酒呑童子の伝説
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大江山の酒呑童子伝説
『大江山絵巻(絵詞)』
正暦元年(990年)、世は藤原氏の摂関政治の全盛期であったとき、大江山の千丈ヶ嶽に鬼の一味が棲んでいた。その一味は、頭目に酒呑童子(しゅてんどうじ)、副将に茨木童子(いばらぎどうじ)、そして 熊童子、虎熊童子、星熊童子、金熊童子を四天王とする徒党を組み、都とその周辺に出没していた。
ある時、都で若者や姫君が次々と神隠しに遭ったので陰陽師の安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼(酒呑童子)の仕業とわかった。そこで、長徳元年(995年)に一条天皇は源頼光(みなもとのらいこう)に鬼討伐の勅命を下した。頼光は藤原保昌(ふじわらのやすまさ)の助けを借り、また、武勇に優れた頼光四天王(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)を従えて、山伏姿で大江山へと向かった。その途中、一行は三岳山に登って蔵王権現に願文を捧げ、さらに元伊勢三社(元伊勢神宮・天岩戸神社)へも祈願し、山へと分け入った。
険しい谷を抜け、峰を踏みわけ、山内を進んで行き、途中の桜の花の下で休憩することにすると、一行の前に三人の翁が現れて、鬼が飲めば神通力を失い人が飲めば薬となるという「神変鬼毒酒」と「星兜」を授けて姿を消していった。この翁達は、先ほど鬼討伐の祈願を捧げた 住吉、八幡、熊野三神の化身であったという。
一行は、さらに山奥へと分け入ると、血染めの衣を洗う女と出会った。その女は都から浚われて来たと言い、一行を鬼の城まで案内した。城に入った一行が一夜の宿を頼むと、酒宴が開かれることになった。しかし、山伏一行の正体を疑った酒呑童子は「血の酒」や「腕や股の肉」を差し出して その様子を伺った。一行は正体を見破られまいと、出された食事を食べることにした。
その様子を見た酒呑童子は 一行をすっかり信頼し、自分の不幸な半生を語り始めると、頼光たちは 頃合いを見て 翁からもらった「神変鬼毒酒」を鬼達に振る舞った。それを喜んで飲んだ酒呑童子達は すっかり酔い潰れ、たちまち高いびきをかいて寝入ってしまうと、隙を見た頼光は酒呑童子の首を討ち取った。すると、童子の首は天に舞い上がり、頼光に噛み付いたが、翁からもらった「星兜」のおかげで難を逃れた。そして、その首を持って めでたく都に凱旋を果たしたという。
『御伽草子(酒呑童子)』
大江山に住む酒呑童子という鬼は、茨木童子や四天王の鬼(星熊童子、熊童子、虎熊童子、金童子)をはじめとする多くの鬼を従えており、しばしば都に出向いては人々を襲って喰ったり、貴族の姫君をさらって側に仕えさせたりといった悪行を重ねていた。
あまりの被害の大きさに、帝は源頼光に酒呑童子討伐の勅命を下すと、頼光は頼光四天王(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)ら総勢50名ほどの兵を従えて大江山に向かった。一行が修行僧と偽って山伏姿で酒呑童子の住処を訪れると、童子は一行を迎え入れて饗応し、自らの出自を語り始めた。そこで、童子は「越後で生まれて比叡山に修行に出たが、伝教大師に追い出されてしまったので、この大江山に来たが、今度は弘法大師に追い出されてしまった。その後、弘法大師が死んだので再び舞い戻ってきた」と話した。
頼光らは、話を聞きながら鬼とともに人肉や血の酒を飲食して安心させた後、神から授かった「神便鬼毒酒」という毒酒を酒呑童子に差し出し、童子がそれを飲んで身体が動かなくなったところを押さえつけて、ついに童子の首を刎ねた。しかし、首だけになった童子は死んでおらず、飛び上がって頼光の頭に噛み付いたが、頼光は兜のおかげで大事を免れた。
この時、配下の茨木童子は頼光四天王の一人である渡辺綱と戦っていたが、酒呑童子が討たれる様を見て敵わないと感じ、その場から逃げ出してしまった。この後、鬼どもは頼光らに尽く退治されたが、茨木童子は唯一逃げるのに成功したという。
越後国の酒呑童子伝説(国上寺『大江山酒顛童子絵巻』)
その昔、桓武天皇の皇子・桃園親王が越後に流罪となった時、親王の家臣であった否瀬善次俊綱(あるいは石瀬俊綱)も共に連れ添って砂子塚に移り住んだ。それから数代の時を経て俊兼の代となったが、俊兼は子宝に恵まれなかったため、妻を連れて戸隠山の九頭龍権現に祈願し続けたところ、妻はめでたく懐妊した。その後、妻は16ヶ月(あるいは3年)を経て出産し、産まれてきた男児は外道丸(げどうまる)と名付けられた。
成長した外道丸は、類稀なる美貌の持ち主となったが、手がつけられないほどの乱暴者となったので、懸念した両親によって国上寺に稚児に出された。外道丸は母の死を機に仏道修行に励むようになり、次第に大人しくなった。また、美貌がゆえに近隣の娘たちから恋文が届くようになったが、これに気を取られることなく修行に集中した。
すると、外道丸に恋した娘たちが返事が来ないことを悲観して自ら命を絶つということが続いた。これを知った外道丸は今までもらった恋文を焼き払ってしまおうと、恋文を溜めていたツヅラを開けると、紫がかった煙がもうもうと立ち込めて、あまりの苦しさに気を失ってしまった。やがて目が覚めたので、外道丸は鏡の井戸に顔を映してみたところ、自分の顔が鬼の形相に変わってしまっていた。
