珍奇ノート:官那羅の伝説

『神道集(諏訪大明神五月会事)』


そもそも諏訪の大明神の五月会というのは人皇58代光孝天皇の御代に始まる。その由来をたずねると、この時代に在原業平という一人の臣下がいた。この業平は平城天皇の5世孫で、他に類を見ない優れた歌人であり、文武両道で諸芸に明るく、特に笛の名手であり、国内外にその名が伝わるほど有名であった。そのため、業平は婦女に大変人気があったという云々。

光孝天皇の御代、信濃国に一人の鬼王がいた。この鬼は日本国に来てから9年であったが、都に常に上っては婦女と交わっており、人や鳥獣に変化することができたので、相手の望みに合わせて身を変じて遊び回った。また、たいそう笛を好んでおり、自分ほどの技量を持つものは他に居ないと思い込んでいた。この鬼の名は官那羅(かんなら)といい、鬼婆国(きばこく)の乱婆羅王(らんばらおう)から数えて52世孫である。

官那羅は不思議な笛を持っており、上の節にはふさふさとした青葉が一房と小葉が二房、全部で3枚の青葉が付いていて、日が暮れると露が浮き、それは仕舞う器も濡らすほどの雫であった。竹の色も今切ったばかりのような青さだったので、青葉の笛といった(また雲化の笛ともいう)。

青葉の笛は、口に当てれば吹けない者でも様々な曲を吹くことができるが、吹き手を選り好み、曲を心に思い浮かべながら吹くことでおおよそ音声のあるものであれば自由自在に吹くことができる。また、事の善悪や吉凶を見抜くことができる。ただし、臣下以外ではこれはできない。

この話を聞いた業平は、なんとしてでも青葉の笛を手に入れて国宝にしたいと思い、100本ばかりの笛を作らせ、これを携えて官那羅に会うために高山や幽谷に出かけていっては秘曲を吹いたので、天人をはじめ鬼畜に至るまで妙な気持ちにさせたという。そして、ある夜に官那羅と会うことができ、意気投合して偉鑒門や北野の辺りまで遊びに出た。

その時、業平は官那羅の青葉の笛を手に取って一曲吹いてみると、官那羅は物静かに口を開けて聞いていた。業平は笛に任せて吹き続けると、25菩薩が来迎される時の自然の法音となったので、官那羅はこれまで聞いたことのない音楽だと思って聞き続け、そのうち夜も更け、やがて鶏の鳴き声が聞こえる頃になった。

官那羅が「もう鶏が鳴く頃になったので笛を返してもらいましょう。明日はどこで遊びましょうか、あの大原の松の下がよろしいと思うのですが」と言ったので、業平は「木幡山の辺りはどうでしょう」と言うと、官那羅は「どこでも良いです。会いに参りましょう。ただ笛は返してもらいます」と言った。

どうしても手放したくなかった業平は、青葉の笛を自分の笛とすり替えて官那羅に返した。その笛は青葉の笛と見た目は少しも違わないのだが、官那羅は「これは違う」と言って受け取らない。そこで業平はとぼけて次々と似たような笛を差し出したが悉く見抜かれて青葉の笛を返してほしいとせがまれるので、官那羅は業平の態度を怪しむようになった、

しかし、ついに鶏が鳴いてしまったので、官那羅は大層驚いて笛のことなど放って帰っていった。官那羅が鶏の声を恐れるのは、魔王は鶏の声を聞くと威力を失ってしまうからである。こうして念願の青葉の笛を手に入れた業平は、夜が明けぬうちに早速 帝に献上した。帝は「人間世界のどのような賢王でも、これほどの笛を持つことはないだろう」と大変喜び、何事につけても日本国は他国よりも素晴らしいと思ったので、業平の威勢も日増しに盛んになった。

一方、官那羅は中一日おいて丑の刻に内裏を訪ね、御殿の南面の庭に若衆の姿で立ち現れた。そこで官那羅は帝に対して「その笛は代々鬼王に57代にわたって伝わってきたものです。早くお返しください。代わりの笛を探して来ますので早くお返しください。あなたは正直な帝でいらっしゃいます。どうしてお返しくださらないことがありましょう」と言ったが、帝は笛を返すのが惜しいと思ったので返事を返さなかった。

そこで、官那羅は怒って正体を現すと、身の丈2丈(6.06m)ばかり、体色は5色で、身から火を吹き出し、燃え出る気は風となった。その風は人を苦しめるものだったので、都はたちまち大騒動となり、害を被った者は幾千人にものぼった。それでも帝は笛を返そうとせず「汝は王土に生まれながら狼藉である。退散せよ」と言うので、官那羅は帝の言葉を恐れて退散したが、ただで帰るものかと帝の寵愛する若い二人の女房を引っさげて帰っていった。

