珍奇ノート:九頭神の伝説



戸隠の九頭龍伝説(長野県)


日本神話と九頭龍(戸隠神社由緒『戸隠昔事縁起』)


昔、素盞鳴尊(スサノオ)は高天原で悪事を働き、これに甚だしく怒った御姉尊(アマテラスのこと)は天岩戸に隠れてしまった。そのため、世は常夜となって昼夜の区別がつかなくなり、様々な災いが起こるようになった。

そこで八百万の神々は天安之河原(あまのやすのかわら)に集まって相談し、高皇産霊神(タカミムスビ)の告げを以って思金神(オモイカネ)に思案させると、思金神は「天照大神(アマテラス)の御像(みかたち)を八咫鏡で造り、常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)を鳴かせよ」などといった提言を話した。

その話のとおりに、天手力雄神(アメノタヂカラオ)は隠れて岩戸の陰に立ち、俳優(わおざき)の天細売命(アメノウズメ)は踊りを舞った。庭の火が輝いて甚だ面白かったので、八百万の神々は声高く大いに笑って祝った。その時、不思議に思った天照大神が岩戸を細めに開けて外の様子を伺おうとしたので、隠れていた天手力雄神が石戸(扉石)を引き開けて投げ飛ばした。その石戸が戸隠山であり、この故事から石戸山と呼ばれるのである。

この石戸が地に落ちて山となる時に応じて顕れた神が九頭龍神(くずりゅうのかみ)である。そのため、石戸守の神という地主神である。この神は天手力雄神の分かれた御魂である。九頭龍神の住むところは湖が近くにある窟で、もっぱら草木の葉や実を食らい、食して「あてがい」とした。また、霧が吹き立ち大雨が降ると、天と地を翔け巡り、大八島(日本列島)の始まるところから外国に至るまで、よく穀物を養育守護して人々を生かされた。これにより、庶民は九頭龍神を作神(さくがみ)と呼ぶ。

天手力雄神は石戸を投げると直ちに天照大神の御手を取って引き出し、新宮に遷し奉ってその御門に立って四方四隅から入ってくる悪事を清め祓ってよく奉仕した。その後、天照大神は皇孫の邇邇芸命(ニニギ)に三種の神器を与え、御門の神と諸神を副えて「神器の鏡を私の御魂となし、私の前に拝するように仕えよ」と告げ、皇孫を守護させた。邇邇芸命が日向の高千穂の串振獄に天降り、後に笠狭の御崎に行って大宮柱を太くしっかりと立て、高天原で届くような千木を高々と立てて鎮座した。そこでも天手力雄神は御宮に侍して悪神や邪者を清め祓ってよく奉仕した。

この後、天手力雄神は「我は昔 天に居た時に天岩戸を投げ落とした。それは今 科野国(しなののくに)に止まって山となっている。その山は我の御魂霊が残る地である。よって、我はその地に行って住むのがまことであろう。しかし、その地は今は湖沼が多く、禍をなす者が居ると聞く。それで容易く行くことはできないのだ。だから、しばらくはこの隣の地に住み、治まった後に行こうか」と言って筑前国に行き、住んだ地を戸隠宮という。

その後、天手力雄神は「東国はどうなっただろうか」と言って紀伊国に移り住んだ。こうして やがて信濃国に行き、伊那に御連神を置いた後、この水内の戸隠山に遷座する時に窟の向こうの湖沼から天手力雄神を迎えに来る者(九頭龍神)が居た。その身は剛威であって、天手力雄神が素性を問うと、九頭龍神は「我は命であるあなたの荒魂であり奇魂である。ずっと、この山に住んで守護すること八万余年になる。今、神のあなたが高天原からこの地に降りられて待つこと久しい」と言った。

すると、天手力雄神は「それなら、あなたという神は私の御霊神(みたまがみ)か。この山中に住む地としては何処が良いか」と問うと、九頭龍神は「命のお住みになられる地は、この山中あたりの石屋が良いでしょう」と答えた。よって、天手力雄神はその石屋を社地と定め、宮を建てて天手力雄大神を遷し祀った。そして、九頭龍神も自ら事を奉じて仕え、同じ側の石屋に住むことになった。これは第8代孝元天皇5年のことである。

