除けや除災招福の神として信仰されている。夏場に各地の神社で行われる夏越の祓の儀式である「茅の輪くぐり」の起源とされる伝説に登場していることで知られており、その伝説は以下のような内容になっている。
「武塔神という神が旅の途中で裕福であった巨旦将来に宿を求めたが断られた。仕方なく貧乏であった蘇民将来に宿を求めると、蘇民将来は快く受け入れ、さらに栗飯でもてなした。後に再びこの地を訪れた武塔神は自らをスサノオと名乗り、蘇民将来と妻に茅の輪を腰に着けておくよう命じると、その夜に蘇民将来と妻を除く皆をすべて滅ぼして『後の世に疫病が流行っても蘇民将来の子孫と名乗り、茅の輪を腰に付けるものは疫病を免れるだろう』と告げた」
これは鎌倉時代に編纂された『釈日本紀』の中で「備後国風土記逸文」として引用されたもので、広島県の疫隈国社(現・素盞嗚神社)の縁起とされている。この伝説の基づき、蘇民将来の御守は主に国津神系のスサノオを祀る神社で授与されており、その由来も上記の伝説に基づくとされることが多い(愛知県の津島神社や島根県の佐田町に伝わるものなど)。
一方、牛頭天王を祀る京都の八坂神社では『祇園牛頭天王縁起』に基づいており、祇園祭では「厄除けちまき」が授与されるなど、これにまつわる様式で祭りが執り行われている。『祇園牛頭天王縁起』の内容は「備後国風土記逸文」と大体一緒だが、蘇民将来を尋ねる神が牛頭天王であり、巨旦将来に報復する描写も詳細で、かつ、呪術めいた難解なものになっているという違いがある。また、どこかしら旧約聖書の出エジプト記12章「主の過越」を彷彿とさせる内容でもあるので、これに関連性を唱える説もあるようだ。
八坂神社の縁起を紐解くと、飛鳥時代に高句麗から渡来した伊利之使主(いりしおみ)によって創建されたと伝えられており、創建当初は祇園天神を祀っていたとされる(八坂神社によれば新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるとも)。それが鎌倉時代までに牛頭天王と習合したと考えられているようだ。そもそもスサノオと牛頭天王は神仏習合において同神と考えられているため、多少の違いはあれど同一の説話が別々の伝説として伝わったのかも知れない。ちなみに京都府にある長岡京跡から「蘇民将来之子孫者」と書かれた呪符木簡が発掘され、これが現存する最古の蘇民将来符とされている(784~794年のもの)。
また、別の説話として、三重県伊勢市の二見町には「牛頭天王が龍宮へ向かう途中に宿を求めて、裕福な巨旦の家を訪ねるたものの宿を断れれたので、貧しい蘇民将来に宿を頼んだところ快く了承し、手厚くもてなされたので御礼に裕福になる玉を与えた。すると、後に巨旦の家は衰え、蘇民の家は栄えた」といった『祇園牛頭天王縁起』の内容を要約したようなものがあり、これが民話として伝えられている。
なお、二見町にある松下社(蘇民社)では祭神にスサノオを祀っており、境内には蘇民将来を祀る蘇民社もある。この蘇民社では、古くから「蘇民将来子孫」と書いた桃符を配布しており、伊勢志摩地区の人々はそれを注連縄に吊るして厄を逃れたとされる。この風習は今でも「蘇民将来子孫家門」と書かれた木札のついた注連飾として伝えられており、伊勢地方では民家や店舗の玄関先に注連飾が飾られている光景が年中見られる。余談だが、この民話に登場する巨旦と蘇民の家は今の松下社(蘇民社)の付近だったといわれているようだ。
蘇民将来の御守には以下のようなものがある
・岩木山神社(青森県):紙製の御札で呪文と晴明紋が記される
・陸奥国分寺薬師堂(宮城県):八角柱で房のついたつり下げ型になっている
・黒石寺(岩手県):六角柱のつり下げ型になっている
・笹野観音(山形県):八角柱の形状で、紙製で梵字や五芒星を記したものになっている
・信濃国分寺八日堂(長野県):六角柱のこけし型になっている
・円福寺(千葉県):木製板状で梵字と呪文が記されている
・竹寺(埼玉県):六角柱のこけし型になっている
・妙楽寺(長野県):木製板状で梵字と呪文・晴明紋が記されている
・津島神社(愛知県):六角柱のこけし型になっている
・松下社(三重県):注連飾りの形状をしており、木札に「蘇民将来子孫家門」などと記されている
・八坂神社(京都府):祇園祭では「厄除粽」が、7月31日には疫神社にて「茅之輪守」が授与される。他に八角木守もある
・祇園神社(兵庫県):六角柱のこけし型で、紙の一端をこより状にしたものもある
・陸奥国分寺薬師堂(宮城県):八角柱で房のついたつり下げ型になっている
・黒石寺(岩手県):六角柱のつり下げ型になっている
・笹野観音(山形県):八角柱の形状で、紙製で梵字や五芒星を記したものになっている
・信濃国分寺八日堂(長野県):六角柱のこけし型になっている
