珍奇ノート:藤原千方の四鬼の伝説



『太平記(日本朝敵の事)』


日本開闢の始まりを尋ねれば、二儀(天地・陰陽)すでに分かれ、三才(天・地・人、万物)ようやく顕れて、人寿2万歳の時、イザナギ・イザナミの二人の尊がついに夫神・妻神となって天下に天降り、一女三男を生んだ。一女はアマテラス、三男はツクヨミ、ヒルコ、スサノオである。第一の御子のアマテラスはこの国の主となって伊勢国の御裳濯川の畔の神瀬下津根(みがせしもついはね )に姿を現した。ある時は垂迹の仏となって番番出世の化儀を整え、ある時は本地の神に帰って塵々刹土の利生を成した。これ即ち、迹高本下の成道である。

ここに第六天の魔王が集って、この国に仏法が広まれば魔障が弱まって力を失うことを危惧して応化利生(仏が衆生に利益を与えること)を防ごうとした。この時、アマテラスはその障害を止めようと「我、三宝(仏・法・僧)に近づかじ」という誓いを立てた。これによって第六の天魔王らは怒りを鎮め、五体から血を流して「未来永劫に至るまで、アマテラスの後胤たらん人を以ってこの国の主とすべし。もし主の命令に従わぬ者が国を乱して民を苦しめるのならば、10万8000の眷属を放って罰を与え、その命を奪い取ろう」と固く誓約を書いてアマテラスに奉った。今の神璽(三種の神器)の異説がこれである。まことに伊勢の外宮・内宮においては他の神社とは異なり、錦帳に神の象徴たる鏡を懸けず、念仏・読経の声を留めて僧や尼僧の参詣を許さなかった。しかし、これはアマテラスの誓約を違えず、人々を仏に結縁させるための方便を秘(かく)すためなのである。

こうしてアマテラスより皇位を伝えること96代、この間に朝敵となって滅びた者を数えれば、神日本磐余予彦天皇(初代神武天皇)の御代の4年目(原文には天平4年とある)に紀伊国の名草郡(現・和歌山市)に2丈余り(6.06m程度)の蜘蛛がおり、手足が長く人並み外れた力を持っていた。そして、鋼を張ること数里に及んで往来する人々を残害したので、勅命を発して官軍を遣わせ、鉄の網を張り、鉄湯を沸かして四方から攻め立てることで、この蜘蛛を追い詰めて身をズタズタに斬り裂いて殺したという。

また、天智天皇の御代に藤原千方(ふじわらのちかた)という者がおり、金鬼(キンキ)・風鬼(フウキ)・水鬼(スイキ)・隠形鬼(オンギョウキ)という4体の鬼を使役していた。金鬼は堅固な身を持ち矢を射っても通らず、風鬼は大風を吹かせて敵城を吹き破り、水鬼は洪水を起こして陸地の敵を溺れさせ、隠形鬼はその身を隠してにわかに敵を取り拉ぐ(押しつぶす)。このような神変を凡夫の智力で防ぐことはできなかったので、千方の力の及ぶ伊賀国・伊勢国には朝廷に従う者は居なかった。そこで、朝廷は紀朝雄(きのともお)という者に勅命を与えてこの国に遣わせた。朝雄が「草も木も 我大君の 国なれば いづくか鬼の 棲かなるべき(草も木も我ら大君の国である。どこに鬼の棲家があるだろうか)」という一首の和歌を詠んで鬼の中に投げ入れると、四鬼はこの歌を見て「我らは悪逆無道の臣に従って善政有徳の君に背いてしまった。よって天罰を逃れることはできまい」と言ってたちまち四方に去り失せてしまった。こうして千方は勢いを失い、やがて朝雄に討たれたのである。

これのみならず、朱雀天皇の御代の承平5年に平将門(たいらのまさかど)という者が東国に下って相馬郡(現・茨城県南部)に都を起こし、百官を召し仕えて自らを平親王(へいしんのう)と名乗った。官軍はこぞって討とうとしたが、その身は鉄身であったので、矢石や剣戟によって傷つけることはできなかった。そこで、諸卿が詮議して、鉄製の四天王像を造らせて比叡山に安置させ、四天合行法(密教の修法)を行わせた。すると、天より一筋の白羽の矢が降りてきて、将門の眉間に立ったので、俵藤太(藤原秀郷)によって首を取られたのである。その首は獄門に懸けて晒されたが、3ヶ月も色は変わらず、目も閉じず、常に歯を食いしばって「斬られた我が五体はどこにあるのだ。ここに来たれ。首を継いで今一度戦しようぞ」と夜な夜な叫ぶので、これを聞いた人に恐れぬ者は居なかったという。ある時、その道を通り過ぎる人がこれを聞き「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が 謀にて(将門は俵藤太の謀によってこめかみを斬られてしまった)」と詠むと、将門の首はカラカラと笑い、たちまち目を閉じてついに屍になったのである。

