珍奇ノート:窮鬼の資料



『和名類聚抄』


窮鬼(きゅうき)。『遊仙窟』によれば、窮鬼は伊岐須太萬(イキスダマ=生魑魅)と注釈されている。

『兎園小説(窮鬼)』

文政4年(1821年)の夏頃、江戸番町の禄高の某武家の用人が主命を受けて下総の知行所に向かい、江戸から草加の宿の辺りで1人の法師と出会った。

その法師は40歳あまりに見え、顔色は青黒く、眼は堀の深い俗にいう鉄壺眼で、顔の形は鋭く尖って細面であり、古ぼけた溝鼠染の衣・白菅の笠・頭陀袋を身に着けていた。用人は法師と並んで歩くうちに、煙草の火を借りる仲になって、次第に言葉を交わすようになった。

用人が「貴方はどこからどこへ行くのですか?」と問うと、法師は「私は番町の某邸から越谷に行くところだ」と答えた。これを聞いた用人は訝しく思って「私はその某邸の用心です。私が見たことの無い人が屋敷に居るわけがありません。出家に似つかわしくない虚事をいわれるのですね」と言って嘲笑った。

すると、法師も嘲笑って「どうして貴方を騙す必要があるのか、単に貴方が私を見知らぬだけだろう。そもそも私は世にいう貧乏神である。貴方は昔のことは知らないだろうが、私は3代前の主人の頃から屋敷に居り、その頃から某邸には病人は常に絶えることはない。先代の両主も短命であった。ただ、これだけではなく、万事に幸が無くて常に貧窮しており、禄はあっても無いようなものである。それでも家が滅びないのは先祖の遺徳によるところである。この某邸では、このようなことがあっただろう…」などと、用人も知らない事を見ていたかのように語るので、用人は驚くばかりで返す言葉が無かった。

そこで窮鬼(貧乏神)は唖然とする用人を見て「恐れることはない。某邸は今の代で貧窮極まったので私が居る必要も無くなった。そこで私は他所へ移ろうと思う。よって、今から某邸の主には幸いなことが起き始め、代々重ねた借財なども返すことができるだろう。これを疑うことは無いように」と言った。

これに用人は落ち着きを取り戻して「では、貴方はどこに行かれるのか?」と問うと、窮鬼(貧乏神)は「私が向かう所は、そんなに遠くではない。貴方の主の近隣にある某屋敷に移るのだ。その移転までに少しばかりの暇ができたので、越谷に渡って知り合いを訪ねようと出向いたのだ。翌日には先の屋敷に越すつもりである。これから その屋敷は万事に幸が無くなり、遂に貧窮極まるだろう。そして貴方の主が今まで頭をもたげていたようになるのだ」と言い、これを他言しないようにと囁きつつ、越谷に着いた辺りで忽然と姿を消してしまった。

こうして用人は知行所に行って、村の役人と語らっていると、度々の借財によって無理だと思われていた用件も立ちどころに片付き、思ったよりも多くの借り入れをすることができたという。

この話は同年の6月下旬に蠣崎波響から聞いた話である。彼は用人と親しかったので、この話を用人から直接 聞いたという。この武家と用人の姓名も分かっている。しかし、奇談ということで世に憚って此処では明かさない。ただ、そんなに昔のことでは無いので、知っている人もいることだろう。

『百物語評判』


ある人が言うには…

河西あたりに極めて貧しい者がおり、来る年も侘しく、明くる年も心配が多かった。どうしたものかと身の置き場を案じ、どこで暮らそうかと悩んでいた。そんな時、肩の上に5寸(約15cm)ばかりなるものが落ちてきたので、それを取り上げてみると小さな人形で、目・鼻・口・舌なんかも一通り揃っていた。

その貧者は驚いて「お前は何者だ?なぜ肩に落ちてきた?」と言うと、その人形は「我は世にいう貧乏神で、本日より この身に住まわせて貰うことにした」と答えた。

そこで、貧者は喜んで妻子を呼んで「おい、嬉しいことがあったぞ。本日よりこの者が私に付いたというので、お前たちを辛い目に遭わせてきたが、これからは違って毎度のように贅沢できるぞ。だから、これを打ち殺したり、捨ててはいけない。見つけたら、そのまま助けてやるように」と言った。

これに貧乏神は笑って「お喜びはもっともだが、私はそなたの身を離れることはない。この身の頭から爪先まで諸方の貧乏神が付きまとうだろう。よって、新たな敷神どもも遠方より集って来るのだ。居所が無くなれば誤って落ちることもあるが」と言った。

これに貧者は興ざめして呆れ果てたという。

この神について先生に問うてみると、先生はこのように答えた。

この神は窮鬼という名で、人の貧富は天命の稟受の厚薄によるものといわれるが、聖賢君子のように徳義正しく智慮深い者であろうとも、どうすることもできないという。

しかし、愚かなものは強く貧を嫌い富を求むが、そうすることでその身を下し、名を辱め、後には刑戮に落ちる。こうした類の者は、天命を知らずに幸を願うが故にこうする。常体の者は、天命の説が難しければ仏家にいわゆる三世の説を立てる。そうすると過去の宿業があったとしても害には至らない。

この天運によれば神があって司るなどともいわれるが、唐の韓退と申す大儒も、正月晦日に船を用意して、酒や肉と文章一篇を乗せて、窮鬼を送り出したという。一生の間に不幸が続く故、宗の陳簡斎という詩人の詩にも「韓愈推究究不去 楽天待冨々不来」と作ったとか。

また、宗の范文正公という者は宗朝一人の人品であり、学問・才芸に長けていて好んで人に施した。そのため、後に饒州の守護職になり、家は富んで一門も栄えたという。

しかし、この共に極めて貧しい浪人がおり、渡世の手立ても無かったので、旧友の范文正公を頼ろうと思い、遥か遠くの饒州の范文正公を尋ねてこれを歎いた。范文正公は元より物を惜しまぬ性格であったが、太守といえど一銭の蓄えも無かったので「この夏の税で麦が数万石納められる。そこでお前にこれを売りに出す仕事を与えよう。お前はその金で生活すればよい」と言った。

すると浪人は子息の元に帰って「麦を売る仕事を得たので、お前たちは故郷を通った時に親類の貧しい者に残らず与えて帰れ」と言った。これに范文正公やその友人らも力を落とした。

その後、范文正公は「この州に普の王義の石碑がある。この石摺を売れば一枚あたり黄金一斤にはなるので、これを売るが良い。しかし、平民はこれを売ることはできない」と言って、その石摺百枚を写すための紙と硯を与え、さらに写すべき日についても その近辺に仰せ付けた。

その翌日、范文正公は諸共にそこに出向くと、そこに土民どもが集まっていて「昨日の夕立で落雷があって、それで石碑が微塵に砕けてしまった」と言っていたので、石摺を写すことも出来ずに帰っていったという。云々。