土蜘蛛(妖怪)の伝説
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資料の伝説
『平家物語』
橋姫が現れた同年の夏頃、源頼光は瘧病(熱病)に罹かり、どんなに瘧鬼を払い落とそうとしても落ちることはなかった。それから瘧病は悪化して毎日発病するようになり、発病すると 頭痛が起きて、体は火照り、熱も上がったり下がったりするが治癒する気配はないという。頼光はそのような苦しみに30日余り襲われていた。
ある時 頼光は再び高熱に苦しんだが、少し熱が下がってきたので、看病していた四天王も休憩することにした。それから夜が更けた頃、かすかなロウソクの影から身の丈7尺(約2.12m)ほどの法師が歩み寄って来て、縄をさばいて頼光に付けようとするので、驚いた頼光は起き上がって「この頼光に縄をつけようとするのは何者だ、さては悪い奴だな」と言って、枕元に立て置かれた膝丸でそれを斬りつけた。
この騒ぎを聞きつけた四天王は、皆で頼光の元に駆け寄って事情を聞いた。すると、灯台の下に何者かの血が落ちていたので、各々が手に篝火を持って辺りを見ると、妻戸から簀子まで血がこぼれていた。これを追っていくと、北野の裏の大きな塚まで続いていたので、塚を掘り崩してみると中から4尺(約1.2m)ほどもある山蜘蛛が出てきた。
四天王がこれを縛って連れてくると、頼光は「穏やかではないことだな。この程度の奴に誑かされて30日余りも苦しめられたのが不思議だ。大路に曝せ」といって、鉄の串に刺して河原に立てて置いた。これ以降、膝丸は「蜘蛛切」と呼ばれるようになった。
『土蜘蛛草紙』
源頼光は清和天皇の御子孫で勇猛果敢な武将として評判であった。10月20日頃、頼光が北山付近の蓮台野まで出かけた時に郎等に渡辺綱という者を連れていた。この綱は他に並ぶ者の無いほど優れた武将であったので御伴に連れられていたのである。この時、頼光は三尺の剣を帯び、綱は腹巻鎧を身に纏って弓矢取りを左右に従えていた。
こうして歩いていると、二人は一つの髑髏が空を飛んでいるのを見た。それが風に吹かれて雲間に隠れたので、頼光は綱と相談しつつ行方を追うと、やがて神楽岡という場所に辿り着いた。その時、髑髏の行方は見失ったが、そこで一つの古い家を見つけた。
その広い庭に足を踏み入れると、そこは雑草が生い茂っており、家の門を見れば蔓草が蔓延ってひどく朽ちていた。恐らく上達部の屋敷だったのであろう。その家から西には紅葉錦の山があり、南に瑠璃青の池があった。また、庭には蘭や菊が咲き乱れ、門は鳥の巣となってしまっていた。そこで頼光は綱を待たせて、警戒しながら中に入った。
その家は台所は障子一間だったが、そこには老女が動く気配があったので、戸を叩いてみると中から老女が出てきた。そこで頼光が「そなたは何者か、事情がどうも判断できぬ」と問うと、老女は「私はここに長年住む者です。今年で291歳になります。今まで9代の主君に仕えてきました…」などと答えた。
その老女の姿を見てみれば、髪はすべて白く、抉(くじり)というものを使って左右の目を開いていたが、上のまぶたが被る様は帽子のようだった。また、笄(かうがい)のようなもので口を開いており、唇を引き伸ばしてうなじに結っていた。また、左右の乳を延ばして膝に掛けており、まるで身に纏っているように見えた。
そこで老女は「春が行けば秋が来ても思いは昔のまま。年が去りまた年が来て恨みだけが募る。ここには鬼の墓があるので人足が途絶えてしまった。若い時代が過ぎれば 老いた身体が残るというのは なんと恨めしいことか。家のウグイスも住まなくなり、梁のツバメも遠ざかるのが悲しい。今、貴方様とお会いできたのは、娼家の娘が元和の白楽天に会った心地です。所は違うと言えども起こりは同じ。最近では河の上に浮かぶ月を見るたびに、悲しく思って枕を涙で濡らしています。たった今、悟るべき智者に出会うことができたのです。さあ、私を殺してくだされ。十念成就して三尊来迎を思召したい。これに過ぎたる御恩が他にございますでしょうか…」などと話り続けたが、頼光はこれ以上話を聞いていても無益だと思って、その場を離れることにした。
その時、綱は頼光の身を案じて台所に様子を見に行っていた。それから夕闇の頃、空がただならぬ様子になり、木の葉が散っていくと思うと、風が強く吹いて やがて雷も轟くようになった。綱は心配になって「ここに留まり続けるのは危険だ。もし化物に取り囲まれたら二人であらゆる方から斬り捨てねばならない。そんなことは到底無理だろう。だが、このままここに居るわけにも、逃げるわけにもいくまい。"忠臣は二君に仕えず、孝女は主に見えず"という言葉もある。指示に背いて恩を忘れることなどできるはずもない」と思って、そのまま雨風に竦んで留まった。
