珍奇ノート:疫鬼の資料



『和名類聚抄』


瘧鬼(ぎゃくき)。蔡邕の『独断』によれば、昔 顓頊(せんぎょく)には3人の子がおり、それらは死後に疫鬼(えきき)となった。その一は江水に住み、瘧鬼あるいは於爾(おに)となった。瘧鬼は和名で衣也美乃加美(エヤミノカミ=疫病みの神)という。

延喜式『儺祭詞』


12月晦日の昏時、官人が齋郎(さいのお)らを率いて承明門の外で待つ。すなわち時刻によって共に禁中に入る。齋郎が食物を持って宮中に進み、祭物を陳列する。そこで陰陽師が祭文を読み進める。その詞はこうである。

「今年今月今日今時、時上直府、時上直事、時下直府、時下直事、及び山川・禁氣・江河・渓谷、二十四君、千二百官、兵馬九十万疋、位置衆諸、前後左右、各随其方、あきらかに位を定めて候ふべし。大宮内に神祇官の宮主の祝ひ奉る。天地の諸御神らは、平けくおだひにいまさふべし」と申す。

事別りて詔り給わく「穢悪き疫鬼の所所村村に蔵り隠らふるをは、千里の外、四方の堺、東方は陸奧、西方は遠つ値嘉、南方は土佐、北方は佐渡より、彼方の所を汝ら疫鬼の住処と定め賜ひ行け賜ひて、五色の宝物、海山の種々の味物を給て罷け賜ひ移し賜ふ。所所方方に急に罷き徃ねと追い給ふと詔るに、奸ましき心を挟みて留り隠らば、大儺の公、小儺の公、五の兵を持ちて、追ひ走り刑殺さむものぞと聞しめせ」と詔る。

『壒嚢鈔(儺豆)』


ある古記によれば、節分の夜に豆を打つ事は宇多天皇の御代から始まったという。鞍馬の奥の僧正ヶ谷の美曽路池の端の方丈の穴に藍婆惣主という鬼神の首領が棲んでおり、手下と共に都を乱そうとしたので、毘沙門天の示現によって鞍馬寺の別当より奏上があり、これを聞いた天皇は明法道に宣旨を下した。

それは「七人の博士が集めて、七々四十九家の物を取り、方丈の穴を封じ塞ぎ、三斛三斗の大豆を炒って鬼の目を打てば、十六の眼は打たれて盲になり、手下を抱えて帰って行くだろう。また、聞鼻という鬼が人を食おうとするので、䱝(イワシ)を炙串と名付けて家々の門に刺しておけ。そうすれば鬼は人を取れなくなるだろう」という毘沙門天の教えだったという。云々。