・円福寺(千葉県):木製板状で梵字と呪文が記されている
・竹寺(埼玉県):六角柱のこけし型になっている
・妙楽寺(長野県):木製板状で梵字と呪文・晴明紋が記されている
・津島神社(愛知県):六角柱のこけし型になっている
・松下社(三重県):注連飾りの形状をしており、木札に「蘇民将来子孫家門」などと記されている
・八坂神社(京都府):祇園祭では「厄除粽」が、7月31日には疫神社にて「茅之輪守」が授与される。他に八角木守もある
・祇園神社(兵庫県):六角柱のこけし型で、紙の一端をこより状にしたものもある
蘇民将来の祭りには以下のようなものがある
・茅の輪くぐり:毎年6月30日に夏越の大祓として全国の社寺で実施される
・蘇民祭:岩手県を中心に日本各地に伝わる裸祭りで、奥州市の黒石寺蘇民祭が特に有名である
・蘇民祭:岩手県を中心に日本各地に伝わる裸祭りで、奥州市の黒石寺蘇民祭が特に有名である
蘇民将来は陰陽道に取り入れられ、陰陽道の方位神としては天徳神という名で呼ばれている。なお、天徳神は「この方位に向かって事を行えば、福を招き開運する」という吉神とされている。
一方で弟の巨旦将来は方位神としては金神と呼ばれている。金神は「在する方位に対してはあらゆることが凶とされ、特に土を動かしたり造作・修理・移転・旅行などが忌まれる。この方位を犯すと家族7人に死がおよび、家族が7人いない時は隣の家の者まで殺される」と凶神とされている。
データ
種 別 | 伝説上の人物(民間信仰の神) |
---|---|
資 料 | 『備後国風土記』『祇園牛頭天王縁起』「二見の民話」 |
年 代 | 不明 |
備 考 | 方位神としては天徳神と呼ばれる |
資料
備後国風土記逸文(釈日本記に引用されたもの)
備後国(広島東部)の風土記によると、疫隈国社(現・素盞嗚神社)がある。疫隈国社の由来は次の通り。
昔、北海の武塔神(むとうしん)が南海の神の娘と結婚するために旅に出たのだが、その日に着かずにすっかり日暮れになってしまった。その旅路には将来という二人の兄弟が住んでおり、兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は貧乏であったが、弟の巨旦将来(こたんしょうらい)はとても裕福で、家屋を百戸を持つほどであった。
そこで、武塔神は豊かな弟の巨旦将来を訪ねて宿を求めたが無下に断られてしまったので、仕方なく貧乏な兄の蘇民将来を訪ねた。すると、蘇民将来は快く宿を了承し、さらに栗飯などの食事を以て手厚く持て成してくれた。
その後、武塔神は旅立って無事に南海の神の娘と結婚することができた。それから時を経た後、武塔神は八柱の御子を率いて再び将来の住む地に赴き、将来兄弟に対して相応の報答をすると告げた。
そして、かつての恩人である蘇民将来の家を訪ね、蘇民将来とその妻に「茅の輪(ちのわ)を腰の上に着ける」ように命じた。その夜、武塔神は蘇民将来とその妻を除く皆を悉く滅ぼしていき、「我は速須佐雄能神(はやすさのおのかみ)である。後の世に疫病が流行っても『蘇民将来の子孫と名乗り、茅の輪を腰に付ける者』は疫病から免れるだろう」と告げたという。
昔、北海の武塔神(むとうしん)が南海の神の娘と結婚するために旅に出たのだが、その日に着かずにすっかり日暮れになってしまった。その旅路には将来という二人の兄弟が住んでおり、兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は貧乏であったが、弟の巨旦将来(こたんしょうらい)はとても裕福で、家屋を百戸を持つほどであった。
そこで、武塔神は豊かな弟の巨旦将来を訪ねて宿を求めたが無下に断られてしまったので、仕方なく貧乏な兄の蘇民将来を訪ねた。すると、蘇民将来は快く宿を了承し、さらに栗飯などの食事を以て手厚く持て成してくれた。
その後、武塔神は旅立って無事に南海の神の娘と結婚することができた。それから時を経た後、武塔神は八柱の御子を率いて再び将来の住む地に赴き、将来兄弟に対して相応の報答をすると告げた。
そして、かつての恩人である蘇民将来の家を訪ね、蘇民将来とその妻に「茅の輪(ちのわ)を腰の上に着ける」ように命じた。その夜、武塔神は蘇民将来とその妻を除く皆を悉く滅ぼしていき、「我は速須佐雄能神(はやすさのおのかみ)である。後の世に疫病が流行っても『蘇民将来の子孫と名乗り、茅の輪を腰に付ける者』は疫病から免れるだろう」と告げたという。
祇園牛頭天王縁起
浄瑠璃の教主十二の大願を起こした牛頭天皇の起源を紐解くと、須弥山(しゅみせん)の半腹にある豊饒国に武答天皇(むとうてんのう)という国王がおり、武答天皇には一人の太子がいた。その太子は、7歳にして身の丈が7尺5寸(2.85m)あり、頭は3尺の牛頭(1.14m)で、また3尺(1.14m)の赤い角があった。武答天皇は希代の太子を御物と思い、大王の位を退いて太子に譲った。その太子の御名を牛頭天皇(ごずてんのう)という。