この他にも、大石山丸・大山王子(大山守皇子)・大友真鳥・守屋大臣(物部守屋)・蘇我入鹿・豊浦大臣(蘇我蝦夷)・山田石川(蘇我倉山田石川麻呂)・左大臣長屋(長屋王)・右大臣豊成(藤原豊成)・伊予親王・氷上川継・橘逸勢・文屋宮田(文室宮田麻呂)・江美押勝(恵美押勝・藤原仲麻呂)・井上皇后(井上内親王)・早良太子(早良親王)・大友皇子・藤原仲成・天慶の純友(藤原純友)・康和の義親(源義親)・宇治悪左府(藤原頼長)・六条判官為義(源為義)・悪右衛門督信頼(藤原信頼)・安陪貞任・宗任・清原武衡・平相国清盛(平清盛)・木曽冠者義仲(木曽義仲)・阿佐原八郎為頼(浅原為頼)・時政九代の後胤高時法師(北条高時)に至るまで、朝敵となって叡慮を悩ませ、仁義を乱す者は皆身を刑戮の下に苦しめ、屍を獄門の前に晒さぬことはなかった。なれば尊氏卿(足利尊氏)も、この春東八箇国の大勢を率して上洛したが、朝敵となって数箇度の合戦に打ち負け、九州を指して落ちて行った。この度はその先非を悔い、一方の皇統(北朝)を立て、征罰を(北朝初代光厳院の)院宣によるものとなしたので、威勢の上に一つの道理が立ち、大功はたちまちに成し遂げられることだと、人々は皆 色代(お世辞)を申したのである。やがて東寺が院(光厳上皇)の御所となり、四壁に城郭を構えて、上皇を警固したので、将軍(足利尊氏)も左馬の頭(足利直義)も同じく東寺に立て籠もった。これは敵が山門(比叡山)から遥々攻め来るならば、小路を塞いで縦横に合戦をするのに都合が良いということで、この寺を城郭にしたのである云々。

『奥州南部岩手郡切山ヶ嶽乃由来』


奥州の達谷窟の岩屋には悪郎と高丸兄弟が住んでいた。彼らは苅田丸(坂上苅田麻呂)・田村丸(坂上田村麻呂)父子を討って帝位に就き、先祖の藤原千方の無念を晴らそうと企み、風鬼・水鬼・火鬼・隠形鬼と共に謀議を計っていた。

そこで、都に上った水鬼と隠形鬼は官女に化けて花見の宴に紛れ込んで帝に近づいたが、これを見抜いた田村丸が水鬼を討ったので隠形鬼は逃げ帰った。このことで賊の追討の勅命が下り、これを受けた田村丸は5万8千余騎の軍勢を率いて奥州へと攻め入った。

この戦で田村丸の弟の千歳君は城中深く攻め込んだところを隠形鬼に捕えられたが、山伏に身を変えて現れた秋葉大権現によって救い出され、虚空より大磐石を降らせたり、大地から火焔を湧き出させて賊を殲滅したという。

藤原千方伝説(三重県伊賀市の民話)


村上天皇の御代である康保4年(967年)の頃、伊賀国には藤原千方という無敵の将軍がおり、配下として四天王と呼ばれる鬼を使役していた。その鬼は、金鬼(キンキ) 風鬼(フウキ) 水鬼(スイキ) 隠形鬼(オンギョウキ) という4体の鬼で四鬼(よんき)とも呼ばれていた。

この四鬼の特徴は、金鬼は堅固な身で矢も刃を通さず、風鬼は大風を吹かせて敵を吹き飛ばし、水鬼は洪水を起こして敵を溺れさせ、陰形鬼はその身を隠して敵を襲う、といったもので、千方将軍は この神変不可思議な術を使う四鬼を従えていたことで無敵を誇ったのである。

千方将軍は朝廷に従わなかったので、朝廷は何とかして打倒しようと和歌に優れた紀朝雄(きのともお)を遣わせた。そこで朝雄は「草も木も 我が大君の国なるに いずくか鬼の すみ家なるべき(草も木も我ら大君の国である。どこに鬼の棲家があるだろうか)」という和歌を送ると、これを見た四鬼は戦意を失ったため、千方将軍は滅亡した。

四鬼の窟伝説(三重県熊野市の民話)