これに帝は心中は穏やかでなくなり、鬼王追討に満清将軍を戸隠に下向させることにした。勅命を受けた満清は、きっと異界への長旅になるだろうと思い、妻子にしばしの別れを告げて都を出立した。この時、満清は29歳で、満清に付き従おうと集った軍勢は27000余騎にも及んだが、満清は皆これを帰した。昔は国王の崩御の時には、公卿一人、女房一人、侍一人を付けて土中に埋めた。この殉死の習俗は、垂仁天皇の時に土人形に替わったので、政も良いものとなった。満清の行いも同じことである。

こうして、満清は計12騎の供人を引き連れて下向した。将軍が宿場を次々と通過していくと、美濃と尾張の境にある洲俣河を渡って東の岸に着いた時に30歳ばかりの男と出会った。この男は楠葉の紋の水干を着て、黒羽の矢を背負い、塗籠藤の弓を持ち、栗毛の馬に黒い鞍を置いて乗っていた。満清はこの男に行先を尋ねられたので「信濃国に向かうところです」と答えると、男は「大層立派な将軍とお見受けします。私もお供致しましょう」と言って共に下向することになった。

その夜、黒田に宿を取り、翌日は山道を進んで伏屋に着くと、また34,35歳ほどの男と出会った。この男は梶葉の紋の水干に、白羽の矢を背負い、二所藤の弓を持ち、鹿毛の馬に白い鞍を置いて乗っていた。満清はこの男にも行先を尋ねられたので「信濃国に向かうところです」と答えると、男は「私は下野国の宇都宮に用事があって下向するので、碓氷峠を越えていきます。相模国にも用事があって参りますので私もお供致しましょう」と言い、共に下向することになった。

こうして満清は二人のお供ができたので退屈すること無く信濃国に入ることができた。そこで、満清は二人に「あとどれほど連れ立って行けますか」と尋ねると、二人は「将軍はどちらまで行かれるのでしょう」と聞かれたので、満清は「戸隠山に入ります。そこで鬼王を討てという勅命を受けているので下向しているのです」と打ち明けた。

すると、二人は「それを今までどうして黙っていたのですか、どうぞ宣旨の書状をお見せください」と言ったので、満清は書状を広げて読み上げた。これに二人は「同じ木陰で雨宿りし、同じ川の水を飲み、ただ一言の言葉を交わすも、行きずりに裾を触れ合わせるも、すべてこの世の事だけでなく、きっと前世からの縁なのでしょう。その上、宣旨のお遣いでいらっしゃる。ご一緒に何とか致しましょう」と言って討伐に付いてこようとするので、満清は「その志には誠に御礼の申しようがありません。重恩の者たちも皆都に留まらせてきました。あなた方もどうかお留まり下さい」と答えた。

これを聞いた二人は「我々は二人ともこの国の者ですので、案内をお任せ下さい。鬼王は宣旨のお遣いが下向すると聞いて、戸隠山から出て浅間の嶽にいます。およそ人の行かない所です。我々が案内人になりますので、さあ参りましょう」と言ったので、満清も納得して共に鬼王の城に向かうことにした。

一行は浅間の嶽に登って鬼王の城に近づいたが、その城郭は言葉にしようがない様子で、震石の築地を廻らせ、鉄の扉を立て、回廊は18丁あって、8つの門が立っている。一行は南門から入ろうと試みたが門は内から強く閉ざされている。そこで案内人の二人が共に押し開き「我々が様子を見てきますので、将軍はしばらくお待ちください」と言った。

そこで、二人は太刀を抜きつつ門内に討ち入ると、鬼王は手下の眷属を放って争いになり、二人が多数の眷属を打倒すると、鬼王大将軍も出てきてさらに激しい戦いになったので、二人は一旦城外に逃げることにした。しかし、鬼どもは総出で二人を追ってくるので、満清も参戦しようと意気込んだが、鬼王の異様な姿を見て驚愕した。

その姿は身の丈2丈ばかりで、身から火炎を出しており、足は9つ、顔は8つの鬼神であった。しかし、満清も負けじと矢の続く限り応戦したが、そのうち鬼王は二人の侍を捕えて左右の手に引っさげて門内に入っていった。満清はいよいよ脱力したが、騒ぎ立てること無く鬼の出方を窺った。