なので、その石屋を本窟という。また、今に至るまで九頭龍社本殿より御供膳を持って供えるのはこれが元である。こうしたことで天手力雄大神は戸隠大神と呼ばれるようになった。戸隠大神は九頭龍神と互いに力を合わせてよく守り、穀物が養育し、人々が安らかに生活できるように護っている。また、天下国家に災難がないように護っている。

九頭一尾の鬼伝説(『阿娑縛抄』)


仁明天皇の御代である嘉祥2年(849年)、学問という修行者が飯縄山で7日間、西の大嵩に向かって祈念した。そこで独鈷杵をなげうつと飛んでいって落ちたので、すぐに探しに行ってみると、そこに大きな石屋があった。その場所で法華経を唱えていると、南方から臭い風が吹いてきた。すると、まもなく九頭一尾の鬼がやってきた。

そこで、鬼は「法華経を唱えているのは誰だ。以前に祈ったものは、自分が聴聞に来ると毒気の風に当たって触れるものは皆死んでしまった。こちらは害心は無かったというのに。自分は別当で、貪欲なままに虚しく施物を用いたので、このような身になってしまった。ここでこのように法を破り、過ちを犯すことが40回余りとなる。自分も法華経の功徳によって、最後には菩提を得たいものである」と話した。

これに学問は「鬼者隠形(鬼は形を隠せ)」と答えた。鬼は学問の言葉に従って、元の場所に戻った。そこを名付けて龍尾(りゅうび)という。鬼が石屋内に籠もり終わると、学問は石屋の戸を封じ、地中に向かって声高に「南無常住界会聖観自在尊三所利生大権現聖者」と唱えた。それで、この山を戸隠寺というようになった。それは龍尾鬼を石室の戸で封じ、それから建立したからである。また飯縄山の前に戸を立てたようであったからともいう。

九頭一尾の大龍伝説(『顕光寺流記並序』)


嘉祥3年(850年)、学門という行者が苦労の末に飯綱山の登頂に成功した。その時は既に日が暮れていたが、学門は興奮冷めやらずに地相を占って西窟に居を占め、礼拝、懺悔した。

その後、学門は金剛杵を投じて「未来に渡って仏法が繁昌し、すべての生物の福を豊かにするように。地に着いたなら直ちに光を放て」と誓って言った。学門が落ちた金剛杵を追いかけていくと、遥か一百余町を飛んで宝窟に留まって光明を放った。

金剛杵は洞窟の前に止まっていたので、地主の神を呼び出すべく深く祈念すると、地底から声がしたので、声高に「無常住界会大慈大悲聖観自在四所本躰、三所権現放光与楽…」と唱えた。

すると、地底の声が消えないうちに遠くから光が放たれ、聖観音・千手観音・釈迦如来・地蔵菩薩の像がたちまち現れた。学門は歓喜して涙を流しながら経を読み、法文を唱えていると、その夜に南方からにわかに臭い風が吹いてきた。

その後から九頭一尾の大龍がやって来て「お前がこの窟に来て、錫杖を振読し、六根懺悔の四安楽の行をなしたので我が毒気は全て無くなった。もう害をなすことのない。なんと喜ばしいことか、近くに来い、じっくり話そうではないか」と言った。

それから、大龍はこのように話し始めた。

「当山は既に40余回崩壊しているが、我は最後の別当の澄範である。仏物を蔑ろにしてきたので、こうして蛇の身になってしまった。それから長い月日を経て、業障が蛇の鱗となったが、そなたの錫杖と法音を聞いて解脱を得られた。それでこれから未来永劫にわたり、この山を守護することを誓おう。お前は菩提心をもって早々に大伽藍を建てよ。

