珍奇ノート:三上ヶ嶽の三鬼の伝説



英胡・軽足・土熊の伝説


第31代用明天皇の御代、丹後国の河守荘三上ヶ嶽(現・大江山)に、英胡(エイコ)・軽足(カルアシ)・土熊(ツチグマ)という三鬼が棲んでおり、多くの鬼を従えて悪事の限りを尽くしていた。

朝廷は知勇兼備の麻呂子親王(マロコシンノウ)を大将軍として、三上ヶ嶽に官軍を派遣した。麻呂子親王は、岩田、河田、久手、公庄の四勇士をはじめ、一万騎からなる大軍を率いて三上ヶ嶽へ攻め入ったが、鬼達は 空を飛んだり、姿を消したり、雨を降らせるなどの妖術を自在に操って対抗したため、官軍は苦戦を強いられた。

麻呂子親王は、鬼の妖術に神仏の加護を以って対抗しようと考え、一旦兵を引かせて、自ら七体の薬師如来像を刻み、「もし、ここで鬼達を討ち果たすことができるならば、この薬師如来像を祀って丹後に七寺を開きます」と誓願し、併せて天照皇大神と天神地祗にも祈願した。

すると、麻呂子親王の前に「額に鏡を付けた白い犬」が現れた。麻呂子親王は、この白犬が神仏の使いであると察し、白犬を先頭に三上ヶ嶽に再び攻め入ると、鏡の光が次々と隠れた鬼の姿を照らし出し、鬼の妖力を悉く封じていった。そして、鏡の力によって身動きが取れなくなった鬼達を、官軍はいとも簡単に攻め滅ぼした。

また、三鬼のうち、土熊だけは生け捕られて、生き残った鬼達とともに命だけは助けて欲しいと懇願したため、麻呂子親王は「薬師如来像を安置する七寺の土地を一夜のうちに開くならば、命だけは助けよう」と申し付けた。それに喜んだ鬼達は勇んで七寺の土地を開墾すると、丹後半島の先端にある立岩に封じられてしまったという。

麻呂子親王の鬼退治


用明天皇の御代、河守荘三上ヶ嶽(現・大江山)に英胡(エイコ)・軽足(カルアシ)・土熊(ツチグマ)という鬼の首領がおり、手下の悪鬼らとともに悪事の限りをを尽くして良民を苦しめていた。

そこで、天皇は麻呂子親王(マロコシンノウ)に鬼退治を命じると、親王は七仏薬師の法を修めて、兵を率いて征伐に向かった。その旅路の途中、篠村のあたりで商人が馬の死骸を土に埋めようとしたので、親王は「この征伐に利があるならば、馬は必ず蘇るだろう」と誓約をすると、馬は地中でたちまち蘇って嘶いた。そこで親王が掘り出してみると、それは俊足の竜馬だった。よって、この地は「馬堀」と名付けられた。

親王は蘇った竜馬に乗り、生野の里に通りかかったところ、そこに老翁が現れて頭に明鏡を付けた白い犬を献上された。親王は犬に道案内させて雲原村に到ると、ここで自ら7体の薬師如来像を刻んだ。そして、親王は「もし鬼賊を征伐することができるならば、この国に七寺を建立し、この七仏を安置しよう」と誓願した。よって、この地は「仏谷」と名付けられた。

それから河守荘三上ヶ嶽の鬼の岩窟に到着すると、親王は首尾よく英胡・軽足の二鬼を討ち取ったが、土熊を取り逃がしてしまった。そこで犬の頭に付いていた鏡で照らしたところ、土熊の姿が鏡に写ったので生け捕りにした。そして、末の世の証にしようと土熊を岩窟に封じ込めた。

こうして鬼退治を終えた親王は、犬の頭に付いていた鏡を三上ヶ嶽の麓に納めて「犬鏡大明神」と名付けた。また、神の加護に感謝して天照大神を祀る神殿を造営し、その傍に親王自身の宮殿を建てた。また、仏の加護に報いるために丹後国の7ヵ所に寺を建立して先の七仏薬師を安置した。この七寺は 加悦荘施薬寺・河守荘清園寺・竹野郡元興寺・竹野郡神宮寺・構谷荘等楽寺・宿野荘成願寺・白久荘多裲寺 といわれている。

多禰寺縁起


多禰寺は密教嗣続の霊場で、第31代用明天皇2年(587年)に皇子の麻呂子親王(金麻呂親王)が開いた寺である。

かつて与謝郡の三上ヶ岳には英胡・軽足・土能という三鬼が棲んでおり、この地方の良民を苦しめていたので、天皇は鬼を退治して人々を救おうと麻呂子親王に勅命を与えて討伐に向かわせた。この麻呂子親王は天皇の第三皇子で、生まれながらに雄健であり、仏教を厚く崇敬する人物であった。