時に牛頭天皇は淋しく思って后の宮を向かおうとしたが、その御姿に皆が驚き恐れをなして、近づこうとする女人はいなかった。これによって牛頭天皇は心を慰める頼りの者がおらず、常に酒宴を催して遊び呆けていた。
ある時、ある者が「山野や海辺に旅立って水草・藻草・うろくすを取り、砂取りをしてください。その後、酒宴を開けば山鳩が飛んで来て盃の上に止まり鸚鵡のように饒舌に喋りだすでしょう。その時、君に嫁ぐべき后について問うてみてください」と言った。
そこで、そのようにすると山鳩が飛んできたので、大臣が「大王の后に相応しいのは誰だ?」と尋ねると、山鳩は「大海に住まう龍王には数多の娘がいる。第一は八歳成仏女、第二はちんりんき女、第三は婆利采女(はりさいじょ)だ。第三の娘である婆利采女(はりさいじょ)こそ天皇の后となるのに相応しい」と答えた。大臣は「いかにして迎えに行けば良いというのだ?」と問うと、山鳩は「君自ら数千万の眷属とともに龍宮に向かうべし」と答えた。
牛頭天皇の一行は山鳩の教えた通りに龍宮に向かったが、その日に着くことはできず、周辺に宿屋も見当たらなかった。そこで、里人に「どこか宿を貸してくれる家はないか?」と尋ねると、里人は「この地には古単(こたん)という長者がおりますので、そこで宿を貸してもらってはどうでしょう?」と答えた。すると、大臣は早速 使節を遣わして古単に宿を頼んでみたが断られてしまった。そこで、大臣を行かせたがこれも断られ、最後に牛頭天皇自ら宿を頼んでも邪見にされて受け入れられることはなかった。これに激しく怒った牛頭天皇は「このように邪見な輩を世に置いてはおけない。蹴り殺してやるべきだ」と言ったが、大臣が「御祝事の時にそのようなことをしては罰が下るでしょう」などと言ってと諌めたので、牛頭天皇は他の家を当たることにした。
しばらくして一軒の家を見つけたので その家を覗いてみたが、家主はとても貧しい生活をしているようだった。牛頭天皇は宿に相応しくないと思ったがやむを得ず宿を頼むと、快く迎えてくれた。その家は屋根や垣も粗末なとても立派とは言えない代物で、邸内の敷物は莚(ちかやむしろ)で作られていた。家主は牛頭天皇のために一枚の敷物を用意すると「これは新しい茅萱莚です。天皇様はこちらをどうぞ」といって敷き、大臣以下には古い茅萱莚を渡した。そして、牛頭天皇一行のために栗飯を用意した。
夜が明けると一行は早速旅立つ準備を整えた。その時、牛頭天皇は家主に「人は慈悲を以って本分とする。この度 宿を貸してもらったことは感嘆の極みだった。そなたの名は何という?」と問うと、家主は「私の名は蘇民将来(そみんしょうらい)と言います」と答えた。牛頭天皇は「そなたの志を受けて、貧家なるこの家が栄えるように玉を与えよう。これは牛玉(ごおう)という玉である。これを持つものは諸願が悉く成就して、満足しないことなど無くなるだろう」と言って蘇民将来に玉を授けると、龍宮に向かって旅立った。
その後、牛頭天皇は婆利采女の宮に入って8年を過ごし、その間に八人の王子を儲けた。この子らは七男一女で、第一の皇子を相光天皇と名づけ、第二を満王(魔王天王)と名づけ、第三を倶摩羅天王と名づけ、第四を徳達神天王と名づけ、第五を羅持天王と名づけ、第六を達尼漢天王と名づけ、第七を侍神相天王と名づけ、第八を宅相神勝天王と名づけた。
そうして後、牛頭天皇は妻子を連れて豊饒国に帰ろうと思い立ち、その帰路に蘇民将来の家を御宿所に定めた。このとき、蘇民将来は心中で「仰せ願わくば、富貴の人となった今、もう一度天皇を我が家に泊めて恩返しができるなら、生前の大慶となるだろう」と願った。このように、蘇民将来がいつものように牛玉に向かって人と向き合うように諸願を語っていると、邸内に七珍万宝が湧き出した。そこにちょうどよく、牛頭天皇一行が現れたので、蘇民将来は大変な喜びに喜悦の眉を開き、頭を地につけて牛頭天皇に恭敬を奉った。
牛頭天皇の眷属の中には"見る目かぐ鼻"という人がおり、天皇は彼に「お前たちは古単の家に向かい、どうなったか調べてこい」と勅命を与えた。彼はこれを承り、古単の家に向かってみると、神変は人に見えないというように変化を感じられなかった。このとき、古単が相師を呼んで「このごろ怪異が多いのだが、どういうことだろうか?」と相談すると、相師は「占いによると、三日中に大凶が訪れたのは天皇の御罰とでました」と答えた。それを聞いた古単は驚いて「どんな祈祷をしてでも災難から逃してくれ」というと、相師は「どんな祭をしたところで、天皇の御罰から逃れることは難しい。身体に危険が起こるでしょう」と答えた。古単が相師の袂を引き止めて「願わくば祈祷の勤めを示せ」というと、相師は「千人者大法の法師を伴って七日七夜の間 大般若経を講読すれば、この難を逃れられるかもしれません」と答えた。これに古単は大いに悦んで、言われたとおりに千人の法師を招いて大般若経を購読させた。