さて、峯には5丈の白石がある。面は白壁のようで、これは金剛界と胎蔵界の曼荼羅を顕している。それで両界山という。その前に密壇があり、ここは迦葉仏が説法し修行した場所で、全部で33箇所の窟がある。ここで大慈大悲の観世音菩薩とお会いできる。菩薩は昼夜問わず万民を擁護し、悪業を持った我々までも救ってくれる。また一度この山に登れば死後の世界での苦を逃れ、苦しい運命も変えることができる」と言い終えると、大龍は僧侶の方式などを定めて本窟に帰った。

その時に大磐石を以って本窟の戸を閉ざして籠もったので人に会うことはなくなった。それで戸隠山と名付けたのである。しかし、本当のところは手力男命が天岩戸を隠しておいたので戸隠という。その戸は今もある。また金剛杵の光を顕したので顕光寺という。

その後、大龍は九頭龍権現と呼ばれるようになり、毎朝の寅の刻に御供を供えると天下の吉凶を示すという。それで、この地では仏法が盛んになって堂舎が建ち、僧侶たちは神の威徳を仰いだ。すなわち結界の地となったのである。

役小角の九頭龍(『戸隠山大権現縁起』)


役小角は大金色孔雀王咒経を唱えて身につけるよう努め、五方の大神龍王の霊験を祈り、多くの年月を経た。持統天皇の御代、役小角は戸隠山に登り、戸隠権現の真の姿を拝謁しようとしたが、そこには木々や獣の姿もなく、そそり立つ岩や洞窟は露で滑りやすくなっていたので、鳥のように飛べなければ進むのが難しかった。

だが、役小角は勇猛にも先に進もうとしてよじ登っていったが、あるところを境に山岳が揺れ動いて煙のような霞が行く手を阻み、前にも後にも進むのが困難になった。そこに何処からともなく僧が現れて「お前は役小角ではないか、お前を待つこと久しい。早くこの山を祓い祭り、すみやかに路を開け。この程度で休むなら、苦しい修行で鍛えた行者とは言いがたいぞ」と言った。

これに役小角は笑いながら「お前が僧であることも疑わしい。どうして我が名を知っているのだ。もし地主の霊神がいるところを知っているのであれば、お前が案内せよ」と答えると、僧はすぐに草道をかき分けて役小角を導いた。そこで「早く絶頂に登って権現を拝すべし。我はお前が長年帰依するところの勝軍地蔵である」と言い、大光明を放って忽然と姿を消した。

役小角は勝軍地蔵に信心深く礼拝し、山の頂上を目指して歩を進めた。その最中、天地が鳴動して風雲が沙石を降らせるので、役小角は動きを止めて意識を研ぎ澄まし、眼目を開閉した。すると、権現が姿を現した。その身は巨大な大龍王で、周囲が百余里もある山岳を7周も取り巻き、頭は高妻山の峯に置かれていた。

そして、役小角に対して「お前は菩提を強く求め、この山を再興せよ」と告げると、役小角は再び拝して「我は誓願によって様々な山を開いてきたが、いまだかつてこんなにめでたく不思議なしるしは見たことがない。今、この不可思議な変異を見て、真に心から感動している。しかし、普通の者はこのような天に群がり、地に蜷局(とぐろ)を巻く八大龍王の本来の姿を見れば、苦しみ悶えて転げ回り、やがて息の根を止めてしまうだろう。できることなら悟りを得られなくなった像法の時代の人々のために小身となって現れてほしい」と言うと、権現は2丈の黒蛇に姿を変えて100尺の黄地に伏し蹲った。

そこで役小角が「速やかに本来の居所に帰るべし」と唱えると、権現は直ちに霊窟に隠れた。その封じた修法壇のある場所は今の九頭龍大権現の岩屋である。すなわち権現は、内では菩薩の行を密かに行い、外では神竜となって姿を現し、諸々の生物に優れた果報を与え、人、鳥、獣を昼夜問わず擁護している。