親王は鬼賊の討伐に当たって仏陀神明の力を得ようと、七仏薬師の法を宮中で修め、小金体の薬師像を造って護身仏として身につけた。この七仏薬師とは、善名称吉祥王如来、宝月智厳光音自在王如来、金色宝光妙行成就如来、無量景勝吉祥如来、法海雷音如来、法海時慧遊戯神通如来、薬師瑠璃光如来である。また、皇大神宮に参詣して天照大神に加護を祈った。

それから丹後国に進軍すると、その途中で忽然と現れた白犬が親王に宝鏡を献上した。親王は「これは開運の祥瑞であろう」と喜んで、四天王の黄坡・雙坡・小頚・綴方と共に鬼の巌窟に攻め入り、激戦の末に英胡・軽足の二鬼を討ち取った。しかし、土熊は逃げ出したので、これを追って竹野郡の巌窟まで到ったが見失ってしまった。その時に宝鏡を松の枝に掛けたところ、鏡に土熊の姿が映し出されたので、親王らは遂に土熊も討ち取ることができた。

その後、宝鏡は三上ヶ岳の麓に納められて、そこを大虫明神と名付けた。それから親王は、神の加護に報いるために皇大神宮の宝殿を竹野郡に造営して齋大明神と名付け、その傍らに自身の宮殿を造った。また、仏の加護に報いるために丹後国の7ヶ所に寺を建てて七仏薬師を安置した。その七寺は 加悦荘施薬寺・河守荘清園寺・竹野郡元興寺・同郡神宮寺・溝谷荘等楽寺・宿野荘成願寺・白久荘多禰寺である。

七仏薬師の本尊である薬師如来は多禰寺に安置された。その大きさは3尺5寸(115.5cm)で、その胎内に1寸(3.3cm)の護身仏を納めている。当寺の本堂は五間四方で南方を向き、前には弁天池があり、長い廊下は虹のようで、廻拝殿は旭日を映して美しく、二層の楼鐘は月に響き、東西の両塔は雲に聳え建っていました。また、求聞寺堂は国家安全を祈る勅願所であり、香煙が山中に棚引いたといわれている。云々。

無量寺縁起


昔、用明天皇の御代に芙胡、土熊という二鬼がおり、初めは鬼ヶ城に住んでいた。この山には今も巌穴がある。また、迦楼夜叉という一鬼がおり、これは丹後の間人の北海浜に住んでいた。

この三鬼には眷族多く、好んで人血を呑んでいたので、人々はとても恐れて朝も夕も安んずることが出来なかった。このことが天聴に達すると、天皇は第三皇子の麻呂子親王に誅伐を命じた。

皇子が薬師如来の威神力を得ようと加護を祈ると、ある夜に夢に老翁が現れて「薬師瑠璃光如来の像を彫刻して汝の冠の内に安置せよと」と告げたので、皇子はその通りにした。

それから、官軍を率いて北方の丹陽に向かい、その途中で戦勝を占なって焼粟を植えたところ、一夜にして生えてきた。また、商人が死馬を埋めるを見て、試しに掘り出して鞭打つとたちまち蘇生した。このように鬼討伐に向かう旅路では多くの瑞祥が起こった。

皇子の出立を聞いた鬼共は鬼ヶ城を去って河守に立篭ったが、ここは元伊勢の地であったので、皇子は天照大神の神助を得て二鬼を撃退した。すると、二鬼は北海浜に逃れて迦楼夜叉と結託した。

それから鬼と戦うと皇子に命の危機が迫ったが、その時に額に円い鏡を付けた一匹の犬が忽然と現われて鬼に向かって走っていった。すると、鬼どもは鏡に映った自らの姿を見て、驚き恐れて一斉に岩穴に逃げていった。

それでも犬が鬼どもを追っていくと、鏡に映った自分たちの姿を見て敵だと思って跳び出してきた。そこで官軍は、剣や矢で鬼どもを攻めて誅滅した。こうして皇子が鬼退治を成すと、国に平安が戻り人々は喜んだという。

鎌鞍山清園寺縁起


当山は人皇32代用明天皇の第3の皇子である麻呂子親王の開基で、本尊は親王が自ら刻んだ薬師瑠璃光如来である。

その由来をたずねると、その当時、この国の三上ヶ獄には 奠胡(てんこ)・迦樓夜叉(かるやしゃ)・槌熊(つちくま) という3つの悪鬼の首領が棲んでおり、百千の眷族を遣わせて国中に蔓延り、数多の人々に害を為したので、人の通るところはほとんど魔国のようになってしまった。

