虬 / 大虬 / 虯 / 大虯 / 美豆知【みづち / みずち】
珍奇ノート:大虬(ミヅチ) ― 岡山県に伝わる大蛇のような怪物 ―

大虬(みづち / みずち)とは、『日本書紀』に登場する大蛇のような怪物のこと。

毒を吐いて人々を害していたが、笠臣県守によって退治されたと伝えられる。


基本情報


概要


大虬は、仁徳天皇の時代に吉備国の中国の川島河(現在の岡山県の高梁川)に棲んでいた怪物で、毒を吐いて人々を害していたとされる。表記については、異体字を用いて「大虯」と記されることもある。また、万葉仮名を用いて「美豆知」と記されることもある。

『日本書紀』によれば、仁徳天皇67年に吉備国の川島河に棲んで通りかかる人々を毒で死なせていたため、笠臣県守(かさのおみ あがたもり)が討伐に向かった。県守は三つの蓋付き瓢(ひさご)を水に投げ入れて「虬よ、もし瓢を沈められたら退散しよう。沈められなければ必ず斬り殺す」と誓約(うけい)した。大虬は鹿に化けて挑んだが沈めるのに失敗し、ついに斬り殺された。さらに、その眷属もすべて討たれて川の水が血で染まったため、その場所は「県守淵」と呼ばれるようになったという。この大虬の姿については原文に明記されていないため、どのような姿だったかは不明である。

一方で、岡山県井原市にある縣主神社には「今から1500年前、木之子の岩ヶ市・鳴尾の淵に大蛇に似た虬が現れ、人々を苦しめていた。この地方を守護していた鴨別命(かもわけのみこと)が人々を守るためこれを退治した」という伝承が伝えられている。そのため、鴨別命は縣守として主祭神として祀られ、退治された虬も境内社の虬神社に竜神様として祀られており、秋祭の御神幸では鳴尾の淵の近くで鎮魂の祈りが捧げられているという。このことから、大虬も大蛇のような姿であったことが想像される。

なお、大虬(ミヅチ)はその名称から蛟(ミズチ)と混同されることがあるが、中国の蛟・蛟龍には毒を吐くという性質は見られない。混同の原因については、平安時代の辞典『和名抄』にある「音は"交(こう)"、和名は"美都知(みづち)"、『日本書紀私記』では"大虯"の二字を用いる」という記述に由来すると考えられており、江戸時代の考証学者・狩谷棭斎は『箋注倭名類聚抄』という注釈書にて、『和名抄』の「中国の複数の文献から抜き出した記述が、一貫性なく混ぜ合わせられている点(錯出殽雑)」が混同の原因だと批判し、蛟と大虬(仁徳記のミヅチ)は本来別の説であると断じている。

データ


種 別 UMA、伝説の生物
資 料 『日本書紀』ほか
年 代 仁徳天皇67年(古墳時代?)
備 考 蛟とは異なるとされる

資料


『日本書紀』(720年)


仁徳天皇六十七年の冬十月十一日(庚辰の朔の甲申)、河内の石津原へ行幸され、御陵(天皇の墓所)の地を定められた。

二十四日(丁酉)、御陵を築き始めた。この日、一頭の鹿が忽然と野原の中から走り出てきて、役に当たっていた民衆の中に飛び込み、そのまま倒れて死んだ。人々はその突然の死を奇妙に思い、その傷を調べてみると、なんと百舌鳥が耳の中から飛び出して去っていった。そこで耳の中を見てみると、ことごとく食い裂かれていた。ゆえに、その場所を「百舌鳥耳原(もずのみみはら)」と呼ぶのは、こうした縁があるからである。

この年、吉備国の中心にある川嶋河の分流に大きな大虬(ミヅチ)がいて、人々を苦しめていた。道行く人がその場所を通ると必ずその毒を被り、多くが死亡した。そこで、笠臣の祖である県守(あがたもり)という者がいた。性格は勇猛果敢で力強かった。彼は分流の淵に臨み、三つの蓋の付いた瓢(ひさご)を水に投げ入れて、次のように誓約をした。

「お前はたびたび毒を吐いて道行く人を苦しめている。私はお前を殺してやろう。もしお前がこの瓢を沈めることができたなら、私はお前から退散しよう。だが、沈めることができないのであれば、そのままお前の身を斬り刻んでやる」

そのとき、水中のミヅチは鹿に化けて瓢を水中に引き込もうとした。しかし瓢は沈まなかった。県守はすぐに剣を挙げて水に入ってミヅチを斬った。さらに、そのミヅチの党類を捜し求めたところ、諸々のミヅチの眷属が淵の底の洞穴に満ちていた。県守はそれらをすべて斬り尽くし、河の水は血に変わった。それゆえ、その水を「県守の淵(あがたもりのふち)」と呼ぶのである。