もとより福寿を増大させる神であるから、その神徳はあらたかで、また厳かであり、その徳の高いことは益々盛んである。深く仏を信じる者には短命を転じて上寿とし、貧窮を転じて厚福を与える。官を求め、子を求め、また智と道を祈り、商売の利益を願うなら速やかに与え、豊年を願うなら五穀豊穣を成し、万民の安らかな生活を叶えてくれる御神である。

十和田神社の九頭龍伝説(青森県)


熊野に籠もって修行した南祖坊という僧が、熊野の神から鉄の草履と錫杖を授かり、夢で「草履が破れたところに住め」とのお告げを受けたので、言われた通りに諸国遍歴の旅に出た。

すると、十和田湖の畔で草履が尽きたので、ここに住むことにした。当時、十和田湖には八郎太郎というマタギが住んでおり、湖の岩魚(イワナ)を食べ、湖の水を飲んで生活しているうちに八頭の大蛇となり、主として湖を支配していた。

その八郎太郎が南祖坊の前に立ちはだかったので、南祖坊は法華経を読踊し、その霊験によって九頭の龍に変化した。その龍は身の丈20尋(約36m)という巨体で、身体を十曲(とわだ)に曲げて湖上にトグロを巻き、八郎太郎と争った。

その結果、南祖坊が勝ったので、敗れた八郎太郎は秋田の湖に逃げ去った。そこが今の八郎潟である。その後、南祖坊が十和田湖の主となり、地元の人々から青龍権現として崇め祀られた。それが今の十和田神社なのだという。

鬼泪山の九頭龍伝説(千葉県)


昔、鹿野山麓の鬼泪山(きなだやま)には九頭龍という9つの頭を持つ大蛇が棲んでいた。九頭龍は村人を襲って喰うので、困った人々は都に九頭龍退治を懇願したところ、日本武尊(ヤマトタケル)が九頭龍退治に派遣された。

村に着いた日本武尊は人々を集めて草薙剣を掲げ「この草薙剣で大蛇を必ず退治してみせよう」と誓った。村人の案内で小川沿いの道から鬼泪山に入った日本武尊は、山中で懸命に九頭龍を探したが一向に見つからなかった。夜になり、日本武尊は疲れ果てて眠ってしまうと、そこに九頭龍が現れて日本武尊を丸呑みにしてしまった。

それから3日後、川で洗濯していた娘たちが川の水がだんだんと赤く染まっていたのを見つけた。これを村人たちに知らせると、人々は「きっと日本武尊様が九頭龍を退治してくれたのだ」あるいは「もしや日本武尊様がやられてしまったのでは」などと話し合っていると、そこに日本武尊が現れた。

日本武尊は「油断して大蛇に丸呑みにされてしまったが、剣で腹の中を滅多斬りにしてやったのでなんとか外に出られた。大蛇の頭はすべて切り落としたのでもう安心だ」と言って村人たちを安心させた。この後、九頭龍の血で赤く染まった川を「血染川」と呼ぶようになり、さらに後に「染川」と呼ばれるようになった。

また、祟りが無いよう九頭龍の霊魂を供養されて「九頭龍権現」として祀られるようになり、今でも神野寺の境内に鎮座している。なお、鹿野山には「大蛇作」や「蛇堀」など、大蛇の棲息地を伝える地名が残っている。ちなみに類似する説話に、日本武尊と戦ったが阿久留王という鬼、もしくはダイダラボッチという巨人であるとするものもある。

箱根の九頭龍伝説(神奈川県)


奈良時代以前、芦ノ湖が万字ヶ池と呼ばれていた頃の箱根では、毎年 若い娘を一人選んで池に棲む毒龍に人身御供として捧げる風習があった。この頃、箱根山に修行に来ていた萬巻上人という高僧が村人からこの話を聞くと、自らの法力で毒龍を改心させて村人たちを救おうと決意した。