一連の様子を見ていた"見る目かぐ鼻"は、牛頭天皇のもとに走り帰り、見てきた一部始終を伝えた。そこで牛頭天皇は八万四千の眷属に向けて「古単の家に向かって呪い罰するべし。このような邪見な輩を放っておいては従類眷属の末代の悩みとなろう。皆悉く蹴殺すべし」と勅命を下した。この勅命を以って古単を罰するべく、眷属らが古単の家に向かうと、そこでは千人の法師が大般若経を講じている最中だった。この六百巻の経は黒鉄40丈6重の辻となり、経の箱は天蓋となっていた。更に以って入れる余地がない。よって、すぐに走り帰って牛頭天皇にこの旨を伝えた。
牛頭天皇は「急ぎ帰って、古単の家を巡見せよ。千人の法師の中に片目に傷のある者がいる。この者は飲酒して居眠りしており、経を読んではいない。また、酔っているので文字を読もうとしても間違ってしまうだろう。その者が居る場所から乱れ入り、皆で蹴殺すべし」と勅命を下した。その時、蘇民将来が「
古単将来には一人娘がいます。どうかその娘は許してくださいませんか。この娘は正しい心を持っております」などと申し上げた。
すると、牛頭天皇は「ならば、茅萱で輪を作り、赤絹の糸を伝えて"蘇民将来の孫なり"との云札をつけよ。そうすれば災難を免れるであろう。その娘を一人残し、それ以外は皆蹴り殺してしまえ。今が末代といえども古単においては皆罰すべきだ。誠に慳貪放逸のものは諸々が天宝の罰を被るべきだ。しかるに蘇民は貧賤第一の者で慈悲を重んじるが故、擁護の徳を被る。そのうち古単を呪詛する者は天皇の眷属として御封戸(特別な臣民)とするべきを誓約しよう。
しかるにこの世の中の祝儀、これを呪詛することを表すものである。12月末のこの人々は酒を作ること、これは古単の血を表す。"つきあたらけ"と名付ける餅は、古単の肉をかたどるものである。餅を輪に入れたものは古単の骨を表す。赤餅は古単の身の血である。"ぎつちやう"という玉を打つことは古単の眼を表す。15日に注連縄を焼くことは古単の死骸を表す。悪魔を罰し、凶邪を排する心である。しかる間、蘇民は子孫に及ぶまで擁護がある。
八皇子は皆、年中の守護をする役目と定める。第一の皇子は大歳神とし、春の3ヶ月を担う役の神である。第二の皇子を大将軍とし、四方を司らせる。治めること三年ずつなり。第三の皇子はしとくの神として秋の3ヶ月を担う。第四の皇子は冬の3ヶ月を担う。第五の皇子は黄幡神として満平成収など十二支を司る役の神である。第六の皇子はふくりう神として八専を行う。第七の皇子は豹尾神とし、四季の土用を各々18日を行う役の神である。第八の皇子は大壱神として夏の3ヶ月を担う役の神である。この八皇子の眷属は八万四千六百五十四(84,654)の神である。その外十二鬼神・七鬼神らを伴わせてこの蘇民を守護するものである。
正月に堂社において牛玉宝印をつくことはこれが謂われである。また、"おこない"と言って堂社を叩くのは八万四千六百五十(84,650)の全神眷属が古単が家に乱れ入って垣壁を打つことを表すものなり。また五月五日に作る粽(ちまき)は古単の髻(もとどり)、早蒲(蒲瓜)は頭(かしら)の髪である。また六月一日に天段神が下り行く時、正月餅を取り出して"古単の死骨"と言えば天皇は大いに歓喜するだろう。しかる間に未代の人々も深く古単を降伏し、深く天皇の御封戸に預かるべき者である」と勅を述べた。
於当社御祷秘伝曰号寶曰陀羅尼或一遍十篇百遍千遍万遍唱之祈之
南無大悲牛頭天王 武答天神 婆利采女 八大王子 相光天王 魔王天王 倶摩羅天王 徳達神天王 羅持天王 達尼漢天王 侍神相天王 宅相神勝天王 蛇毒気神王 興官受福神 摩訶羅大黒天神 各々 八万四千六百五十余神等眷属
まことに今、厄病の難を逃れようとする者は、6月朔日より15日いたるまで、毎日7度「南無天役神南無牛頭天皇厄病消除災難擁護」と唱えれば、息災で安穏寿命長となろう。もし不信の輩が居れば、たちまち天皇の御罰を被って疫病に罹ること疑いなし。深くこの旨を守るべき者なり。
右以往昔草創之古本令書写者也
時 寛永第拾壱年 歳舎甲戌戊辰月中澣二戊戌日
時に牛頭天皇は淋しく思って后の宮を向かおうとしたが、その御姿に皆が驚き恐れをなして、近づこうとする女人はいなかった。これによって牛頭天皇は心を慰める頼りの者がおらず、常に酒宴を催して遊び呆けていた。
ある時、ある者が「山野や海辺に旅立って水草・藻草・うろくすを取り、砂取りをしてください。その後、酒宴を開けば山鳩が飛んで来て盃の上に止まり鸚鵡のように饒舌に喋りだすでしょう。その時、君に嫁ぐべき后について問うてみてください」と言った。
