疫鬼【エキキ / ヤクキ / ヤクオニ】
珍奇ノート:疫鬼 ― 疫病をもたらす鬼 ―

疫鬼(えきき)とは、疫病をもたらす鬼のこと。

疫病神といわれることもあり、追儺や豆まきによって祓われる存在となっている。


基本情報


概要


疫鬼は人々に疫病をもたらす鬼のことで、疫病神と同一視されることもある。平安時代の辞書『和名類聚抄』によれば「五帝の一人である顓頊(せんぎょく)の3人の子が死後に疫鬼となった」と説明されている。

古くは病気の原因として祈祷の対象になっており、中国では宮中の年中行事として大晦日に「追儺(ついな)」という儀式が行われて疫鬼が祓われた。この儀式は文武天皇の頃に日本に伝来し、それからは日本においても大晦日の宮中行事になったといわれている。

また、室町時代の頃には民間で節分に「豆まき」が行われるようになり、庶民はこれで疫鬼を祓ったとされている。この豆まきの由来については「"豆(魔滅)"は"鬼の目(魔目)"を滅ぼす力を持つから」「本草綱目に大豆は鬼毒を殺し痛みを止めるとあるため」「京に鬼が出た時に毘沙門天が示現して豆まきを教えた」などの説がある。

また、地域によっては節分に柊鰯や護符などを掲げて悪疫を祓うこともあるが、一説には疫鬼(疫病神)には小豆粥が効くといわれている。

追儺について
珍奇ノート:疫鬼 ― 疫病をもたらす鬼 ―

追儺(ついな)は中国から伝わった鬼祓いの儀式で、儺(な)やらい、鬼やらいとも呼ばれている。

中国では大晦日に宮中で追儺が行われ、ここでは方相氏(ほうそうし)という呪師が、熊の皮を被り、黄金の四つ目の付いた面を付け、黒衣を纏って朱の裳を付け、手に盾と矛を持って疫鬼を追い出すという儀式を行ったという。

日本では、文武天皇の御代である慶雲3年(706年)に疫病によって多くの百姓が死んだため、「土牛」を作って悪疫を祓ったとされており、これが日本における追儺の最初であるといわれている。

この「土牛」は平安時代に陰陽師によって「土牛童子」という方式に整えられたとされており、その方法は大寒(12月節)の日に宮中の12門に12組の土牛童子(童子が牛を引く人形)を立てるというもので、各門によって童子の色は異なる。これは節分まで置かれ、この後に撤去されるという。

また、大晦日には宮中で追儺の儀式が行われる。

この日には禁中の所々に明かりが灯され、天皇は紫宸殿に出御する。その時は、まず所司が承明門を開けて公卿を参入させ、次に方相氏が子(わらわべ)20人を率いて反閇という場を清める歩法で南庭に参入する。次に王卿が侍従や大舎人を率いて各々が桃の弓と蘆の矢を持って方相氏の後ろに列する。そして、陰陽師が齋郎(さいのお)を率いて月華門から参入して祭文を読み上げる。

この後、方相氏は「鬼やらい、鬼やらい」と大声で叫んで矛で盾を三度打ち、それから矛で地面に打ち鳴らしながら宮中を歩き回り、目に見えない疫鬼を内裏の四門に追い回して退散させる。また、群臣は方相氏に呼応して東西南北に分かれて、桃の弓を射ったり、振り鼓を鳴らしながら宮中を巡って疫鬼を駆逐するというものである。

この儀式は、後に恐ろしい姿の方相氏を疫鬼と見なして駆逐するようになったといわれているが、江戸時代初期には廃絶してしまったという。また、室町時代頃には節分の儀式と結び付けられて「豆まき」によって鬼を祓うという儀式に変遷していったともいわれている。ちなみに、上記のような方相氏の登場する追儺の儀式を今でも行っている神社はいくつも存在する。

データ


種 別 妖怪、鬼
資 料 『和名類聚抄』ほか
年 代 不明
備 考 疫病神と同一視される