昔、尾呂志には鬼が棲んでおり、それは金掘の南の谷を少し上った一つの窟であった。ここは今でも「四鬼の窟」といわれている。鬼はここを住処として稀に子供をさらっていくので、村人は大層恐れて田畑で仕事をすることもできず、子供も昼夜問わず外出されられないような有様であった。

そこで田村将軍(坂上田村麻呂)が退治することになり、まずは鬼ヶ城で鬼の首魁と手下を滅ぼしてから尾呂志に参ろうと、甲冑で身を包んで立派な黒馬に跨った。そこで西の原の今の針金橋の辺りまでやって来ると、そこで馬を休ませた。その時にちょうど村人が通りかかったので将軍が鬼の住処を尋ねると、村人は鬼の住む窟の場所を示し、そこには四頭の鬼が棲んでいると教えた。

これを聞いた将軍は一同に、弓の絃を張らせ、砥石で鉄を研がせ、刀の目釘をしめすなど、戦のための武具の準備をさせた。そのため、この場所は「刃研」と呼ばれるようになった。

それから村人に案内役を頼んで山道を進んでいくと、鬼どもは大きな岩上で日向ぼっこをしていた。鬼どもは馬の鳴き声や、甲冑姿の武士たちの姿が見えたので、さては退治に来たのかと気づき、岩上で胡座をかいた。そして、その中の鬼の頭が「やあ、小童め。我らを討とうとは片腹痛いわ。射れるものなら射ってみよ」などと大声で挑発した。

すると、田村将軍は家来たちに「憎き鬼め、者共かかれ」と命じると、そこで大合戦となったが、最初は勢いの良かった鬼ども次第に疲弊していき、いずれの鬼の2,3本の矢を受けて「これは敵わん」と鉄棒を引きずりながら逃げていった。この鬼が胡座をかいた場所を「うたぐら」といい、矢が落ちた場所を「矢原」という。

田村将軍は逃げる鬼どもを追って太刀を振るうと、これを受け損じた鬼の首は宙に飛び、落ちた拍子に執念で将軍に飛びついたが、素早く身をかわしたので鬼の首は木の根に噛み付くことになった。また、他の三頭の鬼も家来に追い詰められて殺された。ここは今でも「四鬼の谷」と呼ばれている。

こうして四鬼を退治した将軍が鬼の窟に入ってみると、奥から泣く声が聞こえたので、そこに近づいてみると一人の子供が藤蔓で縛られていた。その時には多くの村人が来ていたが、その中の一人の男が進み出て「この子は私の娘の松だ」と言い、一昨日 鬼にさらわれたという旨を語って無事に腕に抱き止めた。こうして村から鬼が居なくなったので、村人は大層喜んだという。

謡曲『現在千方』


天智天皇の臣下である紀朝雄は、朝廷に従わずに国を乱す藤原千方を討伐せよとの勅命を受けていた。この千方は無量無辺の通力を使って風鬼・火鬼・水鬼・隠形鬼という四色の悪鬼を従えており、この四鬼のうち、風鬼は風を起こして敵の目を晦ませ、水鬼は水を自在に操って雨を降らし波を立てるなどの天地を返す術を使い、火鬼は火の雨や猛煙を立て、隠形鬼は隠れる術を身を使って霧や霞に変じることができ人心を惑わすという。このため、千方には並の者では歯が立たなかった。

そこで朝雄は、我国は神国であるから天皇の宣旨を以って悪鬼を退けようと考えて「土も木も 皆我が君の 国なれば 鬼神やたけに 思ふとも 神の誓は 有明の 月の光の 潔く 影暗からぬ 日の本の 直なる法に 引く弓の やがて逆臣は 亡び失せ 民安全に 栄ゆべし」という和歌を詠んで、使者に持たせて四鬼に見せるように命じた。

使者は千方の城に向って鬼を呼び出すと、鬼に「日本開闢から天照大神と第六天の魔王との誓約について話(太平記の一説)」を語り聞かせ、我国が神の国であることを説いた。そして「土も木も 我が大君の 国なれば いづくか鬼の 栖なるらん」という朝雄の和歌を詠むと、この和歌の徳によって鬼たちは千方を見捨て、雲を踏んで虚空に翔び失せていった。

この後、朝雄は自ら千方の城に出向き、千方に対して「天智天皇の勅命によって逆臣は退散せよ」と命じたが、千方は聞かずに鉾を構えて抗う態度を見せたので、官軍は千方の威勢に臆して後ずさった。そこで朝雄が夕日に剣を翳して自ら千方に向かっていったが、組み合ったところで倒されてしまった。だが、これを見た兵士も奮起し、多くの兵士が千方に掛かっていくと、次第に千方も疲弊していき、ついに生け捕りにすることができた。こうして朝雄は千方の退治を成して、滋賀の都に凱旋したのである。