そこで、そのようにすると山鳩が飛んできたので、大臣が「大王の后に相応しいのは誰だ?」と尋ねると、山鳩は「大海に住まう龍王には数多の娘がいる。第一は八歳成仏女、第二はちんりんき女、第三は婆利采女(はりさいじょ)だ。第三の娘である婆利采女(はりさいじょ)こそ天皇の后となるのに相応しい」と答えた。大臣は「いかにして迎えに行けば良いというのだ?」と問うと、山鳩は「君自ら数千万の眷属とともに龍宮に向かうべし」と答えた。
牛頭天皇の一行は山鳩の教えた通りに龍宮に向かったが、その日に着くことはできず、周辺に宿屋も見当たらなかった。そこで、里人に「どこか宿を貸してくれる家はないか?」と尋ねると、里人は「この地には古単(こたん)という長者がおりますので、そこで宿を貸してもらってはどうでしょう?」と答えた。すると、大臣は早速 使節を遣わして古単に宿を頼んでみたが断られてしまった。そこで、大臣を行かせたがこれも断られ、最後に牛頭天皇自ら宿を頼んでも邪見にされて受け入れられることはなかった。これに激しく怒った牛頭天皇は「このように邪見な輩を世に置いてはおけない。蹴り殺してやるべきだ」と言ったが、大臣が「御祝事の時にそのようなことをしては罰が下るでしょう」などと言ってと諌めたので、牛頭天皇は他の家を当たることにした。
しばらくして一軒の家を見つけたので その家を覗いてみたが、家主はとても貧しい生活をしているようだった。牛頭天皇は宿に相応しくないと思ったがやむを得ず宿を頼むと、快く迎えてくれた。その家は屋根や垣も粗末なとても立派とは言えない代物で、邸内の敷物は莚(ちかやむしろ)で作られていた。家主は牛頭天皇のために一枚の敷物を用意すると「これは新しい茅萱莚です。天皇様はこちらをどうぞ」といって敷き、大臣以下には古い茅萱莚を渡した。そして、牛頭天皇一行のために栗飯を用意した。
夜が明けると一行は早速旅立つ準備を整えた。その時、牛頭天皇は家主に「人は慈悲を以って本分とする。この度 宿を貸してもらったことは感嘆の極みだった。そなたの名は何という?」と問うと、家主は「私の名は蘇民将来(そみんしょうらい)と言います」と答えた。牛頭天皇は「そなたの志を受けて、貧家なるこの家が栄えるように玉を与えよう。これは牛玉(ごおう)という玉である。これを持つものは諸願が悉く成就して、満足しないことなど無くなるだろう」と言って蘇民将来に玉を授けると、龍宮に向かって旅立った。
その後、牛頭天皇は婆利采女の宮に入って8年を過ごし、その間に八人の王子を儲けた。この子らは七男一女で、第一の皇子を相光天皇と名づけ、第二を満王(魔王天王)と名づけ、第三を倶摩羅天王と名づけ、第四を徳達神天王と名づけ、第五を羅持天王と名づけ、第六を達尼漢天王と名づけ、第七を侍神相天王と名づけ、第八を宅相神勝天王と名づけた。
そうして後、牛頭天皇は妻子を連れて豊饒国に帰ろうと思い立ち、その帰路に蘇民将来の家を御宿所に定めた。このとき、蘇民将来は心中で「仰せ願わくば、富貴の人となった今、もう一度天皇を我が家に泊めて恩返しができるなら、生前の大慶となるだろう」と願った。このように、蘇民将来がいつものように牛玉に向かって人と向き合うように諸願を語っていると、邸内に七珍万宝が湧き出した。そこにちょうどよく、牛頭天皇一行が現れたので、蘇民将来は大変な喜びに喜悦の眉を開き、頭を地につけて牛頭天皇に恭敬を奉った。
牛頭天皇の眷属の中には"見る目かぐ鼻"という人がおり、天皇は彼に「お前たちは古単の家に向かい、どうなったか調べてこい」と勅命を与えた。彼はこれを承り、古単の家に向かってみると、神変は人に見えないというように変化を感じられなかった。このとき、古単が相師を呼んで「このごろ怪異が多いのだが、どういうことだろうか?」と相談すると、相師は「占いによると、三日中に大凶が訪れたのは天皇の御罰とでました」と答えた。それを聞いた古単は驚いて「どんな祈祷をしてでも災難から逃してくれ」というと、相師は「どんな祭をしたところで、天皇の御罰から逃れることは難しい。身体に危険が起こるでしょう」と答えた。古単が相師の袂を引き止めて「願わくば祈祷の勤めを示せ」というと、相師は「千人者大法の法師を伴って七日七夜の間 大般若経を講読すれば、この難を逃れられるかもしれません」と答えた。これに古単は大いに悦んで、言われたとおりに千人の法師を招いて大般若経を購読させた。
一連の様子を見ていた"見る目かぐ鼻"は、牛頭天皇のもとに走り帰り、見てきた一部始終を伝えた。そこで牛頭天皇は八万四千の眷属に向けて「古単の家に向かって呪い罰するべし。このような邪見な輩を放っておいては従類眷属の末代の悩みとなろう。皆悉く蹴殺すべし」と勅命を下した。この勅命を以って古単を罰するべく、眷属らが古単の家に向かうと、そこでは千人の法師が大般若経を講じている最中だった。この六百巻の経は黒鉄40丈6重の辻となり、経の箱は天蓋となっていた。更に以って入れる余地がない。よって、すぐに走り帰って牛頭天皇にこの旨を伝えた。