一方、頼光は天候の急変に慌てること無く冷静に耳を澄ましていると、鼓を打つような足音が聞こえたので、言い知れぬ異形の者共が数え切れぬほど歩いているのだろうと思った。そこで柱を挟んで様子を覗いてみると、その異形の者共は姿形がそれぞれ異なっていた。頼光が灯火の方を見ると、そこに居た者は眼は白毫(びゃくごう)のように輝いており、どうと笑うと障子を閉めて去っていった。
それから一人の尼が現れた。それは道州人に似ており、身の丈は3尺(約90cm)ほどだが、顔が2尺(約60cm)で、胴体が1尺(約30cm)くらいであった。足の短さは想像してみてもかなりのものだ。それは灯台の傍ににじり寄って火を消そうとしたので、頼光が睨みつけるとニコニコと笑った。その顔は、眉が太く整えられ、紅は赤く、前歯の2本に鉄漿(お歯黒)をつけており、きちんとした紫の帽子に紅の袴を長々と履いていたが、身体には何も纏っておらず、手は糸筋のように細く、肌の色は雪のように白かった。それが雪や霞のように消え去ると、辺りに静寂が広がった。
鶏人(宮中で暁を知らせる役人)が暁を唱えて忠臣が日の出を待つほどの時間になると、奇怪な足音が聞こえて向かいの障子が開いたので、細めの隙間からしばらく覗いているとまた隠れた。その様子は春の柳が風に遊ばれるよりも繊細なものであった。それからしばらく見ていると、少しずつ歩み寄って近づき、それは上品な様子で畳に座った。その様子は趣があり、言うなれば楊貴妃や李夫人が妬み合うほどの美貌であったので、家主が訪問を喜んでやって来たのだろうかと思ったが、それから冷たい風が吹き抜けたと思うと、その女は帰るような素振りを見せた。その時に女の前髪がはだけて顔が見えたが、その目は火を睨みつけており、漆を注いだように炎が反射して輝いていた。
その女の美貌に、頼光はまぶしいほどの心持ちでいると、女は袴の裾を蹴上げながら十ばかりの毬のような白雲を頼光にかけてきたので、そのせいで目が見えなくなった。頼光はそれを2,3間ほど引き寄せて、直ちに太刀を抜いて力強く斬りつけると、それはかき消えるように姿を消した。また、太刀は板敷を貫いて礎石の半分まで斬り裂いていた。
そうして化物が居なくなると、綱が現れて「見事な行動でした。しかし、御太刀の先が折れてしまっているようです」と言うので、頼光が板敷から抜き出して見ると確かに太刀の先端が折れていた。また、その白い血は血溜まりになっており、太刀にもそれが付着していた。
それから、頼光は綱を連れて化物の行方を追うと、やがて昨日の老女の屋敷に辿り着いた。ここにも白い血が流れていたが、そこには住人の姿が見えなかったので、頼光は「きっと食われてしまったのだろう」と思い、さらに血の痕を追って西山の奥に分け入った。そこから洞の中まで探しに行くと、白い血が細い谷川のように流れていた。
そこで綱が「御剣の先の折れ方を見ると、楚の国の眉間尺が至孝を心に思って御剣の先を折ったことに同じです。できることなら藤を伐り葛を断って人形を作り、烏帽子と直垂を脱いで着せ、前に立てて進みましょう」と言うので、頼光はそのように準備した。
それから4,5町ほど進むと、やがて洞穴の奥に到着した。そこには一軒の棟倉らしき古い建物があり、瓦に松を葺き、垣は苔むしていて人足の絶えたところのように見える。そこを見ると30丈(約90m)ほどの頭から綿を被っているような化物がおり、頭の方ばかり見えて、足がどのくらいあるのかは分からなかった。また、大きな眼は日光や月光のように輝いており、それが轟わたる大きさで「ああ畜生、どうしたことか、身体が重くて苦しい」と言い終わった途端に、案に違わず雲の中に威光を放つ物が一つ現れて、人のような形のものになったがすぐに倒れてしまった。
それを取り上げてみると頼光の剣の先端部分だったので、頼光は「此奴(綱)の言葉に偽りはなかった。只者ではない」と思った。それから化物は何も言わなくなったので、二人は近づいて掴み出した。
この物は力が強く、抵抗して害を為そうとした。それは大磐石を揺るがそうとする勢いであったので、二人は天照大神や正八幡宮に祈念して「本朝は神国である。神は国を守りたまう。国はまた帝の傍臣により治まる。我はまた臣を治める片腕である。服従するが良い」と言って二人で力強く引き出すと、それは最初は戦おうとする様子であったが、すぐに屈服して仰向けに倒れたので、頼光は剣を抜いて首を刎ねた。