これに唖然とした外道丸は、仏道修行を捨てて、身を躍らせて天高く飛び上がり、戸隠山の方に消えていったという。また国上山の中腹の断崖穴に籠もったともいわれている。この後、茨木童子などの鬼どもを従えるようになり、酒呑童子と名乗って丹波国に向かい、大江山の千丈嶽に籠もったと伝えられている。
越後国の国上村に佐藤隼人という人がおり、子宝に恵まれなかったので戸隠山に行って祈願していた。すると、後に男児を授かることができたので、その子に外道丸と名付けた。外道丸は7歳から国上寺に仏道修行に入り、17歳になるととても美しい容姿となったので、その類稀なる美貌から多くの婦女の人気を得ていた。
また外道丸は酒好きで、仏道修行の最中にもかかわらず国上山に入っては酒を飲んでいたので、人々から酒呑童子と呼ばれるようになった。それからというもの外道丸は仏道修行を捨てて、信州の戸隠山に飛び入り、人里に降りては人を襲って貪り食うようになった。困った人々が戸隠大権現に祈願すると、大権現の力によって酒呑童子は山に居られなくなったので、丹波国の大江山に移り住んだ。
この酒呑童子には多くの眷属の鬼が居たが、その中には茨木童子という鬼が居た。この茨木童子は、酒呑童子が大江山に来る14,5年前から大江山に住んでおり、酒呑童子が来た際に争いになったが、酒呑童子が勝ったので その召使いとなった。
その後、酒呑童子は大江山を拠点とし、眷属を都に放って人々を襲わせ、宝物や婦女を奪っていたので、天皇は源頼光に酒呑童子を退治する勅命を下した。正暦3年(992年)3月26日、頼光は武勇に優れた渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武を伴って大江山に登り、酒呑童子の住処を訪ねると そこには鉄門が設けられていた。これを坂田公時が打ち破り、中に入ると鬼らと供に酒呑童子が居たので、頼光は都から持参した銘酒を差し出した。
酒呑童子は頼光の銘酒を喜んで受け取り、これを飲みながら肴に人間の腕を食べ始めた。この時の酒呑童子は17,8歳くらいに見える美男子であったが、酔っ払って奥の一間に入ると正体を現し、身の丈9尺8寸(3.724メートル)もある巨大な鬼の姿になって寝入ってしまった。これを好機と捉えた頼光は「王の怨み」と言って太刀を抜き、酒呑童子の首を打つと、天高く頭が飛び上がり、頼光の頭に食らいついた(しかし、兜に守られていて無事だった)。
また、渡辺綱は茨木童子の部屋に入って争っており、その最中に他の者が綱の助けに入ると、茨木童子は綱の姿に化けてどちらが本物かわからなくなっていた。そのとき、頼光が「綱の額には痣がある」と言ったので、二人の綱を見比べて急に眉間の上に痣が現れた方に攻めかかって退治した。そして、頼光らはその他の鬼も一掃して都に凱旋したという。
嵯峨天皇の時代、比叡山延暦寺に酒典童子という不思議な術を使う稚児がいた。怪しんだ人が素性を調べてみると、近江国の須川殿という長者の娘・玉姫御前と伊吹大明神(伊吹山の神、八岐大蛇とも)の間に生まれた子で、出生後は須川殿の子として育てられたという。
酒好きで3歳の頃から酒を飲んでいたので酒典童子と呼ばれるようになり、10歳の頃に祖父に高野山か比叡山に行って仏道修行をするように勧められ、高野山は遠すぎるということで、近くの比叡山に行って稚児となった。入山後、童子は三塔一の学僧と称えられるまでになったが、酒好きの性格が五戒の一つの飲酒戒に反するため、皆から軽蔑されており、師僧に激しく叱られたことで酒を断った。
その頃、都が平安京に移り、内裏では祝賀行事として京の人々による風流踊が催され、諸寺にも風流踊を披露せよとの勅命が下った。比叡山は鬼門の位置に当たることから、酒典童子の提案で「鬼踊り」を披露することに決まった。この踊りで使う鬼面は酒典童子が用意することになり、童子は三千人分の鬼面を作り、自分が使う面は特別に精魂込めて作った。童子はその鬼面をつけて京の町に繰り出すと、大変な人気を得たという。
内裏で鬼踊りを披露し終えると、比叡山の僧侶には酒が振る舞われた。そこで鯨飲した酒典童子は、酔っ払って鬼面を着けたまま山に帰った。翌朝、童子が目を覚ますと鬼面が顔の肉にくっついて取れなくなっており、その姿のまま寺に向かうと周りの僧たちから大層恐れられた。そして、童子は延暦寺を司る伝教大師から比叡山を追い出され、祖父のもとに帰ることになった。しかし、祖父も変わり果てた童子を受け入れられず、両親の住む伊吹山へと追い払った。
伊吹山に行った酒典童子は、母の導きによって山の北西の岩屋に籠もるようになり、やがて神通力を身に着けて本物の鬼になってしまった。そして、近隣の人里に降りて人々をさらって喰うようになったので、これを憂いた伝教大師の祈祷によって伊吹山から追い出されると、童子は日本各地の山々を点々と移り住むようになり、最後に大江山に行き着いたという。
桓武天皇の御代、越後国の寺泊に石瀬前司俊綱という武士がいた。俊綱が信濃国の戸隠明神に子宝を祈願して100日間の参詣をすると、鉄の大蛇が出てきて妻の胎内に宿って生まれたのが悪童丸である。この悪童丸は人並み外れた怪力を持ち、悪事を好んで乱暴狼藉を行うので、両親は慈悲の心を持つよう願って国上の寺に預けることにした。