牛頭天皇は「急ぎ帰って、古単の家を巡見せよ。千人の法師の中に片目に傷のある者がいる。この者は飲酒して居眠りしており、経を読んではいない。また、酔っているので文字を読もうとしても間違ってしまうだろう。その者が居る場所から乱れ入り、皆で蹴殺すべし」と勅命を下した。その時、蘇民将来が「
古単将来には一人娘がいます。どうかその娘は許してくださいませんか。この娘は正しい心を持っております」などと申し上げた。
すると、牛頭天皇は「ならば、茅萱で輪を作り、赤絹の糸を伝えて"蘇民将来の孫なり"との云札をつけよ。そうすれば災難を免れるであろう。その娘を一人残し、それ以外は皆蹴り殺してしまえ。今が末代といえども古単においては皆罰すべきだ。誠に慳貪放逸のものは諸々が天宝の罰を被るべきだ。しかるに蘇民は貧賤第一の者で慈悲を重んじるが故、擁護の徳を被る。そのうち古単を呪詛する者は天皇の眷属として御封戸(特別な臣民)とするべきを誓約しよう。
しかるにこの世の中の祝儀、これを呪詛することを表すものである。12月末のこの人々は酒を作ること、これは古単の血を表す。"つきあたらけ"と名付ける餅は、古単の肉をかたどるものである。餅を輪に入れたものは古単の骨を表す。赤餅は古単の身の血である。"ぎつちやう"という玉を打つことは古単の眼を表す。15日に注連縄を焼くことは古単の死骸を表す。悪魔を罰し、凶邪を排する心である。しかる間、蘇民は子孫に及ぶまで擁護がある。
八皇子は皆、年中の守護をする役目と定める。第一の皇子は大歳神とし、春の3ヶ月を担う役の神である。第二の皇子を大将軍とし、四方を司らせる。治めること三年ずつなり。第三の皇子はしとくの神として秋の3ヶ月を担う。第四の皇子は冬の3ヶ月を担う。第五の皇子は黄幡神として満平成収など十二支を司る役の神である。第六の皇子はふくりう神として八専を行う。第七の皇子は豹尾神とし、四季の土用を各々18日を行う役の神である。第八の皇子は大壱神として夏の3ヶ月を担う役の神である。この八皇子の眷属は八万四千六百五十四(84,654)の神である。その外十二鬼神・七鬼神らを伴わせてこの蘇民を守護するものである。
正月に堂社において牛玉宝印をつくことはこれが謂われである。また、"おこない"と言って堂社を叩くのは八万四千六百五十(84,650)の全神眷属が古単が家に乱れ入って垣壁を打つことを表すものなり。また五月五日に作る粽(ちまき)は古単の髻(もとどり)、早蒲(蒲瓜)は頭(かしら)の髪である。また六月一日に天段神が下り行く時、正月餅を取り出して"古単の死骨"と言えば天皇は大いに歓喜するだろう。しかる間に未代の人々も深く古単を降伏し、深く天皇の御封戸に預かるべき者である」と勅を述べた。
於当社御祷秘伝曰号寶曰陀羅尼或一遍十篇百遍千遍万遍唱之祈之
南無大悲牛頭天王 武答天神 婆利采女 八大王子 相光天王 魔王天王 倶摩羅天王 徳達神天王 羅持天王 達尼漢天王 侍神相天王 宅相神勝天王 蛇毒気神王 興官受福神 摩訶羅大黒天神 各々 八万四千六百五十余神等眷属
まことに今、厄病の難を逃れようとする者は、6月朔日より15日いたるまで、毎日7度「南無天役神南無牛頭天皇厄病消除災難擁護」と唱えれば、息災で安穏寿命長となろう。もし不信の輩が居れば、たちまち天皇の御罰を被って疫病に罹ること疑いなし。深くこの旨を守るべき者なり。
右以往昔草創之古本令書写者也
時 寛永第拾壱年 歳舎甲戌戊辰月中澣二戊戌日
牛頭天王と蘇民将来(三重県伊勢市二見町の民話)
昔、あるところに牛頭天王(ごずてんのう)という人がいた。牛頭天王が嫁が欲しいと思っていると、そこに鳩が飛んできて「龍宮城へ行きなさい」と告げたので、龍宮城を目指して旅立つことにした。
旅路の途中で日が暮れてきたので、辺りで宿を貸してくれる家を探そうと、牛頭天王はその地で最も裕福な巨旦(ごたん)の家を訪ねた。そこで牛頭天王が巨旦に宿を頼むと、意地の悪い巨旦は「うちは貧しいから泊められません」と嘘をついて断った。
困った牛頭天王は蘇民(そみん)の家を訪ねて宿を頼むと、貧しいながらも心優しい蘇民は「どうぞ、汚れていますが」と言って家の中に招き、牛頭天王に粟飯を炊いてもてなした。その翌日、牛頭天王は出発する前に泊めてもらったお礼にと、宝物の珠を蘇民に渡した。この珠は心の優しい人が持つとお金が貯まるというものだった。