それから、綱が腹を開けて見ると、その中ほどに深い切り傷があった。それは頼光が板敷を斬り通した時の傷であった。後にこの物の正体を確かめると山蜘蛛という妖怪であった。この山蜘蛛についた刀傷の切れ目からは死人の首が1990も出てきて、すぐに脇腹を切り裂くと、7.8歳の子供の大きさの子蜘蛛が数え切れぬほど走り出てきた。また、腹を割いてみると、小さな髑髏が20個ほど出てきた。
この後、山蜘蛛の首は穴を掘って埋め、その住処には火をかけて焼き払った。それから、この話を聞いた帝の叡感で、頼光は摂津守に任じられると共に正四位下の位を与えられ、綱は丹波国を賜って正五位下の位を与えられた。
能『土蜘蛛』
源頼光は都の治安を守る武勇に名高い者であったが、病に冒されて体調を崩していた。そこで、侍女の胡蝶は薬を司る典薬頭に薬を貰い、頼光の館に向かった。胡蝶は頼光に薬を持っていくと、病に伏した頼光は心もすっかり弱くなっていたので、胡蝶が励ましの言葉をかけたが、頼光は常に弱音を吐くばかりであった。
それから夜が更け、頼光が一人で休んでいると、そこに怪しげな僧が現れた。驚いた頼光は僧に素性を尋ねると、僧は「我が姿を見て驚くか、愚かなことよ。そなたの病は皆 我がなす業である。古い歌にも"蜘蛛の振る舞ひ予て著しも"とあるではないか…」などと言って、巨大な蜘蛛に姿を変えた。
そこで蜘蛛は、頼光に何千もの糸を吐きかけて動きを封じようとしたので、頼光はとっさに枕元にあった膝切という刀で蜘蛛を斬りつけた。すると、蜘蛛は糸を吐きながら一目散に逃げていった。それから騒ぎを聞いた家臣の独武者が駆けつけると、頼光は今しがた起こったことを語って聞かせ、膝切を讃えて「蜘蛛切」と名付けた。
それから独武者は蜘蛛の血痕を見つけて後を追おうと、軍を起こして退治に向かうことにした。血の痕を追って行くと その血は大和国の葛城山にまで続いており、山中の古塚のあたりで途絶えていた。そこで、軍勢に塚を取り崩させると、その塚の岩間から蜘蛛の化物が現れて「我こそは、この葛城山で齢を連ねた土蜘蛛の精である。昔のように日本の平和を乱そうと頼光に近づいたが、うぬら如きがワシの命を奪おうというのか」と言って大声で威嚇した。
これに独武者たちも負けじと構えて一斉に攻めかかると、土蜘蛛は何千もの糸を吐いて軍勢を足止めしようとした。この戦の中で独武者は神々に祈って戦うと、激戦の中で刃の光に土蜘蛛が怯んだので、独武者はその隙を突いて遂に土蜘蛛の首を討ち取った。こうして土蜘蛛を倒した軍勢は、悠々と都に凱旋したのであった。
地方の伝説
源頼光の土蜘蛛退治(京都府京都市)
平安中期、源頼光は原因の分からない熱病にかかって病床に伏せていた。ある夜、頼光の枕元に怪しげな法師が現れて「苦しめ、苦しめ…」と真っ赤な口を開けて叫び、頼光を縄で縛ろうとした。そこで、頼光はすぐに起き上がって名刀膝丸で斬りつけると、法師は瞬時に姿を消した。
翌朝、頼光は四天王の渡辺綱・坂田公時・卜部末武・碓井貞光を呼び出して法師の行方を探させた。四天王は部屋に落ちていた血痕を頼りに法師の居場所を探すと、やがて北野の森の大きな塚に辿り着いた。そこで四天王は塚を崩して掘り返してみると、そこには体長1メートルを超える大きな黒い蜘蛛が苦しそうにうごめいていた。四天王は四人がかりで蜘蛛を退治すると、その遺骸を加茂川に晒した。すると、頼光の熱病はすぐに治ってしまったという。
土蜘蛛灯籠の由来(東向観音寺 蜘蛛灯籠)
京都市上京区にある東向観音寺には「蜘蛛灯籠」が奉納されている。これは元は七本松通一条にあって、そこは源頼光を悩ませた土蜘蛛が棲んでいたところといわれた。
明治期に その塚を発掘したところ、石仏や墓標の破片などが見つかったが、なんら参考になるものは無かった。その時の遺物が此処にある「火袋(蜘蛛灯籠)」である。当時、ある人が貰い受けて庭に飾っていたところ、家運が傾いた。これが「土蜘蛛の祟り」と言われたので、東向観音寺に奉納したという。
源頼光朝臣塚のいわれ(上品蓮台寺 源頼光朝臣塚)
上品蓮台寺の墓地には源頼光朝臣塚がある。
源頼光は平安中期の武将で、謡曲「土蜘蛛」には頼光が原因不明の熱病で臥していたところ、化身した土蜘蛛の精が現れて襲いかかってきたので、頼光は名刀「膝丸」で斬りつけた。
家来の渡辺綱らの四天王が土蜘蛛の血痕を追っていくと、北野の後ろの大きな塚に辿り着いた。そこには大きな山蜘蛛が棲んでおり、これを四天王が退治したとされている。
その塚は此地にあったといわれ、此処はまたの名を「蜘蛛塚」と呼ばれている。北野とは この周辺の禁野の一つで、ちょうど此処が北野の後ろに当たる。元は千本鞍馬口西入にあったものを昭和の初めに此処に移した。
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