このことが都に奏上されると、帝は宸襟を悩ませて、急いで臣下を集めて評議させた。そして、智勇兼備の麻呂子親王を大将軍に任命し、三上ヶ獄の悪鬼討伐の勅命を下した。親王は謹んで承ると、御伴に 岩田(いわた)・河田(かはた)・公手(くで)・公庄(ぐじやう)の4人の勇士をはじめ、都合1万騎の軍勢を率いて三上ヶ獄に向かった。

親王がこの国に到った時、地中から馬の嘶く声が聞こえたので、士卒に命じて土を掘らせると、土中から龍馬が躍り出たので、これを見た親王は「これは天の賜物であろう」と喜んで すぐに跨って走らせると、その龍馬は無双の俊足で、いかなる鳥道嶮岨(てんどうけんそ)であろうとも平地を進むように駆け抜けた。よって、龍馬を得た地を「嘶里(いななきのさと)」と名付けた。

それから三上ヶ獄に到ると、親王は騎兵に山を包囲させて悪鬼を攻め立てた。だが、悪鬼は元より妖術自在の者だったので、空を翔んだり、雲を起こして雨を降らせたり、姿を消して身を隠したりして翻弄したので、官軍には為す術がなかった。

そこで親王は神仏の加護によって力を得ようと考えて、薬師如来および皇大神宮に丹誠をこめて祈願すると、不思議なことに額に鏡を付けた犬が忽然と現れて親王の御前に跪いた。親王は「これこそ神仏の御加護であろう」と言って、その犬を先に立たせて山中を進んでいくと、鏡の放つ光に当たった悪鬼どもは忽ち妖力を奪われて逃げ出した。

だが、やがて官軍に追い詰められて、奠胡と迦樓夜叉の二鬼は数多の眷属と共に易々と討ち取られた。それから槌熊を追い詰めると、槌熊は「どうか命だけは助けてくれ」と懇願してきたので、親王は「お前の罪は許しがたいものだが、此処に七堂の伽藍を建立するための土地を一夜のうちに開くのならば、願いの通りに命だけは助けてやろう」と言った。これに槌熊は大いに喜んで、岩を砕き、木を伐って、一夜のうちに寺を開く土地を平らげた。

そのため、親王は約束通りに槌熊の命を助け、この国の竹野村にある斎の宮の巌窟に入れて、永らく出られないように封じ込めた。それから工匠を呼んで七堂の伽藍を建立すると、自ら刻んだ七仏薬師の一仏をこの寺に安置して「鎌鞍山清園寺」と名付けた。云々。

鎌鞭山如来院縁起


佛性寺如来院は、用明天皇の第3皇子である丸子親王(麻呂子親王)が建立した。

その由来をたずねると、河守庄三上之獄(現・大江山千丈ケ岳)に英胡・迦樓夜叉・土熊という三鬼を首領とする悪鬼が棲んでいて良民を苦しめたので、朝廷では親王を大将とする鬼賊討伐の軍勢を派遣した。

親王は都から丹波路に入って馬掘に差し掛かった時、地中から馬の嘶く声が聞こえたので土を掘り起こさせると、そこから栗毛の龍駒が出てきた。よって、親王は龍駒に乗って三上之獄に向かった。

それから親王は河守庄にある日室山の険しい山中に分け入って筒明神を礼拝した。この日室山は天照大神の分霊の垂迹の地であり、その深い谷底に筒明神が祀られている。ここから2里ほど行くと笠脱縄手があり、下馬橋のところから50町分け入ったところに三重瀧がある。その瀧の辺りが鬼の住処であった。

親王が此処で 薬師如来・日光菩薩・月光菩薩・十二神将・七千夜叉・八万四千の眷属 に祈りを捧げると、どこからともなく頭に鏡の乗せた犬が現れて親王を導こうとした。そこで親王は自らの四天王である 黄披・双披・小頭(小頸)・綴方 を先立たせて、犬の導きに従って鬼どもを攻め立てた。

すると、鬼どもは悉く岩窟に逃げ込み、その場所を消してしまった。そこで天皇は犬の鏡で辺りを見てみると、そこに鬼の住処が映し出されたので、鬼の住処に攻め入って鬼どもを討ち取っていった。しかし、土熊だけは逃れて三上之獄の洞穴に入っていった。この洞穴は三重瀧の洞窟から道が通じていたという。

その後、親王は鏡を三上之獄の麓に祀って犬鏡大明神あるいは大虫明神と称した。河守庄の庭森明神がこれであり、伊勢神宮の鏡宮が変化したものである。また、親王は佛性寺を開き、自身の念持仏であった金の薬師像を造って七間四方の薬師堂に安置し、併せて拝殿・灌頂堂・護麻堂・法花堂・二階門など諸堂宇も建立した。

この薬師堂の下には淵があり、そこには親王が兵法に用いた鎌と鞭が納められたので山号を鎌鞭山といい、涅槃経の「一切衆生悉く仏性有り」との経典の本義から寺号を佛性寺とした。云々。