しかし、寺に入った悪童丸は気に食わない者がいれば、その者の腕を取って捻じ曲げ、腰骨を打ち折り、乱暴は少しも直ることはなかった。そこで、寺の者たちは悪童丸を追い出すよう上人に訴えたかけたが、これに悪童丸は「法師どもが俺を侮るから乱暴するのだ。自分の非を棚に上げて俺を追い出そうとは以ての外、出来るものならやってみよ」と仁王立ちした。これに寺中の法師が手くすねをひしめいていると、悪童丸は銅のような爪を怒らせた。そして、太刀や長刀でかかってくる一山の稚児や法師を樫木の棒で打ち殺していき、最後に寺に火をかけて信濃の戸隠山へと去っていった。今回のことで犠牲になった人数は160人にのぼったという。
戸隠山には4人の盗賊の頭領が居り、300余人の手下を従えて往来する者を襲っていた。そこに国上の寺を出て戸隠山に分け入った悪童丸が現れたので、盗賊どもは斧・鎌・熊手・手鉾などを持って周囲を取り囲んだが、悪童丸は迫り来る敵を次々と投げ飛ばし、大きな松の木を捻じ折ると「俺を誰だと思っている。越後国の石瀬俊綱の一子、悪童丸とは俺のことぞ」と雪のような大音声で名乗ると、盗賊どもも地に頭を付けて三拝九拝し、手を合わせて許しを乞うた。
こうして悪童丸は盗賊の頭領となり、戸隠山の岩屋に城郭を構え、そこを根城にして悪事に励むようになった。近隣の住民たちは門戸を閉じ、出歩くことも出来なくなってしまった。そこで、信濃国の大将である片桐帯刀と諏訪殿は、帝に奏聞して悪童丸を退治してもらおうと都に上った。また、次いで越後の国上寺の僧からも悪童丸退治の訴えが上がった。
このような声から官軍が起こされ、摂津国の大田判官盛十が和泉国と河内国の軍勢3000余騎を率いて信濃に下向することになった。険しい戸隠山を前にして官軍が鬨の声を上げると、盗賊たちも同様に鬨を合わせた。官軍は盗賊の声のする方が本拠であると知り、武者を放って四方を取り巻かせた。これに悪童丸は八尺余りの大石を目よりも高く差し上げて、天にも響くほどの大音声で「大田殿へのご挨拶にこの大石を持ってきたぞ」と言って、笑みを浮かべて放り投げると、官軍の武者たちは落ち重なって一つの深谷を埋めてしまった。
しかし、官軍も負けじと新手を放って追い詰めていき、とうとう手下は全滅させられてしまった。一人残った悪童丸は怒って一丈ばかりの金砕棒を持ち、大手を広げて官軍を追いまくり、大将の大田殿を引っ掴んで殺してしまった。そして、官軍が引くと、悪童丸も戸隠山の奥に引っ込んだ。
敗走した官軍は都に帰り、悪童丸をどうしたらよいかと相談していると、万里小路大納言が「悪童丸の親の石瀬夫婦を召し取って、獄屋に押し込めれば悪童丸も出てくるはずです。そこを取り押さえて獄屋に入れ、押し殺してしまえば良いでしょう」と言ったので、この案の通りに親が捕えられ、このことはすぐに悪童丸に伝わることになった。悪童丸は「なんと口惜しいことだ。父母に代わって俺が牢獄に入り、時刻を見計らって踏み破ることにしよう」と考えて都に上り、庭上に伺候して地に頭を付けて「この悪童丸を牢獄に押し込め、父母を助けていただければ、生生世世の御恩」と怒れる眼から涙を流し、手を後ろに回して自ら縄にかかった。
こうして悪童丸は牢獄に入った。この牢獄は 三尺の詰め牢に8,9寸の材木を七重八重に貫を入れたもので、悪童丸は 楠の丸太を手かせ足かせにして押し込まれ、髪が天井の四方に絡み付けられた。また、牢獄の上には大石と大木が山のごとく積み上げられたので牢獄内に通うものは息ばかり、動くものは両目だけとなった。
悪童丸が大人しくしていると、牢の番人たちの話し声が聞こえたので聞き耳を立ててみると「大唐まで並ぶ者のない悪童丸も、飯を与えなければ干し殺しだ。しかし、あれ程の怪力でこの牢を破れずにいるとは哀れなものだ」などと言うので、悪童丸は「俺は餓死させられるのか、だが奴らの言う通り この牢を破れずいるのは心残りだ」などと思って日暮れを待っていた。
日暮れになると、悪童丸は目を閉じて「南無戸隠明神」と心に念じ、精一杯の力で足を引くと絆足の金が一度に抜け、絡み付けた左右の髪を振り払い、胴の大綱を切って立ち上がれば、さしもの牢も山を崩すように倒れた。牢を飛び出した悪童丸は足の任せるままに逃げ出した。これに気づいた番人も慌てて追いかけるが、飛鳥のような逃げ足で駆ける悪童丸に追いつくことはできなかった。
こうして悪童丸は信濃国の戸隠山に帰って「押し潰した者の数はおそらく十万に及ぶだろう。天竺、震旦、唐土にわたっても俺のような怪力は居るまい」と高慢になったのだが、この時に14,15歳の小法師が忽然と現れて「その方は力が万人に優れ、大自慢と聞く。我と力比べをしようではないか」と笑みを浮かべて言うので、悪童丸は飛びかかって手を組むと、小法師は悪童丸を宙に引き下げて虚空を目指して昇っていった。
この小法師をよく見ると、目は鏡のように輝き、鳶のような嘴が付いている。その正体は大唐の天狗の善界坊(ぜんかいぼう)であった。善界坊が「汝、高慢が故に天狗道に堕ちたぞ」と言うと、悪童丸は下界を見ながら「さてはそういうことか、今翔んでいるのはどこの国だ」と尋ねると、善界坊は「ここは無色界である。今に魔王が現れて三熱の苦しみを汝に見せよう」と言った。