その後、牛頭天王は龍宮城にて嫁を娶り、8人の子を儲けた。8年の後、牛頭天王は自分の生まれた国に帰ることにし、その途中で蘇民を訪ねて家に泊めたもらった。その時、蘇民は長者なっており、それを羨んだ巨旦も牛頭天王を家に泊めようとしたが、意地悪は変わらなかったので逆に次々と悪いことばかり起こったのだった。一方、蘇民はいつまでも幸せに過ごしたという。
この牛頭天王という人は悪を追い払う神様であり、蘇民の子孫は代々 牛頭天王が教えた「蘇民将来」と書いた木を身に着けていた。それが御守となって幸せに暮らせたという言い伝えが残っているので、今でも伊勢地方ではこれを注連縄にとりつけて玄関口に飾り、魔除けの御守としているのである。
旅路の途中で日が暮れてきたので、辺りで宿を貸してくれる家を探そうと、牛頭天王はその地で最も裕福な巨旦(ごたん)の家を訪ねた。そこで牛頭天王が巨旦に宿を頼むと、意地の悪い巨旦は「うちは貧しいから泊められません」と嘘をついて断った。
困った牛頭天王は蘇民(そみん)の家を訪ねて宿を頼むと、貧しいながらも心優しい蘇民は「どうぞ、汚れていますが」と言って家の中に招き、牛頭天王に粟飯を炊いてもてなした。その翌日、牛頭天王は出発する前に泊めてもらったお礼にと、宝物の珠を蘇民に渡した。この珠は心の優しい人が持つとお金が貯まるというものだった。
その後、牛頭天王は龍宮城にて嫁を娶り、8人の子を儲けた。8年の後、牛頭天王は自分の生まれた国に帰ることにし、その途中で蘇民を訪ねて家に泊めたもらった。その時、蘇民は長者なっており、それを羨んだ巨旦も牛頭天王を家に泊めようとしたが、意地悪は変わらなかったので逆に次々と悪いことばかり起こったのだった。一方、蘇民はいつまでも幸せに過ごしたという。
この牛頭天王という人は悪を追い払う神様であり、蘇民の子孫は代々 牛頭天王が教えた「蘇民将来」と書いた木を身に着けていた。それが御守となって幸せに暮らせたという言い伝えが残っているので、今でも伊勢地方ではこれを注連縄にとりつけて玄関口に飾り、魔除けの御守としているのである。
蘇民将来子孫家門のいわれ
夫婦岩で知られる二見浦の近くにはこんもりと茂る松下社の森がある。昔からスサノオを祀る松下社の辺りは、伊勢神宮に深いゆかりがあり、御茅(みかや)を献納する里でもあった。
これは、かつて この森に住んでいた蘇民(そみん)と巨旦(こたん)という兄弟の物語である。
昔々、スサノオはアマテラスの怒りに触れて神々の住む高天原を追放されて北の海に住んでいた。スサノオが成年になったとき、温暖な南の海に住む神の娘を娶とりたいと思って、南の国に旅に出ることにした。
山や川を越えて各地を旅して歩いたスサノオは、やがて伊勢の地に到着した。この時には すでに日が沈みかけ、疲れもだいぶ溜まっていた。丁度「みわたの国」に差し掛かった時には日はどっぷりと暮れていたので、旅の疲れを癒やすために宿を貸してくれる者を探すことにした。
スサノオが歩いていると、薄暗がりの中にこんもりとした森が見え、その中に灯火も見える。そこで近づいてみると、立派な門構えの屋敷が見えてきた。この屋敷には、里一番の長者である巨旦将来(こたんしょうらい)が住んでおり、門の周りには太い松や檜が茂り、多くの家や倉が立ち並んでいる様子も見える。さらに進むと、やがて大きな母屋が見えてきた。
スサノオは母屋の門を叩いて、家主に宿を貸してくれるよう声をかけた。すると、豪華な造りの家の奥から巨旦が顔を出し、家の中から眩しく漏れる灯火が、深く一礼するスサノオのやつれた姿を照らしだした。
巨旦は、スサノオの貧相な身なりを見るなり「なんと汚らしい。そんなに汚れた格好をしている者を我が家に泊めることはできぬ。さあ、出て行ってくれ」と追い返した。しかし、スサノオが頭を下げて丁寧に頼み続けていると、巨旦は森の向こうに住む蘇民に頼むよう教えて、さっさと戸を閉めてしまった。
スサノオは、仕方なく教えられた通りに蘇民将来(そみんしょうらい)の家を訪ねて歩くことにした。
スサノオが暗闇の中を歩いていると森の外れに小さな灯りが見え、それを手がかりに進むと やがて粗末な造りの小屋が見えてきた。周りには茅や芒が高々と茂っており、なんともみすぼらしく見える。
スサノオは小屋の戸を叩き、宿を貸してくれるよう頼むと、小屋から出てきた蘇民は「それは お困りでしょう。遠い所から遥々おいで下さいました。こんな所でよろしければ、どうぞお泊まり下さい」と快く迎え入れ、スサノオのために藁を敷いて寝床をつくり、蘇民の妻も粟飯を蒸してスサノオをもてなした。
スサノオは蘇民夫婦の温かいもてなし大変喜んで粟飯を食べ、気持ちよく床に就いて旅の疲れを癒やした。
その夜半、スサノオは「あわさ」という北の国から恐ろしい悪疫が襲ってくることを察し、蘇民を起こして このことを伝え、蘇民に茅(ちがや)を刈り集めさせた。スサノオは その茅で輪を編むと「これを茅垣(ちがき)にして囲んでおけば、心配はいらぬ。悪疫も逃げ去っていくだろう」と言い、茅の輪を家の周りに張りめぐらせて、また床に就いた。