萬巻上人は、湖畔近くの龍ヶ島という岩場に壇を築いて大般若波羅密多経を唱えながら、毒龍に人身御供を求めるのを止めるよう懇々と仏法を説いた。すると、毒龍は宝珠・錫杖・水瓶を携えて湖上に現れて過去の行いを詫びた。萬巻上人はそれでも鉄鎖の法を修して毒龍を湖底の逆さ杉に縛り付け、仏法を説き続けた。これに参った毒龍は、悪事を止めて地域の守護神となることを約束すると、萬巻上人は毒龍の固い約束を信用し、湖の主の龍神・九頭龍大明神として湖畔近くの森に祀ることにした。そこが今の九頭竜神社本宮であり、創祀は天平宝字元年(757年)とされている。

なお、この満願の日が旧暦6月14日であるため、九頭竜神社本宮では毎年6月13日を例大祭、毎月13日を月次祭に定めている。また毎年7月31日に行われる湖水祭では、龍神に人身御供の代わりに赤飯を捧げており、湖底の逆さ杉のところに捧げた赤飯の御櫃が浮かび上がってくると、龍神が人身御供を拒んだとして災いが起きるといわれている。

白山権現と九頭竜王(石川県)


『泰澄和尚伝記』によれば、霊亀2年(716年)に修験者の泰澄が越知山で修行していた時、夢に天衣腰珞で身を飾った貴女が現れて「我が霊感、時に至れり、早く来るべし」と告げた。

そこで、翌年の養老元年(717年)に白山の麓の伊野原に赴くと、再び夢の貴女が現れて「この地は大徳が悲母の産機の地にして結界にあらず、この東の林泉は我が遊止の地なり、早くるべし」と告げた。

泰澄は林泉(平泉寺白山神社の御手洗池)で記念すると、再び夢の貴女が現れて「我は伊弉冉尊(イザナミ)なり、今は妙理大菩薩と号す。我が本地真身は天嶺にあり、往いて礼すべし」と告げた。

泰澄は白山の御前峰に登り、緑碧池(翠ヶ池)の傍で一心不乱に加持すると、池の中から九頭龍王が出現して「これは方便の示現なり、本地の真身にあらず」と言うと、たちまち十一面観自在尊の慈悲の玉躰が現れた。

とあり、これが白山権現の起源とされ、白山修験場開創の由来となっている。また、『加賀白山伝記之事』にも類似した説話がある(場所や細かい部分が異なる)。

九頭龍川の語源(福井県)


『越前名蹟考』によれば、寛平元年(889年)6月、平泉寺の白山権現が衆徒の前に姿を現して尊像を川に浮かべた。すると、9つの頭を持った竜が現れて尊像を頂くようにして川を下り、黒竜大明神の対岸に泳ぎ着いた。以来、この川を「九頭竜川」と呼ぶようになったという。

三井寺の霊泉と九頭龍神(滋賀県)


滋賀県の三井寺(園城寺)の金堂近くには天智・天武・持統の三帝が産湯に用いたという「三井の霊泉」がある。この霊泉から湧き出す霊水は、古くから閼伽水として金堂の弥勒菩薩に供えられていた。

古記によれば、この霊泉には九頭一尾の龍神が棲んでおり、年に十日だけ丑の刻(深夜1:00~3:00頃)に姿を現し、金堂の弥勒菩薩に金の御器を用いて水花を供えに来るといわれている。よって「その日に霊泉に近寄ると罰や咎がある」といわれ、何人たりとも近づくことが禁じられていたという。

平城京の九頭龍伝説(奈良県)


二条大路(奈良県)の遺構から発掘された「二条大路木簡」の中に、南山に棲む九頭一尾の大蛇に天然痘の原因となる鬼を食べてもらい、都で疫病が流行しないように祈願したと見られる文が記載されたものがある。その内容は以下のようになっている。

【原文】

南山之下有不流水其中有 一大蛇九頭一尾不食余物但 食唐鬼朝食 三千 暮食 八百 急々如律令

【意訳】

南山(吉野山)の下に水が流れることなく留まっているところがあり、そこに九頭一尾の大蛇が棲んでいる。この大蛇は唐鬼(天然痘の原因となる鬼)しか食べることはなく、朝に三千、夕暮れに八百を食べる。急急如律令(修法せる呪符よ早く効け)。