すると、にわかに虚空が振動し、そこに無色界に住む魔敬修羅王(まけいしゅらおう)が玉座に座して現れた。この魔王は目尻は八角に裂け、頭は夜叉のようで、息をするたびに火炎が吐かれ、周囲に黒煙が立って天に立ち上っていた。また、右の座には天智天皇の御代に天下を暗闇にした藤原千方が座し、目が5つ、口の脇は両耳まで裂けているという姿であった。また、左の座には、大弓を持った氷上川継が居り、次いで目が5つで鉾をつく蘇我入鹿が居り、次いで浄御原の天皇を殺そうとした大友皇子が青色のニ面を持つ姿で座しており、その他にも数人のものが玉座を囲んで座していた。
しばらくして修羅王が「どうやら人の匂いがするぞ、連れて参れ」と言ったので、善界坊が悪童丸を差し出すと、修羅王は「汝は魔王の4,5人も組み止めて死んでやろうと思っているのだろうが今は抑えておけ、汝は日本に帰れば鬼の姿となって天下を乱すであろう。我は力を添え、通力を授けてやろう」と言うと、虚空がにわかに振動した。
すると、修羅王が「もう三熱の時刻か、いかに悪童丸、天人の五衰、人間の八苦、我にはまた三熱の苦しみがある。日に三度 熱鉄の湯を飲む。これが苦しみの第一だ。それ見てみよ」と言うと、黄金の銚子に白銀の盃を持った童子が天から下りてきた。そこで修羅王が熱鉄の湯をさらりと飲み干すと、次々に他の魔王に盃を送っていき、あっという間に魔王一同は消え失せ、消えたと思えばまた現れ、その様子は消えては出る月のようであった。魔王は熱鉄を飲み干すごとに苦しげな息を吐いた、この有様はとても見ていられない身の毛のよだつものであった。
そこで修羅王が「どうだ悪童丸、この苦しみをよく見ておけ。さて、今から汝の一生を語り聞かせよう。汝が越後に帰ると、天より4人の鬼が下って臣下となるだろう。さらに比叡山に上るが、伝教大師に追い出されてしまう。それから高野山に上るが、ここでも弘法大師という曲者によって邪魔されるので、丹波の大江山に住むことになろう。そして時の帝より16代後の一条帝の時、摂津守の頼光という者が現れるが、これが汝の大敵となる。頼光に従う郎党の内、渡辺綱という者は汝の郎党の茨城童子という鬼と戦うことになろう。さあ早く日本に帰れ」と言って修羅王は消え失せ、悪童丸が目を開くと元の戸隠山に戻っていた。
悪童丸は急に父母が心配になり、戸隠山を出て越後国に入ったが、父は80年以上前に悪童丸の罪を被って切腹を命じられており、母はそれを悲しんで嘆き死んでいた。これを知った悪童丸はその無念を晴らすべく、仇討ちの一念で悪鬼となり、雲に乗って都を目指して飛んでいった。都についた悪童丸は、東山に立て籠もって自在天の魔王共を味方にしようと、目を塞ぎ、呪文を唱えると、空がかき曇り、4人の鬼が天降ってきた。
そこで悪童丸が「汝らは兼ねて聞き及ぶ無色界の外道だな」と聞くと、鬼たちは「その通り。魔敬修羅王の命で汝の味方となるべく参じました」と言うので、悪童丸は「そうか、俺は若年の昔より酒を好んでいたので、今より酒典童子と名乗ることにしよう。また汝らは茨城童子、石熊童子、金熊童子、虎熊童子と名乗り、我が四天王として仕えよ。戸隠山では不都合ゆえに比叡山に上ろう」と四人の鬼神を引き連れて比叡山に向かった。
しかし、そこに比叡山を司る伝教大師が駆けつけて「汝ら、我が住む山に来ることは許さんぞ。早々に立ち去るが良い。さもなくば仏法の力を見せてやろうぞ」と言って、笏(しゃく)を取り直し、数珠を打った。これを聞いた酒典童子は「面白い、衣を着た僧に向かって腕立てはしないことにしよう。邪法と正法で勝負だ」と魔王の通力を以って戦うことを宣言した。そこで伝教大師が「お前が用いるという、天に上り山を裂く術をやってみるがよい」と言うと、石熊童子が天を向いて呪文を唱え、枯れた草木に花や実を付けて見せた。そこで伝教大師が虚空に向かって息を吹くと、大風が吹いて咲き乱れた花が庭の散りのごとく吹き飛んだ。
次に金熊童子が 手を打ち 目を閉じながら 呪文を唱えると30丈の楠が生えてきたので、伝教大師が「阿耨多羅三藐三菩提の仏たちよ、我が立つ杣に、冥加あらせたまへ」と唱えると、その楠はずたずたに折れてしまった。
すると、この有様を見ていた茨城童子が怒って奮迅の修羅となり、雷のような声を上げて天に向かって咆哮したが、伝教大師は少しも驚かずに黙然として座していた。そしてしばらくすると、鞍馬山から神通の鏑矢を持った毘沙門天が白雲に乗り、光を放ちながら現れたので、酒典童子たちは恐れ慄いて五体を地に着けて礼拝したが、次に多聞天が現れて鏑矢を童子らの上に放つと、それは猛火となって燃えかかってきたので童子らは許しを乞うて降参した。
これに伝教大師は「さっさと山を出ていけ」と童子らを払い除けると、童子らは言われたとおりに出ていき、やがて丹波国の大江山に立てこもり、ここを本拠に様々な悪事を働くようになったという。
大和国の白毫寺の稚児が、付近の山で人間の死体を見つけ、好奇心から死体の肉を切り取って持ち帰り、師僧に食べるように勧めた。師僧はそれが死体の肉だとは知らずに珍味だと喜んで食べたので、嬉しくなった稚児は町に出て人を襲って殺し、その肉を師に差し出すようになった。
しかし、稚児がどのようにして珍味の肉を手に入れているのかを不審に思った師僧は、稚児の後をつけていくと人を襲おうとしていたので、稚児を捕えて縛り上げ、激しく責め立てて山に捨ててしまった。この坂を「稚児坂」といい、その稚児は大江山に行って酒顛童子となったという。
樵(きこり)の親方が多くの弟子を連れて深い山に仕事に出かけた時、弟子の一人が人影のない森陰で一重の見事な紅白餅を見つけた。あまりに美味そうだったので その場で食べてしまったところ、面相が一変して暴れだすようになり、やがて山中を彷徨う鬼のようになった。