この時、世の中の不穏な妖気がわずかに動き出し、反乱者が一人二人と現れ始めていた。そこで天皇は、朝早く起き夜遅く寝るまで政務に励まれ、租税や労役を軽くして民を寛大に扱い、徳を布き、恵みを施して困窮した者を救い、死者を弔い病を見舞い、身寄りのない者たちを養われた。これにより、政令は国中に行き渡り、天下は太平となって、二十年あまりの間、何事もない平穏な日々が続いた。

『前賢故実』(1836年~1868年頃)


珍奇ノート:大虬(ミヅチ) ― 岡山県に伝わる大蛇のような怪物 ―

笠臣県守(かさのおみ あがたもり)は、笠臣の先祖で、勇敢で気が強い男だった。

仁徳天皇の時代、吉備の中国(なかつくに)の川島河に巨大な大虬(ミヅチ)がいて民を苦しめていた。そこで県守は、3つのひょうたん(瓠)を持って淵に立ち、こう言った。

「お前ら虬よ、今からひょうたんを投げる。もしこれを沈められたら私は引き下がろう。沈められなければ、必ず斬り殺してやる」。

虬は即座に鹿に化け、あらゆる手を使って沈めようとしたが、どうしても沈められなかった。 県守は剣を抜き、水に飛び込んでその大虬を斬った。さらに残りの小虬も探し出して皆殺しにすると、川の水は血で真っ赤に染まった。

そのため、その場所は「県守淵(あがたもりのふち)」と呼ばれるようになった。

『箋注倭名類聚抄』(1844年)


『和名抄』(本文)


蛟:『説文解字』によれば「蛟 音は交(こう)、和名は美都知(みづち)、『日本書紀私記』では 大虯 の二字を用いる」とある。

龍の属に属する。『山海経』によれば「蛟は虵に似て四脚を持ち、池の魚が二千六百匹に達すると、蛟が現れてその長となる」とされる。

狩谷棭斎による箋注(解説)


龍龕手鑑: 他の辞書(類聚名義抄など)の引用によれば、蛟は「ミツチ」であり、虬・虯(きゅう)と同じく龍の類とされる。

淮南子(原道訓): 「蛟龍は水に居し、虎豹は山に処す」とあり、蛟龍が水域の主であることが天地の自然な性質(性)として述べられている。また高誘の注によれば、その皮には珠(たま)があり、刀剣の装飾に用いられたという。

楚辞・中庸: 『中庸』には「黿鼉蛟龍(げんだこうりゅう)」として、ワニや大亀と並ぶ水棲生物の代表として登場する。ここでの「蛟」は「鮫」とも書かれるが、現代のサメではなく、龍の類を指している。

説文解字: 「龍の属なり」とし、池の魚が満ちるとそれらを率いて飛び去るという生態を記す。また、水中に「笱(うえ:魚を獲る籠)」を置くと、蛟は去ってしまうという弱点についても触れている。

山海経: 郭璞(かくはく)の注によれば、「蛟は蛇に似て四足、龍の属なり」とされる。さらに「虎蛟(ここう)」という怪物は、魚の体で蛇の尾を持ち、鴛鴦(おしどり)のような声で鳴き、食べれば痔が治るといった具体的な記述がある。

棭斎による結論


下総本には「和名」の二字がある。広本では「虯」を「虬」と書き、「私記」の二字はない。これと似た「大虬」という表記は、『日本書紀』仁徳天皇六十七年紀に見える。

『説文解字』虫部には「蛟は龍の属である。池の魚が三千六百に満つれば、蛟が来てその長となる」とある。また『山海経』南山経には「祷過(とうか)の山より泿水(ぎんすい)が出て、水中に虎蛟(ここう)が多い」とある。郭璞の注では「蛟は蛇に似て四足、龍の属である」とされる。この和名抄の文章は、これら『説文』と『山海経』の二書の内容が混ざり合って記述されている。

しかし、『太平御覧』を確認すると、この和名抄の引用と全く同じ記述になっている。思うに、かつての『修文殿御覧』が二つの書物から引用した際に書き間違えたものを、源順(和名抄の著者)も李昉(太平御覧の著者)も、どちらもそのまま引用してしまったのであろう。広本では『山海経』の下に注釈があり、「二千」とあるのは『説文』に従って「三千」と直すべきである。天文本には「池魚」以下十三字がなく、伊勢広本も同様である。

私はこう考える。蛟を「みづち」とし、大虯を「みづち」とする説があるが、両者の説は一致しておらず、蛟の別名が大虯であるというわけではない。