珍奇ノート:長面三兄弟の伝説

『房住山昔物語』


昔、東国の蝦夷討伐の勅命を受けた坂上田村麿がこの国に下向した。後に田村麿の御子の将軍が引き継いで蝦夷の首長を討伐し、その残党も討ち取ろうと隈なく探して男鹿山の麓まで追討したが、そこかしこに隠れて見つからない蝦夷が11人おり、その中に名の知れた阿計徒丸(長男)・阿計留丸(次男)・阿計志丸(三男)という三兄弟がいた。このうち阿計留丸・阿計志丸の二人は、面の広さが1尺3寸(約50cm)、額際から顔先までが2尺4,5寸(約95cm)もあったため長面兄弟と呼ばれていた。

それから多くの蝦夷が討たれていったが、阿計徒丸だけは行方が分からなかった。阿計留丸・阿計志丸の二人は日高の山間から出て逃げようとしたが、阿計留丸は中津六郎某らによって南の河辺や山間の狭い場所に追い込まれ、やがて数多の官軍によって東西から包囲された。阿計留丸は数日にわたって官軍と戦ったが、次第に疲れて脇目も振らずに淵に飛び込んで逃げた。しかし、官軍が雨にように礫を降らせたので、目がくらむほど打たれてしまい、やがて水中で死んでしまった。阿計留丸は身の丈1丈(3.03m)ほどもある男で、さらに黒鉄の鎧を2つ重ねて着ていたので、官軍が2,30人で引き上げようとしても岩石のようにびくともしなかった。なので、都に持ち帰るのを諦めて川の南の小高い丘に埋め、将軍は憐れんで引導を渡したという。今はその場所を「長面」と呼ばれている。

また、高倉の長者が田村将軍の下向を聞いて大いに喜び、数日にわたって勇み立って待っていると、そこに官軍に追い立てられた阿計志丸の軍勢が現れた。阿計志丸らは東の山麓に逃げ延びようとしたが、高倉の眷属が得物を持って追い立てたので、坊住山(房住山)の御堂の辺りに隠れてやり過ごそうとした。しかし、官軍と高倉勢が山を崩すほど喚き叫んだので、山の大衆が鬼が入ってきたことを察して、大鐘や太鼓を打ち鳴らし、墨の衣に玉襷をかけ、各々が得物を持って叫びながら阿計志丸を追い立てた。これに流石の阿計志丸も耐えかねて西を目指して山を下ろうとしたが、山の隅々から官軍が出てきて阿計志丸らを包囲して矢を放ったので、その矢は簑毛のように身体に突き刺さり、流れる地が川を赤く染めた。こうして阿計志丸は川中に臥して死んだので、川北の平地に埋めた。その場所も「長面」と呼ばれている。

それから、田村将軍は阿計徒丸を見失ったことを残念に思って、寺内古四ノ社にて立願のために参籠した。その時、この山の大衆は喜んだが、東の山上から山を崩すほどの大きな叫び声が聞こえたので、人々は思いも寄らない出来事に激しく動揺した。すると、鬼賊が「お前達よく聞け、我はこの間の戦で死んだ阿計留丸・阿計志丸の兄の阿計徒丸である。阿計志丸(三男)は身の丈1丈2尺(4.56m)、阿計留丸(次男)は身の丈1丈3尺(4.94m)、それがし阿計徒丸(長男)は身の丈1丈3尺5寸(5.13m)である。我こそ日本一に勝れた男と思っている。官軍でも味方でも並ではない者の名を問えば、皆はそれを"大長丸(オオダケマル)"と言っていた。しかし、この者は先の戦で討伐されたので、今は我に勝る者は居ないのだ。しかし、我は数日の戦続きで少しも眠れなかったので、日高山の麓の洞穴に隠れて昼夜にわたって眠り続けた。そして、目覚めて聞けば二人の弟は死んだというではないか。このような不憫な弟たちの仇討ちを頼める大長丸も今は討たれてしまって居ない。これに劣らぬ仲間が8人居たが、これらも食糧が尽きてしまい、敵に首を取られまいとして日高山に登って同じ場所で死んだ。我の兄弟二人も数日食えずに飢えて疲れて死んだのだろう。兄弟の仇討ちを考えれば気が立って苛立つが、追いかける力は残っていない。お前たちのようなものは相手にならないが、兄弟や仲間が死んだのはお前たちの奏聞のせいである。これが我の最期の門出になるだろう。さあ、思い知るがよい」と言って、雷のような大音を立てながら走り出し、数多の僧や俗人がいる寺の軒に手をかけて揺すると寺はたちまち潰れたが、寺を潰した張本人である阿計徒丸も寺の角木に押し潰されて身動きが取れなくなった。