心配した仲間が連れ戻しに行こうとすると、親方は既に鬼と化してしまったので近づかない方が良いと止めたが、それでも心配だと言って数人で山中を探しに向かった。すると、鬼と化した弟子は見つかったのだが正気を失って次々と仲間に襲いかかり、最後に仲間の一人を殺して食べてしまった。
それからしばらくすると、鬼と化した弟子が親方の前に現れて自分の罪を告白し、再び仲間に迎えられたのだが、再び山中に戻ろうとして「丹波の大江山に行く」と言い残し、その場から飛び去っていった。これが後の酒呑童子なのだという。
昔、豊後・肥後・筑後の境にある日田村をに男児が生まれた。その男児は生まれた時から酒好きで、乳の代わりに酒を飲んで育ったので酒呑童子と名付けられた。童子は乳離れの時期を過ぎても呑み続け、酒量も増えていったという。
ある日、童子がいつものように多量の酒を飲みつつ道に小便をしていたところ、不思議と辺りの草木が伸び始めた。それからというもの「童子が小便をかけた田畑は作物がよく実る」と評判になり、村中の痩田や痩畑に引っ張りだこになったという。
その後、日田村に青鬼が出るという噂が流れるようになった。その鬼は村から若い娘をさらって喰うということだったので、童子は青鬼を退治してやろうと意気込んで、一升瓢箪を片手に鬼の棲む山に出かけていった。
その山で青鬼を見つけた童子は、早速 酒の飲み比べで勝負しようと切り出し、もし自分が勝ったら村の娘を喰うなという条件をつけた。すると、青鬼が勝負を受けたので互いに酒を飲み始め、互いに50升近くもの酒を飲み干したが、この頃には青鬼もすっかり酔っ払って見た目も赤鬼になっていた。
そして、51升目に差し掛かった時にとうとう鬼も酔い潰れて倒れてしまった。それでも童子は平然と酒を飲み続けていたので、飲み比べに勝つことができた。勝利を収めた童子は山の上に立ち、鬼に向かたって腹に溜まった小便を一気に放った。すると、小便は青鬼を流しながら やがて川となった。それが今の津江川である。
また、人々は鬼を倒した酒呑童子を讃えて その山を酒呑童子山と呼ぶようになったという。
成長した外道丸は、類稀なる美貌の持ち主となったが、手がつけられないほどの乱暴者となったので、懸念した両親によって国上寺に稚児に出された。外道丸は母の死を機に仏道修行に励むようになり、次第に大人しくなった。また、美貌がゆえに近隣の娘たちから恋文が届くようになったが、これに気を取られることなく修行に集中した。
すると、外道丸に恋した娘たちが返事が来ないことを悲観して自ら命を絶つということが続いた。これを知った外道丸は今までもらった恋文を焼き払ってしまおうと、恋文を溜めていたツヅラを開けると、紫がかった煙がもうもうと立ち込めて、あまりの苦しさに気を失ってしまった。やがて目が覚めたので、外道丸は鏡の井戸に顔を映してみたところ、自分の顔が鬼の形相に変わってしまっていた。
これに唖然とした外道丸は、仏道修行を捨てて、身を躍らせて天高く飛び上がり、戸隠山の方に消えていったという。また国上山の中腹の断崖穴に籠もったともいわれている。この後、茨木童子などの鬼どもを従えるようになり、酒呑童子と名乗って丹波国に向かい、大江山の千丈嶽に籠もったと伝えられている。
『實録傅記』の酒呑童子伝説
越後国の国上村に佐藤隼人という人がおり、子宝に恵まれなかったので戸隠山に行って祈願していた。すると、後に男児を授かることができたので、その子に外道丸と名付けた。外道丸は7歳から国上寺に仏道修行に入り、17歳になるととても美しい容姿となったので、その類稀なる美貌から多くの婦女の人気を得ていた。
また外道丸は酒好きで、仏道修行の最中にもかかわらず国上山に入っては酒を飲んでいたので、人々から酒呑童子と呼ばれるようになった。それからというもの外道丸は仏道修行を捨てて、信州の戸隠山に飛び入り、人里に降りては人を襲って貪り食うようになった。困った人々が戸隠大権現に祈願すると、大権現の力によって酒呑童子は山に居られなくなったので、丹波国の大江山に移り住んだ。
この酒呑童子には多くの眷属の鬼が居たが、その中には茨木童子という鬼が居た。この茨木童子は、酒呑童子が大江山に来る14,5年前から大江山に住んでおり、酒呑童子が来た際に争いになったが、酒呑童子が勝ったので その召使いとなった。
その後、酒呑童子は大江山を拠点とし、眷属を都に放って人々を襲わせ、宝物や婦女を奪っていたので、天皇は源頼光に酒呑童子を退治する勅命を下した。正暦3年(992年)3月26日、頼光は武勇に優れた渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武を伴って大江山に登り、酒呑童子の住処を訪ねると そこには鉄門が設けられていた。これを坂田公時が打ち破り、中に入ると鬼らと供に酒呑童子が居たので、頼光は都から持参した銘酒を差し出した。
酒呑童子は頼光の銘酒を喜んで受け取り、これを飲みながら肴に人間の腕を食べ始めた。この時の酒呑童子は17,8歳くらいに見える美男子であったが、酔っ払って奥の一間に入ると正体を現し、身の丈9尺8寸(3.724メートル)もある巨大な鬼の姿になって寝入ってしまった。これを好機と捉えた頼光は「王の怨み」と言って太刀を抜き、酒呑童子の首を打つと、天高く頭が飛び上がり、頼光の頭に食らいついた(しかし、兜に守られていて無事だった)。