翌朝、その日は晴天で天気が良かったが、里の外に出ているものは誰一人いなかった。どうやら、どこの家も悪疫にやられて病に倒れてしまったらしい。蘇民は驚いたが「我が家だけが助かったとは、なんとも有難いことよ」とスサノオが作った茅の輪の不思議な力に救われたことに感謝した。
スサノオは、旅立つ前に蘇民に「慈悲深い蘇民よ。我はスサノオである。これからどんな疫病が流行っても『蘇民将来子孫家門(そみんしょうらいしそんけのもん)』と書いて門口に掲げておけば、その災いから免れるであろう」と言い残し、旅立って行った。
これ以来、蘇民の家は代々栄えるようになり、いつの頃からか伊勢の地方では新年の注連縄(しめなわ)に魔除けとして「蘇民将来の符」を吊るすようになった。この門符はスサノオを祀る松下社で頒布されており、松下社の森は「蘇民の森」と呼ばれるようになったという。
これは、かつて この森に住んでいた蘇民(そみん)と巨旦(こたん)という兄弟の物語である。
昔々、スサノオはアマテラスの怒りに触れて神々の住む高天原を追放されて北の海に住んでいた。スサノオが成年になったとき、温暖な南の海に住む神の娘を娶とりたいと思って、南の国に旅に出ることにした。
山や川を越えて各地を旅して歩いたスサノオは、やがて伊勢の地に到着した。この時には すでに日が沈みかけ、疲れもだいぶ溜まっていた。丁度「みわたの国」に差し掛かった時には日はどっぷりと暮れていたので、旅の疲れを癒やすために宿を貸してくれる者を探すことにした。
スサノオが歩いていると、薄暗がりの中にこんもりとした森が見え、その中に灯火も見える。そこで近づいてみると、立派な門構えの屋敷が見えてきた。この屋敷には、里一番の長者である巨旦将来(こたんしょうらい)が住んでおり、門の周りには太い松や檜が茂り、多くの家や倉が立ち並んでいる様子も見える。さらに進むと、やがて大きな母屋が見えてきた。
スサノオは母屋の門を叩いて、家主に宿を貸してくれるよう声をかけた。すると、豪華な造りの家の奥から巨旦が顔を出し、家の中から眩しく漏れる灯火が、深く一礼するスサノオのやつれた姿を照らしだした。
巨旦は、スサノオの貧相な身なりを見るなり「なんと汚らしい。そんなに汚れた格好をしている者を我が家に泊めることはできぬ。さあ、出て行ってくれ」と追い返した。しかし、スサノオが頭を下げて丁寧に頼み続けていると、巨旦は森の向こうに住む蘇民に頼むよう教えて、さっさと戸を閉めてしまった。
スサノオは、仕方なく教えられた通りに蘇民将来(そみんしょうらい)の家を訪ねて歩くことにした。
スサノオが暗闇の中を歩いていると森の外れに小さな灯りが見え、それを手がかりに進むと やがて粗末な造りの小屋が見えてきた。周りには茅や芒が高々と茂っており、なんともみすぼらしく見える。
スサノオは小屋の戸を叩き、宿を貸してくれるよう頼むと、小屋から出てきた蘇民は「それは お困りでしょう。遠い所から遥々おいで下さいました。こんな所でよろしければ、どうぞお泊まり下さい」と快く迎え入れ、スサノオのために藁を敷いて寝床をつくり、蘇民の妻も粟飯を蒸してスサノオをもてなした。
スサノオは蘇民夫婦の温かいもてなし大変喜んで粟飯を食べ、気持ちよく床に就いて旅の疲れを癒やした。
その夜半、スサノオは「あわさ」という北の国から恐ろしい悪疫が襲ってくることを察し、蘇民を起こして このことを伝え、蘇民に茅(ちがや)を刈り集めさせた。スサノオは その茅で輪を編むと「これを茅垣(ちがき)にして囲んでおけば、心配はいらぬ。悪疫も逃げ去っていくだろう」と言い、茅の輪を家の周りに張りめぐらせて、また床に就いた。
翌朝、その日は晴天で天気が良かったが、里の外に出ているものは誰一人いなかった。どうやら、どこの家も悪疫にやられて病に倒れてしまったらしい。蘇民は驚いたが「我が家だけが助かったとは、なんとも有難いことよ」とスサノオが作った茅の輪の不思議な力に救われたことに感謝した。
スサノオは、旅立つ前に蘇民に「慈悲深い蘇民よ。我はスサノオである。これからどんな疫病が流行っても『蘇民将来子孫家門(そみんしょうらいしそんけのもん)』と書いて門口に掲げておけば、その災いから免れるであろう」と言い残し、旅立って行った。
これ以来、蘇民の家は代々栄えるようになり、いつの頃からか伊勢の地方では新年の注連縄(しめなわ)に魔除けとして「蘇民将来の符」を吊るすようになった。この門符はスサノオを祀る松下社で頒布されており、松下社の森は「蘇民の森」と呼ばれるようになったという。
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