すると、二人は鬼王は縛り上げ、先に追い立てながら出てきた。そこで二人は「我々が捕えられたのは将軍の心を試したからです。あなたは少しも騒ぎ立てることはなかった。流石は大将軍です」と褒め称え、鬼王を満清に引き渡すと「二つと無い命を捨てるつもりで鬼王を討ち取りました。将軍に従った兵士として安堵しております」と言い、満清と共に上洛した。

そして粟田口に着くと、連れ立った信濃国の人々が鬼王の縄を取ることになった。そこで二人の侍は「ここまでお送りしてきましたが、今は一刻も早く鬼王を帝のお目にかけ、褒美を頂きなさい。我々はここで帰ります」というので、満清は「都に入り、帝のお目にかかって帰られるのが良いのではありませんか」と言うと、二人は「わざと帝のお目にかからずにお暇したいのです」と言うので、満清は「あなた方のお住いはどちらでしょうか、ぜひ承りたく存じます」と尋ねた。

すると、二人の侍の内、栗毛の馬に乗っていた方が「我こそは尾張国の鎮守である熱田大明神なり」と言って姿を消した。次に鹿毛の馬に乗っていた方が「我こそは信濃国の鎮守、諏訪大明神なり」と言って姿を消した。これを聞いた満清は嬉し涙を流し、再拝して別れたのであった。

こうして都に凱旋すると、京中の人々が一目鬼王を見ようと貴賤上下にかかわらず集まってきて、三条河原に集まる車は数万にのぼり、多くの見物人が集まった。院も御幸して鬼王を見に来たという。捕えられた鬼王は三条河原で斬られることになったが、その時に怒って発せられた鬼王の息が見物人を苦しめた。また、鬼王は首を切ってもすぐに治ってしまうので、どうやって殺せばよいのか分からない。これに帝も困ったが、そこに諏訪と熱田の大明神の力が働いて神の力で首を斬り落とすことができた。

帝は満清を大納言にし、信濃国をはじめ15ヵ国を不輸租田として賜った。そこで満清は熱田大明神には賜った土地の内の48ヵ所を寄進し、諏訪大明神には特別に16人の大頭を定めて、諏訪郡をすべて寄進した。大頭は桓武天皇の御代からあるが、それはこの時に特別に定められたのである。

そもそも諏訪の大明神だが、天竺の舎衛国(しゃえこく)の波斯匿王(はしのくおう)の娘に金剛女の宮という天下第一の美人の娘が居た。この娘は17歳になった時から急に身体が金色に変わり、生きながら鬼王の姿となった。身には鱗が生え、見る者は心も消え果て、身体と別々になってしまうという。これは前世で犯した罪が重いためにこのようになった。

昔、善光王の時に金剛女は后となったが、300人の女達に嫉妬して大蛇と共に女達をうつぼ船に入れて責め殺してしまった。その罪によってこのような鬼王の身となったのである。この世における業の報いを次の生で受ける順生業、前世でなした業の報いを現世で受ける順現業、この世における業の報いを来々世以後で受ける順後業からは逃れがたいからこのようになったのである。

その時、祇陀大臣という人に預けて東に宮殿を造り、そこへ大臣と娘を二人押し込めた。ただ入口を一つだけ開けておいた。この宮殿を城宮または構営と言った。大臣は「まるで鬼と二人でいるようなものだ」と心中で思ったが、その時に 大王が釈尊を招いて説法をしてもらう ということを金剛女が伝え聞いていたので、金剛女は自分がその利益にあやかれないことを悲観し、王宮の方を礼拝しながら「私にはこの人間世界の汚れた世は嬉しく思えません。私にも利益を下さい」と言うと、その瞬間に仏の眉間から光が放たれ、金剛女の姿は貴い仏の32相を具えて釈尊の聴聞の席に列席した。これを大王はとても不思議に思い、この姫には他の者を婿にとってはならないとして祇陀大臣を婿に取った。

金剛女が亡くなった場所は誰も知らないが、この娘は仮の人間で会者定離(合う者は必ず別れる)という真理を示すためだったのかもしれない。本地は千手観音である。これが後に日本に渡って住まわれた。

よくよく考えてみれば、神武天皇の金剛女の御子であるから、先祖は皆 今の諏訪の宮の先祖であり、守護のためにおられる熱田大明神は、この諏訪大明神の臣下の甥で宇都宮の御子であり、宇都宮は諏訪大明神の弟である。満清はこの大明神の烏帽子子であり、その上また親でもある。その古い関係を調べて守護してくださったのである。上下ニ所の諏訪とはこれである。上の宮は祇陀大臣、本地は普賢菩薩。下の宮は金剛女で、本地は千手観音である。昔のことを忘れず神功皇后の新羅征伐の時もお守りなさったという。この満清の立願によって諏訪の五月祭は始まったのである。