また、渡辺綱は茨木童子の部屋に入って争っており、その最中に他の者が綱の助けに入ると、茨木童子は綱の姿に化けてどちらが本物かわからなくなっていた。そのとき、頼光が「綱の額には痣がある」と言ったので、二人の綱を見比べて急に眉間の上に痣が現れた方に攻めかかって退治した。そして、頼光らはその他の鬼も一掃して都に凱旋したという。
伊吹山の酒呑童子伝説(奈良絵本『酒典童子』)
嵯峨天皇の時代、比叡山延暦寺に酒典童子という不思議な術を使う稚児がいた。怪しんだ人が素性を調べてみると、近江国の須川殿という長者の娘・玉姫御前と伊吹大明神(伊吹山の神、八岐大蛇とも)の間に生まれた子で、出生後は須川殿の子として育てられたという。
酒好きで3歳の頃から酒を飲んでいたので酒典童子と呼ばれるようになり、10歳の頃に祖父に高野山か比叡山に行って仏道修行をするように勧められ、高野山は遠すぎるということで、近くの比叡山に行って稚児となった。入山後、童子は三塔一の学僧と称えられるまでになったが、酒好きの性格が五戒の一つの飲酒戒に反するため、皆から軽蔑されており、師僧に激しく叱られたことで酒を断った。
その頃、都が平安京に移り、内裏では祝賀行事として京の人々による風流踊が催され、諸寺にも風流踊を披露せよとの勅命が下った。比叡山は鬼門の位置に当たることから、酒典童子の提案で「鬼踊り」を披露することに決まった。この踊りで使う鬼面は酒典童子が用意することになり、童子は三千人分の鬼面を作り、自分が使う面は特別に精魂込めて作った。童子はその鬼面をつけて京の町に繰り出すと、大変な人気を得たという。
内裏で鬼踊りを披露し終えると、比叡山の僧侶には酒が振る舞われた。そこで鯨飲した酒典童子は、酔っ払って鬼面を着けたまま山に帰った。翌朝、童子が目を覚ますと鬼面が顔の肉にくっついて取れなくなっており、その姿のまま寺に向かうと周りの僧たちから大層恐れられた。そして、童子は延暦寺を司る伝教大師から比叡山を追い出され、祖父のもとに帰ることになった。しかし、祖父も変わり果てた童子を受け入れられず、両親の住む伊吹山へと追い払った。
伊吹山に行った酒典童子は、母の導きによって山の北西の岩屋に籠もるようになり、やがて神通力を身に着けて本物の鬼になってしまった。そして、近隣の人里に降りて人々をさらって喰うようになったので、これを憂いた伝教大師の祈祷によって伊吹山から追い出されると、童子は日本各地の山々を点々と移り住むようになり、最後に大江山に行き着いたという。
『酒典童子若壮』
桓武天皇の御代、越後国の寺泊に石瀬前司俊綱という武士がいた。俊綱が信濃国の戸隠明神に子宝を祈願して100日間の参詣をすると、鉄の大蛇が出てきて妻の胎内に宿って生まれたのが悪童丸である。この悪童丸は人並み外れた怪力を持ち、悪事を好んで乱暴狼藉を行うので、両親は慈悲の心を持つよう願って国上の寺に預けることにした。
しかし、寺に入った悪童丸は気に食わない者がいれば、その者の腕を取って捻じ曲げ、腰骨を打ち折り、乱暴は少しも直ることはなかった。そこで、寺の者たちは悪童丸を追い出すよう上人に訴えたかけたが、これに悪童丸は「法師どもが俺を侮るから乱暴するのだ。自分の非を棚に上げて俺を追い出そうとは以ての外、出来るものならやってみよ」と仁王立ちした。これに寺中の法師が手くすねをひしめいていると、悪童丸は銅のような爪を怒らせた。そして、太刀や長刀でかかってくる一山の稚児や法師を樫木の棒で打ち殺していき、最後に寺に火をかけて信濃の戸隠山へと去っていった。今回のことで犠牲になった人数は160人にのぼったという。
戸隠山には4人の盗賊の頭領が居り、300余人の手下を従えて往来する者を襲っていた。そこに国上の寺を出て戸隠山に分け入った悪童丸が現れたので、盗賊どもは斧・鎌・熊手・手鉾などを持って周囲を取り囲んだが、悪童丸は迫り来る敵を次々と投げ飛ばし、大きな松の木を捻じ折ると「俺を誰だと思っている。越後国の石瀬俊綱の一子、悪童丸とは俺のことぞ」と雪のような大音声で名乗ると、盗賊どもも地に頭を付けて三拝九拝し、手を合わせて許しを乞うた。
こうして悪童丸は盗賊の頭領となり、戸隠山の岩屋に城郭を構え、そこを根城にして悪事に励むようになった。近隣の住民たちは門戸を閉じ、出歩くことも出来なくなってしまった。そこで、信濃国の大将である片桐帯刀と諏訪殿は、帝に奏聞して悪童丸を退治してもらおうと都に上った。また、次いで越後の国上寺の僧からも悪童丸退治の訴えが上がった。
このような声から官軍が起こされ、摂津国の大田判官盛十が和泉国と河内国の軍勢3000余騎を率いて信濃に下向することになった。険しい戸隠山を前にして官軍が鬨の声を上げると、盗賊たちも同様に鬨を合わせた。官軍は盗賊の声のする方が本拠であると知り、武者を放って四方を取り巻かせた。これに悪童丸は八尺余りの大石を目よりも高く差し上げて、天にも響くほどの大音声で「大田殿へのご挨拶にこの大石を持ってきたぞ」と言って、笑みを浮かべて放り投げると、官軍の武者たちは落ち重なって一つの深谷を埋めてしまった。
しかし、官軍も負けじと新手を放って追い詰めていき、とうとう手下は全滅させられてしまった。一人残った悪童丸は怒って一丈ばかりの金砕棒を持ち、大手を広げて官軍を追いまくり、大将の大田殿を引っ掴んで殺してしまった。そして、官軍が引くと、悪童丸も戸隠山の奥に引っ込んだ。