猪名川・五月山一帯の九頭龍伝説(大阪府・兵庫県)


天徳元年(957年)、清和源氏の祖・源満仲が矢文を放ったところ、ある岩に当たったのでその岩を「矢文岩」と名付けた。能勢妙見宮を崇敬していた満仲はそこに妙見祠を祀ったという(現在の久々知妙見宮)。

その後、天禄元年(970年)に摂津国守任ぜられた満仲は、居城を築くべき場所を求めて住吉大社に参籠した。参籠して27日後、住吉大神より「北の空に向かって矢を射よ。その矢の留まるところを居城すべし」との神託を受けたので、矢文岩の上に乗って神託通りに鏑矢を放ったところ、矢は遥か雲上に飛んでいき、光を放ちながら池田五月山から西北の谷蔭深い場所に落ちていった。

満仲は家来を連れて矢の行方を追い、鼓ヶ滝付近まで来た時に白髪の老人と出会い、その老人の教えによって矢の落ちた場所を知ることができた。この場所には「矢を問うた場所」ということで「矢問」という地名がついたという。

この老人に教えられた場所には河水を湛えた湖があり、その湖には主である九つの頭を持った大蛇(九頭龍)が雌雄二頭で棲んでいた。矢はそのうち一頭の大蛇の目に刺さっており、その苦しみから暴れていたがやがて死に、血水跡は紅の河のようになって流れた。死んだ大蛇の首は満仲によって斬り取られ、九頭の明神として崇め祀られたという。

また、もう一頭の大蛇は山を突き破って飛び出し、湖水の水を滝のごとく流出させた。その後もしばらく鼓ヶ滝の滝壺の中で生き続けたが、大水害の度に下流域に流されていき、ついに息絶えてしまった。やがて湖沼の水は干いていき、そこにはよく肥えた土地が残ったので多くの田畑ができることとなった。これにより「多田」という地名がついた。

九頭龍の犠牲によって田畑を得られた村人たちは、このことに甚く感謝し、九頭龍大明神、九頭龍大権現、白龍大神といった形で祀り、篤く崇敬した。そして満仲はこの地に居城を築き、多田源氏を名乗るようになったという。

阿蘇山の九頭竜伝説(熊本県)


『彦山流記』によれば、玉屋窟には臥験という聖人が居た。この者は大巌窟で千日の伏臥修行を行った後、その石室で釈尊のように「諸法は皆空である」と悟ったので、臥験という名となった。

その後、臥験は肥後国の阿蘇の峰に登り、山の嶺嶽が法華経にある七宝の場所で、高い峰が四方に広がる波羅密への門の扉となって開き、そびえていることを理解した。八功徳の水は澄み渡り、そのさざなみは四波羅蜜、三解脱門を備え、南山に落ちる夕日は胡地を黄金に染め上げて銀色の砂が敷き詰められている。また樹木の間に花の色が重なって交わり、まるで極楽浄土のような荘厳さを呈していた。

臥験は、このような凡夫の決して見ることのできない宝池の主に拝することを心から願って法華経を誦した。経が第三巻に達しようとした時に鷹が現れたが、これは宝池の主に相応しくないと退け、さらに俗人・僧侶・竜も現れたが、これらも主ではないとして退けた。すると、十一面観音が光明を放ちながら現れたが、臥験はそれでも主ではないと退けて経を唱え続けた。

こうして経を唱えること半月が経過した。そのとき、池の中から声が上がり、修法に従事していた臥験に「宝池において、汝が主の正体を拝むに至らないのは、罪障が重いためである」と言ったので、臥験はいきり立って「我はこの三界を領有し、治める知識や学問を身につけた聖なる持明者であり、悪魔降伏を信じて疑わない。八大童子が従う十二神将よ加護したまえ。第六天魔王をなお繋ぎ縛れ。何者が余の状況を評し、このように言うのか」と言い返し、経論章疏の要文を誦し、秘密真言や神咒を唱え、真俗二諦の法理を修めると、その間に山と大地が騒ぎ始め、 四方は闇に包まれてしまった。