そこで阿計徒丸は大手を広げて大声を上げながら角木を取り除こうとしたが力が及ばなかったので、悔しく思って身悶えしていると、そこに大刀を持った坊主がやってきて首を打ち落としてしまった。この後、坊主は仏神の加護によって討ち取ることができたと涙を流して感謝したが、その時に阿計徒丸の両眼から光るものが出てきて、1丈(3.03m)ほど飛び上がったところで一つになって北方に飛んでいったので、坊主らは不思議なことだと言い合った。そこで、明け方になった時に田村将軍に早脚力(飛脚?)を走らせて これを報告させると、田村将軍は喜んで神に感謝し、宝殿に礼拝してから陣に戻っていった。そして、阿計徒丸の首を持ってくるように命じると、この山の大衆が大人数で首を運んできて田村将軍の前に披露した。すると、田村将軍は東の高根に登って、数多の軍兵を前後左右に立てて、その中に阿計徒丸の首を置いて引導を渡した。阿計徒丸は阿計留丸・阿計志丸と異なって頭上に角が生えており、二度と見たくないほど恐ろしい有様であったという。この場所を「實檢長根(実検長根)」と呼んでいる。

この實檢長根から首を下ろす時に大衆は異口同音に念仏を唱えた。その山坂を「菩提坂」という。その首を尾崎蹈鞴の臺(台?)に埋めさせ、その印として橡の木を植えた。その時、陣幕が血で穢れたので泥水を湛えて洗わせた。その場所を「幕洗い澤」という。こうして後、大衆にも目見えを許した。この陣があった場所を「今目見の平」という。また、賊徒は東から来るということで、要害として木戸を構えさせた。その場所を「木戸野澤」という。その翌日、東の高根の實檢屋根に近い所が最も高い場所だったので、祈願の實のために羽黒山所に奉幣すべしとして、山上の大衆に實檢の首を持ってこさせた。その時、その身が不浄だとして数多の山伏を集め、神事を営むための仮屋を建てて奉幣を七五三に切って作らせた。その場所を「切はきノ堆」という。また、軍神である牛頭天王をはじめ、その他の諸神に奉幣を奉った。こうして田村将軍は都に帰って行ったという。

中略

珍奇ノート:長面三兄弟の伝説

なお、阿計徒丸が死んだ時に両眼から飛び出した光るものが現れて米代川の北方に落ちたが、その霊魂が20年を経て現れた。それは火の中に6尺斗(1.8m)の首がありありと見える様子で、これを見た者は難病に冒されて死ぬ者も多かったので、里人がこの山にやって来て怨霊退散の祈祷を乞うた。そのため、一宇の御堂を建てて「魔面山高臺寺東光房」と号し、退転なく修法勤行をすると阿計徒丸の怨霊による障害は長い間止んだという。また、慈眼山福壽寺を建てて阿計徒丸の菩提を祈らせた。

中略

また、多々羅の平に一宇の御堂を建てて金剛界大日如来を安置し、別に空院を構えて本山の寺房の名を号し、毎年退転なく3,5,7,9月の4ヶ月には山を下り、ここに大法会を設け、国土安穏の祈り、遠近村里の詣者を結縁させた。また、阿計徒丸の怨霊得脱を祈る道場とした。