敗走した官軍は都に帰り、悪童丸をどうしたらよいかと相談していると、万里小路大納言が「悪童丸の親の石瀬夫婦を召し取って、獄屋に押し込めれば悪童丸も出てくるはずです。そこを取り押さえて獄屋に入れ、押し殺してしまえば良いでしょう」と言ったので、この案の通りに親が捕えられ、このことはすぐに悪童丸に伝わることになった。悪童丸は「なんと口惜しいことだ。父母に代わって俺が牢獄に入り、時刻を見計らって踏み破ることにしよう」と考えて都に上り、庭上に伺候して地に頭を付けて「この悪童丸を牢獄に押し込め、父母を助けていただければ、生生世世の御恩」と怒れる眼から涙を流し、手を後ろに回して自ら縄にかかった。
こうして悪童丸は牢獄に入った。この牢獄は 三尺の詰め牢に8,9寸の材木を七重八重に貫を入れたもので、悪童丸は 楠の丸太を手かせ足かせにして押し込まれ、髪が天井の四方に絡み付けられた。また、牢獄の上には大石と大木が山のごとく積み上げられたので牢獄内に通うものは息ばかり、動くものは両目だけとなった。
悪童丸が大人しくしていると、牢の番人たちの話し声が聞こえたので聞き耳を立ててみると「大唐まで並ぶ者のない悪童丸も、飯を与えなければ干し殺しだ。しかし、あれ程の怪力でこの牢を破れずにいるとは哀れなものだ」などと言うので、悪童丸は「俺は餓死させられるのか、だが奴らの言う通り この牢を破れずいるのは心残りだ」などと思って日暮れを待っていた。
日暮れになると、悪童丸は目を閉じて「南無戸隠明神」と心に念じ、精一杯の力で足を引くと絆足の金が一度に抜け、絡み付けた左右の髪を振り払い、胴の大綱を切って立ち上がれば、さしもの牢も山を崩すように倒れた。牢を飛び出した悪童丸は足の任せるままに逃げ出した。これに気づいた番人も慌てて追いかけるが、飛鳥のような逃げ足で駆ける悪童丸に追いつくことはできなかった。
こうして悪童丸は信濃国の戸隠山に帰って「押し潰した者の数はおそらく十万に及ぶだろう。天竺、震旦、唐土にわたっても俺のような怪力は居るまい」と高慢になったのだが、この時に14,15歳の小法師が忽然と現れて「その方は力が万人に優れ、大自慢と聞く。我と力比べをしようではないか」と笑みを浮かべて言うので、悪童丸は飛びかかって手を組むと、小法師は悪童丸を宙に引き下げて虚空を目指して昇っていった。
この小法師をよく見ると、目は鏡のように輝き、鳶のような嘴が付いている。その正体は大唐の天狗の善界坊(ぜんかいぼう)であった。善界坊が「汝、高慢が故に天狗道に堕ちたぞ」と言うと、悪童丸は下界を見ながら「さてはそういうことか、今翔んでいるのはどこの国だ」と尋ねると、善界坊は「ここは無色界である。今に魔王が現れて三熱の苦しみを汝に見せよう」と言った。
すると、にわかに虚空が振動し、そこに無色界に住む魔敬修羅王(まけいしゅらおう)が玉座に座して現れた。この魔王は目尻は八角に裂け、頭は夜叉のようで、息をするたびに火炎が吐かれ、周囲に黒煙が立って天に立ち上っていた。また、右の座には天智天皇の御代に天下を暗闇にした藤原千方が座し、目が5つ、口の脇は両耳まで裂けているという姿であった。また、左の座には、大弓を持った氷上川継が居り、次いで目が5つで鉾をつく蘇我入鹿が居り、次いで浄御原の天皇を殺そうとした大友皇子が青色のニ面を持つ姿で座しており、その他にも数人のものが玉座を囲んで座していた。
しばらくして修羅王が「どうやら人の匂いがするぞ、連れて参れ」と言ったので、善界坊が悪童丸を差し出すと、修羅王は「汝は魔王の4,5人も組み止めて死んでやろうと思っているのだろうが今は抑えておけ、汝は日本に帰れば鬼の姿となって天下を乱すであろう。我は力を添え、通力を授けてやろう」と言うと、虚空がにわかに振動した。
すると、修羅王が「もう三熱の時刻か、いかに悪童丸、天人の五衰、人間の八苦、我にはまた三熱の苦しみがある。日に三度 熱鉄の湯を飲む。これが苦しみの第一だ。それ見てみよ」と言うと、黄金の銚子に白銀の盃を持った童子が天から下りてきた。そこで修羅王が熱鉄の湯をさらりと飲み干すと、次々に他の魔王に盃を送っていき、あっという間に魔王一同は消え失せ、消えたと思えばまた現れ、その様子は消えては出る月のようであった。魔王は熱鉄を飲み干すごとに苦しげな息を吐いた、この有様はとても見ていられない身の毛のよだつものであった。
そこで修羅王が「どうだ悪童丸、この苦しみをよく見ておけ。さて、今から汝の一生を語り聞かせよう。汝が越後に帰ると、天より4人の鬼が下って臣下となるだろう。さらに比叡山に上るが、伝教大師に追い出されてしまう。それから高野山に上るが、ここでも弘法大師という曲者によって邪魔されるので、丹波の大江山に住むことになろう。そして時の帝より16代後の一条帝の時、摂津守の頼光という者が現れるが、これが汝の大敵となる。頼光に従う郎党の内、渡辺綱という者は汝の郎党の茨城童子という鬼と戦うことになろう。さあ早く日本に帰れ」と言って修羅王は消え失せ、悪童丸が目を開くと元の戸隠山に戻っていた。
悪童丸は急に父母が心配になり、戸隠山を出て越後国に入ったが、父は80年以上前に悪童丸の罪を被って切腹を命じられており、母はそれを悲しんで嘆き死んでいた。これを知った悪童丸はその無念を晴らすべく、仇討ちの一念で悪鬼となり、雲に乗って都を目指して飛んでいった。都についた悪童丸は、東山に立て籠もって自在天の魔王共を味方にしようと、目を塞ぎ、呪文を唱えると、空がかき曇り、4人の鬼が天降ってきた。