そして、ついに宝池の主である九頭八面の大龍が出現した。その龍は阿蘇の山のように高く、嶺のように長く、それぞれの顔面には3つの目が太陽のように出て、暁星のように照り輝いていた。また口から吐き出される大炎は同じく迦楼羅焔の如く照っており、その身は空虚を埋めるほど満ち満ちた巨体であった。龍の凄まじい気迫を恐れた臥験は、咄嗟に金剛杵を龍の三つ目をめがけて打ち込んだ。すると、龍は姿を消し、四方の闇は晴れていった。

目的を果たした臥験は山を下り始めたが、その時より空が曇り始め、やがて大雨となり、川は氾濫して洪水となった。川を渡れなくなると、他の道を行くことにし、山中を彷徨っているとようやく一軒の小屋は見つかった。そこには一人の若い女が住んでいたので、臥験が宿を貸してくれるよう頼むと、女は快く了承した。

臥験が裸になって濡れた着物を乾かそうとすると、女は自分の着物を差し出した。これに臥験は「修行の身にとって女は不浄であるので、それを着ることはできない」と断ったが、これに怒った女が「仏様は慈悲平等の心を教えますので、浄、不浄などと言いません」と言い、断る臥験に無理やり着物を着せようとした。

そうこうしている間に臥験に情欲が起こり、未知の男女の交わりを試そうと女を押さえつけた。女は抵抗して「まずは接吻から始めてください」と懇願したが、臥験は「自分は口で真言を唱える身であるから、それはできない」と断った。すると、女は「それでは目的を達成できないでしょう」と言うので、仕方なく接吻すると、途端に舌を噛み切られて臥験は気絶してしまった。その後、女は大龍となって天に昇っていき、臥験が目覚めると小屋も消えて山中に残されていた。

臥験は自分の犯した罪を悔い、自分の舌が治るよう不動明王に念じると、14,5歳の童子が現れて傷ついた臥験の舌を撫でた。すると舌は元通りになり、心身も安らかになった。そのとき、天より「我は汝が修法を施したことに対し、様々な身に変えて姿を現した。極楽世界では、正しい身には阿弥陀という衣を被る。この娑婆世界では十一面観音という衣を被る。再び阿蘇の山に登り、重ねて御嶽を拝すべし。そして宝の躰を得よ」と告げられた。

それを聞いた臥験が直ちに御岳に登り始めると、また天より「汝の修法によって楽々示された種々の身形を観ても、眼根・心根に障りがあるから本地を見抜くことができないのだ」という声がしたので、臥験はその場に重ねて座し、印を結んで、無性に懺悔の意を尽くした。すると、天の声はこのように告げた。

「霊峯の頂きで十一面観自在尊が千の葉の蓮花に座し、自ら放たれる大光明に照らされたあの瞬間、かの光明は十方世界を遍く照らし、三十二相八十種好を具足奉る金色相と一つとなり、音楽・芸術・美を司る畢婆迦羅の神の身体そのものとなっていた。最初に現れた鷹は、法華経が説かれる時の同聞衆の身形である。次の俗人の姿、これは健磐龍命(タケイワタツ、阿蘇大明神)である。次の僧の姿、これは比叡山座主良源、次の龍身は宝池の主として契のない池の大龍である。そして、最後の十一面観音が当山に常に住まわれる本尊で、大慈大悲の大御心で衆生に利益を与えんとする実体である。汝の眼に罪障があるから実体を見抜くことができなかったのだ」

これに臥験は心から歓喜踊躍し、御礼の意を表すとその場を去った。九頭の龍から若い女性、そして天の声として現れたこの大龍こそ、法華経に説かれている同聞衆、娑伽羅龍王、阿那婆達多羅龍王第三王子、すなわち十一面観音の化身である。