鬼鹿毛の伝説
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『田村三代記』
千熊丸(後の坂上田村麿)は自分の素性を隠して実父の利光に仕えていた。千熊丸は怪力の持ち主で、武芸に長けていたので、利光は千熊丸がやがて謀反を起こすのではないかと恐れるようになった。
ある時、利光は千熊丸に「鬼鹿毛(おにかげ)という馬を乗りこなせ」という難題を押し付けた。というのも、鬼鹿毛は丹波国で人喰い馬として恐れた馬であったのだ。この命令を受けた千熊丸は丹波国に向かい、白骨の山という厩にいた鬼鹿毛の前で「もし私に従うならば、馬頭観音を崇めよう」と言うと、鬼鹿毛は涙を流して千熊丸を乗せた。こうして鬼鹿毛を手懐けた千熊丸は、都に戻って見事な馬術を披露したという。
長生院縁起(神奈川県藤沢市)
応永の昔(1394~1411年)、常陸国の小栗の城主であった小栗満重は、足利持氏の讒言によって謀反の疑いをかけられ、鎌倉方に攻め落とされてしまった。満重は家来10人と共に落ち延び、商人に扮して一族を頼りに三河国に向かっていたところ、相模国の藤沢に差し掛かったところで、横山大膳という者に宿を借りた。
横山の屋敷には多くの女がおり、その中に照手姫という絶世の遊女がいた。そこで満重が照手姫と懇ろになったため、これを恨んだ横山は、必ず人を喰うという鬼鹿毛(おにかげ)という暴れ馬に満重を乗せて殺そうとしたが、馬術に長けた満重は なんなく乗りこなしてしまった。
そこで、横山は酒宴を開いて毒酒を満重に飲ませようと企むと、これを知った照手姫が満重に謀略を伝えた。その当日、満重は気分が悪いと酒を拒んだが、横山に無理やり毒酒に押し付けられた満重は毒気に当たって卒倒し、家来たちも同じく毒気によって血反吐を吐いて死んでしまった。横山は実は強盗で、端から満重らの金品が目当てだったので、死体から所持品を奪い取ると、手下に命じて上野原に捨てさせた。
同じ頃、藤沢の遊行寺の大空上人が"閻魔大王の使者から書状を受け取る夢"を見て、その書状には「上野原に倒れている者のうち満重の命を救うので、急いで行って熊野で湯治させよ」というものだった。そこで上人が告げの通りに上野原に向かってみると、死体の中にわずかに動く者がいた。
これを満重だと思った上人は車に乗せると「この者は熊野の湯に向かう病人である。わずかでも車を引いて助ければ、千の僧にも勝る功徳が得られよう」と記した札を据え付けると多くの人が車を引いた。これによって満重は熊野に辿り着き、温泉の効用と熊野権現の霊験によって快方に向かった。
一方、照手姫は満重の毒殺を見て逃げ出したが、追手に捕まって武蔵金沢の侍従川に捨てられた。その後、六浦の漁師に助けられたが、漁師の妻の嫉妬によって松葉で燻された挙句に人買いに売られ、美濃国の青墓の宿場で働くことになった。後に付近に満重を乗せた車を見つけたので、照手姫は満重が乗っているとも知らずに車を引いたという。
その後、回復した満重は幕府から再び常陸国の領地を与えられて判官の地位を授けられた。それから、横山を処刑して、照手姫を妻に迎えた。また、報恩のために遊行寺に閻魔堂を建てたという。満重の死後、照手姫は剃髪して長生尼と名乗り、長生院を建てて、満重と家臣の菩提を弔ったという。
鬼鹿毛の馬頭観音(埼玉県新座市)
秩父の小栗という人が、江戸に急用があって、愛馬の鬼鹿毛(おにかげ)を急がせて道を進んでいると、大和田に入ったところで鬼鹿毛が疲労して、この場所にあった松の大木の根につまづいて倒れてしまった。しかし、ただちに起き上がって走り出し、小栗を江戸まで送り届けた。
江戸で所用を終えた小栗が鬼鹿毛の元に戻ると、そこには鬼鹿毛の姿は無かった。小栗は不思議に思ったが、仕方なく帰路を歩いて帰っていると、大和田で鬼鹿毛の亡骸を見つけた。鬼鹿毛は主人のために亡霊となって走り続けたのであった。この後、村人が鬼鹿毛の霊を弔って馬頭観音を建てたという。
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