そこで悪童丸が「汝らは兼ねて聞き及ぶ無色界の外道だな」と聞くと、鬼たちは「その通り。魔敬修羅王の命で汝の味方となるべく参じました」と言うので、悪童丸は「そうか、俺は若年の昔より酒を好んでいたので、今より酒典童子と名乗ることにしよう。また汝らは茨城童子、石熊童子、金熊童子、虎熊童子と名乗り、我が四天王として仕えよ。戸隠山では不都合ゆえに比叡山に上ろう」と四人の鬼神を引き連れて比叡山に向かった。
しかし、そこに比叡山を司る伝教大師が駆けつけて「汝ら、我が住む山に来ることは許さんぞ。早々に立ち去るが良い。さもなくば仏法の力を見せてやろうぞ」と言って、笏(しゃく)を取り直し、数珠を打った。これを聞いた酒典童子は「面白い、衣を着た僧に向かって腕立てはしないことにしよう。邪法と正法で勝負だ」と魔王の通力を以って戦うことを宣言した。そこで伝教大師が「お前が用いるという、天に上り山を裂く術をやってみるがよい」と言うと、石熊童子が天を向いて呪文を唱え、枯れた草木に花や実を付けて見せた。そこで伝教大師が虚空に向かって息を吹くと、大風が吹いて咲き乱れた花が庭の散りのごとく吹き飛んだ。
次に金熊童子が 手を打ち 目を閉じながら 呪文を唱えると30丈の楠が生えてきたので、伝教大師が「阿耨多羅三藐三菩提の仏たちよ、我が立つ杣に、冥加あらせたまへ」と唱えると、その楠はずたずたに折れてしまった。
すると、この有様を見ていた茨城童子が怒って奮迅の修羅となり、雷のような声を上げて天に向かって咆哮したが、伝教大師は少しも驚かずに黙然として座していた。そしてしばらくすると、鞍馬山から神通の鏑矢を持った毘沙門天が白雲に乗り、光を放ちながら現れたので、酒典童子たちは恐れ慄いて五体を地に着けて礼拝したが、次に多聞天が現れて鏑矢を童子らの上に放つと、それは猛火となって燃えかかってきたので童子らは許しを乞うて降参した。
これに伝教大師は「さっさと山を出ていけ」と童子らを払い除けると、童子らは言われたとおりに出ていき、やがて丹波国の大江山に立てこもり、ここを本拠に様々な悪事を働くようになったという。
大和国の酒呑童子伝説(奈良県)
大和国の白毫寺の稚児が、付近の山で人間の死体を見つけ、好奇心から死体の肉を切り取って持ち帰り、師僧に食べるように勧めた。師僧はそれが死体の肉だとは知らずに珍味だと喜んで食べたので、嬉しくなった稚児は町に出て人を襲って殺し、その肉を師に差し出すようになった。
しかし、稚児がどのようにして珍味の肉を手に入れているのかを不審に思った師僧は、稚児の後をつけていくと人を襲おうとしていたので、稚児を捕えて縛り上げ、激しく責め立てて山に捨ててしまった。この坂を「稚児坂」といい、その稚児は大江山に行って酒顛童子となったという。
岡山の酒呑童子伝説(岡山県)
樵(きこり)の親方が多くの弟子を連れて深い山に仕事に出かけた時、弟子の一人が人影のない森陰で一重の見事な紅白餅を見つけた。あまりに美味そうだったので その場で食べてしまったところ、面相が一変して暴れだすようになり、やがて山中を彷徨う鬼のようになった。
心配した仲間が連れ戻しに行こうとすると、親方は既に鬼と化してしまったので近づかない方が良いと止めたが、それでも心配だと言って数人で山中を探しに向かった。すると、鬼と化した弟子は見つかったのだが正気を失って次々と仲間に襲いかかり、最後に仲間の一人を殺して食べてしまった。
それからしばらくすると、鬼と化した弟子が親方の前に現れて自分の罪を告白し、再び仲間に迎えられたのだが、再び山中に戻ろうとして「丹波の大江山に行く」と言い残し、その場から飛び去っていった。これが後の酒呑童子なのだという。
酒呑童子山伝説(大分県)
昔、豊後・肥後・筑後の境にある日田村をに男児が生まれた。その男児は生まれた時から酒好きで、乳の代わりに酒を飲んで育ったので酒呑童子と名付けられた。童子は乳離れの時期を過ぎても呑み続け、酒量も増えていったという。
ある日、童子がいつものように多量の酒を飲みつつ道に小便をしていたところ、不思議と辺りの草木が伸び始めた。それからというもの「童子が小便をかけた田畑は作物がよく実る」と評判になり、村中の痩田や痩畑に引っ張りだこになったという。
その後、日田村に青鬼が出るという噂が流れるようになった。その鬼は村から若い娘をさらって喰うということだったので、童子は青鬼を退治してやろうと意気込んで、一升瓢箪を片手に鬼の棲む山に出かけていった。
その山で青鬼を見つけた童子は、早速 酒の飲み比べで勝負しようと切り出し、もし自分が勝ったら村の娘を喰うなという条件をつけた。すると、青鬼が勝負を受けたので互いに酒を飲み始め、互いに50升近くもの酒を飲み干したが、この頃には青鬼もすっかり酔っ払って見た目も赤鬼になっていた。
そして、51升目に差し掛かった時にとうとう鬼も酔い潰れて倒れてしまった。それでも童子は平然と酒を飲み続けていたので、飲み比べに勝つことができた。勝利を収めた童子は山の上に立ち、鬼に向かたって腹に溜まった小便を一気に放った。すると、小便は青鬼を流しながら やがて川となった。それが今の津江川である。
また、人々は鬼を倒した酒呑童子を讃えて その山を酒呑童子山と呼ぶようになったという。
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