珍奇ノート:塵輪鬼の伝説



『備前国風土記 逸文』


牛窗

神功皇后の舟が備前の海を通過しようとした時、大牛(おほうし)が現れて舟を覆そうとした。そこに老翁に化けた住吉明神が現れて、その大牛の角を持って投げ倒した。故に此処は牛轉(うしまろび)と名付けられた。今は訛って牛窗(うしまど)と呼ばれている。

その牛は塵輪鬼(ちんりんき)が化けたものである。塵輪には8の頭があり、黒雲にやって来て、仲哀天皇を攻めた。そこで天皇は弓矢を射って対抗すると、塵輪は身体と首の2つになって落ちて死んだ。また、塵輪を討ち取った天皇も遂に崩御された。

『鹿苑院殿厳島詣記』


この牛窓という所は、昔 息長足姫(神功皇后)が御舟で航行した時、怪しい牛が御舟を転覆させようとしたが、住吉の御神がこれを捕えて投げると、牛は転んで死んだが、それが島となり、それより牛窓といわれたという。牛転(まろ)ぶと書いて、牛まどと訓むと聞いている。

『八幡宮縁起』(島根県那賀郡金城町)


仲哀天皇の御代に新羅国から数万の軍兵が攻めて来て日本を討ち取ろうとした。この時、異国より塵輪という不思議な物が来て、それは 色は赤く、頭が8つあって、姿は鬼神のようであり、黒雲に乗って日本にやって来て殺した人民は数知れない。云々。

『忌宮神社記』(山口県下関市長府)


仲哀天皇の御代、熊襲が反乱を起こした。そこで、天皇は熊襲を平定しようとして、穴門の豊浦に豊浦宮という仮宮を建てた。仲哀天皇7年の旧暦7月7日、新羅国の塵輪(じんりん)が熊襲を扇動して豊浦宮に攻め入ったので皇軍は大いに奮戦したが、敵方の勢いは凄まじく遂に宮内を守護する阿倍高廣・助廣の兄弟まで討死してしまった。

これに天皇は大いに憤怒して、遂に自ら弓矢を取って見事に塵輪を射殺すと、敵軍は勢いを失って逃げ去っていった。その時に皇軍は歓喜のあまりに矛をかざして旗を振りながら、塵輪のまわりを舞い踊った。これが奇祭の「数方庭(すほうてい)」の起源であり、鬼のような顔の塵輪の首を埋めた場所に置いた石を「鬼石」と呼んでいる。

『油原八幡縁起』(大分県大分市)


神功皇后が備前に停泊した時、そこに背丈10丈(30.3m)ばかりの大牛が現れて、御船を転覆させようとした。その時、老翁が大牛の2本の角を取って海中に投げ入れた。すると、この牛は海中で島となった。それは今も残っている。よって、此処を牛窓と言い、文字には牛まろばしと書く。その時に皇后は老翁を只者では無い頼もしい者だと思い、それからは身の近くに置いて、何事も仰せ付けるようになった。

※『神功皇后縁起絵巻』にも同様の説話がある

塵輪鬼の伝説(岡山県邑久郡牛窓町)


昔、仲哀天皇と神功皇后が三韓征伐に向かい、その途中で備前国の浦に停泊した。その時、俄に空が曇り、黒雲に乗って頭が8つある塵輪鬼(ちんりんき)という怪物がやって来た。塵輪鬼は皇軍に襲いかかったが、天皇は恐れることなく弓矢を取って応戦した。そこで、天皇が射った矢が塵輪鬼の首を飛ばして殺したが、天皇は戦の最中に流れ矢を受けてしまい、それが元で崩御してしまった。また、死んだ塵輪鬼は海に落ちて、首は鬼島(黄島)、胴は前島、尻は黒島、尾は青島になったという。

神功皇后は天皇の死に大変嘆いたが、天皇の意志を継ごうと男装し、この浦の住吉明神に参拝して改めて出航した。そして、三韓征伐を成した後に再び備前国に立ち寄ると、塵輪鬼の魂魄が牛鬼に姿を変えて海底から現れて、皇后の御船を転覆させようとした。すると、そこに老翁に化けた住吉明神が現れて、牛鬼の角を掴んで投げ倒した。よって、皇后は難を逃れ、その海は牛転(うしまろび)と呼ばれるようになった。その後、牛転が訛って牛窓(うしまど)と呼ばれるようになったという。

唐琴の瀬戸と牛窓の由来(岡山県邑久郡牛窓町)


仲哀天皇と神功皇后が三韓征伐しようと軍船を率いて出航したが、これを事前に知っていた新羅の王が唐琴という王子を遣わせて御船の航行を阻止しようとした。そして、御船が備前国に差し掛かったところを塵輪鬼(ちんりんき)に襲わせた。塵輪鬼は唐琴配下の豪将で神通力を操ることもできたので、頭が8つで真っ赤な肌の怪物に化けて御船に襲いかかったが、天皇は弓を持って怪物に矢を放つと、怪物は首と胴の2つに分かれて海に落ち、その首は黄島、胴は前島、尾は青島になったという。しかし、天皇は唐琴方が放った矢に当たって崩御したので、神功皇后は自ら弓矢を取って敵将の唐琴を討ち取った。よって、この海は「唐琴の瀬戸」と呼ばれるようになった。

その後、神功皇后は三韓征伐を成して、凱旋した時に再び唐琴の瀬戸に訪れた。すると、塵輪鬼は牛鬼に姿を変えて現れて船を転覆させようとした。その時、住吉明神が老翁の姿となって現れて、牛鬼の角を持って投げ倒したことから、この地は「牛転(うしまろび)」と呼ばれるようになり、それが訛って「牛窓」になった。そして、牛鬼の遺骸が 黒島、中ノ小島、端ノ小島 になったという(あるいは、遺骸は黒島、はらわたは百尋礁になった)。